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<title>有人彗星</title>
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<description>The head Sublime, the heart Pathos, the genitals Beauty,
The hands &amp; feet Proportion.　　　　　  　  William Blake
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 <title>有人彗星</title>
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<title>これは抽象絵画ではない「イメージの不在化へ」</title>
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<description>EK24-01blue/EK-24red「隠されたもの」

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「隠されたもの」抽象絵画はあるイメージが顕現化しくてるが、わたしはイメージが顕現化してこない不在なもの、「秘...</description>
<dc:creator>tneyou4595</dc:creator>
<dc:date>2009-11-25T16:42:37+09:00</dc:date>
<dc:subject>現代美術</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<P><STRONG>EK24-01blue/EK-24red<BR></STRONG>「<STRONG>隠されたもの</STRONG>」</P>
<P><IMG class=pict height=402 alt="blue annd red" hspace=5 src="http://livedoor.blogimg.jp/tneyou4595/imgs/b/c/bcd03754.jpg" width=300 align=left border=0><IMG class=pict height=402 alt="blue annd red-01" hspace=5 src="http://livedoor.blogimg.jp/tneyou4595/imgs/a/9/a9956167.jpg" width=300 align=left border=0></P>
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<P>「<STRONG>隠されたもの</STRONG>」<BR>抽象絵画はあるイメージが顕現化しくてるが、<BR>わたしはイメージが顕現化してこない不在なもの、<BR>「<STRONG>秘めたるものへ</STRONG>」、その覆いを被せた。<BR><STRONG>blue</STRONG>と<STRONG>red</STRONG>の中に、何があるかは判断できない<BR>ある現象が生成している。そういうイメージの<BR>強度をもたせるために、抽象化した作品に<BR>仕立てあげた。そこには自己主張もないし、<BR>個性というものもない。差異と反復の永遠性・・・<BR></P>]]>
</content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://youjnsu.livedoor.biz/archives/51750761.html">
<title>それは芸術ではない「こうして形成されてゆくあるもの。」</title>
<link>http://youjnsu.livedoor.biz/archives/51750761.html</link>
<description>EK19-01「闇の声」

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「闇の声闇」
闇の声は自覚できず身体の内在として溶け込んでいる。それは自我ではない。何ものかの浸透、外と内の区別なく、時間の無時間とも言え...</description>
<dc:creator>tneyou4595</dc:creator>
<dc:date>2009-11-19T11:43:49+09:00</dc:date>
<dc:subject>現代美術</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<P><STRONG>EK19-01</STRONG>「<STRONG>闇の声</STRONG>」</P>
<P><IMG class=pict height=385 alt=dark-side hspace=5 src="http://livedoor.blogimg.jp/tneyou4595/imgs/6/c/6c532634.jpg" width=271 align=left border=0></P>
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<P>「<STRONG>闇の声闇</STRONG>」</P>
<P>闇の声は自覚できず身体の内在として<BR>溶け込んでいる。それは自我ではない。<BR>何ものかの浸透、外と内の区別なく、<BR>時間の無時間とも言える、<BR>名のない言葉の堆積でわたしを創ってゆく。<BR><A href="http://trackback.blogsys.jp/livedoor/tneyou4595/50764675" target=_top><STRONG>ゴヤの闇</STRONG></A>、レンブラントの光、さまざまな<BR>光、見えない光はこうして言語と不可視の、<BR>ものの混成のなかで身体観念を形成している。<BR>見える「<STRONG>かたち</STRONG>」にしたとき、<BR>これを芸術といってはいけない。<BR>おそらく、それはライプニッツの「<STRONG>モナド</STRONG>」、<BR>マラルメの襞、詩以前の詩とも云うべき<BR>ある実体なのであろう。そこには、<BR>「名」のない無名な光、闇がある。<BR>わたし達は芸術について、語りすぎる。</P>]]>
</content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://youjnsu.livedoor.biz/archives/51747013.html">
<title>アンディ・ウォーホル「死とシミュラークルそしてブラックホールへ」</title>
<link>http://youjnsu.livedoor.biz/archives/51747013.html</link>
<description>この記事は０６年１月１８日に掲載したものです。わたしの日記より抜粋して論じたものです。　ウォーホルがキリスト教にたいしてどんなふうに観ていたか興味はあります。掲載した画像は、わたしの観た宗教感「BA09-Black2B:無題」を描いて掲載したものです。前回投稿した記事...</description>
<dc:creator>tneyou4595</dc:creator>
<dc:date>2009-11-10T17:01:21+09:00</dc:date>
<dc:subject>現代美術</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<P>この記事は０６年１月１８日に掲載したものです。わたしの日記より抜粋して論じたものです。　ウォーホルがキリスト教にたいしてどんなふうに観ていたか興味はあります。掲載した画像は、わたしの観た宗教感「<STRONG>BA09-Black2B:無題</STRONG>」を描いて掲載したものです。前回投稿した記事を編集せず、そのまま掲載しました。わたしにとってウォーホルとは資本主義社会と消費生活の感覚を反応に換える、ビジネスアートに仕立てあげたひとです。商業主義というよりそれはアート機械であり、反応する情動機械でもある。これはまた、だれでも慣らされた反応をビジネスに換えるアートのことです。慣らされ過ぎると無反応になってしまう。そこからブラックホールのシミュラークルが見え隠れする。その凄みがウォーホルのアートにはあります。ウォーホルは何を信じていたのか、それはわたしにも分からないけれど、だだウォーホルはよく教会にかよっていたらしい。</P>
<P>前回の投稿で次回は上述したウォーホル論を書く予定でしたが、できませんでした。今回一部掲載しておきます。まだ体調不良ですが、だいぶよくなりました。回復しだい２１世紀に向けた様々なアートの方向性を論じたいとおもいます。前回のウォーホル論を再度投稿しておきます。そこから回復しだいスタートしてゆきたい。</P>
<P>&nbsp;</P>
<P><FONT size=1>BA09-Black2B：「無題」<BR></FONT></P>
<P><IMG class=pict height=271 alt=暗黒の前に座るB hspace=5 src="http://livedoor.blogimg.jp/tneyou4595/imgs/e/4/e4f84930.jpg" width=180 align=left border=0></P>
<P><FONT size=1><BR>&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp; </FONT></P>
<P><FONT size=1></FONT>&nbsp;</P>
<P align=center>神の彼方へと<BR>行かなければならない。<BR>[......]私はいつたい<BR>どこへ行くべきなのか？<BR>神の彼方の砂漠へと私は<BR>行かなければならない。</P>
<P>&nbsp;</P>
<P><FONT size=1></FONT>&nbsp;</P>
<P><BR>『わたしはウォーホルがスロヴァキアの移民の人であることは知っている。ミコヴァの素朴な田舎ではよく集いや教会に行くのが習慣であったらしい。彼がキリスト教信者であるかどうかは知らない。毎週教会に通っていた噂はあったのだが、真意のほどはわからない。本当らしいきもする。晩年1986年にダ・ヴィンチの「最後の晩餐」をシルクスクリーンで制作している。翌1987年死去する。できすぎた話だ。才能ある人はいつも運命を感じる。</P>
<P align=left>自然科学の人ニュートンが神の存在や錬金術を生涯追究していたのも神秘的だ。C・Gユングが今日でも芸術家に多大な影響を与え続けているのはそれなりの理由がある。現代美術ではどうか、ウォーホルについて書くとき、いまさら分りきったことなど書かない。別の言葉に変えて学問的な美学論を書くようなことはしない。ウォーホルはわたしにとって「神は死んだ」というところからはじまる。わたしはジャンクフードを食べ過ぎて身体の変調と精神の失速に悩んできた人間だ。わたしの身体は砂漠で、その上を精神が砂のように飛んでゆく。</P>
<P align=left><BR>デュシャンはあらゆることを疑ったという、いかにも無神論者のように見える。カバンヌとのインタビューで神を信じますか」と聞かれたとき、デュシャンは激しい反応を惹き起こしたと、カバンヌは語っている。それまで彼は静かに答えていたのにその質問になると、「・・・それについて話したくもないのです・・」と言っている。心の動揺を敏感にカバンヌが感じとったのでしょう。あのデュシャンですら「神」という響きは強い。思考の中心にあったはずだ。どのような「神」であるのか知らないが、だぶん「神」というイメージが宇宙のメカニズムに対する畏敬の念がよぎったのだろう。</P>
<P align=left>西洋人にとってキリスト教の歴史は「神」というイメージで何千年ものあいだ養われてきた。その感覚は体内の奥深くに滲みこんでいる。ジャック・デリダの「名を救う」ですら、「神」という観念を否定神学のように自問自答し、迷路のなかで詩作行為の言語の誕生のような声を微かに聴こうといている。不可能な問いと、現出を待ちうける言語に対する信頼性は不在のまま進む。超えられない「あるもの」に対する声を、実りのない不在の迷宮を、そこで救われるのか、放置された思考はいつまでも宙ぶらりんだ「名を除いて」。</P>
<P align=left>この名のない事態（思考を超えたもの）は「美」や「芸術」である以前にそこに見え隠れする。この不可視の構造を追い求めるには勇気が必要だ。ときとして、これ以上接近してはならないもの、「神の領域」この地平を超えてしまた狂気の詩人ヘルダーリンや「牧神の午後」を踊った後、ニジンスキーは二度ともどることはなかった。狂気が人間性を保つ最後の表現であるとはあまりに悲劇的だ。おそらく狂気は「神」にたいする純粋な叫びなのだろう。ヴァン・ゴッホの真実は誰にもわからない。ただ作品をとおしてその軌跡を見るだけ。身体に刻んだ「神の痕跡」を。身体と精神の病がどこらやってくるのか、この根源を「アントナン・アルトー」はゴッホのことを『社会的な生贄の結果、自殺に追いやったこの文明』と言い・・この呪縛から解放するため「残酷」な演劇をとおして身体と精神の自由を獲得するめに立ち上がった。</P>
<P align=left>今、この２１世紀初頭ではすでに忘れ去られた身体の傷跡、これを埋め合わせるようにウォーホルは再び「死」の定義を消費という資本主義の快楽に楔をうった。「死」こそすべてという暗黒のブラックホールを見せてくれた。身体を空虚に満たしてくれたのだ。この空虚こそ身体を復活させる形而上学であり、死なないために他者を用意する消費の王国を、資本主義を、マネーを導きだすポテンシャルであることを見事にウォーホルは見せてくれた。身体を復活させることとは「死」で覆われた「軆」そのものを「０」として言語化すること。形而上的な「死」として再配分する身体のことである。そこにはいない身体。不在の影として、言語として取り扱う「もの」。そういう「もの」としての身体を復活させた。</P>
<P align=left>そこに表現されたものは芸術的であったり、宗教的であったり、哲学的な「死」の深さの表現なんかではない。どこにでもある、どこにでもない「死」だ。芸能とスキャンダル、バイセクシャル、性と暴力、事故死、死の電気椅子など、内面の深さなんか関係ない、これこそが私たちの日常なのだ。ジャンクフードを食べ続ける目に見えぬ身体のレディ・メイドと、いつ精神が瓦解するか分からない「切れる死」。わたしはこれをウォーホルからどの芸術家よりも多くを学んだ。そしてアルトーとはウォーホルがもっとも近くにいる腹違いの親戚なのだ。その隣にフランシス・ベイコンが座っている。デュシャンは科学の錬金術とエロティシズムの天体に逃げ込む。</P>
<P align=left>・・「神は死んだ」と狂気の哲学者が叫んだ後に８７年間の経過を待つ間アルトーがその手助けをしていた。身体の錬金術師を、生を永遠にするための死を、あの残酷な叫びを演じていたアルトーがいた。どこにいるか分からない不在な影を「死は死んだ」と叫んでいるウォーホルが、「死」についに楔を打った。文明の病を芸術として永遠を叫ぶのではなく死を再び「０」にもどすために。天体に返したのだ。身体の傷を抵当にアルトーが実験した文明の残酷な死から蘇らせようとしたこの「永遠の生」さえウォーホルは放棄したのだ。希望も絶望もない、そこで死んだという物理的な死を不在な影として死を印刷する。繰り返し食べるキャンベルスープのように。</P>
<P align=left>それこそが「死は死んだ」と消費する思考の王国アメリカ、この資本主義の最も進んだ都市の真っ只中で生き死んで逝ったウォーホルは記録していた。「死」を意識のなかに濃厚に表現した２０世紀後半の新しいパラダイムの「死」を確立した人、２０世紀後半のシャーマンだ。そして今は「神は死んだ」と叫んだ後に、８７年間の年月を経ってウォーホルが受け継ぐ、「死は死んだ」とテイプレコーダをもつて機械の声で囁いている。蒼白な顔と銀髪の髪。</P>
<P align=left>・・わたしは精神と身体をデジタル信号で変換する見えぬ記号の真っ只中にいる、このコンピュター、いまでは資本主義の１つの贈り物として誰でももっている。死ぬことのない「ネットワークの夜」をウオーホルならどのように表現するだろうか。意識は信号に呑みこまれ、信号のジャンクフードがわたしの身体のなかに贈り物として寄り添っている。死は忘却の彼方にいき、死ぬことができぬ故に、いまでは永遠の生もない。そこにあるのは「スーパーフラット」な死、残酷さは「死」を感じることができぬ故にますます増大している。アルトーは何処へいった。ウオーホルよ、死さえも死ねなくなってる。</P>
<P align=left>あなたは突然１９８７年に暗黒の天体の彼方に去っていった。そして遺言のように残していった。私たちに必要なもの、それはキャンベルスープの作品のように繰り返すこと。同じような食事をして、いつまでも「死」は他者のまま流通機構のかなで機能する「快楽の資本主義」と「金融の王国」そして空虚な身体と死、このエンドレスな生活であること、表がないから裏もない。そこに哲学はない。そしてこの台詞：</P>
<P align=left>『死ぬときはそこにいなから分からない』</P>
<P align=left>と言ってそのとおり死んでいった。死は自分の「もの」ではなく病院の「もの」であり、自分に属さない。これほど「現代の文明、文化」をみごとに表現した人をわたしは知らない。他の芸術家達の情報量を遥かに凌駕する２０世紀後半最大のアーチストである。そこにはすべて表現することのない厖大な大衆の表現が、消費が、哲学のない哲学がある。そしてウォーホルはこれらを「否定神学」のようなシャーマンで「非表現」する。エンパイアステート・ビルを時間で呑みこむブラックホールの神話を創った。</P>
<P align=left>資本主義、マネー、そして身体と精神など、アルトーはこの身体と精神を抽出し、抽象的モデルを「残酷劇」という形に仕上げ素晴らしい未完の芸術にした。ウォーホルは「死」を言語としてとり上げた偉大な資本主義の最初の形而上学者となった。それは芸術を今日の死学に徹底的に仕上げる。そこに無駄はない。「死」に対する新しいパラダイムを確立した人、それがウオーホルだ。』</P>
<P align=left>&nbsp;</P>
<P align=left>画像右の言葉は：「名を救う」ジャック・デリダ著作、訳：小林康夫・西山雄二、（発行：未來社）の一部を引用したもの。</P>]]>
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</item>
<item rdf:about="http://youjnsu.livedoor.biz/archives/51728691.html">
<title>エロティシズム「透視する思考」</title>
<link>http://youjnsu.livedoor.biz/archives/51728691.html</link>
<description>EI30-01

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EI30-01「透視する思考」
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この作品は未完成で、フォルムが決まっていません。色彩と線と、それに透明感を与えて、思考のエロティシズムを追究していた時期の作品です。習作で完成していません。放置したままで...</description>
<dc:creator>tneyou4595</dc:creator>
<dc:date>2009-10-02T12:21:54+09:00</dc:date>
<dc:subject>美術全般</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<P><STRONG>EI30-01</STRONG></P>
<P><IMG class=pict height=248 alt=エロスの思考 hspace=5 src="http://livedoor.blogimg.jp/tneyou4595/imgs/e/e/ee89362e.jpg" width=300 align=left border=0></P>
<P>&nbsp;</P>
<P>&nbsp;</P>
<P align=center><STRONG>EI30-01</STRONG><BR>「透視する思考」</P>
<P>&nbsp;</P>
<P>&nbsp;</P>
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<P><BR>&nbsp;</P>
<P>この作品は未完成で、フォルムが決まっていません。色彩と線と、それに透明感を与えて、思考のエロティシズムを追究していた時期の作品です。習作で完成していません。放置したままです。まだ体調不良のため、整理は出来ない状態です。とりあえず昔の作品を掲載しました。２１世紀に向けた、新しい絵画の内在性（内在平面）を１９世紀から掘り起こして論じたいとおもっています。<A href="http://trackback.blogsys.jp/livedoor/tneyou4595/51602508" target=_top>第１回目は「ジョルジュ・スーラ」</A>をとり上げました。１９世紀は画期的な概念が多くふくまれています。第二回目も用意していたのですが、体調がおもわしくなく、途中です。回復しだい継続してゆきます。</P>]]>
</content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://youjnsu.livedoor.biz/archives/51715889.html">
<title>偉大なアメリカンポップアーチスト「トム・ウェッセルマン」</title>
<link>http://youjnsu.livedoor.biz/archives/51715889.html</link>
<description>体調は少しずつもどってきましたが、まだ作品の整理はできていません。トム・ウェッセルマンのことを２年前に掲載しましたが、纏まりのない文で削除しました。また掲載してほしいといわれましたので、そのまま掲載しておきます。ウォーホルと同じくらい素晴らしい作品を残し...</description>
<dc:creator>tneyou4595</dc:creator>
<dc:date>2009-09-11T15:45:31+09:00</dc:date>
<dc:subject></dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<P>体調は少しずつもどってきましたが、まだ作品の整理はできていません。トム・ウェッセルマンのことを２年前に掲載しましたが、纏まりのない文で削除しました。また掲載してほしいといわれましたので、そのまま掲載しておきます。<A href="http://trackback.blogsys.jp/livedoor/tneyou4595/50381518" target=_top>ウォーホル</A>と同じくらい素晴らしい作品を残しています。２００４年（享年７３歳）に死去されました。わたしの大好きなアーチストでした。</P>
<P>トム・ウェッセルマンの作品はどれも好きで部屋に飾ってある。もう何年も飾っているので色褪せてしまった。とくに「Porch,1960」、この作品がいい。野菜や果物をコラージュにした作品でマティスの静物画を想起する。宇宙的な広がりがあって野菜や果物が無限のなかの有限の様態を示す。というように存在の本質を見せてくれる。これはわたしがマティスを観るときいつも感じる本質的問いです。そこから派生してさまざまなバリエーションをかたち創る。ウェッセルマンのこの絵は将にマティスと同じ眼差しです。物質の存在を垣間見せてくれる。<BR></P>
<P align=center><BR><IMG class=pict height=463 alt=ウェッセウルマンA hspace=5 src="http://livedoor.blogimg.jp/tneyou4595/imgs/b/9/b995a353.jpg" width=385 align=left border=0></P>
<P align=center>&nbsp;</P>
<P align=center>&nbsp;</P>
<P align=center>CF05-20<BR>TOM WESSELLMANN<BR>(portrait.1980)<BR>鉛筆スケッチ</P>
<P align=center>わたしにとつてウェッセルマン<BR>とは一生涯マティスを師匠にし<BR>た人だ。そうおもえる。限りなく<BR>マティスを尊敬していたにちが<BR>いない。初期のコラージュ作品で<BR>「Porch、1960」、<BR>この作品がもの凄く好きだ。<BR>毎日観ても飽きない。</P>
<P align=center>&nbsp;</P>
<P align=left>&nbsp;</P>
<P align=left>&nbsp;</P>
<P><FONT face="ＭＳ Ｐゴシック"></FONT>&nbsp;</P>
<P><FONT face="ＭＳ Ｐゴシック"></FONT>&nbsp;</P>
<P><FONT face="ＭＳ Ｐゴシック">この絵はウェッセルマンの原点のような気もします。そこから派生してさまざまなバリエーションを後に造形化してゆくことになる。このウェッセルマンの“<SPAN lang=EN-US>Porch”という作品は将にマティスと同じ視線をもっています。しかも両者とも少しも抽象化せず具体的なモチーフを使って表現している。装飾的なスタイルのなかに深い哲学的な要素が確り表現されている。それは眼に観えないけれど、両者とも共通しているその眼差しは、非常に厳しい視線をしている。ウェッセルマンの、どのポートレートを見ても眼が厳しく物事を客観的に観ている眼差しを感じます。口元の表情は優しさがでています。スケッチして見るとそのことが分かってきます。</SPAN></FONT></P>
<P><FONT face="ＭＳ Ｐゴシック">またウェッセルマンはデ・クーニングが好きでその自由なスタイルに憧憬をもっていたらしい。わたしもデ・クーニングが好きで、<SPAN lang=EN-US>A4サイズの複製画をポスターサイズに拡大して額縁におさめて飾っています。その絵を観るにつけ、自由に描けば描くほど嘘がつけなくなってくる、その運動性と色彩の痕跡が、筆跡が真実に迫ってきます。デ・クーニングのドキュメンタリーを観ている素晴らしさです。</SPAN></FONT></P>
<P><FONT face="ＭＳ Ｐゴシック">特に「女、<SPAN lang=EN-US>1948－53年代」、このシリーズはウェッセルマンが描こうとしても決してできない完成度に達していたとおもう。むしろウェッセルマンはマティスと同じようにフォルムを形式のなかに溶け込ませ、世界を表現する。裸婦のフォルムを形式化しポップアートというフラット的なスタイルに仕上げるにはピッタリする。しかも立体的な３次元空間に移行してもアメリカの消費社会の奥行のなさとうまく合う。</SPAN></FONT></P>
<P><FONT face="ＭＳ Ｐゴシック">初期のデ・クーニングの作品に「静物、<SPAN lang=EN-US>1927年」というのがあります。この作品は、ある人は少しマティス風だという。またこれを抽象化した作品「無題、1934年」があります。この絵もマティスの切り絵を連想します。わたしにとってこの２つの絵はまさにマティスそのものの眼差しです。カオスというものがあります。少しマティス風どころではありません。世界を観る視点はマティスそのものです。</SPAN></FONT></P>
<P><FONT face="ＭＳ Ｐゴシック">それとウェッセルマンの「<SPAN lang=EN-US>Porch,1960年」の作品とデ・クーニングの「静物、1927年」は、まったく同じテーマで描いているのに驚かされる。両者ともこの絵が世界を見る眼差しの原点であることには変わりはない。後にデ・クーニングはアーシル・ゴーキーと知り合い、影響を受けることとなる。わたしにとってウェッセルマンは最後までマティス的な見方を変えなかった人であると感じている。晩年には鉄板を線状に切り抜いてヌードを作り、それに色彩をし、その背景にはマティスの静物画を配置している。この技法はマティスの切り絵からヒントを得たのか知りませんが、実によくマティスを学んでいる。</SPAN></FONT></P>
<P><FONT face="ＭＳ Ｐゴシック">初期のドローイング「<SPAN lang=EN-US>Drawing for Great American Nude #20 1961年」などはマティスの技法とその眼差しまで貪欲に学んでいる。“本当にマティスが好きなんだな！”とおもいます。そういうわたしもこのサイトにマティスのことを書き、あるいはその技法を学び随分吸収して来ました。それは測りしれないほどだ。マティスの本当のよさはまだまだ発掘されてはいない。それは、あの情動表現の形式化の背後にあるカオスを学ぶことなのである。</SPAN></FONT></P>]]>
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</item>
<item rdf:about="http://youjnsu.livedoor.biz/archives/51703966.html">
<title>新しい絵画の考え方</title>
<link>http://youjnsu.livedoor.biz/archives/51703966.html</link>
<description>体調不良のため、作品の整理がつかず、しばらくお休みしていました。回復しだい再開します。でいるだけ新しい概念で作品を論じてゆきます。第１回は「Georges Seurat、スーラ」をとりあげました。次の課題は生活と生命についての画家を論じたいと考えています。体調不良の回...</description>
<dc:creator>tneyou4595</dc:creator>
<dc:date>2009-08-11T19:05:35+09:00</dc:date>
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<content:encoded><![CDATA[<P>体調不良のため、作品の整理がつかず、<BR>しばらくお休みしていました。回復しだい再開します。<BR>でいるだけ新しい概念で作品を論じてゆきます。<BR>第１回は「<A href="http://trackback.blogsys.jp/livedoor/tneyou4595/51602508" target=_top>Georges Seurat、スーラ</A>」をとりあげました。<BR>次の課題は生活と生命についての画家を論じたい<BR>と考えています。体調不良の回復は時間がかかり<BR>そうです。アクセスしてくれる皆様の励ましで、<BR>生きた芸術を、わたしの作品をとおして論じてゆきます。<BR>今後ともよろしくお願いします。<BR></P>
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</item>
<item rdf:about="http://youjnsu.livedoor.biz/archives/51649680.html">
<title>デッサン「散文詩、ボードレール＜寡婦たち＞」－１</title>
<link>http://youjnsu.livedoor.biz/archives/51649680.html</link>
<description>DD25-14black3

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DD25-14black3「寡婦たち」
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「寡婦たち」
このタイトルの絵は”パリの憂鬱”から取ったものです。ボードレールの詩はわたしを無価値にしてくる、”蕩...</description>
<dc:creator>tneyou4595</dc:creator>
<dc:date>2009-04-19T21:02:26+09:00</dc:date>
<dc:subject>文学・詩</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<P><STRONG>DD25-14black3</STRONG></P>
<P><IMG class=pict height=467 alt=裸婦_ED18 hspace=5 src="http://livedoor.blogimg.jp/tneyou4595/imgs/1/7/176e35d8.jpg?350467" width=350 align=left border=0></P>
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<P align=center><STRONG>DD25-14black3</STRONG><BR>「<STRONG>寡婦たち</STRONG>」</P>
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<P>「<STRONG>寡婦たち</STRONG>」</P>
<P>このタイトルの絵は”<STRONG>パリの憂鬱</STRONG>”から取ったものです。ボードレールの詩はわたしを無価値にしてくる、”<STRONG>蕩尽</STRONG>”。そこから感じはじめないと、どうにもならない。現世の価値観を超えたところからやってくる光と影、官能と退廃、メランコリーとアレゴリー、こんなイメージが想起されてくる、それがわたしにとってのボードレールです。わたしのデッサンは視覚化でおわらず、言語（思考）が更にフォルムを加速させ、あるイメージを誘発してくれればいい。そんなふうにドローイングします。・・悲しさと苦労を背負った孤独な女性をときとして、その影が光となり無限に向かう、こんな姿をデッサンして観ると、「<STRONG>寡婦たち</STRONG>」というあの<STRONG>ボードレールの</STRONG>”<STRONG>散文詩”</STRONG>をおもいうかべます。</P>]]>
</content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://youjnsu.livedoor.biz/archives/51642662.html">
<title>内在とノイズ-カオスの鏡「ダブル・サイレンスー沈黙の分身」の感想ー３</title>
<link>http://youjnsu.livedoor.biz/archives/51642662.html</link>
<description>ED04-02C1/-02A1/-02B1
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「内在とノイズーカオスの鏡」
わたしは勅使川原三郎の「ダブル・サイレンスー沈黙の分身」を観て、次のダンスを猛烈に観たくなってきた。今回の公演より更にバージョンアップした...</description>
<dc:creator>tneyou4595</dc:creator>
<dc:date>2009-04-05T23:21:19+09:00</dc:date>
<dc:subject>舞踊・ダンス</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<P><STRONG>ED04-02C1/-02A1/-02B1</STRONG><BR><BR><IMG class=pict height=267 alt=内在とカオスC hspace=5 src="http://livedoor.blogimg.jp/tneyou4595/imgs/8/1/811475f1.jpg?200267" width=200 align=left border=0><IMG class=pict height=267 alt=カオスの窓 hspace=5 src="http://livedoor.blogimg.jp/tneyou4595/imgs/7/3/739ddbc1.jpg?200267" width=200 align=left border=0><IMG class=pict height=267 alt=内在とカオスB hspace=5 src="http://livedoor.blogimg.jp/tneyou4595/imgs/c/2/c257e5e5.jpg?200267" width=200 align=left border=0></P>
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<P>「<STRONG>内在とノイズーカオスの鏡</STRONG>」</P>
<P>わたしは勅使川原三郎の「<STRONG>ダブル・サイレンスー沈黙の分身</STRONG>」を観て、次のダンスを猛烈に観たくなってきた。今回の公演より更にバージョンアップした「<STRONG>沈黙の分身</STRONG>」を観たい。<STRONG>カオスと測りえるほどに</STRONG>投影された仮像の身体を、その<STRONG>トポロジー</STRONG>を観たくなった。次元の移行、その<STRONG>アンフラマンス</STRONG>（極薄）を顕現化させるその「<STRONG>からだ</STRONG>」の動き、仕掛け、仕掛けられそれに対応する「<STRONG>からだ</STRONG>」の変化率を・・純粋時間の結晶化をわたしは観たい。外と内の境界線へと接近した「<STRONG>からだ</STRONG>」の接線のようなものを・・それは強度が外在化し内の線が外の線となり、殆ど区別できない空気の層ができ相互の反応が異次元へ移行（<STRONG>アンフラマンス</STRONG>）する。差異によって生産される・・異なるものの同一性の反復、その平面を創る「<STRONG>からだの運動</STRONG>」、<STRONG>アイオーンの洗礼</STRONG>を受けながらつき進んだその「<STRONG>からだの結晶化</STRONG>」した時間（運動）を観たいとおもうのだ。それはある意味で強度の問題でもあり、シミュラークルの永遠回帰の身体化ともおもえるのだ。こんな姿の勅使川原三郎のダンスを観たい。</P>]]>
</content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://youjnsu.livedoor.biz/archives/51636811.html">
<title>勅使川原三郎「ダブル・サイレンスー沈黙の分身」を観た感想－２</title>
<link>http://youjnsu.livedoor.biz/archives/51636811.html</link>
<description>わたしにとって舞踊を観る行為は、わたしも舞踊をします。見えるものが、見えない身体の内部で呼吸し、新たな血液が流れ心臓が鼓動してきます。それまでとは違った何かが流入してきます。舞踊家によってわたしも踊り創めるのです。それは踊っている舞踊家の内在がわたしの中...</description>
<dc:creator>tneyou4595</dc:creator>
<dc:date>2009-03-30T23:30:38+09:00</dc:date>
<dc:subject>舞踊・ダンス</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<P>わたしにとって舞踊を観る行為は、わたしも舞踊をします。見えるものが、見えない身体の内部で呼吸し、新たな血液が流れ心臓が鼓動してきます。それまでとは違った何かが流入してきます。舞踊家によってわたしも踊り創めるのです。それは踊っている舞踊家の内在がわたしの中に侵入してきます。外の出来事が内部を形成し。外と内の混成された内在、相互の浸透、この振動がわたしを瓦解させます。</P>
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<P><IMG class=pict height=267 alt=此性としての内在A hspace=5 src="http://livedoor.blogimg.jp/tneyou4595/imgs/0/e/0eadbcc6.jpg?200267" width=200 align=left border=0><IMG class=pict height=267 alt=此性としての内在B hspace=5 src="http://livedoor.blogimg.jp/tneyou4595/imgs/9/9/992aae11.jpg?200267" width=200 align=left border=0><IMG class=pict height=267 alt=此性としての内在C hspace=5 src="http://livedoor.blogimg.jp/tneyou4595/imgs/e/4/e422c56f.jpg?200267" width=200 align=left border=0></P>
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<P><IMG class=pict style="WIDTH: 628px; HEIGHT: 429px" height=451 alt=此性としての内在E hspace=5 src="http://livedoor.blogimg.jp/tneyou4595/imgs/9/5/9509ea92.jpg?651451" width=651 align=left border=0><BR>&nbsp;</P>
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<P><STRONG>EC30-01B_1/-01C/-01C_2<BR>EC30-03A<BR>　　　<BR></STRONG>「<STRONG>外と</STRONG><STRONG>内の混成された内在</STRONG>」</P>
<P>そんな体験をさせてくれた勅使川原三郎は、わたしになる。その感覚はわたしに絵を描かせてくれる。これはわたしであると同時にわたしではない他者、多分芸術はこの他者とは何者か・・という問いなのであろう。「ダブル・サイレンスー沈黙の分身」を観たわたしの感想です。<A href="http://app.blog.livedoor.jp/tneyou4595/tb.cgi/51636030" target=_top>前回はわたしの感じたことを概念的に書きましたけれども</A>、わたしの脳裡に残像としてやきついたものをデッサンしそれに単色の色をつけてみた。触発されたものを見える形にして残しておきたいとおもった。コンセプトとして体内の群集というべきかそのノイズを前にしてそこに立ち、それに共振するかのように首と肩を振動させる仕草が、内在の強度量を感じ興味深い動きでした。最後に集団のなかに静に入って行くシーンが、ひとつの出来事が地層化される、そのような印象を受けました。とくにあの設定は面白く凄くよかった。</P>]]>
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</item>
<item rdf:about="http://youjnsu.livedoor.biz/archives/51636030.html">
<title>勅使川原三郎「ダブル・サイレンス-沈黙の分身」を観る</title>
<link>http://youjnsu.livedoor.biz/archives/51636030.html</link>
<description>久しぶりにダンスの公演にいってみた。もう何年も観ていない。渋谷の「シアターコクーン」で勅使川原三郎の公演「ダブル・サイレンスー沈黙の分身」を目撃してみたいので、わたしは宇宙の振動音と身体の関係をどのように身体が思考しているのか、その勅使川原三郎の身体を一...</description>
<dc:creator>tneyou4595</dc:creator>
<dc:date>2009-03-22T22:46:15+09:00</dc:date>
<dc:subject>舞踊・ダンス</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<P>久しぶりにダンスの公演にいってみた。もう何年も観ていない。渋谷の「シアターコクーン」で<STRONG>勅使川原三郎の公演</STRONG>「<STRONG>ダブル・サイレンスー沈黙の分身</STRONG>」を目撃してみたいので、わたしは宇宙の振動音と身体の関係をどのように身体が思考しているのか、その勅使川原三郎の身体を一度観てみたかった。彼が消える瞬間を、微分化された身体の空気を目撃したかったのだ。呼吸音のなかに身体の孤独な光を閉じ込め、ガス化した空気の層を見たかったのだ。だが彼は接近しその接線の身体を共有できなかった。内と外の身体をもったカオスの影を感じてはいるのだが、身体はおしもどされた。からだの運動が遠ざけてしまったのだろうか。見えているのだが移行しなかった。つまりシミュラークルの襞を、反転されたミラーの背後に、更に沈黙の身体を形成してくる化像の潜在性を、体内の絶対ノイズによって消されたのか・・そして最後に取り残された身体の悲しさをわたしは目撃してしまった。震えるからだの涙を見てしまったのだ。差異と反復、永遠回帰、シミュラークル・・そこには幾つもの残酷なアイオーンの洗礼を受けねばならない。沈黙は宿ると消える。</P>
<P><STRONG>追記：<BR></STRONG>勅使川原三郎の公演「ダブル・サイレンスー沈黙の分身」を観た<BR>その印象を記憶にとどめておきたいとおもいモノクロで描いて<STRONG>、<BR></STRONG>感想文として下記に掲載しました。<BR><A href="http://app.blog.livedoor.jp/tneyou4595/tb.cgi/51636811" target=_top>画像掲載「ダブル･サイレンス」感想ー２</A>　<BR><A href="http://trackback.blogsys.jp/livedoor/tneyou4595/51642662" target=_top>画像掲載「ダブル･サイレンスーカオスの鏡」感想－３</A></P>]]>
</content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://youjnsu.livedoor.biz/archives/51631034.html">
<title>Georges Seurat/スーラ「情動と社会機械」－７</title>
<link>http://youjnsu.livedoor.biz/archives/51631034.html</link>
<description>スーラについて第６回は「グランド・ジャット島の日曜日」をとりあげました。第２回と第３回は「アニエールの水浴」の構図について論じました。その装置はどのようなものであるのか、Diagramを作成し、遠近法による視線の方向性が、不可視の構造を生成させカオスの平面をタブ...</description>
<dc:creator>tneyou4595</dc:creator>
<dc:date>2009-03-17T23:29:16+09:00</dc:date>
<dc:subject>ジョルジュ・スーラ</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<P>スーラについて第６回は「<A href="http://app.blog.livedoor.jp/tneyou4595/tb.cgi/51629111" target=_top>グランド・ジャット島の日曜日</A>」をとりあげました。第２回と第３回は「<A href="http://app.blog.livedoor.jp/tneyou4595/tb.cgi/51619116" target=_top>アニエールの水浴」の構図</A>について論じました。その装置はどのようなものであるのか、<STRONG>Diagram</STRONG>を作成し、遠近法による視線の方向性が、不可視の構造を生成させカオスの平面をタブローのなかに見事に結晶化させた。この新しい概念を論じました。それはデュシャン的な装置の見方で観ることによって、<STRONG>スーラの絵画は「アンフラマンス=inframince」となる</STRONG>。これは<STRONG>デュシャンの造語</STRONG>で何を意味しているのか各自が体験してみる以外ない。もしそのことを説明しようとすると、トートロジーに陥るか、一冊の書物を書き上げなければならない。詩的に表現するか、実際にそれを創ったデュシャンの「<STRONG>便器=泉</STRONG>（<STRONG>モノと言表行為とのアンフラマスでもある</STRONG>）」、「<STRONG>大ガラス</STRONG>」、「<STRONG>遺作</STRONG>」などを観て感じる以外ないというとこです。あるいは自分でその装置を創ればよい。しかしこういう体験は誰でもしているとおもうのだが、再-現前化させその装置を創るとなると、別問題です。デュシャンは「大ガラス」の制作に８年もかかっている。メモを入れると十数年はかかっているはずだ。しかも途中放棄している。デュシャンのことで少々脱線してしまいましたね。もとに戻りましょう。<BR></P>
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<P><IMG class=pict height=334 alt=シャユ踊りA hspace=5 src="http://livedoor.blogimg.jp/tneyou4595/imgs/0/a/0afa9c32.jpg?270334" width=270 align=left border=0><IMG class=pict style="WIDTH: 268px; HEIGHT: 335px" height=340 alt=サーカスB hspace=5 src="http://livedoor.blogimg.jp/tneyou4595/imgs/6/a/6a5fb336.jpg?276340" width=276 align=left border=0></P>
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<P>「<STRONG>シャユ踊り、1889-90</STRONG>」/「<STRONG>サーカス、1890-1891</STRONG>」<BR></P>
<P>スーラは網膜的な絵画から離反し、理念の幾何学的な感覚の形成を観るタブローとなって現前化してくる。つまり構成された点描の背後に、描かれえぬものの、極薄性の見えないものの観えるものが現前化してくることとなる。この見えないものの、見える視点は空気の層である。空気の微粒子がイデアの内部で結晶化し波動化する。それが「<A href="http://app.blog.livedoor.jp/tneyou4595/tb.cgi/51607431" target=_top>アニエールの水浴</A>」であり、特にこの「<A href="http://app.blog.livedoor.jp/tneyou4595/tb.cgi/51626781" target=_top>ポール=アン=ベッサン、橋と波止場</A>」では小さな女の子の体からオーラがでており、事実スーラは彼女の左側に点描でその空気の層を描いている。実際には在りえない出来事である。不可視の構造としてスーラのどのタブローにもたえず微粒子の影が結晶化した純粋時間のカオスがある。それは現すことも見ることも出来ない極薄性のカオスの平面である。とはいえ理念の内在として形成してくる何にものかを感じるのである。それに向かわすベクトルがあるということです。</P>
<P><STRONG><BR>情動と社会機械<BR></STRONG>さて今回テーマの「<STRONG>シャユ踊り</STRONG>」と「<STRONG>サーカス</STRONG>」は、一方は音と身体であり、サーカスは運動と身体である。この両者ともリズムが共通なテーマとなっています。それはひとつの波動をつくること。波動とは作用するものと、作用させられるものとの共振関係ということです。情動という動きを作用させるメカニズムを見せる装置をつくったということです。ここでわたしがいう情動とはスピノザのエチカ第３部定義３のことで『<STRONG>情動とは、私たちの身体の活動力を増大し、あるいは減少し、促進し、あるいは阻害する身体の変様の観念である</STRONG>』と、このような意味の情動のことです。最初にスーラは「アニエールの水浴」で５人の独身者と大地、水、空、そして欲望する諸機械を生産する表象としの工場の煙を描き、まだ社会機械の方へ視点はいっていない。空間と内在に重点を置いている。渡りボートがグランド・ジャット島に向かっているのでそれを暗示はしている。次にそのジャット島という地層のなかで人々の様相を配置する構想にスーラは着手する。「アニエールの水浴」が外と内の内在の構造に感心がいっているのに対しして、「グランド・ジャット島の日曜日」は、社会の反映としての内在に感心が向いている。この時点ではまだ人間の様相が社会機械の表現としての形を、その特異点を形象化しているに過ぎない。当時のファッションを外面的に描いた社会的な係数としての形象である。社会のベクトルは見えるけれど、心の動きはまだ描いてはいない。しかし近代資本主義の波がおしよせて来る、その反映としての心の状態に、その変様のメカニズムをすでにグランド・ジャット島でスーラは観ていたのである。欲望する諸機械の社会的な生産過程を敏感に感じていたというわけである。「アニエールの水浴」では工場の煙突の煙で表象していたのが見てとれる。</P>
<P>さて今回の「<STRONG>シャユ踊り</STRONG>」と「<STRONG>サーカス</STRONG>」ですが、これは明らかに外との反応であるより、内部の<STRONG>情動のメカニズム</STRONG>の方にスーラは感心がいっている。前述したようにこの情動のことをスピノザが的確に述べていることを踏まえて、更に精神のことは次のように述べている。『<STRONG>精神とは身体の観念のことである</STRONG>』と、そこでスーラは身体の様態のシステムに興味がいっている。このときでもスーラは外の時空を観察はしている。海の風景画を同じ時期に描いてもいる。たえず外と内の関係性を、その内在を観ている視点がスーラには必ずある。それはイデアの世界（多様体として）の具現化の確認作業でもある。そこで「<STRONG>シャユ踊り</STRONG>」や「<STRONG>サーカス</STRONG>」では何を表現したかったのだろうか。あるひとはシャユ踊りはあまりに図式的であるというし、サーカスでは何を表現したいのだろうかと、おもえるほど形式的な表現方法をとっている。ある意味では、わたしにとっては<STRONG>Diagram</STRONG>である。その機能を作用させるために意図して図式的な描き方をしている。では一体その機能とは・・そこからスーラの理念が観えてきます。「<STRONG>サーカス</STRONG>」も「<STRONG>シャユ踊</STRONG>」も顔の表情がほとんど記号的であり、何かを表現していることには違いないが個性を表現しているわけではない。顔貌性のそのシニフィアンなのである。事実スーラは顔の形態と情動の関係を記号的に追究していた。</P>
<P>社会とは欲望する諸機械の生産の総体であるということです。社会とはひとつの機械であり、その機械の表現が顔に刻印された、シニフィアンとして形相された表象なのである。名なしの顔、個性というより印（しるし）であり、無数に連接する機械の音、振動などの集合体である一つの係数なのである。それが顔として表現されるときポスターとなる。スーラが<STRONG>ポスター画家ジュール・シェレ</STRONG>に興味をもった理由はその意味で、一般大衆の欲望する諸機械を記号として表現するそのイラスト的な<STRONG>Diargam</STRONG>として観る装置のことなのである。初期のスーラは「<STRONG>アニエールの水浴</STRONG>」や「<STRONG>グランド･ジャット島の日曜日</STRONG>」のように身体の配置にとどめ、個体としての内部運動は隠されたまま外部のひとつの表象として表現しているだけであった。静的な配置に徹している。ところが「<STRONG>シャユ踊り</STRONG>」や「<STRONG>サーカス</STRONG>」では内部の運動が外部へ形態として表出するその表情を表現するようになる。顔貌性の追究に、様々な形態による情動の表現をスケッチするようになる。そのメカニズムに興味がいくようになる。これは一体何を意味するのか、スーラは最後にこの課題を残して「サーカス、1890-91」の作品が遺作となり、未完成のまま１８９１年死去する、享年３１歳。</P>
<P>「<STRONG>シャユ踊り</STRONG>」と「<STRONG>サーカス</STRONG>」のことに関してそのメカニズムと情動、そして社会機械のいたるところにある欲望する諸機械について論じる予定でしたが、そこまでいきませんでした。それから構図が非常に面白く、その理論的な構成を分析し「<STRONG>アニエールの水浴</STRONG>」で画いたようにベクトル的な見方をするといっそう明確になってきます。「<STRONG>シャユ踊り</STRONG>」は各パーツを分解し再構成する方法はキュビスムの概念です。切断された各パーツを理念によって構成させるイメージの運動が、新たなタブローを生成させる、これは描かれえぬ、n次元のタブローを脳内で形成させる、ひとつの純粋時間の生成でもある。このようにスーラは「<STRONG>シャユ踊り</STRONG>」<STRONG>で実験的な装置を創っていたのである</STRONG>。ただ当時の人々はそれを理解していなかった。図式的な表情描写が機械的であり、生気のないものとして感じていたのである。表象の背後にある、<STRONG>欲望する諸機械をスーラはDiagram的に表現していたのである</STRONG>。対象を類似として正確に表現することではなく、記号的な情動表現によってイメージを喚起させるメカニズムを追究していた。この思考は何と現代美術そのものではないのか。</P>
<P>&nbsp;</P>
<P><STRONG>補遺：<BR>ジョルジュ･スーラの絵画論</STRONG>は第１～第７回まで連載となりました。わたしはスーラの点描の技法につては殆ど論じていません。それを論じると<STRONG>視覚のメカニズムの問題</STRONG>になるからです。あえていえば、脱個性的な普遍性がその空間表現とピタリとあって、スーラの個性と感性をいっそう豊にし、静寂な空間表現に成功しています。機械的なドットの描写表現が印象派の筆触分割技法とはちがって感情を抑えた理念として表現している。したがってスーラを観る視点は点描の背後にある、<STRONG>見えないものを観る理念として思考のうちに形成してくるある実体を感じるというアートなのです</STRONG>。そのことを強く意識していたのが<STRONG>デュシャン</STRONG>なのです。『<STRONG>いく本かの絵の具のチューブが一点のスーラになる可能性はアンフラマンスとしての可能なものの具体的説明となる</STRONG>』と<STRONG>デュシャン</STRONG>は語っている。<STRONG>スーラ</STRONG>の絵画は今も<STRONG>シニャック</STRONG>がいうように本当に理解されているとはおもえない。あの点描の美しさの評価で人は満足している。もっと研究されていい画家だ。<STRONG>ゴッホ</STRONG>や<STRONG>セザンヌ</STRONG>と同様、偉大な画家だとわたしは感じている。機会があれば、次回はそのことを現代美術の視点で論じようとおもいます。</P>]]>
</content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://youjnsu.livedoor.biz/archives/51629111.html">
<title>Georges Seurat/スーラ「グランド・ジャット島の日曜日」－６</title>
<link>http://youjnsu.livedoor.biz/archives/51629111.html</link>
<description>第１回から第５回までの掲載は、スーラの宇宙的で壮大なスケールのなかに於ける、カオスの断面と人間の内部ベクトル（方向性、速度、力）のことについて論じました。スーラの最初の大作「アニエールの水浴」をとりあげ第３回ではそのDiagramを画き、幾何学構成が不可視の構造...</description>
<dc:creator>tneyou4595</dc:creator>
<dc:date>2009-03-09T16:47:43+09:00</dc:date>
<dc:subject>ジョルジュ・スーラ</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<P>第１回から第５回までの掲載は、スーラの宇宙的で壮大なスケールのなかに於ける、カオスの断面と人間の内部ベクトル（方向性、速度、力）のことについて論じました。スーラの最初の大作<A href="http://app.blog.livedoor.jp/tneyou4595/tb.cgi/51619116" target=_top>「アニエールの水浴」をとりあげ第３回ではそのDiagramを画き</A>、幾何学構成が不可視の構造を生成させ、カオスの線を触発させる装置の平面を論じました。さて今回は人間の心を中心に述べてゆきます。</P>
<P>&nbsp;</P>
<P><IMG class=pict height=270 alt=グランド・ジャッド島 hspace=5 src="http://livedoor.blogimg.jp/tneyou4595/imgs/e/a/ea7e73fa.jpg?401270" width=401 align=left border=0></P>
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<P>&nbsp;</P>
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<P><BR>「<STRONG>グランド・ジャット島の日曜日、1884-1886</STRONG>」</P>
<P>その予告としてすでに「<STRONG>アニエールの水浴</STRONG>」のなかでジャット島に行こうとしている渡りボート（番号：<STRONG>８a</STRONG>）を描いていますね。そこに乗っているのが男女のペアで、グランド・ジャット島の男女を暗示しているようにおもえるのが興味深い。そのペアが「グランド・ジャット島の日曜日」では右画面の一番大きく描かれた男女のペアを想起させる。女性は猿を紐でつなぎ連れている。これは娼婦を暗示すると云われている。それを一番大きく描いている。画面中央には「<A href="http://app.blog.livedoor.jp/tneyou4595/tb.cgi/51626781" target=_top>ポール=アン=ベッサン、橋と波止場</A>」と同様、小さな女の子を配置している。これは純粋時間の裸形の卵である。大地の地層と原初的生命の人間像を表象した無垢な魂である。宇宙の生命体の尊厳を感じる。これはポール=アン=ベッサンの「小さな女の子」は能動的な動きを暗示しているけれども、グランド・ジャット島の小さな女の子はそれを脱皮して少女への移行の違いだろうか、静に何かを見ている。</P>
<P>それは文明の諸機械を、身に着けていない無防備な魂・・すなわちスーラの意志なのでろうか。その女の子と手をつないでいる隣の女性はセーヌ川を見ている。小さな女の子を除いて、すべての人物はこの絵を見る鑑賞者に凝視してはいない。この小さな女の子だけが、こちら側を見ている。わたしは彼女と対話せざるをない状況に追い込まれる。いったい何を話したらよいのだろうか。わたしにとって「グランド・ジャト島」はたんに静寂な空気と美しい点描で描かれた絵ではないのです。それは次のステプに進みます。人間の心のメカニズム、情動のシステムへと探求は進んでいくのです。それは社会機械における欲望する諸機械の生産へと向かってゆきます。つまりスーラはそれを「<STRONG>シャユ踊り、1889-90</STRONG>」と「<STRONG>サーカス、1890-91</STRONG>」で表現してゆくことになります。次回はその「情動と欲望する諸機械」について論じたいとおもいます。当然それは「<STRONG>シャユ踊り</STRONG>」と「<STRONG>サーカス</STRONG>」のことについて語ることになります。</P>]]>
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</item>
<item rdf:about="http://youjnsu.livedoor.biz/archives/51627868.html">
<title>Georges Seurat/スーラ「内在と空間、ポール=アン=ベッサン」－５</title>
<link>http://youjnsu.livedoor.biz/archives/51627868.html</link>
<description>スーラの絵画は非常に観念的な絵画ですので、思考することを要求されます。思考しないと、静寂で美しい、その点描の描き方にうっとりして終ってしまいます。鑑賞するぶんにはそれでいいのですが、スーラを体験するにはある種のイデアが必要です。また現代美術とストレートに...</description>
<dc:creator>tneyou4595</dc:creator>
<dc:date>2009-03-08T23:22:49+09:00</dc:date>
<dc:subject>ジョルジュ・スーラ</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<P>スーラの絵画は非常に観念的な絵画ですので、思考することを要求されます。思考しないと、静寂で美しい、その点描の描き方にうっとりして終ってしまいます。鑑賞するぶんにはそれでいいのですが、スーラを体験するにはある種のイデアが必要です。また現代美術とストレートに結びつくとこが多々あります。その魅力です。重複する箇所もありますが、それでは前回よりの続きです：</P>
<P>・・スーラは空間のなかに於ける振る舞いを（有機的なもの、無機的なものを含め）たえず追究していたように感じます。そのタブローから観えざる不思議な力を感じることである。<A href="http://app.blog.livedoor.jp/tneyou4595/tb.cgi/51626781" target=_top>前回掲載した「ポール=アン=ベッサンの橋と波止場、1888」が特にそうである。</A>この絵のテーマは描かれたものであるより、描かれ得ないカオスの断面が表象の背後にあるのです。多くの人はスーラの点描の表現の美しさに驚き、またその静寂な空間と人の神秘的な描写に感嘆する。そこで終ってしまう。同じ後期印象派のゴッホやセザンヌ、ゴーギャンには熱い眼差しとその批評が多くの評論家によって研究がなされ、事実読みきれない程上梓されている。それに比べてスーラは点描と科学的分析という言説に囚われそれ以外の見方をしょうともしない。<STRONG>ただデュシャンだけはスーラを特別な存在と見なしていた</STRONG>。<STRONG>網膜的な絵画ではないと言っている。印象派とはまさに網膜的な絵画そのものではないのか、それとは反対のことをデュシャンは語っていたのである</STRONG>。</P>
<P>そのことを前回も述べましたが、<A href="http://app.blog.livedoor.jp/tneyou4595/tb.cgi/51619116" target=_top>第３回の掲載で「アニエールの水浴」の構造を分析したとおりです。</A>ベクトル成分という運動の世界が不可視の構造として再-現前化してくるその凄さを論じました。このスーラ論はシリーズとして継続して掲載しています。第１回から連関していますので、分からない場合は最初から読むことを奨めます。特に<STRONG>ベクトルという用語の使い方</STRONG>の意味を第３回に説明していますのでそこをお読み下さい。さて本題に戻りましょう。スーラとデュシャンのことでしたね、デュシャンは運動そのものをエロティシズムと捉えているところがある。スーラの世界は静的であるけれども、不可視の構造では微粒子が動いています。一瞬であると同時に永遠の世界がスーラにはある。しかしフェルメールのように絶対零度の時間性、その永遠性でもない。間違いなく時間は流れている。その予感がどこかにあります。静的であるけれども、どこかで微かに足音が聞こえてくる予兆があるのです。崩れ行く束の間の永遠、微分的な切片の線を見せる非常に切ない美しさがあります。そのとき神の姿を一瞬見るような永遠の力が空間のなかからでてきます。</P>
<P>「ポール=アン=ベッサンの橋と波止場」を見てください。海藻を背負って、たよりなく歩く「老女」、神の子のように迷って突然出てきた「小さな女の子」、そして社会機械の反映でもある「関税吏」、この３者の三角形の配置は偶然にできたものではありません。「<STRONG>アニエールの水浴</STRONG>」と同様、周りの風景とぴったりと融合しているのです。桟橋の幾何学的な構成と連接しています。そして家々と丘、雲、そのすべてが有機的に構成されています。この連接の作用は不可視の構造でタブローを見る限り、静寂な空間と微かな流れとして体感するような殆ど永遠に近いものです。そのようにスーラは表象作用を触発する構図を計算してここでも幾何学的にしています。雲の形も現実とはちがった形態で描いています。デュシャン的にいうと観念アートなのです。近代芸術以前はすべて観念アートともいえるのです。宗教画とはまさに観念アートのことなのです。ところが近代に入ってから現実的なものへと移行し、網膜的な絵画になっていったのです。スーラは違います。詩的であり、人間の心を描こうとしていたのです。それは印象派のモネ的でもなければ、ゴッホ的でもない。あるいはゴーガンのように文明の逃走線を描こうとしていたわけでもありません。またセザンヌのように存在と格闘していたアートでもありません。</P>
<P>ではどのようなアートであったのか、次回の第６回の掲載でそのことを論じます。それは「シャユ踊り」と「サーカス」のことを書くことになります。情動と社会機械のことについて論じます。</P>]]>
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</item>
<item rdf:about="http://youjnsu.livedoor.biz/archives/51626781.html">
<title>Georges Seurat/スーラ「内在と空間」－４</title>
<link>http://youjnsu.livedoor.biz/archives/51626781.html</link>
<description>Seurat/EC05-02A「ポール=アン=ベッサン、1888」

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ポール=アン=ベッサン部分：EC05-02Cポール=アン=ベッサン部分：EC05-02B
桟橋周りの幾何...</description>
<dc:creator>tneyou4595</dc:creator>
<dc:date>2009-03-05T22:44:03+09:00</dc:date>
<dc:subject>ジョルジュ・スーラ</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<P><STRONG>Seurat/EC05-02A</STRONG><BR>「<STRONG>ポール=アン=ベッサン、1888</STRONG>」</P>
<P><BR><IMG class=pict style="WIDTH: 415px; HEIGHT: 323px" height=328 alt=Seurat-EC05-02A hspace=5 src="http://livedoor.blogimg.jp/tneyou4595/imgs/2/3/237a9e5d.jpg?420328" width=420 align=left border=0></P>
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<P><BR><IMG class=pict height=258 alt=Seurat-EC05-02C hspace=5 src="http://livedoor.blogimg.jp/tneyou4595/imgs/2/f/2f912ef7.jpg?200258" width=200 align=left border=0><IMG class=pict height=258 alt=Seurat-EC05-02B hspace=5 src="http://livedoor.blogimg.jp/tneyou4595/imgs/b/b/bb8b56a8.jpg?200258" width=200 align=left border=0></P>
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<P><STRONG>ポール=アン=ベッサン部分：EC05-02C</STRONG><BR><STRONG>ポール=アン=ベッサン部分：EC05-02B</STRONG></P>
<P>桟橋周りの幾何学的な空間、背景には家々と小高い丘、そして前景の広い空間には制服を着た税関吏、小さな女の子、海藻を背負っておぼつかない足取りの老女、この三者は三角形を形成した配置となっている。「<STRONG><A href="http://app.blog.livedoor.jp/tneyou4595/tb.cgi/51619116" target=_top>アニエールの水浴</A></STRONG>」と同様、まるで無関係な孤独な描写なのである。上空には５つの半円の雲が平行に走っている。自然の状態では決して在り得ないような人工的に描かれかた雲。すべてが静寂で充たされている、媒質のなせるわざか。中心のどこにもない円周、定点のない無窮の空間、この壮大な宇宙の断面を観るにつけ、この神秘的な空間に投げ込まれた無のわたしを想起する。内在の揺動面、見えない波動のゆらぎに侵食されて静に深く刻まれる時、微分化された空気の永遠、しかし雲は流れている。救い、そこに一人の「<STRONG>小さな女の子</STRONG>」が立ってこちらを凝視している。少しばかり肩をいからして。わたしはそこに大地に根ざした裸形の卵を観る。</P>]]>
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</item>
<item rdf:about="http://youjnsu.livedoor.biz/archives/51619116.html">
<title>Georges Seurat/スーラ「アニエールの水浴その構造図」－３</title>
<link>http://youjnsu.livedoor.biz/archives/51619116.html</link>
<description>Ⅰ）装置の概要と見方
スーラの絵画「アニエールの水浴」は、第２回目ではその構図の骨組みを画きました。建築でいえば、全体を透視図的に軸組と梁の組合せの状態を画いたようなものです。その内部にどのような力が作用するのか、設計仕様書のように各特異点に作用するデー...</description>
<dc:creator>tneyou4595</dc:creator>
<dc:date>2009-02-27T14:31:18+09:00</dc:date>
<dc:subject>ジョルジュ・スーラ</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<P><STRONG>Ⅰ）装置の概要と見方</STRONG></P>
<P>スーラの絵画「<STRONG>アニエールの水浴</STRONG>」は、第２回目ではその構図の骨組みを画きました。建築でいえば、全体を透視図的に軸組と梁の組合せの状態を画いたようなものです。その内部にどのような力が作用するのか、設計仕様書のように各特異点に作用するデータとその説明をしました。しかしこれは絵画ですので実際には数値ではなく、内包的な強度量の言葉に置換えなければなりません。わたしは、既存の見方とは違った見方をしてゆきます。内在を触発する基底にあるその構造を分析してゆきます。それは装置の仕組みということになります。設計され、配置した各オブジェクトが如何にある表象を想起させる構造となっているか検証します。それには従来のような見方はぜず、装置として観てゆきます。その仕組みを思考する絵画だという見方をします。この見方はデュシャン的です。スーラを別次元でものすごく評価していたのがデュシャンなのですから。<STRONG>スーラは網膜的な絵画ではない、といっているのです</STRONG>。<STRONG>彼によれば</STRONG>、『<STRONG>シュルレアリスムやスーラ、モンドリアンのような特別の場合を除いて、印象派、フォーヴィスム、キュビスムから抽象芸術やオプティカルアートに至るまで、近代芸術は全部”網膜的”である</STRONG>。』と、これは驚くべき指摘です。その意味でも「アニエールの水浴」の構図論を書いているときは、いつも「大ガラス」の作品が念頭にあって、それと重なるところがあるようにおもいます。「大ガラス」の作品について知りたいかたは、著者：オクタビオ・パス/マルセル・デュシャン論がいいとおもいます。</P>
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<P><IMG class=pict height=564 alt=アニエールの水浴構造図 hspace=5 src="http://livedoor.blogimg.jp/tneyou4595/imgs/b/a/ba760530.jpg?530564" width=530 align=left border=0></P>
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<P><STRONG><BR><BR><BR>DIAGRAM<BR>fig4:EB25-01Y1<BR></STRONG>「<STRONG>アニエールの水浴</STRONG>」</STRONG></P>
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<P>それは点描画家スーラではないのです。<STRONG>現代美術のブリジット・ライリー</STRONG>のような見方ではなく、彼女はスーラからの影響を認めている。網膜絵画そのものの純粋性へと発展していったが、デュシャンは観念の発生をスーラから読みとっていたとわたしは見ている。このようにスーラ絵画は様々な概念を孕んでいる。現代美術の殆どの要素がすでに用意されていたというわけです。<STRONG>観念の発生装置とは、対象の再現とその類比を見るものではありません。タブローそれ自体から生成してくる対象を観る装置（絵画）のことなのです。この装置を創ることにスーラは情熱をこめて思考していました。そのための多くのメモ（クロクトン）があり、　その特異点（内在と構造）を研究し、念入りに設計プランを構想してこの大作に反映したのです。</STRONG></P>
<P>当時の人々は他の印象派の絵も観ていたのですが、「アニエールの水浴」はバランスが悪いという評判があったのです。特に<STRONG>上図fig:4</STRONG>の座っている少年（番号：１）が、バランスが悪いとおもえるようです。他の人物描写も何だか脱個性的な表現で機械的に感じるという人もいます。それは無理もありません。対象の再現をスーラは目指していません。他の印象派の画家のように移ろいやすい光や自然の変化を捉えて、たんに筆触分割で描いている絵ではないのです。しかしこれこそがスーラの本質を、その理念を設計図のように装置を構想し配置しているのです。思考を働かせてください。絵画は対象の再現ではないのです。自然界に存在しているものの類似や断言ではないのです。スーラはそこにはもういません。すでに別次元の世界に入っていたのです。フーコーの言葉をおもいだしてください。絵画はようやっと断言することから解放されたのです。タブローそれ自体のなかに、表象された背後に自律的な言表行為があるのです。それにスーラというとすぐに絵画を科学的に分析し、それを点描としての表現に一生涯捧げた画家であるという評価が強すぎ、固定されたレッテルを貼られてしまっている。確かにそうではあるが、その言説がシニフィアンの専制君主のようにシニフィエを隷属化している。その結果、思考が停止してしまう。さまざまな意見があっていいはずなのになぜか、そこに落ち着いてしまう。</P>
<P>わたしはその専制君主から離れ、スーラの内在をできるだけ観るように、その理念を追い求めたい。とくに「<STRONG>アニエールの水浴</STRONG>」は驚くほど画期的な概念を含んでいる。それは装置としての絵画、設計プランをメモ（クロクトン）しながら構想していく厳密さは、まさにデュシャンのメモ（グリーンボックス）をおもわせる。そこでわたしはこの偉大な画家の遺した大作を、その装置の背後にある厳密な幾何学的構成をダイアグラム化してみたのです。それは素晴らしいものであった。スーラの理念をなぞることによって、わたしは鑑賞ではなく、それに参加しカオスの断面を覗くこが出来たのではいか、すなわち：「<STRONG>彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁さえも、</STRONG>＜<STRONG>大ガラスの1915-1923</STRONG>＞」からあの「<STRONG>(1)落ちる水、(2)照明用ガス、が与えられたとせよ</STRONG>＜<STRONG>遺作1946-1966</STRONG>＞」というところへ行き着く旅への最初の出発が「<STRONG>アニエールの水浴</STRONG>」なのです。この５人の独身者たち（番号：１～６）の脳裡に欲望する諸機械が発生し、そのベクトルがグランド・ジャット島（番号：<STRONG>９</STRONG>）への視線に、ついにはその逃走線が天体の星座（番号：<STRONG>７e1、７e2</STRONG>）へと向かう壮大なスケールもった宇宙像の構想をもっていたのではないか。わたしはそのように妄想する。これはわたしにとってカオスの平面を体験し、内在を形成するひとつの襞となった。外の線から内在へとその構成が内部ではなく、内と外の接線をつくったということです。<STRONG>一にして多、多にして一の無限大の円環運動に意識を向かわせた</STRONG>。<STRONG>そのベクトル構成がすなわち「アニエールの水浴」であり、その装置を創ったのがスーラだったというわけです。</STRONG></P>
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<P>「<STRONG>アニエールの水浴</STRONG>」<BR><STRONG>構造図 fig4:EB25-01Y1<BR>各記号の説明とその原理</STRONG></P>
<P><STRONG>Ⅰ）説明する前に：</STRONG><BR>このダイアグラムの記号説明は前回に「<STRONG>幾何学的構造、fig3:EB03-01Y0</STRONG>」として全体をパース的に表現しました。それを基本に今回はより抽象化し方向ベクトル的に（視覚運動or移動）表示しました。ベクトルの大きさは無視して、その方向性を観てください。速度は、関係はあるとおもいますが、鑑賞者の瞬時の出来事なので直感で観てください。運動とは、「速度」と「方向」、「大きさ」が関係してきますので、これを言葉で説明するのは大変です。そこで直感的に理解しやすくするために図解として数学的なベクトル記号を使用したのです。さて前回（第２回）の緒言で述べたように重複箇所が多々あるとおもいますが、削除せず掲載しています。特に<STRONG>各記号の説明</STRONG>は、今回はより詳細に説明します。また前回（第２回）の「<STRONG>構図の概要」</STRONG>以下掲載を削除し、こちらへ移動（３回）しました。いずれスーラ論が終わり次第まとめて整理する予定です。第２回目の掲載は、全て削除する可能性があります。第３回目へ順次移行中です。気付いた点があれば、その都度追記修正してゆきます。</P>
<P>&nbsp;</P>
<P><STRONG>Ⅱ）構図の概要<BR></STRONG>・・幾何学的な厳密性をもった内部構造の設計であり、建築でいう構造力学的なバランスをたもっている。外部（内部ではさまざまな運動が作用している）では静的な均衡のとれた美しいスーラのプランを観るのです。わたしたちはこのデザインを直感的に感じ、この何ともいえない魅力に捉えられて、深い感動を味わうのである。わたしはこのスーラの設計図を視覚化しようと、その構造を想定して作成した。</P>
<P align=left><STRONG>Ⅱ.1）&nbsp;</STRONG>&nbsp;<STRONG>構図の記号説明</STRONG><BR><STRONG>１：</STRONG>座っている少年、<STRONG>１a：</STRONG>その帽子、<STRONG>１</STRONG>b：衣服、<STRONG>１c：</STRONG>靴<BR><STRONG>２：</STRONG>肘を首に当て横たわっている男、<STRONG>２a：</STRONG>その男の前に座っている茶色い毛の犬、<STRONG>２b</STRONG>：支点、<STRONG>２c：</STRONG>靴<BR><STRONG>３：</STRONG>赤い帽子を被った少年（川の中に入り、手を口に当てグランド・ジャット島に向けて声をかけている少年）<BR><STRONG>４：</STRONG>川の中に入って背中を見せている少年<BR><STRONG>５：</STRONG>麦わら帽子を被った少年<BR><STRONG>６：</STRONG>帽子と白い衣服、靴が大地に描かれている、そこにはいない。<STRONG>６a：</STRONG>靴<BR><STRONG>７：</STRONG>空の空間、<STRONG>７a：</STRONG>工場群、<STRONG>７b</STRONG>：煙突の煙、<STRONG>７e１</STRONG>：無限、<STRONG>７e2</STRONG>：無限<BR><STRONG>８：</STRONG>川のオブジェクト（船など、番号：<STRONG>８a、８b、８c</STRONG>）<BR><STRONG>９：</STRONG>グランド・ジャット島</P>
<P align=left><STRONG>Ⅱ.2）C/G：とは<BR>the center of gravity</STRONG>の意味で、この「アニエールの水浴」を支えているpointのことです。それが全体（タブロー）を安定させ意識することのない重心ということです。「<A href="http://app.blog.livedoor.jp/tneyou4595/tb.cgi/51602508" target=_top>グランド・ジャット島の日曜日</A>」ではタブローのセンターに配置された白い服を着た小さな子供（女の子）です。また<A href="http://app.blog.livedoor.jp/tneyou4595/tb.cgi/51602508" target=_top>セザンヌの「大水浴,1906」</A>では川辺の向こう側に立っている小さな人です。C/Gは意図的に不在（不安定に作動させることもあります）にする場合もあります。鑑賞者にとっては不可視の構造で無意識機械を作動させ、バランスをとる装置の重心点ともいえる。</P>
<P><STRONG>Ⅱ.3) 各セグメントの構成<BR>a）Horizontal line：h1,</STRONG>タブローの大きな分割の基本線（水平線）は、画面の３分の２の位置に、<BR><STRONG>b）＊Incline_1(gradient):g1,</STRONG>画面右下を基点に（水平線に向かって）－２７度の左肩上がりの勾配でダイナミックに線を走らせている。視線はそのラインを追っかけ（これは幾何学的な透視図（遠近法）を計算して、まさに視線を走らせます。）遠方の橋の方へと向かわせ、その－２７度（１５３度）の斜線が水平線との交点<STRONG>ｆ</STRONG>（消失点）となっている。<BR><STRONG>c）＊Incline_2(gradient):g2,</STRONG>帽子と白い衣服（<STRONG>番号：６</STRONG>）を基点に右肩上り勾配＋７０度、その線は麦わら帽子を被った少年（<STRONG>番号：５</STRONG>）へと走り、水平線と緑(番号：<STRONG>７d</STRONG>）の樹に交<STRONG>ｆ</STRONG>（消失点）わります。大きなパースはこの線と－２７度の線そして水平線の３つの要素で構成されています。<BR><STRONG>d)Incline_3(gradient):g3</STRONG>,帽子（番号：１<STRONG>a</STRONG>）を基点に－４０度（１４０度）左肩上り勾配で水平線との交点<STRONG>ｆ</STRONG>に（消失点）<BR><STRONG>e)Incline_4(gradient):g4</STRONG>,川の中に入って背中を見せている少年（番号：<STRONG>4</STRONG>）から－１６度（１６４度）の左肩上がり勾配で水平線との交点<STRONG>ｆ</STRONG>に（消失点）<BR><STRONG>f)Vertical line：7d,</STRONG>斜線と水平線の交点<STRONG>ｆ</STRONG>（消失点）に垂直の線を配置。この線は緑の樹（画面左側）で表現している。</P>
<P><STRONG>＊Incline_1</STRONG>（<STRONG>ｇ１</STRONG>）<STRONG>、＊Incline_2</STRONG>（<STRONG>g2</STRONG>）の線はこの構図の基底をなす最も重要な線です。この線の原理は一点消失遠近法で、各人物の配置はそのライン上に沿って描かれている。そして背景の<STRONG>a）Horizontal line</STRONG>（<STRONG>h１</STRONG>）と<STRONG>ｆ)Vertical line</STRONG>（番号：７<STRONG>d</STRONG>）にぶつかる。その<STRONG>４つのセグメントの交点がこの遠近法の消失点（ｆ）です。</STRONG>他、<STRONG>g3</STRONG>、<STRONG>g4</STRONG>も同様に消失点（<STRONG>ｆ</STRONG>）に向かいます。この遠近法によって鑑賞者の視線の移動が無意識に行なわれ、この絵のミクロとマクロの無限大の相互のベクトルがカオスの断面を現前化する。このことは後述に論じます。この装置にとって決定的に重要な基底をなす要素です。その作動原理を要旨だけ述べますと、この原理が視線の移動を作用させます。はじめに全体のタブローを観、次に前景の５人の人物へ移ります。そこから自動的にこの遠近法に則って背景の<STRONG>ｆ)Vertical line</STRONG>（番号：７<STRONG>d</STRONG>）までいっきに視線はいき、その樹を観、工場の煙突の煙と空（この空は無限への入り口、あるいは窓かも知れません）へ、そして右のグランド・ジャット島の隅の樹々へと視線が移動（すべては一瞬の出来事で移動というより運動です。しかも超高速度で光の速度かも知れません）します。次にその下に描いてある男女のカップルが乗っているボートへ、そして再び川の中にいる２人（赤い帽子を被った少年と背中を見せている少年）に視線が移り、５人の男たちの全体を観ます。この大きな流れの基底をつくっているということです。<STRONG>つまりカオスの平面（プラン）を見せる壮大な装置なのです。</STRONG>如何にこの「<STRONG>アニエールの水浴</STRONG>」が厳密な幾何学構成によって観念を生成される装置であるか、その凄さを理解できるとおもいます。<BR></P>
<P><STRONG>Ⅱ.4) </STRONG><STRONG>各幾何学的な構成要素の全体の配置</STRONG><BR>上記の如く、水平線（<STRONG>h１</STRONG>）と垂直線（<STRONG>7d</STRONG>）に４つのセグメント<STRONG>g1、g2、g3、g4</STRONG>が消失点（<STRONG>ｆ</STRONG>）に集まり、一点消失遠近法で画面全体の背景を基本的なものとして構成されている。つぎに（h1）の水平線の構成は橋と工場の屋根、それと両サイドの川岸である。その中央に空気遠近法で描かれた工場の煙突を配置し、そこから<STRONG>煙</STRONG>（<STRONG>番号：７b</STRONG>）が出ている。他7本の煙突がかすかに見える。橋の右側へ更に進むと４５度に傾いた樹にあたる。その右側の樹は球体として表現している。その下にヨットとジャット島へ行こうとしている渡り船を配置している。この橋の両側の樹々はちょうど劇場の幕を暗示している効果がある。その舞台前面では、５人の男たちがこの装置のなかで宇宙を形成している。</P>
<P><STRONG>Ⅱ.5) ５人の男た</STRONG><STRONG>ちの幾何学的な配置とベクトル<BR></STRONG>円の中芯は帽子（<STRONG>番号：1a</STRONG>）である。その帽子の隣に<STRONG>中心核である少年</STRONG>（<STRONG>番号：１</STRONG>）が座っている。他４人（<STRONG>番号：２～５</STRONG>）の男たちはその少年を中心に円周に配置されている。そして<STRONG>円周の楔の要素として</STRONG>、画面左の隅に大地に衣服（<STRONG>番号：６</STRONG>）だけ残して描かれている。以上、不在者を含めると６人（５人+１人）の男たちで構成されている。<STRONG>デュシャン流にいうと５人の独身者たち（番号：１～５、番号：６は不在者）、というところか</STRONG>。<BR><BR><BR></P>
<P><STRONG>Ⅲ）この装置の作動原理「全体のパースペクティブ」<BR>可視的な構造の内部に不可視の運動が作用している。<BR></STRONG>つぎに、この装置は如何なる装置であるのか、その作動原理について論じる前に、各オブジェクトの構成員を観てゆきます。そのブロックは、両サイドの樹々、橋、工場群とその煙と空、川とボート、グランド・ジャット島、そして５人の男性（各構成は：<STRONG>Ⅱ.5</STRONG>に示した通り）たちである。各人物の姿勢は背中をターゲットに視線がいくように構成されている。その意味はグランド・ジャット島の眼差しと、反対方向（背中の表象）に作用する２重の不可視の構造があります。３人（番号：１，３，５）は側面の背中で、画面手前の人物（番号：２）は背面のすべてのプロポーションを見せている。川の中にいる少年（番号：４）は後ろ姿の背中のみ見える。これらの５人の人物は原子核（番号：１）と電子（番号：２，３，４，５、６＜不在者＞）のように見えない力が作用し、核の周りを４つの電子が角運動している。そのようなイメージを描いてください。</P>
<P>前述した２重の不可視の装置は何を表象しているのだろうか。そのベクトルを観てみましょう。川岸にいる前景の男たちはグランド・ジャット島を見ている。とくに赤い帽子を被った少年（番号：３）は口に手を当てて声をかけている。この少年の視線と身体的な行為は鑑賞者を自然にグランド・ジャット島の方に向かわせる。しかし画面に描かれているのは、そのグランド・ジャット島の隅にある樹々しか見えない。わたしたちは、この先端の少年によって右方向の見えないグランド・ジャット島を観ることになる。ここに仕掛けがあるのです。対象が不在でありながら、見える思考を形成させる作用が働くのです。当時のパリの人々はこの島がどんなところであるのか知っているのです。まさに遠方のボートに乗っている２人の男女のカップルがグランド・ジャット島に向かっているのが暗示され、いっそう効果的です。そこには当時の社会が濃縮されて反映されている。対象が不在であることによって、思考の裡に見えるかたちが描かれるのです。不可視のうちに、そのようなベクトルが（再-現前化の作用）当時のパリの社会機械を見ることになる。無意識機械が内部の感覚を生産するというわけです。</P>
<P>また、これだけに留まらず、こんどは背中の反射があるのです。その反力として別の作用が、そのベクトルが背中を基点に左方向に発生しているのである。ひとつの物体に同時に向きが反対の２つのベクトルが作用する。それはちょうど社会機械（グランド・ジャット島）と抽象機械（カオスの断面へと向かい、ついには天体の星座へ）を同時に見せる平面なのである。またその背中とは内在の象徴的表象でもあるわけです。このスーラの描く背中とは詩的な宇宙を表現しているともいえる。すなわち互いに向きの違う２つの方向性（ベクトル）は、相反するどころか、可視的に見える領土を脱領土化し、不可視のめくるめく体験を発生させる星座へと。すなわちカオスの断面を見せる平面（プラン）なのである。次に５人の男たちの配置が視点の移動（運動）を喚起する構造となっており、その角運動がミクロ物理学の内部を暗示する。その運動と連動して遠近法で描かれた逃走線ともいえる、<STRONG>Ⅱ.3）-b-c-e</STRONG>の通り視線が走り、空気遠近法で描かれた工場の煙へ視線がいき、更に遠景の深いブルーで塗られた空へと抜けていくのである。このミクロとマクロの無限大の往復運動によって鑑賞者は、静的でありながら不可視の内部運動によってイマージュが形成し、そのカオスの断面の平面（プラン）を観ることとなる。こうして厳密に設計された装置はひとつのダイアグラムであり、抽象機械が作動しているのである。この装置はやがて<STRONG>デュシャンの「大ガラス」の装置へと発展する概念をもっている。</STRONG>次に、デュシャン流にいうと５人の独身者たち（番号：<STRONG>1,2,3,4,5.6</STRONG>）の運動を具体的に観てみよう。</P>
<P><STRONG>Ⅲ</STRONG>-<STRONG>1）この装置の作動原理<BR>（５人の男たちの角速度、ミクロとマクロの相乗<BR>効果）、地層化された大地と人＝エネルギー、水、空→宇宙（無限）</STRONG></P>
<P><STRONG>視点の移動と差異（純粋時間の結晶化）そのＤｅｔａｉｌとは：<BR></STRONG>前述、論じたように５人の男たちとグランド・ジャット島、工場群とその煙そして空、これらの各ブロックが連接と離接の循環運動として作用し、且つ全体のパースペクティブをも形成している。これはたえずカオスの断面を平面化（プラン化）する無限運動でもある。その内部運動のＤｅｔａｉｌが、ミクロ物理学的な平面を構成している５人の独身者というわけである。そこで鑑賞者の視線が、どのようにこの５人の男たちに向けられていくのか、その視線の運動を観て見ましょう。スーラはこの視線の運動を作用させるために、厳密に幾何学的な構成を計算して配置している。<STRONG>上図/fig4:EB25-01Y1</STRONG>の通り、立っている帽子（番号：<STRONG>１a</STRONG>）を中芯に等距離上にそれぞれの男たち（肘を首に当て横たわっている男の臀部：<STRONG>２b</STRONG>、<STRONG>３</STRONG>、<STRONG>４</STRONG>、<STRONG>５</STRONG>、最後の帽子と白い衣服（番号：<STRONG>６</STRONG>）を配置している。それは座っている少年（番号：<STRONG>１a</STRONG>、<STRONG>１</STRONG>）を核に、円軌道を周っている５個の電子のようでもある。うちひとりは不在者（番号：６）である。しかしスーラの絵では、５人の独身者たちは静に佇んでいる描写なのである。その絵からは、どこにも運動している表現としては描いていない。判断できないのである。この静かな存在こそ内部エネルギー（ポテンシャル）を作動させるものなのである。その仕掛けは幾何学構成と視点の移動を鑑賞者に促す無意識機械がこの装置のなかに仕込まれているのである。</P>
<P>その視線の運動は、最初にタブローの中心に座っている少年（番号：<STRONG>１</STRONG>）を観て、次にその頭上に描かれた遠景の工場の煙に向かいます。鑑賞者はこのとき無意識にミクロとマクロの相互のベクトルを体験することとなる。これが全体のパースであり、そこから視線は各特異点のDetailに鑑賞者は向かいます。またそのように視線が向かうように設計されているというわけである。先ず座っている少年（番号：１）から横たわっている男（番号：<STRONG>２b</STRONG>）の白い壁のように配色した衣服の臀へと向かい茶色の犬（番号：<STRONG>２a</STRONG>）へ、そして黒い帽子へと視線は移動します。この三角形の運動からはじまり、そこから流れるように黒い帽子を基に中芯点：<STRONG>１a</STRONG>（帽子）を基軸に角運動が起こります。</P>
<P>その流れは黒い山高帽をかぶった男性（番号：<STRONG>２</STRONG>）のその帽子から後ろ姿の広い肩へ、そしてなだらかな曲線をえがいた臀部（番号：２<STRONG>b</STRONG>＜円環の支点でもあります）へと流れます。更に視線は男の黒いズボンへと進み、足元の靴に辿りつきます。白の上着と黒のズボンがいっそう流れの方向性をスムーズにさせています。（いったんこの流れがはじまりますと、座っている少年を核に、永久運動のような奇妙な感覚にとらわれます。非常にシュールな感覚です）この足元の靴は川へ向かわす導きてとなり、すぐに川の中にいる赤い帽子をかぶった少年（番号：<STRONG>３</STRONG>）へ視線が向かいます。そして、少し離れたところの後ろ姿で水面を見ている少年（番号：<STRONG>４</STRONG>）へと視線は連続的に運動します。いったんここで速度が減速し視線（運動は限りなく微小ではあるが作動している）はとまり、少年の背中を観ることになります。水面を見ている少年の眼差しと鑑賞者がその背中を見ている眼差しが２重映しになり、ひとつの内在を想起させます。それは少年が見ているものと、その少年の後ろ姿を観ている鑑賞者は何をイメージするかは、スーラはその対象を不在にする。一つの思考を発生させる、見えないものの、見える絵をつくるわけです。この構造は先述した<STRONG>Ⅲ）</STRONG>のグランド・ジャット島の一部の樹を少しだけ描いただけで、まったくグランド・ジャット島を描いてない構造と同じです。そういう内部のベクトルを発生させる装置はこの「<STRONG>アニエールの水浴</STRONG>」の最大の魅力です。</P>
<P>まえに戻りましょう。いったん減速された遠景の川の中にいる後ろ姿の少年（番号：<STRONG>４</STRONG>）にとどまり（内部運動のベクトルへ）、それと同時に運動はマクロの画面中央の工場の煙突の煙へと高速度で視線も行っているのである。この連接から離接への飛躍は宇宙像を暗示するものであり、見ることが出来ない沈黙となり、あるいは一瞬裸体の純粋時間を、花嫁を見たかもしれない。しかし再び視線は座っている少年（番号：１）の背中と付近の川の水面に視線はもどされる。そこから速度は定常となり、川岸へ向かい、丘へ上り麦わら帽を被った少年（番号：<STRONG>５</STRONG>）へと視線が移ってゆく。そこで神秘的な不在者（番号：６）の電離したものの影を見ることになる。この円軌道の最後に楔的（番号：６）なものを配置し、弱い力の強い結びつきで、最初の山高帽を被った男性（番号：<STRONG>２</STRONG>）へと再び向かい、この角運動を循環しているというわけである。このように円の軌跡を循環運動する構造となっている。</P>
<P><STRONG>この厳密な幾何学構成がミクロとマクロの壮大なスケールを感覚のうちに体験し、見えない空間が見える空間化へと現前化させてゆく純粋時間の結晶化が、カオスの断面を平面化していきます。すなわち、「観念の発生装置」をスーラは創っていたということです。デュシャン流の言葉でいうと、印象派でありながらすでに網膜的絵画ではない、別のものを創っていたということです。この「アニエールの水浴」は</STRONG><STRONG>非常に神秘的な作品です</STRONG>。</P>
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