レオナルド・ダ・ヴィンチ

2013年04月09日

レオナルド・ダ・ヴィンチ「聖ヒエロニムス」

ID3-01
ID3-02

聖ヒエロニムス-1

 

 

 

ID3-01
「聖ヒエロニムス」
1480-1482年頃
板に油絵 103 x 75cm
(ヴァティカン絵画館)

 




 

 

 

 

聖ヒエロニムス部分-2

 

 

 

 

ID3-02
「聖ヒエロニムス」の
背景左上の部分

 

 

 

 








聖ヒエロニムス

この絵「聖ヒエロニムス」は西洋的な思考で見るより東洋的な視点で見ると、非常に興味深いものがあります。ヒエロニムスの人物像の背景に描かれた景色は、空気遠近法の技法(筆のタッチ、ぼかし、色調)と日本の水墨画に使用される毛筆のタッチ、技法が似ていることに驚かされる。全体の絵を見ないで、ID3-02の部分詳細を見てください。モノクロにすると、素晴らしい山水画として見てしまう。ダ・ヴィンチだと言わなければ、だれでも東洋の山水画のように感じるとおもう。

ヒエロニムスの人物像が、なぜか禅の修行僧のように感じ、この岩場と背景の景色と非常にマッチしている。わたし自身「聖アンナと聖母子 幼子聖ヨハネ(ロンドン ナショナル・ギャラリー)」をその場に行って見たとき、もの凄く感動したことを今でも忘れない。言葉で表現すると”神の設計図”という強いイメージが瞬時に喚起されてきたました。この感覚がでてきたことに驚嘆している。それだけダ・ヴィンチには特別なおもいがあります。後に、この神秘的な感覚がわたしの礎となった。ダ・ヴィンチ体験とは、このように多くの人々に感動を与え続けているのだろう。

 



2013年04月02日

レオナルド・ダ・ヴィンチ「洗礼者ヨハネ」

IC31-2a-3

洗礼者ヨハネ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

IC31-2a-3:ダ・ヴィンチ 「洗礼者ヨハネ」
1513-1516年頃 板に油絵 69 x 57cm
パリ ルーヴル美術館

この絵は表現された「洗礼者ヨハネ」が何を意味しているのか不可解であり、謎のような構造をもっている。「聖アンナと聖母子」、「モナ・リザ」もそうだし、ダ・ヴィンチの絵にはそれがつきまとう。暗号のような絵画だ。特に「洗礼者ヨハネ」は、人物像としては非常にシンプルで、中性的な両性具有者のような描写である。しかも微笑がいっそう謎を描きたて、人差し指で天を示しているところは、確かに十字架を指しているが、闇のなかでよく見えない。まるで闇黒の星座を、ブラックホールを指しているようにも見える。とても宗教絵画にはおもえない。

ダ・ヴィンチの絵は見えないものの構造が明確にある。むしろこの眼に見えないものに対するダ・ヴィンチの構造化(表現)は、宗教画にも係わらず、どの画家より無宗教的にすら感じる。それは物理的な現象、生命の根源、あらゆるものの探究がその結果として絵画に顕現化されていることに由来する。たんなる絵画を遥かに超えている。当然「洗礼者ヨハネ」もたんなる宗教画として以上のものがある。最後まで取り掛かって、描き続けた3つの作品のうちの1つである。残る2つは、「モナ・リザ」、「聖アンナと聖母子」である。この3の作品はそれぞれ連関していると推測する。

洗礼者ヨハネ」は生命のエロティシズム(生と死)を、「モナ・リザ」は運動エネルギーの神の顕現化(微分)を、そして「聖アンナと聖母子」は運動エネルギーの神の幾何学を想起させる。そしてあとわたしは「聖ヒエロニムス」は手元においていなかったが、これを加えこの4つの作品がダ・ヴィンチの根源的な概念ではないかとおもわれる。とくに「聖ヒエロニムス」は東洋的な思想すら感じる。この絵もまた未完成であり、東洋的な苦悩の根源的要素でもある「」をどうしても感じてしまう。事実その背景をみると、山水画のようであり、またヒエロニムスの周辺をみると岩や、非常に厳しい環境で行為する修行僧のようにもおもわれる。

 

画像掲載(IC31-2a-3):
この画像は「洗礼者ヨハネ」のイメージから何故かニュートン力学が喚起され、さらに「周期表」のようにある法則的なものに仕立て上げようとその図像を考えた。自然界には規則的なものが隠されている。「この法則を見よ」とおもえてきたのである。ニュートンプリンピキア(自然哲学の数学的諸原理)」では、力学体系を書き、近代科学の基礎をつくった偉大なひとであった。いまでは力学単位となって工学では、あらゆるところで使用されている。ニュートンは、自然的原理神的原理が共存している世界を見ていた。『数学的な重力の法則を、幾何学と力学にきわめて長けた神によって書かれたものとニュートンは理解していた』とティーター・ドッブスはいう。

ダ・ヴィンチニュートンも物質の法則には隠された神の存在があると、その探究に生涯ささげたひとであった。またニュートン錬金術をも研究していた。神の法則とはいったい何であるのか、その数学的記述と、存在論的な形而上学をニュートンは思考し続けていた。一方神という概念がダ・ヴィンチでは、他の画家と違い特別にその相違を感じさせるものがある。流体力学や生命の本質を生涯探究し、血液循環のシステムに近い図を描いている。多くの解剖図デッサンを遺している。ダ・ヴィンチは画家というより生命のシステムを宇宙的なスケールで見ていた。宗教画でありながら壮大な宇宙を探究していた、比類のない画家であった。翻って現代アートを見ると、デュシャン後はトートロジーであるようにおもえてくる。

 

参照:錬金術師ニュートン
著者:B.J.T.ドッブス
訳:大谷隆昶/発行:みすず書房

 



2012年04月14日

土方巽-はるかなる視線「芸術は舞踏を探している」−3

はるかなる視線
(芸術は舞踏を探している)

からだの入れ替えのない神話は、はじめからそれを追放する。感覚的な知覚は対象そのものというよりひとつの抽象、二項対立の現象を処理しようとする一つのコード化・・であるようなもの、宇宙の法則を読みとらせる記号化ともいえる。自然と文化のことを述べるために言ったのではなく、宇宙の法則と人間のからだとの関係性がどのようなものであるのかということです。からだも宇宙の一部であというおもいがどの時点で感じるのかという問題です。そこでわたしはダ・ヴィンチのことを書いたわけです。ポール・ヴァレリーの「レオナルド・ダ・ヴンチの方法序説)」のDiagram化(ダイアグラム)として見ることもできるよう書き記した。

ヴァレリーが「ドガ ダンス デッサン」について書いたことはいつたい何なのか。運動するからだをデッサンするなら、アンリ・ミショーの線でもいいのではないか。ミショーは、すべてはムーヴマンという。これは大脳生理学にぐっと近づいてきます。崩壊するものの断片を崩壊するままに動けばいいではないか。「ミショーの絵は、歩いたり転んだりしている人間の姿を描いているのです」とフランシス・ベーコンはいう。ジャクソン・ポロックよりはるかにミショーの方が優れているとインタヴューのなかで語っている。これは舞踏に接近している。

それとはちがって、それを転ばないように立った状態で踏ん張ってる。重心を探しているなというのがヴァレリーの精神ではないのか、なるほどこれはガリレイの法則精神に持ち逃げさせたがっているなというおもい。宇宙の法則を言語に与えたがってるマラルメを師と仰ぐのも頷ける。

ガリレイは自然科学の礎の人で宇宙の法則を数学的言語で記述した。これはひとつの画期的な出来事でしょう。マラルメも言語に独立した変数を入力すること。その変数を探していた。恒等式イデ自体の劇イジチュールまたはエルベノンの狂気」、言語自体が法則を生むような失速・・「」、重力の法則が地球以外の星座を希しがっている。言語の無重力の声がニジンスキーのとどこかで繋がっている。身体を離れたがっているなという。分離したときからだが遺された。そのときはじめて座った舞踏がはじまる。「足の表情」を見る。風の音が聞こえて来る。ところが西欧のバレエは空間を切りたがっている。落ちるたびに飛び上がらねばならない。それを忘却したがっている精神にからだは従う。

 

参照図書
土方巽全集供崔者:土方巽/発行:河出書房新社」
アンリ・ミショーひとのかたち「編著:東京国立近代
美術館 発行:平凡社 2007年」



2012年01月07日

レオナルド・ダ・ヴィンチ「洗礼者ヨハネと聖ヒエロニムス」−5

GL29_03/HA4-01

洗礼者ヨハネ聖ヒエロニムス

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

GL29_03                                                  HA4-01
洗礼者ヨハネ」                                       「聖ヒエロニムス
1513-16年                           1480年頃
板に油絵                             板に油絵
69 x 57cm                                            103 x 75cm
パリ ルーヴル美術館                   ヴァティカン絵画館

 

洗礼者ヨハネ
この絵はどう観てよいのか途惑う。宗教的に解釈しようにも理解を超えている。イエスの前駆者、洗礼を施す者として観るには、あまりに誘惑的でエロティックだ。むしろエロスとしの様相である。古代では若い男性が描かれていた。中性的な両性具有としての「洗礼者ヨハネ」は女性、男性の二元論を遠く離れて一体化したもの、エロスの神秘ともいえる。この絵はダ・ヴィンチ自身のために描かれ、その誘惑的な姿を描いたのではないか。

空無の中心点の方へ:
存在するものの中空、無の存在点への形而上的な誘惑・・その姿が「洗礼者ヨハネ」であると観ることもできる。この見方は聖ヨハネの人差し指が、十字の梁に磔となったイエスのシンボルとしての十字架を指しているよりも、更にその遠方の天体、宇宙の根源を指しているように感じる。それは宇宙の中心、即ち神の存在点である。しかしこの存在点は、空相の点であり、非-存在の存在=円弧d1-d2の中心点である。円周のどこにもない中心点、あるいはどこにでもある中心点であるようなもの、意識内部の根源から現れ創られるもの、無いものから現れる存在点、空無の中心点をこの人差し指は示している。この見方に到達するために「聖ヒエロニムス」の苦行へと結びつくイメージが喚起されてくる。

誘惑の果てに行き着く
  聖ヒエロニムスの苦行:
この「洗礼者聖ヨハネ」の誘惑とは、享楽の果てに待ち受けている「聖ヒエロニムス」のような苦行へと向かう覚悟があるのか、、その暗示として人差し指が暗闇の十字架を示している。「聖ヒエロニムス」の様相は、老年の苦行者として表現され、あらゆる苦悩を背負い、絶望の果てにいきつく内面の””を受け入れる東洋的な精神性さえ感じる。まるで東洋の修行僧のようである。「聖ヒエロニムス」は「洗礼者ヨハネ」とは対極の表現をしている。

この右手の人差し指は上記に述べた前者()のように”空無の中心点”を示しているのか、後者()の享楽の果てに”「聖ヒエロニムス」のように苦行へと向かうのか、そのイエスの受難の象徴としての十字架を視よ、というメッセージが込められていように感じる。「洗礼者聖ヨハネ」と「聖ヒエロニムス」は別の類の絵ではなく、深いところでは同じ方向性を向いており、官能的宇宙と受難、そんな見方もできる。イメージが連鎖的に作用し多様な見方ができる醍醐味です。それゆえ、ダ・ヴィンチの絵は思考絵画ともいえるほど、大脳前頭葉をもの凄く刺激してくる。それでいて穏やかな安らぎさえ感じる。まさに究極の宗教絵画です。

レオナルド・ダ・ヴィンチを観るということは
宇宙像を、その究極の宗教感を観ること:

ダ・ヴィンチのこの4点聖アンナと聖母子モナ・リザ洗礼者ヨハネ聖ヒエロニムス)は、わたしにとっては特別に思考させられる絵だ。「最後の晩餐」は人物像が多数なので、わたしの解釈を遥かに超えてしまう。技法と宗教的な解釈他、多様な要素が複雑に絡み、抽象化して総体的な概念をみいだすには困難である。また実際にミラノグラツィエ修道院に行ってその臨場感を感じたいおもいはする。特に室内と絵の関係などの要素を立体的に体感すれば、イメージが湧いてくるかも知れない。以上でわたしのダ・ヴィンチ体験を第1回から5回にわたって述べましたが、機会があれば「ダ・ヴィンチの手記」からその宇宙像を現代の視点から観てみたい。特に21世紀は自然科学、人文科学、芸術などの境界線を越えた、それらの総体として観る思考が要求されるダ・ヴィンチの絵画は宗教絵画でありながら、どこか無宗教的な要素があり、その宇宙像は母性的であり、特に「聖アンナと聖母子」は円環運動する力学的な関係性の構造としてみると”聖アンナと聖母子の構造”で述べましたように、量子論的な見方もできる、非常に驚くほど現代科学的です。その意味で、今でもダ・ヴィンチは現代的な概念をもっています。



2012年01月03日

レオナルド・ダ・ヴィンチ「モナ・リザと背景」−4

GL29-02

モナ・リザ

 

 

 

GL29-02:
モナ・リザ
1503-05

油絵 板
 77 x 53cm
パリ、ルーヴル美術館

 

 

 

 

 

 

 

モナ・リザは宇宙の形象化の
化身であり、ダ・ヴィンチ像と
合わせ鏡のように現れる・・

モナ・リザは、「聖アンナと聖母子」とは別な意味で不思議な感じがする絵だ。モナ・リザダ・ヴィンチの自画像を並べて視るとモナ・リザの背後にダ・ヴィンチが隠されているように感じる。二重写に交互に出てくる。合せ鏡のようにエンドレスにダ・ヴィンチの思考が反射され、ついには宇宙の鏡が写し出される。その瞬間、永遠の微笑が天からの贈り物の姿をとして現れ、かくして神秘がそのDetailを見せる。それは背景が人物像をひきたてるように観えながら等価に感じることである背景宇宙のDetailがモナ・リザでありモナ・リザのDetailが背景であるという等価な感覚が形成される。この等価に作用させる力はモナ・リザの顔貌性にある。厳密に構成された様相、それが抽象機械を形成させ宇宙圏へと脱領土化していくプロセス・・を観る驚異的な神秘。デュシャンの熱力学と宇宙エネルギー・・



2011年12月26日

レオナルド・ダ・ヴィンチ「聖アンナと聖母子の構造」−3

GL-17A/Diagram:GK-02A

聖アンナと聖母子_1聖アンナと聖母子_構成図

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

GL-17A:「聖アンナと聖母子」              GK02A:「内的ドラマの形成
1502-1516年頃 板に油絵
   168 x 130
cm
パリ ルーヴル美術館
     

機帽渋は世鮟劼戮襪泙┐

聖アンナと聖母子」についてわたしが述べることは、ポール・ヴァレリーが「レオナルド・ダ・ヴィンチの方法」を書きしるした序説のDiagramとして観るこもできる。ヴァレリーは厳密に作用させるダ・ヴィンチの思考方法に驚嘆し、そこから言語が一つの法則をもつこと。カオスの鏡を、等価な宇宙像を個己にもつこと。その内部運動の方法論の探求であった。それはマラルメからもうけついてもいる。さてわたしは、この厳密に構成された「聖アンナと聖母子」をわたし自身の内部ドラマとして記述していこうと考えた。目に見えないものを見える思考のドラマとして幾何学的な運動の痕跡として視る。

それは、わたしの視覚(視点運動)をとおしてわたしの内部で、脳内でいったい何が作用しているのか、視覚と脳作用のドキュメントを記述することであった。文学や絵画論から遠く離れて形而上的な運動、脳内の作用としての運動を記述していくこと。思考することなく思考する大脳前頭葉の指示するままにわたしは手を動かす。視ることと内部の連関、それが何であるのか理解している分けではない。しかしこの絵を視ているとイメージが湧き不思議に厳密で抽象的な言葉が出て来る。同語反復を繰り返しながら漸近的にダ・ヴィンチの思考へとわたしは導かれる。それは連鎖反応的に出てきた言葉をメモすること。わたしは以下のように書きはじめた。

機1:「聖アンナと聖母子」そして「モナ・リザ」の
    その神秘的な方程式の彼方に

彼岸の崖の上でいったい何が起きているのか。わたしは「聖アンナと聖母子」を凝視する。無限大の景色、アンナマリアの瞬間移動、幼児イエス子羊、大地、そして樹が夜明けまえの静かな空気をとり入れ呼吸し、遠い銀河の声を聴いている。わたしの脳波が反応し始める。眩暈、わたしはシンクロニシティを体験する。これ以上の宗教的体験があるだろうか。厳密に構成された幾何学運動、わたしは思考に促がされてダ・ヴィンチの映像を、そのトポロジーを思考する。そこには永遠と円環運動が瞬時に鼓動しはじめる。運動エネルギーの神秘的なこの上ない体験をする。ダ・ヴィンチのなかでもっともダ・ヴィンチらしさを感じる絵、それが「聖アンナと聖母子」だ。

では最高傑作と言われている「モナ・リザ」はどうか、その現われは一点に焦点を合せ集中(モナ・リザという神秘を顕現化)させ、その背景がモナ・リザと融合し、背景自体がモナ・リザの分身のように感じ、宇宙の構造をダイレクトに観る様相となっている。その作用は、空気遠近法の技法によって岩々の先端が天へ、銀河への彼方を直接的に暗示させる構造となっている。「モナ・リザ」では大地と空気の接点を意味するもの、樹を描いていない。運動エネルギーとして観ることより、その結果としての瞬間、永遠を顕現化させることをテーマとして描いている。「モナ・リザ」と「聖アンナと聖母子」は逆演算の関係ともいえる。どちらが最高傑作かというものではない。またダ・ヴィンチの絵のなかでは格別にエロティックで、誘惑的な雰囲気をもつ不思議な「洗礼者ヨハネ」、この3点は永遠の謎をわたし達に観せてくれる。ダ・ヴィンチが最後まで離さず手許にもっていた作品と言われている。

機2:構図論の概要

これから述べることは、物理的な外部観測の運動論ではなく、いわば形而上的な運動、脳内の作用としての運動である。わたしの脳内でいったい何が起きているのか、そのドラマを記述していきます。それは美学でもなければ、脳科学的な見方や芸術でもありません。視ることの運動であり、そのためのダイアグラムDiagram)です。アンナマリアそして幼児イエスと子羊宗教的な意味は述べません。確かに顔の表情や身体のかたちなどは、その方向性を示す為にダ・ヴィンチは最高度のテクニックを駆使して描いている。その方向性とは、深い宗教的な見方や哲学的な見方ですが、わたしは動的な視点のベクトルのみにどどめます。「聖アンナと聖母子」は、円環運動の力学的な宇宙像を視覚作用と思考によって、移動とその瞬間を同時に観せるダイナミックな運動のうちに相互の関係性を、その宇宙像を顕現化させる構造となっている。視る行為脳の反応見えないものの見える思考(ドラマ)を記述していきます

構図(Fig:GK-02A)の主な記号説明
1)点a:アンナの眉間の位置を示す
 (その位置はビンディーと偶然一致している)
 垂線a-h点aから地球の中心(重力)へ、三角形の底辺p3-p4
 垂直2等分線
2)点b1:マリアの後頭部
3)点b2:マリアの口元
4)点c:幼児イエスの眼
5)円弧d1-d2:銀河の円周の一部(どこにも中心のない
  無限大の円周の一部、(空想の点=画面の外で
  その位置は  非-存在であることによって存在させる
  点であり、最も重要な円の中心点である。
  この絵のテーマでもある

掘帽戎泙旅柔とその作用
  
幾何学的な機能が意味するもの

2等辺三角形a-p3-p4
全体の構図を安定化させる重要な作用をもつ。たえず瞬時に変動する視点を安定させる大地の礎である。右画面上の樹を無意識のうに静に支えている。C/G点(重心=画面全体を安定させる要)は四角形内部の上部、マリアの胸の下に接した腿の部位である。絵画にはその点を意図的に不在化かする場合もある。ゼザンヌの「大いなる水浴する女たち、1906年」の構図は完全な三角形である。C/G点を無意識に体感し、感覚変位の不動点ともいえる。このC/G点とは不可視であり、重力バランスを無意識にとる身体機能に似て、なぜそう感じるのかは理解不能なものである。画家は構図の設定に幾何学的な原理を応用する。C/Gとはフォルムの重心点とも言える。

四角形内部ドラマの形成=より暗示的に
この四角形は三角形a-p3-p4のように幾何学的な安定した構図を意図的に構成されたものであるより、秘たる構造で、この内部でアンナとマリアの関係(アンナの膝の上にマリアが座っている不思議な構図)がどのような仕組みなっているのか。四角形は演じさせる眼に見えない思考の劇場(マリア幼児イエス子羊、その舞台はアンナの膝の上で演じられている)をつくる、神秘的な意識を誘発する装置としの幾何学である。

思考と視点ベクトル
  
内的ドラマの形成プロセス=宇宙の贈り物として

-1:円弧のd1-d2の作用

この絵を観る最初の視点は全体像のうちにアンナの点a(眉間)とその背後の風景と空となり、円弧のd1-d2は無限の円環運動する銀河である。その銀河の中心点は脳内でかたちつくられる。これは銀河の仮想の点としてであり、直感的な実在というべきものである。しかもその中心点は画面の外にあり、その点は不在でありながら、存在しているという脳内現象の実体化である。この点こそ天上の神を想起させる幾何学的な宇宙の点であり、始まりであると同時に、膨張する宇宙の運動の始点であり、無時間の質量のない点でさえある。

-2:重力と天体

わたし達が最初に「聖アンナと聖母子」を観るその視線は、画面全体から瞬時にアンナの眉間の位置に向かう。この点a(アンナの眉間)は銀河を受信し大地へと貫き、地球の重力でその中心に向かって作用する。アンナによる天と地の接続銀河と地球の結合か。不思議な感じがする不可視の線である。

検3:垂線a-hの作用

点a
垂線a-h始点a)は銀河の円弧d1-d2の交点で、宇宙の円環運動の出入り口、銀河の交点ともいえる。初期視点aからすべての運動がはじまる。背景はたえず銀河へと導く運動エネルギーのポテンシャルである。

視点運動
  (直感的眼差と楕円運動の
  
幾何学が脳の固有運動を促がす)

-1:多様な殻とその量子的な運動

一望のもとに感じるダ・ヴィンチの、この神秘はたんにテクニックばかりではなく、彼の厖大な記録の凝縮された記号であり、思考の具象化である。物体の運動と神秘、あのニュートン的な重力作用の自然的原理と神的原理の結合を思考のうちに可視化する。むしろニュートン的というよりも現代物理学の量子の運動、電子雲の重なり合う多数の軌道の集合を感じる。この「聖アンナと聖母子」の幾何学的な構成は球面上の線であり、楕円幾何学である。ダ・ヴィンチのこの絵は、その運動の法則に基づいて作用するユークリッド幾何学でありより、非ユークリッド幾何学の多次元をもった運動する物体である。

また足元の地層は静止した地層ではなく、変動する地殻である。これも楕円の形象をしている。上部アンナの背景に描かれている空と岩々の境は、空気遠近法と色彩遠近法によって描かれたシャープな先端をしているが、それぞれの頂点を結ぶと10%位の楕円となっている。アンナの肩の背後の小さな岩々の並びは、左画面から一本の樹の根元近くまでの右下がりで小さな楕円の構成である。その中心にアンナがいる。しかしよく観ると外殻が空に接している岩々で、手前の岩々は内殻のように感じる。更にアンナマリアを囲んでいる殻の半径rn)はもっと大きく銀河を構成している量子の運動を想起させる。これは描かれてはいない。まさにこの絵を視る凄さである。

-2:視点運動がかたちつくるもの
   
(視る行為が観える思考をつくりだす)

こんどはこの絵のもってる全体的な運動を上記の各項目に従って、視点運動の流れとその連関を記述してゆきます。最初に「聖アンナと聖母子」の絵(GL-17A)を視ると、絵は静止した2次元の平面ではあるが、視る行為と脳の作用が同一に光速度で運動する。瞬時に内部運動が始まる。その差異がさらに連鎖反応のごとく円環運動し始める。点a(アンナの眉間)は円弧d1-d2の光を受け無限の天界の交点となり、しかもその交点(円弧d1-d2三角形a-p2-p4垂線a-hこの3つの交点をもつ点a)は地球の重力の中心へと向かっている。一方円弧d1-d2の軌道上に配置された始点aの下アンナの眼差しは、マリアの後頭部(点b1)を通る線となっている。しかしここにダ・ヴィンチの仕掛けがある。アンナマリアの動きが連続的に感じるように同一人物の別な現れ方をている構図である。運動する物体の残像のような効果を計算してるとおもわれる。それは円弧d1-d2の軌道上(半径)にアンナマリア幼児イエスを配置している構成によって、上述のように円環運動を想起させ、視ることと脳作用の幾何学構成は数学的な、厳密な法則を感じさせる。

-3:視点運動が”かたち”つくる宇宙の円環運動
   
銀河⇒アンナ→マリア⇔ 幼児イエス⇒銀河)    

マリアはその光を受け眼差(点b3)しは幼児イエスを見やる。マリアの眼差しは点c)へ。そして幼児イエスの眼差点c)しはマリアへ、互いに見つめ合う眼差しは、その往復運動の後、軌道円弧d2-d1)からマリア→アンナ→銀河の中心へと向かう。一方この円弧d1-d2幼児イエスを通過するものと反射するもの、この二つの光もっている。通過したものは、銀河の中心(空想の点)から半径rの軌道で再び点aへと戻り円環運動する。この大きな半径rと遠方の山脈の景色の殻(岩々)、そして大地(彼岸の崖の上)の殻のなかには胎児や胎盤が収納されている。それらのものはアンナを中心にして電子のように運動している。それは次のような円環運動である。

『⇒初期視線(聖アンナ)⇔銀河(聖アンナと銀河の往復運動)→聖アンナ→聖マリア⇔幼児キリスト+子羊→大地→樹(右画面上)→大気(樹が大気から銀河へ接続)→銀河→聖アンナ⇒

此妨渓に計算された神秘

この絵の最大の神秘は上記のように円環運動を厳密に計算し、幾何学的な構成がニュートン力学であるより、量子的な運動を形成させる凄さであると感じる。セザンヌの構成は平面プランにおける幾何学的な構成に対してダ・ヴィンチのこの絵は、見事なほどの不可視の幾何学的な運動である。それは脳内に作用させ、法則を導きだすダ・ヴィンチ論理的構造にわたしは驚嘆するものであります。

わたしが『聖アンナと聖母子』を観たその感覚は、まさにDiagramFig:GK-02A)に示したとおりで、上記に述べましたように、幾何学的な厳密な構成が脳に作用させ、それ自体で成立つ純粋な抽象性が形成されるこのドラマ、それは瞬時に永遠と円環運動が作動し始め、画面には銀河の大気が充満する。この何とも言えない天体の運動を現前化させる。そこには眼に見えない法則が在る。この探求のためにダ・ヴィンチは徹底した観察と冷徹さ、ときとして虚無さある。それゆえあの永遠の微笑へと到達するモナ・リザ」、また円環運動、「神の設計図をみせる聖アンナと聖母子」、この壮大なダ・ヴィンチの宇宙像を観る喜びをわたしは味わう

補足:
わたしの内部意識の出来事を記録したこの「聖アンナと聖母子」は、わたしにとって特別な作品であり、絵画のなかの最高峰であると感じている。ダ・ヴィンチの作品はほとんどが未完成であり、厖大な手記は思考の絵画とわたしはおもっている。
20世紀にはいてはマルセル・デュシャンがいますが、それ以外の画家は思い浮かばない。デュシャンの絵は観念アートであるとおもえば、クールベ以後はすべて非-観念アートであると感じる。それを再びデュシャンは新しい観念アートに戻した。そんなふうに感じることもできる。それ以前は宗教アートであり、観念アートでもある。対象は描かれたものであるより見えないものの背後がテーマだった。その意味で「聖アンナと聖母子」は最高の観念アートである。



2011年12月01日

ダ・ヴィンチとニュートン「神の遍在性と運動力学」-1

GL01-101A/WilLiam Blake

アイザック・ニュートン

 

GL01-101A
「ニュートン」
1795年
40 x 60cm、ロンドン
テイト・ギャラリー蔵

 

 

 

 

 

神の遍在性と運動力学

セザンヌ幾何学を「地球のものさし」だったということを、ガスケ宛てに書いたのか、あるいはベルナールセザンヌから聞いた話を語ったのか、わたしはその経緯を知らない。しかし「大水浴1906年」を観ると、なるほどとおもう。カント的な先見的必然性を幾何学(ユークリッド幾何学)に絶対的真理として観ていたのかも知れない。

さてダ・ヴィンチのことを書こう。想いつくままにキーボードにむかって手を動かし書き始めた。ところがイメージが次から次へとでてきていっこうに纏まらない、終らない。そのためのDiagramは身体(手の動き)と思考の運動でデッサンのように幾何学的な軌跡を描くことが出来た。というのもダ・ヴィンチの絵「聖アンナと聖母子」を観れば自然と宇宙的な運動を、瞬間のなかの永遠を、円環運動の幾何学的な軌跡をベクトル化できる。ダ・ヴンチの絵を観れば視点がそのように無意識に動き始める。だれでも感じているはずである。わたしはそれをなぞっただけであると感じている。そうであるならダ・ヴィンチのことは想いつくままに書けるとおもっていたのだが、いつまでたっても終らない。そこで連関のあるイメージをわたしになりに書いてみた。遍在する神重力のことなど。神のイメージ数学的な記述とがどう折合がつくのか。そんことを考えるともう纏まらない。とりあえずニュートンライプニッツそしてセザンヌをおもいつたので書いてみた。ダ・ヴィンチの世界は専門家にまかせて思考のスケッチとして自由に書いていくことにしょう。

ダ・ヴィンチとニュートン
あるいはセザンヌの感覚について

上述しましたようにセザンヌの「大水浴1906年」を論じる場合、個々の人物の表情や女性の身体が問題なのではなく、その配置がいかに宇宙の顕現化を構成できるかという問題です。セザンヌは動的な要素を考慮するより、空間に存在するもの内部意識の、感覚の発生プラン(平面)を一つの公理系として観る。3次元の空間を円筒、球、円錐として観ようとするが、描かれたものはそれらを分解し視点をずらし、再構成し幾何学的な一つの法則を見出そうと格闘している”かたち”を観ることになる。”かたち”とは奥行次元)きの追究です。3次元にもう一つの次元(時間)を入れると、生成変化の現象学的な差異性に悩まされ、生涯自己の感覚の法則を、その奥行を追い求めていたひとだ。色は分割され一つの接線を、微分法を脳内で形成させ宇宙の全体像に迫った。絵画のなかの絵画を確立していった。まさに「近代絵画の父」というな名にふさわしい。

しかしダ・ヴィンチは絵画というジャンルにどどまらない。むしろ自然科学的な思考のダイアグラム化であり、すべての思考をデッサンし、具体的に宇宙像を示したひとである。あらゆるものを記述したライプニッツににている。むしろライプニッツヴィンチ的というべきかもしれない。宇宙は無限の襞によって出来ている。セザンヌは一本の線が無限の襞で出来ていることを感取している。その物質の波動を、奥行きとしての公理系を確かめるため「サント=ヴィクワール山」の描写に何回も試みる。構成と時間との格闘。幾何学と意識(感覚の振動)、その定理を追究していた。感覚と理論を統合すること。そんな無謀な行為をしていた。

一方ダ・ヴィンチ運動エネルギーについて思考し、そのメカニズムを追究していた。ダ・ヴィンチは運動の波形を、その振動するメカニズムを人体の”かたち”(さまざまな構成)のなかに、風景と同一のように宇宙の法則を観ようとしていた。というよりすべての物質の根源を”運動エネルギーの神”、宇宙の設計図を思考し続けたひとでした。それはニュートンに通じるものでもある。ニュートンは神の作用を真剣に思考し続けたひとでもあり、「機械的原理」はどこからやってくるのか、言い換えると数学的な記述がなぜ宇宙の原理を記述できるのか、神秘的としか言いようがないもの、それをニュートンは錬金術と関連して追究していた。これには驚かされる。あの近代科学の基礎をつくったひとなのだろうか。まさにローマ神話双面ヤヌスである。わたしは、「錬金術師ニュートン:THE JANUS FACES OF GENIUSthe role of alchemy in Newton's thought ) 」日本語訳を読んではじめて知った。ニュートン力学は今日でも工学の分野では力の単位すらなっている。自然科学を追究していたひとが神の存在を生涯追い求めていたのは驚きです。そのなかにニュートンの言葉:

神のうちにすべてのものは含まれ、動かされている

と述べている。神の遍在性(あらゆる存在の場)という言葉は何か謎めいて神秘的だ。そのことと関連して現在でも数学は発明」なのか「発見」のなか、わたしには分からない。現実の事象を記述するのにあまりに的確すぎて不思議だ。

補足:
セザンヌの構成
    
時間との格闘


水浴する女たち

 

 

 

 

 


大水浴1906年」

この絵を観ると、向かって右側の人物の肩の位置が幾何学的な構成を意識している痕跡がある(まだ決まってはいない。右側の人物は三角形の樹と見事に調和している)それをどう処理していいのか途中で放棄している。しかし構成という面ではこれ以外ないというほど肩の角度と腕の曲げ具合が決まっている。この不自然でありながら意識内部である抽象性が漸近的に接近している。生成途上にあるがゆえに、内部意識の発生を促がす未完の完成にベクトルは向かう。この厳密な構成こそセザンヌが求めていた、定理ではないのか。わたしはそんなふうに感じる。この放棄こそある原理が存在してると思えてくる。このようなセザンヌの意識は、フランシス・ベーコンジャコメッティにもある。

ウィリアム・ブレイクとニュートンについて
ウィリアム・ブレイク
ニュートンを論理的で冷たい機械論的な見方をしていた。ところがニュートンは決してそのようには観ていない。ある絶対的な原理のもとで作用する、その神秘的な現象を追究していた。法則と神的な関係を生涯見続けていたひとだ。



2011年11月12日

レオナルド・ダ・ヴィンチ(「聖アンナと聖母子」の神秘または感覚の論理)−2

GK-01

聖アンナと聖母子_スケッチ

 

 

 

GK-01
「聖アンナと聖母子」
スケッチ 1508年頃
(羽ペン、インク、黒
黒チョーク鉛白)
London
British Museum

 

 

 

 

 

 

聖アンナと聖母子の神秘

ダ・ヴィンチの絵は、なぜ神秘的に感じるのか。鑑賞者にとっては、そんなことはどうでもよく、その美しさに感動してまう。疑問などもつ必要もなく、その印象に圧倒されてしまう。なぜそう感じるのか、分析しようとおもう心がなえてしまう。美しさと気品に満ちた「聖アンナと聖母子」は感覚に湧き起ってくるものがある。しかしその一方で聖アンナの足元に胎児と胎盤が小さく描かれているという。画集で見る限り分からない。不思議な設定だ。これも全宇宙の1つの出来事として観ればいい。生命の起源、宇宙の本質的な構造の観察結果を記号的に表したのかもしれない。いかにもダ・ヴィンチらしい。この「聖アンナと聖母子」はわたしにとって特別な作品だ。その構造を是非知りたい。すべての物質が動いている。背景も(空気、山脈、樹、大地、人物など)しかも一瞬の動きと、そこに現れるものの無限の静止から瞬間移動、無限大の円環運動、この中心のどこのもない円であると同時にいたるところにある中心、永遠としか言いようのない時間を感じさせる。そのような感覚を生じさせる。

ダ・ヴィンチの五千ページにも及ぶ手記は、宇宙の創作メモであり、思考の詩ともいえる。しかもすべて未完成。デュシャンの「グリーン・ボックス」や「ホワイト・ボックス」のノートと比べるといかにその思考が凄いか分る。思考そのものが全宇宙である。ポール・ヴァレリーが「レオナルド・ダ・ヴィンチの方法論」にすべての思考を賭けていたのも分るきがする。数学のイメージは詩と繋がるところがある。それは観念であるより実体というべきか、観念が身体まで十分滲み込んだ自然数、こんな印象を受ける。そこでわたしは「聖アンナと聖母子」が数学的ともいえる幾何学的な運動を知りたい。その美しさを感じただけでは、情性的世界だけではどうしても接近できない。もっと法則的な要素があるはずだ。厳密な構成を知りたい。そんな欲求からわたしは、それをダイアグラム化したい。そうすることによって神秘のなかにわたしの感覚を参加させたい。

セザンヌだったら、画集やメルロ・ポンティのセザンヌ論などを読んで自分なりに思考し、そのような感覚がはたして生じるのか、ブリジストン美術館にでも行って確認して観る。なるほどセザンヌはある感覚に到達しようと格闘する痕跡が観える。他の印象派とはまったく違うことに気づく。生成する時間と感覚との格闘だ。これはフランシス・ベーコンジャコメッティにもある。ドゥルーズは「感覚の論理」ということでフランシス・ベーコンのこと、まるで解けない微分方程式に挑戦しているかのように接近し、何とか全体の像、存在にむかって哲学の発生以前の”感覚の論理”・・が発生するものに接近しようとする。触覚的、視覚的、身体器官、脳作用、哲学の総動員だ。言語化できないものの偶然性・・放棄。それにしてもフランシス・ベーコンの絵はどこで止めるのか、その判断はもう迷宮である。この迷宮こそわたしは神秘と呼ぶ。

あらゆる哲学は概念途上にある。絵画はその概念を超え、観念を超え、あらゆる場所からやって来る。その断片を顕現化させるとは言え、断片とは部分のことではなく、しかも全体のこでもない。いまそこに現れ出るもの、このものの全体、一瞬にして感じとる永遠の無限円環運動のようなものである。さてここでだらだら書いてもしょうがないので、結論からいうと、その全てを感じさせる絵画とは「聖アンナと聖母子」である。この絵はダ・ヴィンチの手記、(岩波文庫)」にあるものの厳密な表現である。とくに”力、運動”の項目で:

運動はあらゆる生命の源である

というダ・ヴィンチの言葉は、詩的なイメージが無限に広がりはじめる。「聖アンナと聖母子」のデッサンでは動きを追究している様子が分かる。身体の構図とともにその脇に回転する歯車らしきものを描いている。運動の源を考慮しながらイメージしてデッサンしていたのだろうか。

余談ではあるが、なぜわたしはダ・ヴィンチのこととフランシス・ベーコンのことを述べたのか、「アンチ・オイディプス」を書いたドゥルーズ(+フェリックス・ガタリ)なら当然フランシス・ベーコンのこを書きたくなるだろうと予測はつく。それと連関して「ピカソは、無明の達人である」と言った数学者の岡潔はどんな意味で言ったんだろう。そうであるならフランシス・ベーコンはどういうポジションかドゥルーズは「感覚の論理」で書いているけど、東洋人からすると論理とう言葉は何か身体的にぎくしゃくしてくる。”無”とは何か、論理を超えたところの禅問答でもしない限り、エンドレスに書(描)き続けなければならない。つまり、どこで筆を下ろすのか。その落としどころはどこか。極限の無明を感じたところか。そんなことを考えると、凄くピカソフランシス・ベーコンが重要におもえてくる。それが分かって、はじめて宗教的な体験ができる。マティスからもそれを感じる。「聖アンナと聖母子」はそのような体験がなくても神秘的な体験ができる。わたしにとってはマティスと同様、絵画の教科書であるとそんなふうに感じている。

次回は「聖アンナと聖母子」のダイアグラムを掲載する予定です。その次にピカソとマティスの違いを論じるためにその前提として書いた。カオスということからくる運動と身体の無、そこに留まり、個己の”かたち”をあくまで追い求め、それがアートであると考えるのか、それを超個己の”かたちに”限りなく近づこうとするマティス的に、あるいはジョルジュ・ルオー的になるのか、その判断基準がわたしにとって、ダ・ヴィンチであるということです。わたしにとってはダ・ヴィンチ宗教画であるより、宇宙の設計図として観ている。あえて言えば、密教的な曼荼羅(胎蔵曼荼羅や金剛曼荼羅)のように感じるときもある。どんな絵も曼荼羅的といえば、そうなってしまうが、デュシャンの「The Large Glass 大ガラス」だってそんなふうに観ようとすればできるということです。とくに「聖アンナと聖母子」は胎蔵界のなかに金剛界を、母なる子宮で思考するダ・ヴィンチというおもいもする。

ダ・ヴィンチに関する記事は、
第1回〜5回まで「カテゴリ」にあります



2011年10月24日

レオナルド・ダ・ヴィンチ(「聖アンナと聖母子」についてのメモ)−1

GG20-01

聖アンナと聖母子

 

 

 

GG20-01
聖アンナと聖母子
1502-1516年頃
板に油絵 168 x 130 cm
パリ ルーブル美術館

 

 

 

 

 

 

 

聖アンナと聖母子についてのメモ

わたしはロンドンナショナル・ギャラリーで「聖アンナと聖母子」のデッサンを観たとき、それは宇宙の構造を観ているのではないか、という深い感動だった。まるで「神の設計図」を描いているようなデッサンだった。鑑賞する行為を遥かに超え、シンクロニシティの体験だった。後で考えると、その絵を観る為のみこの美術館に訪れた、そんな感じだった。はじめからその絵を観る為に入ったのではなかった。なんの知識もなかった。美術に興味を失っていたじきだったし、具体的な対象やものに現代社会の状況を、その歪みを観せるアートには、わたしは拒絶反応を示していた。その歪が、人間性のあるべき姿を見せるためだという行為に、たとえ赤裸々に描いたとしても、それを観ても生きいきしなかった。そういう状況から遠ざかりたかった。そんなおもいを持ちつつロンドンの街中を彷徨っていたとき、なんとなくナショナル・ギャラリーに向かっていった。

そのとき、巡りあったのがダ・ヴィンチの「聖アンナと聖母子」のデッサンであった。わたしはそのデッサンを観たとき、今までにない体験を、神が存在しているのでないかと思わせるほどのものだった。遥か彼方からやって来る””この顕現化こそが、その作品だった。そこには光をとおして、大地、生命、宇宙の全てが含まれていた。ダ・ヴィンチは生涯この”宇宙のメカニズム”を追及していたのではないか。アートとは生命エネルギーのかたちを観せるもの、その時代の文化を十二分に捉え、生きいきとした活動の源となるようなもの、そんな考えがよぎった。至極当たりまえの考えではあるが、なかなかそれが出来ない。それ以来わたしは、この体験がわたしを勇気づけた。その体験が後のすべを測る尺度のもととなった。デュシャンの作品を観るとき、いつもダ・ヴィンチの宇宙像がある。ダ・ヴィンチは流体力学を、デュシャンからは熱力学を感じる。そして両者とも宇宙のメカニズムを追究していたひとだ。美しい数式ではなく、美しいものの顕現化を表現していたひとだ。わたしは美しいものが好きだ。どの生命にもそれはある。たとえそれが非-生命的なものでさえ、それを生命的に観る人間の思考は美しい。

 

画像掲載(GG20-01)はフランスにあるものです。
ロンドンにあるデッサンでは、全体の宇宙が画像
掲載では分かりにくい。色彩をほどこしてある
パリのものは、空気遠近法がこの画像からも多少
分かるとおもう。そこから全体のニュアンスが感じる
とおもい、掲載した。



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