土方巽

2014年01月09日

土方巽-はるかなる視線「アルトーのスリッパをもって」−6


「詩が舞踏になります」

舞踏は、あらゆる言語を溶かし、そこには宇宙の
微粒子がある。「からだ」がすべてのものを受け運び・・
生成変化してゆく。田中泯にもありますが、言語を引き受け、
引き裂かれた「からだ」の残酷さ、アルトーのスリッパを
持っていない。場所に反応する「からだ」の記憶を持っている。

土方巽は、言語で埋め尽くされた「からだ」の
雪崩をもっている。
 ヴォルスの崩れかった幾つもの線、
ベーコンの顔貌性、ベルメールのイマージュの力学運動、
これらの「からだ」をもって命がけで立っていた。
「疱瘡譚」は祖先への星々の闇の光であり、
「静かな家」は、赤い神をもって土方巽は向こう側へ
逝ってしまった。それ以来二度と踊らなくなった。



2012年04月26日

土方巽-はるかなる視線「デッサンとは内部意識を見る運動である」−5

はるかなる視線
デッサンとは内部意識を見る運動である

わたしのからだはどこから来ているのか、何がそうさせているのか、わたしの意識とはいったい何であるのか識りたい。わたしは何も描かれていない白紙の紙にわたしのからだを描きはじめる。かたちはまだ見えてこない。意識内部ではどのようなことがおきているのかわたしは見る。手の運動が線を引き、脳の動きが漸近的に探求しはじめる。わたしはその線を見る。意識が何かに反応しているようだ。それに惹かれて線を無数に引く。見えてくるものがある。わたしの予期せぬ出来事、舞踏のように時空を彷徨い線を引く、促がされて次々に隙間を埋めてゆくその線。恐ろしいことに死へ向かうからだの細胞が、わたしを描けという否定されている自己、消えてゆくものへ。わたしは勇気をだしてさらに線を引き続ける。芸術なんていう行為ではない。存在そのものの恐怖がおしよせて来る。わたしを支えているものとは誰なのか。外の大きな存在との関係からわたしは導き出される。

 

横たわる男A2

 

AL2104-1
「横たわる男」

死に往く者の
母の胎内の微かな
音を聴く

 

 

 

立像A1

座っている男M

 

AL2106A-1M(右)
座っている男
はるかなる時空

AL1907AM(左)
立っている男
形而上的な
彫刻の影

 

 

光りは光源からA


 

AJ1401M
光の毛布
バタイユの方へ
死を前にしての
歓喜の実践

 

 

 

 

 

わたしはこれが舞踏なのかなと。「衰弱体の採集」とはかくも恐ろしく、取りに往く行為が捕えられる、死を飼いならす行為が”ビューと吹いて来る風にからだを慣らすこと”そんな舞踏を見るにつけ、わたしのデッサンは、土方が「・・あなたの描いているプロセスを養成しているのが舞踏家だという」この言葉は真理だというおもいがある。けっして傲慢な言葉ではない。絵を描いていないとき、わたしも舞踏をしていたのだろう。ですからわたしがデッサンをしているとき、わたしは舞踏をやめる。舞踏家とは逆の時間を空間化しいる作業が画家ではないのか。だから絵画はものすごく自然科学に近い。わたしにとって絵画とは美しいとか、芸術的とかということとは無関係だ。


 

参照図書
土方巽全集
著者:土方巽
発行:河出書房新社



2012年04月21日

土方巽-はるかなる視線「ミショーのムーヴマンとは舞踏する線である」−4

はるかなる視線
ミショーのムーヴマンとは舞踏する線である

アンリ・ミショーの絵画は時間的な軌跡を見せる線である。いったいその線は何であるのか、犯すものと犯されるものとの共犯関係の線、時間的な暗号の彼方を描き印されたものの線である。このムーヴマンとは全てのものでもあるし、そうでもないあるもの、空間に対する反応といっておきましょう。生命現象の記録である。はるかなる元素の記憶、そんなものをミショーは記録していた。厳かな歩みがある。大地でありながら、雲の上に乗っている最初の人、後の2人は緩やかな坂を静に歩いている。しかし止まっているようにも見える。これはまさしく土方の舞踏ではないか。「アクリリック1979年の作品 page83」を見るとそんな感じをうける。

頭上近くの雲は方向性を示してはいるが、何処へ往こうとしているのか、大地と雲は共犯者の-無、そしてこの青空は人を操る法則を用意する。描かれたものの、描かれえぬものの圧倒的な力、生と死のドラマ、他者の影がある。消滅に向かうのか、それ自身表現すべきものがないもの、ただ歩いている人。このミショーの絵は土方巽の舞踏を想起する。たしかに一つの卵を脇に抱えて持っている。何処で孵化させるかという問題でもない。ただ持っている。「静かな家」の方へだなというおもい。このためにのみ歩いている。「これは舞踏だなぁー」とわたしは深く感動する。そこには何でも無いものの充溢がある。

空間(景色)がわたしをつくっている。しかしその空間を食べているミショーがいる。消えかかたかたちを増殖する。そのとき言語に痛めつけられたからだの棘がでてくる。透明な針の黒い陰が棘抜き言語となって光りだす。この軌跡の線を見るにつけ、ミショーはいったい何を描こうとしていたのか。彼自身わかって描いているわけではない。そのわからない部分を、自分以外のものと深くかかわること。暗黒のなかから生まれ出るメードザンたち

生と死のドラマを覗いてみても、盗まれるばかりだ。しかし盗まれてもいいんだというおもい、フランシス・ベーコンの盗まれたからだの崩壊、入れ替えのからだがかたちつくる崩れかかった顔貌性とは違い、異型の元素の顔貌性、メードザンたち。居心地悪い黒い透明な傷、棘の痛みを見せる。痛みつけられているなというこのおもいは、からだの発祥の番地を探す。これはミショーの襞というやつだ。かくしてわたしはミショー舞踏の線を見る。

 

参考図書
アンリ・ミショー ひとのかたち
編著:東京国立近代美術館
発行:平凡社 2007年



2012年04月14日

土方巽-はるかなる視線「芸術は舞踏を探している」−3

はるかなる視線
(芸術は舞踏を探している)

からだの入れ替えのない神話は、はじめからそれを追放する。感覚的な知覚は対象そのものというよりひとつの抽象、二項対立の現象を処理しようとする一つのコード化・・であるようなもの、宇宙の法則を読みとらせる記号化ともいえる。自然と文化のことを述べるために言ったのではなく、宇宙の法則と人間のからだとの関係性がどのようなものであるのかということです。からだも宇宙の一部であというおもいがどの時点で感じるのかという問題です。そこでわたしはダ・ヴィンチのことを書いたわけです。ポール・ヴァレリーの「レオナルド・ダ・ヴンチの方法序説)」のDiagram化(ダイアグラム)として見ることもできるよう書き記した。

ヴァレリーが「ドガ ダンス デッサン」について書いたことはいつたい何なのか。運動するからだをデッサンするなら、アンリ・ミショーの線でもいいのではないか。ミショーは、すべてはムーヴマンという。これは大脳生理学にぐっと近づいてきます。崩壊するものの断片を崩壊するままに動けばいいではないか。「ミショーの絵は、歩いたり転んだりしている人間の姿を描いているのです」とフランシス・ベーコンはいう。ジャクソン・ポロックよりはるかにミショーの方が優れているとインタヴューのなかで語っている。これは舞踏に接近している。

それとはちがって、それを転ばないように立った状態で踏ん張ってる。重心を探しているなというのがヴァレリーの精神ではないのか、なるほどこれはガリレイの法則精神に持ち逃げさせたがっているなというおもい。宇宙の法則を言語に与えたがってるマラルメを師と仰ぐのも頷ける。

ガリレイは自然科学の礎の人で宇宙の法則を数学的言語で記述した。これはひとつの画期的な出来事でしょう。マラルメも言語に独立した変数を入力すること。その変数を探していた。恒等式イデ自体の劇イジチュールまたはエルベノンの狂気」、言語自体が法則を生むような失速・・「」、重力の法則が地球以外の星座を希しがっている。言語の無重力の声がニジンスキーのとどこかで繋がっている。身体を離れたがっているなという。分離したときからだが遺された。そのときはじめて座った舞踏がはじまる。「足の表情」を見る。風の音が聞こえて来る。ところが西欧のバレエは空間を切りたがっている。落ちるたびに飛び上がらねばならない。それを忘却したがっている精神にからだは従う。

 

参照図書
土方巽全集供崔者:土方巽/発行:河出書房新社」
アンリ・ミショーひとのかたち「編著:東京国立近代
美術館 発行:平凡社 2007年」



2012年04月11日

土方巽-はるかなる視線「消えることと現れること」−2

はるかなる視線
消えることと現れること

セザンヌはこれだな、というところから絶えず遠のいてゆく現前化、その痕跡を遺す。分割すれば、つぎの隙間が絶えずでてくる。その隙間を置く行為は終らない。これだなというセザンヌが追っかけていった痕跡を見ている。わたしは終った後からセザンンヌの絵を見ているにすぎない。終らないセザンヌの行為がどこからやって来るのか知りたい。そうするとセザンヌの舞踏を見るわけです。

モネの絵は光の踊りを見るにつけ、そこには空虚というものの隙間がセザンヌよりいっそう見えてしまう。それどまりという虚しさだ。ひとが宇宙と交信するより、消える風景のように見えてしまう空気、そんな雰囲気でいったい人類はどこから来たのかという声がきこえない。

ゴーギャンは聞こうとしたのか
ランボーはなぜ灼熱のアフリカへいったのか
ゴッホはなぜ火を盗もうとしたのか
ゼザンヌはなぜものの本質に自らの感覚を刻印しようとするのか
本質と感覚のずれは埋まらない

ようやっとそこから自然科学の力をかりること。自然科学の到来を待ち受ける印象派の絵画が登場する、スーラが特に際立った存在でしょう。神話の喪失の神話がはじまる。「現代美術だな」というところからわたしは、見はじめる。しかしちっとまてという人をよこでちらちらと観るようになって、からだのことは置いといて、というわけにはいかない。クライマーは全体と部分の達人だなというおもい。空気の(時空)切りと閉じ、そんなものが絵画に入りこめばたちまち舞踏になる。ジャクソン・ポロックはどうですか、と言われても「衰弱体に呑みこまれるひとに聞いて下さい」としか言いようがない。

 



2012年04月04日

土方巽-はるかなる視線「わたしは土方巽の光の模型をつくっている」−1

はるかなる視線
わたしは土方巽の光の模型をつくっている

風の又三郎とは異質の風をもって姉のとなりに静に座っている。すでに懐かしいあの星座を膝に抱えてもっているこの少年、*1「犬に打ち負かされる人間の裸体を、私は見ることができますこれはやはり、舞踏の必須科目で、舞踏家は一体何の祖先なのかということに、それはつながってゆくます」わたしはこの声を、とこの少年の真中にきょとんした四つの足で座ってるに尋ねてみたい。

何処から来たのか、 何処に棲んでいたのか、何処へ往ってしまったのか、」と、
すでにこの少年の背中に舞踏神がそっと触れている

わたしは土方巽の*2「少年時代の写真」をいま見ている。右脚を立てそれを右手でびっしと抑えている。左足はそのなかに入れ土の上においてる。軽く握っている四本の指は親指に宥められている。「あぁー舞踏家だな」と、わたしは深く感動している。そのとなりには大きな姉いる。そして真中に土方より少し小さい犬が座っている。この犬はきっとその状況を感じているのでしょう。意味が分からずにいる。しかし気配でしょう。そこにいる姉、少年九日男、犬、すでに舞台装置ができあがっている。樹はそのすべてを抱擁して見ている。大地と空気そして星座へと。それにしてもこの写真は偶然ではないでしょう。舞踏神が撮らせたなせる業、わたはこの写真をそんなふうに感じている。

わたしは衰弱したセザンヌの思考でいま探している。西洋の落下した地点でようやくわたしは土方の声を聴くことに、からだが許してくれるまでになってきました。「さぁーはじまるぞ」というところでうろうろしている。

参照図書
*1「美貌の青空(page8) 
著者:土方巽/発行筑摩書房」
*2「土方巽とともに(少年時代の写真page29)
 著者:元藤子/発行筑摩書房



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