トリスタン・ツァラ
2014年10月15日
トリスタン・ツァラ「ダダは何も語っていない」−4
「無意味な模写」
・・ではdadaとは何か。
わたしは語ることが出来ない。
そんなことをしても無-dada
芸術的行為を非-芸術的行為だといっても
無-dada
だからわたしはトリスタン・ツァラの
「ダダ宣言」ページ73に掲載してある
数字をスケッチした。
これはわたしのタダの模写。
掲載画像(JJ-15)は以前鉛筆スケッチした数字に色をつけたものです。
上述した文はその記事の抜粋した部分です。ツァラはなぜか惹き付けるものがある。
『・・理性や約束事によって満たしえなかった全空間のなかに、空気の
要請によって導きいれられる純潔な一微生物なのだ、と』
この文は、「ダダ宣言」のなかの最後の章で「ダダについての講演」です。
これが終わりの文です。すべてを語っているようで、詩的イメージが喚起されてくる、
非常に魅力的な言葉だ。「空気の要請」というイメージからわたしは後に、
作品化している。「忘却の雲の下に隠されたもの」という作品です。
「ダダ宣言」著:トリスタン・ツァラ
訳:小海永二・鈴村和成
発行所:竹内書店(1970年)」参照
2012年07月08日
人体の夜「ピカビアの多面性」−3
BH04-01yell2/メタモルフォーゼ
ピカビアの多面性
ピカビアとはいったい何者なのか、それは無ということを
自覚していた画家だ。トリスタン・ツァラのように、空-無に
飛ぶというより、そこから飛び降りた生のエネルギーを
”かたち”に変える、エロスのメタモルフォーゼ、
機械でさえも。
だから着地点はその結果に過ぎない。
どんなところでも降り立つ。場それ自体がスタイルとなる。
つまり場を持たない表現だ。それは空-無から変身した
エネルギー。その着地点とは、現れた場でしかない。
つまり意志のエネルギー態だ。このエネルギー態は
エントロピーの増大に加担する。現れるとき秩序という
姿を見せる。そこには絶えず無常がある。つまり常に
無というやつだ。表現方法はどんなものでもよい。
同じことを繰り返さない。しかし宇宙の法則を決して
外さない。なぜならエネルギーの法則に従順だからだ。
無秩序から秩序の回転を見せるエロティシズムの
機械をもっている。
それが人間という宇宙の機械をピカビアは見せる。
最初からカオスに回収された姿を見せている。
すこしも変わらないスタイルを意志のなかに持っている。
その意志は無関心の意志、その苦しみの計算機を
携えて思考するピカビアは、「心の内部の消耗」
すなわちエロスに抱かれる、タダのdadaではない。
2011年10月16日
トリスタン・ツァラ「忘却の雲の下に隠されたもの」−2
忘却の雲の下に隠されたもの
結局、置き去りにされた「Dada宣言」は色あせない。
何も表現しない空のポケットのなかに、清澄な大気の
層のなかにしまいこまれた。それを取り出すのは心が
詩を求めるときだ。詩の発生を促がすエネルギーが
そこにはあるからだ。
それは「純潔な一微生物だ」宇宙の遺伝子、空のなかに
あるそれらのエネルギーがわたし達の身体を振動させる。
それはトリスタン・ツァラの遺した記号を呼吸することではない。
それは:
『・・だれもが知るようにダダはなんでもない。僕は、
空無の真の力を理解するやいなや、ダダから離れ、
僕自身から離れた』
『・・本当を言えば、真のダダたちはつねにダダから
離別していた』
そんなことを言うトリスタン・ツァラは、空のポケットを
もってそのなかに何でもないものの、だれでもないものの
宇宙をつめこんでいたのだ。空-無の真の力を一瞬のうちに
光らせそこから去っていった。
だからそれは今も空-無のまま。
CG06-01(隠されたもの):このオブジェは、わたしの住んでいる近くの公園に前日の夜に1m^2のシートを置き霜を採集したもの。最も寒い真冬の夜空を観て、星のでていることを確認して霜のよく降る日に採集したもの。シートに付着した霜をテラスに置き太陽の光で溶けて水となったものを蒸発する前に集めて、必要な分量を濾過紙でクリーンにし、小さな試験管のなかに漏斗で入れた。分量は試験管に1/3ほど入れ、コルクで栓をし塞いた。蒸発しないようにコルクは接着剤でしっかり固めた。試験管の中に1/3ほどしか水は入っていないので振ると音がする。更に六角柱の鋳型を作り中心部に試験管を入れ石膏を流し込んだ。この六角柱の保存ケースをつくり納めた。このケースを開け六角柱の石膏をとり出し、振ると音がする。
「それは何でもないものの宇宙の音」
2011年10月15日
トリスタン・ツァラ「空無の真の力」−1
GG10-01_Dada
GG10-01_Dada
「いかにして僕は
魅力的で感じよく
かつ優美となったか」
(鉛筆スケッチ)
トリスタン・ツァラ
空無の真の力:わたしはそれに惹かれ、描くことを遠ざける思考のデッサンをするようになった。時空の同時性こんな想念を、アンフラマンスを提示すること。それを観た瞬間ある変換が起こる現象を提示すること。そんなことを想いはじめた。これはDada的な思考のダイアグラム(図表化)を作成化する。それはどんなものでもよい。トポロジー的変位の様態ではなく空無の変位、発ちあがる時空の接線であるようなもの。Dada的真空
・・ではDadaとは何か。わたしは語ることが出来ない。そんなことをしても無-Dadaし、芸術行為を非-芸術行為だといっても無-Dada 、だからわたしはトリスタン・ツァラの「ダダ宣言」ページ73に掲載してある数字をスケッチした。これはわたしのダダの模写。すなわち、それをスケッチしたわけ。しかしこれは無-意味な写経のように感じ、Dada的でおもしろかった。
・・それにDadaは何もいっていないし、すぐに真空を感じたら逃れること、滅する前に。 つまり -のことで誘発するエネルギーを身体に感じたら、おもいっきり吸い込み、吐き出すこと。
・・さて次はどうする。仏教徒にでもなりますか。レヴィ・ストロースは「自分は仏教徒だ」と告白しているし、デュシャンですら中国や日本のことを、「禅」のことを相当勉強していた。まるで禅画(Courant d'air sur le pommier du Japon, 1911年)のようなものもある。
・・わたしのお喋りはこのくらいにして「ダダについての講演、p137」の最後の言葉を掲載しておきます。それぞれが呼吸をし、宇宙の遺伝子を受けついている、この悠久の呼吸法を身につけるために。
『-ダダはあたかも人生におけるいっさいのもののようにむなしい。ダダは、人生はかくあらねばならぬといったような、どんな主張も持ってはいない。おそらくこう言えばもっともよく理解してくれるだろう。すなわちダダは、理性が言葉や約束事によって満たしえなかった全空間のなかに、空気の要請によって導きいれられる純潔な一微生物なのだ、と』
更に、わたしは次の言葉を追記する。
『-ダダはいささかも現代的ではない。むしろ、ほとんど仏教的な無関心の宗教への回帰である』
では、いささかも現代的ではないとは
過去のこと、瞬時の今のこと、未来のこと、
無関心の宗教への回帰とはどんな宇宙・・
「ダダ宣言」著:トリスタン・ツァラ
訳:小海永二・鈴村和成
発行所:竹内書店(1970年)」参照