シスレー

2012年06月09日

印象派の絵画「近代科学の思考と社会」−2


どの国でもその時代によって社会をどのように見ているかは、絵画を見ると、目に見えるかたちForme)として表現されている。特に西洋では、視覚的に表現された絵画はキリスト教の見方の変遷でもあり、分かり易い。西洋を理解するとはユダヤ=キリスト教の父性原理を考えると非常に厳しいものがある。日本的な母性原理からみると、ゴッホはなぜあれほどまでに厳しい生き方をするのかと惑ってしまう。しかしこの思考の相違が日本人にかえて深い感動と共感を覚える。事実わたし自身、西洋的な思考で物事を見ている。概念あるいは体系というやつだ。西洋的な父性原理は息苦しくなってくる。どうでもいいではないか、というところがない。そこで自然科学は発展するが、無意識という領域では東洋の方が深く追究している。


モレの教会

 

 

 

 

HF1-1/Sisley
 朝の日差しを浴びる
モレの教会
1893年
油彩 カンヴァス
80 x 65cm
 ヴィンタートゥール美術館

 

 

 

 


 

ルーアン大聖堂

 

 

 

 

HF1-2/Monet
ルーアン大聖堂
1893-94年
油彩 カンヴァス
100 x 65cm エッセン
フォルクヴァング美術館

 

 

 

 

 


 

オーヴェールの教会

 

 


 

HF1-3/Gogh
オーヴェールの教会
1890年
 油彩 カンヴァス
92.5 x 75.0cm パリ
ルーヴル美術館

 

 

 

 

 


 

19世紀になってその問題がではじめる。いわゆる産業革命と意識の問題、そこからボードレールランボーからニーチェにいたるまで神という原理にどのように対応してきたのか、思想的なものが身体を支えていたのだろう。その思考が西洋文化を長い間だ保ってきた。思考が身体まで浸み込んでいる。そこから離反することは大変なエネルギーがいる。精神が分裂してしまう。そのはじまりがボードレールあたりからでしょう。神とこころの関係から、自然科学の発展とともに精神と物質の関係へと移行してゆく。自己の確立をどのようなかたちにすればよいのか。そのことを絵画で見ると、マネからはじまりゴッホゴーギャンセザンヌスーラなどモネも入りますけれどいわゆる印象派という画家たち。日本人が大好きな印象派です。西洋的な思考の葛藤を感じる最初の絵画でもある。そのような見方をすると教会を描いた3人の画家たちは、大変興味深いものがある。そこでどのような相違があるのか見てみる。

シスレー:
前回述べたようにシスレーの絵はこころの中に大気が溶け込んでいる。このモレの教会モネの「ルーアン大聖堂」と比較され低く評価されている。古典的で革新的な要素がなく平凡な日常であるという評価か。それは美術史的な見方でしょう。しかしシスレーは光学的な光の反映であるより、見たとおりの感覚を描いている。筆触分割法(色彩分割法)により瞬時に捉える自然のフォルムは、大気の感触がそのままカンヴァスに塗りこめられている。自己と自然との関係を守るためにパリには留まらなかった。都市化された思考を嫌った。

ゴッホの不安定さ、モネの光の反射の印象からくる非-存在性と比べるとシスレーの教会の建物は安定している。そこにいる人々も教会の建物とマッチし、静かな空気が流れている。日常的なささやかな出来事を描いている。目に見えないないところでは壮大なカオスがそこにはある。東洋的な見方をすると無常感というものがあり、非-自己的なものがある。その生き方を貫くにはパリから離れ自然の風景を描くためにモレ・シュル・ロワンなどセーヌ湖畔の町に住み、生涯その風景といったいとなった精神を描き続ける。

モネ:
モネ
の絵は視覚的な作用を促す印象派という物理的な反射の網膜絵画、そんなふうに感じる。そのイメージの追究で脳がクラとする部分がある。それをどんどん抽象化すると現代アートブリジット・ライリーかなと。ライリー自身スーラの影響をうけているといっているが、むしろモネの方にそれを感じる。スーラはわたしにとってはコスモロジー的絵画だ。デュシャンによればスーラ網膜的絵画ではないと言っている。印象派のなかでは特別な画家であるとわたしはおもっている。風景を装置のように思考している。スーラのことに関してはダイアグラムを作成して詳細に論じて言います。「アニエールの水浴その構造図−3」をカテゴリから参照してください。

ヴァン・ゴッホ:
際立ってゴッホの表現方法が自我と自己の関係を追求している事がわかる。到達地点がいったいどこなのか、その意識の彷徨性が社会機械と深く関係していることに気づく。現代もその問題はすこしも変わっていない。社会問題とは、あのアルトーが書いた「社会が自殺させた者」というゴッホ論だ。ここからいっきに「器官なき身体」という奇妙な概念が見えてくる。キリスト教的な思考が近代科学の発展と産業構造の革新的な変化によって心を脅かされてゆく。すでにボードレールは「昔のパリはもう存在しない」と詠っている。西洋的な思考の根幹であるユダヤ-キリスト教の原理とどう調和してゆくのか、悪戦苦闘しているゴッホがいる。ゴーギャンタヒチへ、ランボーは詩を放棄してアフリカへ。自我あるいは自己とは、この問題を個人として支えるのはあまりに荷が重過ぎる。

ゴッホは神から火を盗もうとしたプロメテウスか。アルトーはそれ自身で成り立つ自立というとてつもない思考を、思考していた。ゴッホの「オーヴェールの教会」をだれが支えているのか。ゴッホ自身の自我か、この不安定な教会。それでもいいというゴッホの自己か。画面中央から道は2つに別れている。孤独と不安な道を歩いて行く一人の婦人。左側の道を選んだこの婦人。純真なゴッホのこころとさえおもえてしまう。それにしても静かだ。それらを覆うように青い空とうねり。ゴッホは恐ろしく全体を冷静に凝視している。この空、教会、婦人そして道と町、すべてがゴッホのこころの投影か。到達地点は不在のまま神話を待ち受けているのか。



2012年05月29日

印象派の絵画「シスレーの絵画とは空間(風景)が心のなかに溶け込んでいる」−1

HE27-01
HE27-02

春のちいさな草地

 

 

HE27-01
春の小さな草地
1881年頃
油彩 カンヴァス
54 x 73cmロンドン
テートギャラリー

 

 

 


レッスン

 


 

HE27-02
レッスン
1874年頃
油彩 カンヴァス
 41.3 x47cm個人蔵

 

 

 

 

 

シスレーの絵画はモネよりずと
自然を感じる”からだ”をもっている

シスレーとは印象派の画家というより近代科学の思考方法を感じさせない生の自然を見せる。自我(エゴ)あるいは自己(セルフ)の追求のない無-自己のものがある。わたしはそこを見ている。しかも風景のなかに出てくる人物はモネほど空虚さがない。またセザンヌほど自己の感覚を確認しようとする原理を追求してもいない。マネの絵画は沈黙の画家といわれるほと不思議な視点をもっている。空-無の身体、これに注目したのがバタイユであるが、モネの空虚さは哲学的な視点のないオブジェとして風景のなかに配置している。この空虚さもシスレーにはない。むしろ風景のなかに労働している人々を意識して描いている。静かな風景と日常的なささやかな出来事を描いてる。まさにもっとも地味で目立たない印象派であり、ゴーギャンゴッホのように西欧的な自我や自己を形成させる社会機械の作用を描いてはいない。それゆえ印象派では過小評価されていた。シスレー自身モネのように野心はなく、控え目な性質で経済的にも豊かではなかった。

近代合理主義と自然科学の発展とは無縁な風景のなかに心を溶け込ましていた。パリから離れ自然の風景を求め、晩年は20年近くモレ・シュル・ロワンなどセーヌ湖畔の小さな村を転々として描いていた。翻って現代美術を見ると、都市化された思考とその本質を見ようと自己を形成している無意識機械をやっきになって探している。異常に変形された”からだ”の崩壊寸前の顔貌性を描く、フランシス・ベーコンがいる。そして方や都市化さた思考のシミュラークルとしてのビジネスアートの帝王ウォーホルがいる。現代美術の教祖デュシャンは職業画家になったことは一度もないとも言っている。描くことより何かを身体化させたい、晩年のデュシャンは禅のような生き方さえ感じる。印象派の画家でデュシャンが最も評価している画家はスーラでしょう。「アニエールの水浴」の神秘的な深さは凄い。

さて驚くことに印象派のなかで過小評価されていたシスレーを認めていたのはフランシス・ピカビアではないのか。初期の作品を見るとそんな風に感じる。事実彼はモレを訪れ、その風景画(Sunlight on the Bank of the Loing River, Moret 1905年)を描いている。ピカビアテーマは空でしょう。シスレーのテーマも空。そこから展開してピカビア人工的な機械に変換してゆく思考は見事としかいいようがない。原点は””である。最後は宇宙圏まで飛んでゆく(La Terre est ronde 1951

このシスレーリアルには描いていない。あくまでも感じるままにその印象として描いている。からだと空が溶け込んだものとして現れる。この自然的な”からだ”は近代科学が置き去りにしてきたものだ。方法論として現代アートもこの科学的な見方を受けつでもいる。セザンヌ的な見方から現代に至るまでその”からだ”の見方は極端なほどバランスがわるい。都市化された思考とからだは、もはやシミュラークルの世界で踊る言表行為の視覚化が現代美術の世界になっている。ルイス・キャロルの戯画化でさえある。それにとどめを刺そうとしたアルトーがいる。あの「残酷劇」というやつだ。「器官なき身体」という概念でエゴとセルフをデリートしようとしている。そこに生成してくるものは何・・? どんなアートがあるのか。

ピカソのアート自我自己無明のように描いているし、無宗教的に感じる。マティスはそれを避けようともの凄く哲学的だ。西欧絵画の概念とはいったいなんだろう。マルセル・プルーストは、シスレーが描いたなかで教会は最も美しいとも言っている。存在感というものがそこにはある。シスレー晩年の作品「ラングランド湾、ストールの岩---朝」は存在感のある作品だ。しかしその存在感とは、消え往くものの時間的な現れとして感じる。まさに存在するとは印象なのだ。印象とは:実体がないからこそ存在するもので、その存在は実体がないからこそ物質的現象としてありえるのである。遠く離れた東洋の視線に結びつくものがある。その意味でシスレーは印象派そのもので、少しも過小評価すべきものではなく、むしろ人間としての原風景をもっている。また超越的でもない。

 

HE27-01:春の小さな草地---ビイ
風景の中央に立っている少女はシスレーの娘でジャンヌ・シスレー
であるとおもわれる。静かに祈っているようなポーズは胸を打つ
ものがある。

HE27-02:レッスン
ルヴジェンヌの近くにあるボォワザンの自宅で勉強してるシスレー
の2人の子供たちで、ピエールジャンヌです。静かな空間です。



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