クラウス・ノミ
2012年10月12日
KLAUS NOMI のために「わたしは、ひとつの星座をつくった」−5
HJ10-01B
わたしは「KLAUS NOMI 」と三色の文字を書き印た
クラウス・ノミの背後に十字架を描き終わった後に、その遠く遥か
彼方に煌く星座をわたしは描いた。人々は彼の一瞬の閃きと永遠の
時間を共に過ごした、あの狂乱と熱の眩いばかりのライトの
点滅とノイズ、闇黒と一瞬の光をそのクエーサーの活発な遠い昔の
銀河を呼び寄せるノミの姿を
それは革新的なコスチュームで登場したSamson and Delilahだった。
古典的なオペラでアリアを「あなたの声に我が心は開く」を歌った
ノミ。低俗な姿なのか、高貴なお姿なのか、はたまた聖なる姿なのか、
あの官能と性の狂乱に死を携えて遣ってきた。同性愛者ノミ
美しく刹那い声、無限のなかの有限 愛と死を、消え往く身体の星を
歌い上げていた。右上にネオンの人工的な夜の光として、わたしは三色の
文字を重ねKLAUS NOMIと書き印た。上の文字は赤を、そして透明な
マントにも赤を入れ、命がけで立っていたノミの傷跡の印として入れた。
その下の黄色と緑色はそれを支えるものとして記入した。
私たちの銀河は眠りのなかで太陽系に属した地球という小さな
生き物。さらに小さく小さく呼吸している人類、ノミは物質となり、
ひとつのクエーサーとなって輝かせた。官能と死を賭け、
一瞬のうちに駆け抜けて往ってしまったNOMI
決して忘れ去られることのないNOMI、わたしはこの星座を
永遠の印しとして描いた。
わたしはクラウス・ノミのことをいつか書こうとおもっていた。西洋キリスト教の思考と古典的なオペラが、ニューウェーヴ系の音楽とうまく融合していたそのセンスに驚愕していた。ノミの音楽はいつでも生の身体の官能性、愛と死を歌い上げていた。ウォーホル的な死の形而上学であるより、形而下的な身体として性(愛と死)を歌い上げていた。しかも限られた身体の有限のなかに無限の精神を密かにもっていた。キリスト教的な回帰を、原罪と救済というテーマが「Keys of life」のなかに見られる。
ここでいっきにフーコーにいこう。パレーシアのこと「死を賭して真実をいうこと」とは、どのような方法で・・、プラトン的な「魂の形而上学」から反プラトン的な身体と官能のデカダンス・・引き裂かれた身体を受け持つこと。しかし誰がこの身体を受け持つのか・・?主体か外へか、あれでもなく、これでもない、それか(自己と他者の統合)、そこから「「無分別の分別」という言葉がでてきたとたんに西洋的な思考からいっきに離反し、東洋へと向う。フーコーを語ることは仏教的な思考を擱いといて、つまり仏教以外のことを語るすべて。
そんな西洋的な思考を教育され身につけてしまうと、立ち上がれなくなった身体を、どうすれば歩けるようになるのか。落下するたびに跳びあがらねばならないバレーの幾何学的な方法を身につけ始める。しかしそこから近代芸術はその方向性と同時に、デカダンスを背負うこととなる。さてどうするというところで、いまも現代アートはうろうろしている。
第1回目が「西洋的思考のクラウス・ノミ」からはじまり第5回目の今回で終わりにする。わたしは西洋的思考と東洋的思考の相違をボート眺めてたいただけでアート行為をしていた。しかしどうも何か息苦しい、この窒息状態をパンクロックの人々は叫び、身体の開放をストレートに表現していた。しかし生成してくる身体の法則を再び無化してしまう。機械のような身体であった。
そのような行為は芸術的な表現に参加している人々からはあまりそれを感じることはなく、むしろニューウェーヴ系の音楽から多くを感じていた。そのなかの一人がクラウス・ノミであった。わたしは彼の音楽から受ける感覚を言葉にしてみようとおもった。
そこに大きな問いが、社会と身体(キリスト教的な歴史認識)愛と死、性と官能、あらゆる問いがフーコーと重なりあってくる。西洋による西洋の思考とは何か・・・という問いであった。それは東洋人にとっての西洋的思考とは、という問いでもあった。わたしは西洋的思考と激突することなしに、うまく融合する表現を探し続けている。その延長線上にどんなアーティストがいるのか。たぶんトリスタン・ツァラをわたしはおもいうかべるだろう。トリスタン・ツァラは何かを終焉させたかったのだろう。
ボードレール、ランボー、マラルメ、絵画ではマネがいる。彼は何も描いてはいない。何も・・・
2012年10月06日
クラウス・ノミ「KLAUS NOMIを偲んで」−4
HJ10-01A
HJ10-01A
Drawing in
The cold song
わたしは遠い天体の方へ往ってしまったクラウス・ノミを偲んで「The cold song 」の詩をイラストのなかに書き記した。想えばクラスス・ノミの音楽を最初に聴いたのは「Keys of life 」だった。異様な美しさを感じた。何かが終わったような静寂があり、非常に神秘的な音楽だった。どこかもの悲しい響きがあり、中世ゴシック建築の教会のなかで聴いたら、もっと感動するだろう。この音楽に込めたメッセージはキリスト教的な原罪と救済というイメージが喚起されてくる。
Keys of lifeの詩のなかにある、--From ancient worlds I come. To see what man has done--、太古の世界からというフレーズは原初的な人類の、Keys of lifeはどこに、この深い疑問と歎きを感じる。都市化された思考の果てに---何処へ。ノミは救いをもとめている。人間は何処から来て、人間は何処へ往くのだろうか。最後の音は空間に反響して融けていくように静かに散って往く。終末をむかえた都市に何かがはじまる。そこにあるのはただ静寂と、地下に消えてしまった人類の痕跡。
--The future has begun--
「The cold song 」の歌は、ノミの意志のすべてがあり、暗黒の身体のなかに、幾何学的な骨組で支えられた透明なマントは、すでに光と化するノミの身体の化身のようにおもえ、消え往く恒星の最後の光をおもいだす。太陽の光より遠い暗黒の空間に光る恒星の光りだった。一瞬の光のなかに永遠がある。ノミはそのような光をもっていた。そのときノミの姿は、すでに向こう側に往ってしまた。私達の手の届かないところへ
---Let me freeze again to death--
官能と冷たい狂気の死を一生懸命歌っている。この歌を終わったあとに手を合わせて、お礼の仕草をしていた。感動せずにはいられない。
「Wasting my time 」では消費していく身体と意識がどんどん無化してしまう。その無常を切々と歌えあげている。そしてそれを支えるのは愛、きみなしでは生きて行けない。神という響きさえ聞こえてくる。
上記掲載画像は「The cold song 」を歌っている姿を急いでスケッチし、
その詩を添えたもの。そして性と死、無限の愛を希んでいたクラウス・ノミの
姿の後ろに十字架を描き、それが遥か彼方からやって来る恒星の光の
便りであるよう描いた。同性愛者クラウス・ノミ 1983年AIDSにて死去
享年39歳 合掌
2012年10月01日
クラウス・ノミ/KLAUS NOMI 「デカダンスその愛と死 」−3
クラウス・ノミの「The cold song 」を聴くとワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」をおもいだします。マリア・カラスより特にA・ヴァルナイの「イゾルデの愛の死」を聴くと感じます。
ノミを語るとはどのようなことか、古典と現代のあらゆる芸術の形式をそこから読みとれる。ではそれが芸術かというと、そんなものにも収まらない。また大衆音楽かというと、そうでもない。彼の伝記はまだ書かれていない。あるいはわたしが知らないだけかも知れない。ウォーホル、メイプルソープ、キース・ヘリングなどはすでに多くの伝記が出まわっている。ノミはごく一部の熱狂的なフアンの人たちに広まっていった。
1983年彼がAIDSで死去してからしばらく忘れ去られていた。しかし2005年に彼の伝記映画「The Nomi Song 」が制作されている。その感動は決して忘れ去られるようなものではない。わたしはノミが音楽ばかりでなく、ひとつの物語を視覚的に一瞬のうちに見せるパフォーマンスアートとして見ると、最高峰の表現を持っていると見ている。しかも芸術とはいえないあるもの。そんなふうに見ている。
つまり欲望する機械の視覚と音楽の言表行為、--社会の係数がそこにはある。たった独りの現代の楽劇、まさにこのことが主体内部のノミのものであると同時に、それらは無限に離反した情報の波、一つの記号体である。この記号体(身体)は欲望する機械を破損することのデカダンスである。歯車自身が回りながら、歯車を破壊する。集団的アレンジメントがノミを形成すると同時に、それらの外にでてゆくこと。離脱、恐らくこの行為は狂乱となった、ひとつの身体を提供する。それこそが芸術とはいえないあるもの、わたしはそこに注目する。
4年前の2008に現代美術の作品が集結した「横浜トリエンナーレ」は、集団的アレンジメントのパレードを見るおもいはするが、外にでてゆくことの感動と狂気を秘めた非人称行為の人体の傷をノミほど感じなかった。ノミの音楽は、良いものか、あるいはそうでないのか、区別さえつかない。これは芸術でさえない。まさにひとつの機械だ。しかもそれがわたしを深く感動させた。音楽だからという理由だけではない。芸術とは、という理由よりもっと別なところにある。
2012年09月27日
クラウス・ノミとフーコー「西洋的思考としての生と死」−2
束の間のお祭りであったヒッピーカルチャー終焉後の1980年初頭は、ニューヨークの街を見るとすでに金融に向って動いていた。拝金主義の市場原理主義たちが、かつてのヒッピーたちを馬鹿にしていた。ウォール街のビルから見下した人々がいる。いまでも地球規模でマネーゲームが行なわれてる。ヒッピーカルチャーは2012年から見ると、目に見えない哲学を提示していたことがわかる。それはきわめて古典的な問いであることに気づく。制度とは、競争とは何か、利益とは何かという問いだ。嘗て人類史上ないほどの規模で数パーセントの人々が投機目的で全地球の資源を食い荒らしている。人それ自身もたんなる投機で人間の誇りを取り上げている。人間は人間自身を滅ぼす機械が作動している。この機械は止めることができない。機械自身の破損によってしか止まらない。つまり人間をやめること以外に道はない。もともと地球上に人類は存在しなかったのだし、また再び地球上から消滅していくだろう。「地球のすすり泣き」に耳をかたむける。そういう人々がどこかにいる。神話にすがりつく人類学者たちの「悲しき熱帯」をわたしは思いうかべる。
しかしこの機械に自らの命を賭けて破損しようとする人がいる。それを狂気というのなら、投機目的で人間の尊厳を破壊する人々は暴走機械と化した人類消滅の機械ではないのか。これは狂気を超えた恐ろしい機械だ。そんな機械をまえにしてアンダーグランドでは身体の自由を求めて官能とエクスタシーの狂乱がはじまっていた。そのなかにひとりの哲学者がいる。それはフーコーではなかったのか。思考と身体のこと、その真理を、制度と歴史を追い求めえていた。通事的なものと共時的なものの言語と身体。しかしこの厳密な思考としの身体とは何か・・あくまでも西洋的思考であり、西洋的思考のなかで生の出来事を見ようとしていた。あのマネの絵画ね・・・という沈黙の声がフーコーから聞こえてくる。ギリシャへと飛んでいったフーコー、パレーシアのことだ。マネの絵画の本質とは何であるのか、どこに真理があるのか。分割不可能な沈黙、こう言ってよければ、無ではないのか。これこそ真理の沈黙と言えるような何かがある。フーコーはチュニジアで講義して以来マネについてはなにも語っていない。沈黙のままこの世から去ってしまった。
わたしは東洋人なので分割という概念はいっきに「無分別の分別」という日本的霊性に身体が動く。宗教ではない宗教、
Buddhismのことだ。トリスタン・ツァラのdada宣言からわしはそれを読み取る。ボードレール死後51年後に書き記された1918年のダダ宣言だ。無宗教の空無の真の力、「ほとんど仏教的な無関心の宗教への回帰」というやつだ。キリスト教的時空から遠のいた東洋へ手を差し伸べている。そこまできていた。
それにしてもボードレールの晩年の眼は哀愁と憂鬱、無限の愛から遠のいてゆく深い悲しみがある。キリスト教的霊性の愛と憎しみの入り混じったボードレールの顔を見ると「そうとうしんどいなー」というところから近代の思考がはじまった。そんな顔貌性をしている。デカダンスの美学が社会機械を止めること。身体を張って歯車の一部であることを止めること。「悪の華」や「パリの憂鬱」はいまも別の形で生きている。クラウス・ノミも死を抵当に身体を賭けていた。キリスト教的霊性を望んでいたのではないのか。
まさにノミは1980年初頭の性と時代の表現であった。翻って考えて見るとクラウス・ノミは20世紀後半の新たな病に、最初にAIDSで亡くなったアーティストであった。いまならフーコーとクイア理論で論じられることも可能であろう。キリスト教の歴史は性の真実に多くの禁止と、それを悪と考えていた。しかしバタイユを見ると、帰ってカトリックのマリア像が浮かんでくる。「眼球譚」では非常に美しい描写がある。超越的な母性的な逃げ場を、内在的にもっているとさえおもえる。ジュール・ラフォルグは明に聖母マリアだ。やがて宇宙的な官能的世界へと昇華してゆく「地球のすすり泣き」とはクラウス・ノミの「Keys of life 」、「Cold song 」そして無に帰する「Wasting my time 」この3つを感じてしまう壮大な詩だ。
クラウス・ノミはこの「地球のすすり泣き」をたった独りで現代の楽劇を演じていたのだった。ニューヨークの人々は彼が21世紀への来るべき時代の予告を演じていたのに気づかなかった。1979年彼はマッドクラブに出入りする人々に、この狂乱の姿を見せていたのだ。一方フーコーは渡米するたびにサンフランシスコのゲイのパーティーに出入りしていた。アメリカに移住しよとさえ考えていた。芸術とはいつもこの性の問題に直面し、社会現象とこの性と身体の問題を関数の上で賭けしていた人種だ。19世紀中頃からはすでに宗教絵画はなくなり、近代資本主義の思考が台頭してくる。ボードレールはあらゆる意味で近代の思考を身体で受け止めていた最初の詩人であり、後にはランボー、マラルメ、ポール・ヴァレリーが、アメリカではすでにエドガー・アラン・ポーがいる。自然科学の発展と資本主義の関係は、そのまま上述のようにポーからボードレール、マラルメ、ヴァレリーへと受け継いでいる。
当然社会、文化、あらゆるところでその矛盾と原理が身体を痛めつけている。ウォーホルのアートを見れば、欲望する諸機械の身体を見ることができる。これはジョルジュ・スーラの「グランドジャット島の日曜日の午後」を見ても、すでに資本主義の足音が聞こえてくるのが読みとれる。クラウス・ノミはキリスト教的な原罪を背負っている、アダムとイヴの追放以前の太古の世界からやって来た「Keys of life 」か、わたしはそんなふうに感じている。
補足:
クラウス・ノミについて書き足りなかったので次回も続けようとおもう。
ボードレールの散文詩とワーグナーの無限旋律などその関連性を述べようとおもう。上記の記事は通時的にみると同時に共時的にみるためのサマリーとして書いた。すべてがマトリックスのように作動する原理としのアートを、そのダイアグラムのディスクリプション的な意味で書いた。視覚的なものに変換するためのものです。
最後にノミのカウンターテナーの声を「Wasting my time 」、「The cold song 」を聴いて見て下さい。youtubeで聴けます。ノミはあらゆる要素をとりいれて表現しています。オペラ、テクノ、ニューウェイヴ、デスコ、ダンスなど。ひとを感動させる官能と欲望する機械、それに死をもって応えていました。いまでもその感動は少しも変わらない。またカウンターテナーに興味のあるかたは、ジャルースキー(Jaroussky )がヘンデルの名曲、アリア「Lascia Ch'io Pianga 」をものすごく美しい声で歌っています。