ギュスターヴ・クールベ

2010年07月13日

ギュスターヴ・クールベを「現代美術の視点から観る」−3

FG-08A/FG-08B
FG-05A

FG-08_AFG-08_B



 


FG-05nudeA

FG-08A:Gustave Courbet
The Origin of the world,
1866
Musée d'Orsay

FG-08B:Gustave Courbet
Le Sommeil,1866
Musée d'Orsay

 

 

 

 

FG-08A:Gustave Courbet/The Origin of the world世界の起源)」の画像はオルセー美術館”にリンクしておきました。部分的な詳細画像も掲載してあります。参照して下さい。絵画を観るという行為は、驚きをもって未知なるものと遭遇する喜びと、好奇心です。この絵はそれがあります。FG-08B:Gustave Courbet/Le SommeilSleepまどろみ)」は、愛の行為のあとの安らぎ、永遠でしょうか。FG-05NudeA」は、わたしが描いた作品です。現代の視点で観るとクールベはどのような経緯で受け継がれているのでしょうかリアリズムとはいったい何なんでしょうかそんなところからクールベは今でも再発見させてくれる概念をもっています近代絵画の出発点はクールベからマネに向かいますマネは写実派でもあり印象派の画家でもありましたカンヴァスにおもいきり塗った筆跡があり、その速度と色彩を観る凄さがあります。いわゆる印象派の筆触分割の方法とは違います。後にこの塗り残しと筆跡を論理的な方法論までたかめたマティスがいます。そのことについての詳細はこのブログのカテゴリマネ、マティスを参照して下さい


さてクールベとはいったいどのようなリアリズムなのでしょうか。美術史的には写実主義ということですが、「世界の起源」は特別な作品であるとおもいます。意味するものと意味されるものとが見事に一致しています。疑問の余地がないほどです。そこで終わり(文字作用とその空虚さ)という記号論のことをいってのではありません。物質性の無限のイメージが湧いてくるのです。現代美アートでいえば、フランク・ステラでしょうか。彼のことばでいえば、「What you see  is what you see 」ということでしょう。つまり、「見てのとおり」だと、物質性そのものを見せるアートです。クールベは観念的な、寓意画の伝統を避けつつ、新たな神話「オルナンの埋葬に関する歴史画 1849年」をつくっています。これは画期的な出来事です。ボードレールの「悪の華」や「パリの憂鬱(散文詩)」などもそうですが、あの第二帝政時代の社会的背景をぬきにしては考えられません。また現代の寓意画ともいえるアンゼルム・キーファーがいます。彼の絵もクールベと類似した点があり、絵画の物質性と歴史画、現代を素材にしながら神話を蘇らせようとしていることです。

その対極にいるのがアンディ・ウォーホルでしょう。キーファー自身は、「ウォーホルは私と同じものを目指しているのだと思う」と言っています。社会機械、欲望する諸機械を念頭において語ったことだとおもうのだが。しかしウォーホルの方が自由度、強度の問題に関してはよりインパクトがある気がします。ウォーホルは社会の制度に対して倫理的な価値判断、こうあるべきだという方向性を見せない。キーファーの作品は詩的だともいえる。キーファーはとてもよく社会の制度をモル的にインスタレーションし、その状況を見せてくれます。それに対してウォーホルはすでに制度化されたものの物質性を蒸発させ、非物体的な自由な平面を見せます。運動の平面を見せてくれます。時間に還元する差異性です。モル的なものを蒸発させ分子的なその微粒子を見せる、「エンパイアステートビル」の作品がそうです。社会体である構造物の蒸発を見る平面です。これがウォーホルの凄さです。

キーファーモル的なものを抽象化する時間の操作が、詩としての構造となっています。書物にこだわる理由はそこにあるのでしょう。リアリズムとはモル的な多様体を分解させ、再領土化する弁証法的な微粒子をつくらねばならない。反転させる時間を芸術にする。クールベの「オルナンの埋葬」などそのように感じます。キーファーの作品も物質性を前面にだしながら、それとは正反対の非物質性、弁証法的な手法をもちいて(詩的なもの)へと転化させることに成功している。


FG-05ANudeA」:このわたしの作品は、エコールド・パリ時代の柔らかな質感をだすため、モノクロで淡いトーンの変化をつけたものです。クールベの画像もそれに合せてモノクロにしてあります。小さい画像であまりよく観えませんが、オルセー美術館のクールベを御覧なってくださいリアリズムということが何となくわかってきます。当時としては画期的な出来事だとおもいます。「世界の起源」はいまでも驚嘆すべき作品です。現代でもその作品は発展途上にある概念を含んでいます。いろんな経緯をへて精神分析学者”ジャック・ラカン”が所有していた時期もありました。医者でしたら、解剖学的な知的好奇心を駆られるエロティックさがあのかも知れません。

わたしはポップアートふうに仕上げたい気もしましたが、触感を誘発するもの、裸婦ではキスリングが好きなので、そのイメージで描きました。クールベの裸婦では眠りのイメージが好きです。クールベは絵画のもっている物質性から大衆を惹き付けオーバーな感じではあるけれども、そこからトム・ウェッセルマンの「グレイト・アメリカン・ヌード」シリーズに結びついゆきます。物質性の平面から観ると、もちろんマネの「オランピア」もあるでしょうし、抽象表現主義のポロックとの関係もあとおもいます。そこからアンドレ・マッソンへと辿ることもできます。マッソンはクールベの「世界の起源」をベースにして描いています。デュシャンの絵では、遺作のプランとしてストックホルム美術館にある両脚を開いたレリーフ状の裸婦の作品”着色した皮と石膏浮彫り、50 x 31cm”があります。かなりエロティックな作品です。タイトルは「1)落ちる水、2)照明用ガスが与えられたとせよ」です。

上述しましたように近代絵画の出発点はクールベとマネになります。詩ではボードレールとなるでしょう。現代の座標から観ますと、(もっともどのような古典絵画であっても現在点からしか観ることができませんが)その時代の文献や系譜を見てセグメントが横断的に作用し、現在へと時間が繋がり、ついにはわたしのなかで現代の社会体がブリコラージュされてくる、構造が観えてくる分けです。これらのものを整理して書くのはたいへん手間がかかる仕事なので、断片的なことを書いているに過ぎません。わたしのこのメモは絵画の概念を発見してゆく行為になります。そしてその概念を解体し、詩的発生の源になるものをつくりだすことなのです。

クールベを観るということは19世紀の社会体を21世紀の座標で感じ、アレゴリー的思考のパースペクティブをみるということにもなります。そして現在の言表行為の枠から飛び出し、新たな主観性をつくりだす21世紀のアート(時代)を身体に感じること。それは最も現代的なアーチストの作品を観るという行為ではないのです。そうではなくて既存の意味作用から解き放たれ、自らがアートの身体をもつということなのです。荒川修作氏の「養老天命反転地」や彼の設計した建築に住まなくても反転可能な身体をもつことなのですもともとつくられたもののなかで、つくられる身体という社会機械を追究した、石田徹也の深い悲しみからどう逃走できるのかデュシャン的な天体のエロスに逃走するのもひとつの方法かもしれない。しかし彼は社会体のなかに確りくみこまれた言表行為の逃走線を考え続けていたひとでもありました。あの「レディ・メイド」は隠された身体であるようなもの。言表行為の影の、そのまた向こう側の「アンフラマンス」・・・



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