ミシェル・フーコー

2010年03月28日

エドゥアール・マネ(「鉄道」、「フォリー・ベルジェールのバー」その装置と現代アートとは」-2・2

FC04-02

FC04-02鉄道

 


FC04-02鉄道
サン・ラザール駅
1872-73年、Oil on canvas
93 x 114cm
National Gallery of art

 

 

 

 

FC04-01

FC04-01フォリー・ベルジェールのバー

 

 

FC04-01:フォリー・ベルジェールのバー
1881-82年、Oil on canvas
96 x 130cm
London,Courtauld Gallery

 

 

 

FC10-01

FC10-01侍女たち

 

 

 




 

 

FC10-01:ラス・メニーナス
1656-57年、Oil on canvas
318 x 276cm
Madrid, Museo del Prado

 

 

黒い数字A

白い数字A

 

 

 

 

 

 





DC13_Black/BB15_White3:
Black and White:非-言語の声

 

マネの絵画は驚くほど眼差しの沈黙があります。そのベクトルが未知数なのです。マティス論を書いたときもそうですが、わたしは語ることの出来ない身体の言語をみてゆきます。それは強度の問題でもあります。さて「鉄道」ですが(マネの絵画その不可視の構造とは・・」)で詳細に述べていますので省略します。マネの「カテゴリ」をご拝見ください。それを踏まえて読むことをお奨めすます。ここでは「鉄道」と「フォリー・ベルジェールのバー」とその構造の比較を述べてゆきます。マティスやスーラではそれなりに分析的にその構造をダイヤグラム化して制作してきました。スーラはその構造的な分析をしなければ到底理解できないとおもい、特別にダイヤグラム化しました。

それはわたし自身が、よりいっそう理解するためのものです。しかし最近では詩的なメモ程度にしています。シュルレアリスムのエルンストやマグリットについてもわたしの絵を掲載して、詩的に記述するのみにとどめています。デュシャンにしても「それはガス体のシュルレアリスムである」や「・・それは沈黙と透る鏡を用意する」というタイトルでそれ以上のことは余白とします。語らない方がよいでしょう。あとは作品をつくるプロセスにはいるので論じられない部分があります。出来るだけ構造的な部分を述べ、美しいとか、人間の本質を描いているとか、そういう美の部分は、各自が感じることなのでわたしは述べません。その構造を感じることによって、知覚的な誘発が湧いてくるものであればいい、そんなふうにおもっています。アートは知識ではなく感覚です。専門書を読めば読むほどその言説が本質を乖離させる場合もあります。スーラは点描の画家というレッテルなど取り払って、もっとストレートに感じると、神秘的な宇宙像が見えてきます。それは無意識に構造を観ていることになるからです。機能は構造を解体させ、身体の言語となるのです。ひとつの強度が形成されてきます。

マネの作品は別格といえる程に可視的な背後にある深い哲学的な(不可視の)構造をもっていますそのタブローは見えることの見えない沈黙を感じとる身体の言語となって顕現化してきます。観ることのよろこびでは、特に「鉄道」などはダイレクトに反射してくるので鑑賞者の目を楽しませてくれる作品です。しかしその装置は複雑で、やがて謎のような作品へと連関してゆきます。それは「フォリー・ベルジェールのバー」です。ベラスケスのラス・メニーナス」の装置も複雑に絡み合った構造をもっています。両者に共通している要素は「鏡の言語」ということでしょう。フーコー的にいうと、”表象は対象の束縛から解放され純粋な表象として、それ自ら現す装置となることができる”。「ラス・メニーナス」は、古典でありながらその装置は時空を超えて、「鉄道」や「フォリー・ベルジェールのバー」へと。そして現代アートのジャスパー・ジョーンスとも連関してゆきます対象のない対象とはイメージのシメントリーをつくること、アートもこの行為であるともいえるアートは意外と数学や物理学との距離は近いです上記画像Black and White:非-言語の声をご参照くださいこの詳細につては'08.03.14 付にて「カテゴリ」現代アートに掲載しています。

さて「鉄道」ですが、フーコーが見事に分析しています。それでおしまい、というわけではないのです。それからが大変洞察力を必要とする哲学的な要素にはいるわけです。フーコーはその入り口で地図を観、その概要を語っただけなのです。わたしはそのポイントに旗印しを置き、そうすることによってマネの物質性を肌で少しでも感じればとおもいます。それでは各オブジェクトの諸要素につて項目をあげて述べてゆきます。鑑賞者の視点は最初に少女と婦人を一つのブロックとして観るとおもいます。表裏いったいというわけです。いわば鏡のような、対象とそれを映し出すもの、そんな関係としての2つのオブジェクトです。それではそのポイントについて入っていきましょう。

少女は汽車を見ている、わたし達鑑賞者側からするとその少女の姿は当然後ろ姿となる。鉄柵を手で握ってじっと汽車を見ている。その手がいっそう鑑賞者の眼差しを汽車に向ける。しかし汽車の姿は見えない。その煙だけなのである。それとは対照的に左側の婦人(モデルはヴィクトリーヌ・ムーラン)はこちら側の鑑賞者を見ている。このタブローは主に4つのオブジェクトから成立っています。(.番目として小犬と本だけがわたし達と共有するある心情を示す記号として、そのオブジェクトの役割をはたしている。)

1・ 鑑賞者を見ている左側の婦人
2・ 鉄柵を握っている後ろ姿の少女
3・ 何本もの縦線の鉄柵と2本の水平の鉄柵、一つの劇場を
  つくる装置として全体を構成する要素となっている
  (これは重要な劇場の要素です)
4・ 汽車の煙(汽車が見えないことによって成立つ要素です)

この構成は、正面の姿(1.左側の婦人)と後ろ姿の少女とは見えない対象性の表象関係をイメージさせる。この二人はあたかも無関係な様相として一瞬を捉えている。その関係から少女の後ろ姿を見、鑑賞者は鉄柵を握っている少女の手を見、その視線は汽車の煙へと鑑賞者を向かわせます。しかし4つのオブジェクトは分解された部品のように、その一つを見ると、まるでばらばらで無関係なオブジェなのです。マネの装置はこの無関係によって構成された見えないもののベクトルが強烈に顕現化してきます。構成の概要は上述に示すとおりです。しかしわたしには「見えないもののベクトル」を語ることはできない。ここまでです。

次に「フォリ・ベルジェールのバー」です。これは「鉄道」の構成要素をさらに発展させ、パースペクティブは複雑です。「鉄道」では婦人が左側に描かれ、後ろ姿の少女は左手を含め画面中央に描かれています。「フォリ・ベルジェールのバー」ではウェートレスを画面中央に描かれ、カウンター(水平線)に手をのせています。その構図は、カウンターに接している手を交点(右腕を低角Bと左腕を低角C)としてその腕を対辺とすると、頭の頂点に向かうこの2本の線の交点の頂角は35度になっています。そのシメントリー(垂直2等分線)を暗示しているのが8個の垂直に列をなしているボタンである。この上着の末端のボタン下は、三角形のかたちで下のグレイのスカートを幾何学的に描いている。いっそうシメントリー(カウンターに接しているスカートは上着の型によって中央部は鋭角な三角形を、その左右には頂角は90度で描いている)を暗示させるものとなっている。

もうお解りだとおもいますが、このウェートレスの形体がこの装置を暗黙のうちに不可視の対話へと導く、構造的(部分と全体のパースペクティブ)なプロローグとなっています。数学的に言えば、ひとつの関数をつくっているのです。微分係数であると同時に全体を暗示する原始関数というようなものです。マネの絵画はこの未知数(X)のベクトルが思考のうちに発生してくる知の装置となっています。最もその不可思議なオブジェクトは、鏡に映っている男性で、黒い帽子を被り左手にはステッキをもっています。そしてウェートレスの顔を深刻な眼差しで話している様子です。しかし口元を見ると結んでいるように見えるし、少し半開きにして、つぶやいているようにもみえます。鏡に映っている像は対象であるはずだが、そうではなくて、かなり移動して描いている。上述しましたように、このウェートレスの幾何学的なシメントリー(対象性)とカンヴァスでは見えない男の像が鏡に映っています。

そして相手をしているウェートレスはそれを受け真剣な感じなのである。この鏡の対象性を無視した形体で、彼女の頬は右側に向け描かれている。画面中央に描かれた彼女とは、別人のようにルノアールに出てくる豊満な体に描かれてはいるが、男性の話を真剣に受けている様相をしている。しかしそのことによって男性と女性の対話がいっそう不思議な情景をかもし出している、ひとつの物語を構成しているかのようである。これがこの絵のテーマであり、ウェートレスはこの物語を見せるための表象的な変数なのかもしれない。謎は深まるばかりである。そして全体のパースペクティブとして鏡に映っている劇場の多くの男女達である。この要素はウェートレスと男性が対話している原始関数ともいえる。社会機械としの象徴的な役割をはたしている。最後にこの装置の場を提供しているのが、白い水平のカウンターと劇場の真中付近にある太い水平の枠、そして後ろに縦線としての2本の柱である。物質としての肌は2本の柱の間に大きく描かれた白い光を発しているシャンデリアであり、そこに円い照明だろうかあります。この装置のリズムをつくっている。

しかしこの劇場の水平な枠は、彼女が正面を向いている左腕と、鏡に映った左腕の隙間に見える枠の色が、かなり白い色で後から塗られている。白と黒のコントラストを演出するためか。左側の水平の枠も鏡に映った像であるので、当然シャンデリアの像が強く反射して明るく照りかえる白光に近い色のはすだが、らさらに白く描こうしているのか、あるいは少し大きめの平筆で意図的に前の色を消すように、白に近いグレイで荒いタッチでつぶすように描いている。天上から吊るされたシャンデリアは鏡に映っているはずです。だが描いてはいない。散らばった雲がうすく見えるような、その暗示でとどめている。不思議な描きかただ。劇場の雲のようにもおもえる。

また、一つ一つのパーツ(部品=オブジェクト)はまるで合成された無関係な様相なのである。とくにウェートレスの正面(鑑賞者を見ている眼差し)の顔を見ると口元はしつかり閉じています。しかも無表情です。このカンヴァスに描かれていないカウンター手前の男性(鏡に映た右端の男性)とは話をしてはいない。ところが鏡に映っているこのウェートレスは、少し前がかがみで男性の話を深刻に聴いている様相なのです。しかも鏡に映しだされた像ですのでシメントリーなはすです。上述しましたように、そうしてはいない、それを(像)ずらし独立した像として描いている。迷路のように思考を惑わし、未知数がさらに未知数を増し、沈黙の深い世界へと導く装置なのです。元の関数がいっこうに見えてこない。それは不可視の装置をつくるために可視的に配置し、遠近法を変形させ、合成画像のように描いているのである。この概念は思考する20世紀アートの概念です。デュシャン的にいえば、網膜絵画からはじめて解放した思考の絵画で、いわゆる絵画の知の装置をつくった最初の画家というわけですスーラはさらにそれを発展させ意図的に構成してゆきますこの二人は現代アートの偉大な先駆者です。この装置の構成要素のオブジェクトは仕組みがかなり複雑なため、「鉄道」のように(具体的なものなど)項目をあげて論じることはせず、ここでは省略します。上記文とあわせて画像掲載を参照して見てください。

そしてここが真髄なのですが、鏡に映された像は非-シメントリーに描かれているということです。この効果は捉えてはなさない不思議としか、いいようのない深い謎に惹きこまれていきます。シメントリーは調和というイメージになりますが、マネの絵画はときとして、幾何学的構成(バルコニー1868年、水平線と垂直線、三角形の構成になっています)でありながら、それを壊し、形而上的な非-シメントリーへと導く見えない関数があるのです。「シメントリー」⇔「非-シメントリー」のような関係なのです。これは本当に不思議な絵画です。マグリットはそれを見事に捉えたマネの「バルコニー」を「パースペクティブ供1950年」として4つの棺を配置して描いています。

また彼女を中心に左右の酒瓶類と鏡に映ったカウンター端の上にはその酒瓶類をずらし描いている。これも三角形の幾何学的構成です。そして物質的な色を添えるためカウンター中央近くに白い花とオレンジイ-エローの果物を配置している。全体のトーンは黒と白の対比(コスチュム、カウンター、平行な太い劇場の枠、シャンデリア、鏡に映しだされた燕尾服とその帽子など)で、マネ特有の深さを演出している鏡に映しだされた男性たちはオペラ座の仮面舞踏会1873年と同じ要素ですねこんどはそれがというところがさらに絵画の空間表象としての言語が、何重にも仕掛けられた装置となっている

以上のように:
いったいマネは何を描こうとしたのだろうかと疑問におもえば、これでますます迷路に陥り、思考の旅がはじまります。その行き着く先はバタイユの「沈黙の画家」マネかも知れませんしそしてフーコーのいう三重の不可能性なのかも知れません現代アートで言えばカンヴァスの裏側に描いた表の表象・・のような”ジャスパー・ジョーンズ”あるいは”ウォーホル”の反復行為の表面に描かれた「社会機械の死」であるような・・このように20世紀絵画の概念をマネはすでに思考していたというわけです

 

マネ論は3回に分けて書いてきましたが、整理して書いてはいず、わたしのメモしておいたマネ論めいたものを繋げて、書きとめただけです。作品をつくるための構想(マネの構造、骨組を観る為)、その概念を掴みたいとおもい書いた。とりあえず今回でおわりとします。わたしにとっては、マネは写実主義から印象派への先駆者としての画家というより、現代アートの概念を最初につくったひとです。いまもわたしに影響しつづけている。そんな画家です上記に書きましたアーチストはカテゴリに、「マネ、スーラ、デュシャン、ジャスパー・ジョーンズ、ウォーホル、バタイユなど、他」詳細に論じていますのでそちらを参照してくださいまたマネの絵画」:ミシェル・フーコー安部 崇で上梓されていますそれとフーコーは言葉と物、第一章でラス・メニーナス侍女たち)」のことを明解に論じていますそれらを拝見して観るとよりいっそう興味がでてくるかも知れません。「現代アートとは”知の装置”をつくる新しい概念の発見行為ともいえます




tneyou4595 at 20:35コメント(0) この記事をクリップ!
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