荒川修作

2014年10月13日

ヴィトゲンシュタインと荒川修作「あるいは天命反転について」

JI-35C

JI-35C




























線(ワイヤーフレーム)の構成で反転
「X面」と「X'面」について(〜として見える/〜を見る)

しばらく眺めて見る。Xは上面で(垂直の視点)Xを底面として、Xは前面で(水平の視点)
Xを背面〜として見える。ひとつの図形(X面orX'面)が見えても、反転してしまう。
ヴィ
トゲンシュタインの「アヒル、ウサギ」についての論考を幾何学図形として画いて見る。
この反転を空間概念として構築する場合、どのような出来事が生じるのか、構造として考える。

ドアと窓は「内」と「外」の境界、「蝶番」は反転の力学的作用点である。行為は運動、
視覚は地図作成法の「外」と「内」の行為概念をもつ。脳には、空間定位の領野がある。

しかし「アヒル、ウサギ」はどうか。もし空間定位の領野が機能不全に陥ったら
どのように空間を意識するのか。あるいは意図的にその空間定位を操作した設計は、
どのようになるのか。すべてのものがblank(地図が)となり、つまり反転が起きる。

その先は、荒川修作の「建築する身体」にいくのではないか。「意味のメカニズム」から
実践へと建築設計に。すなわち行為概念の構築に命を賭けて思考していたのが、
荒川修作ではなかったか。特に芸大の講演は、まるで岡本太郎が憑依しているような、
情熱をもって語っていた。たぶん他でもそのような講演をしていたのだろう。



2011年08月29日

ルネ・マグリットのイメージ「描かれたものと言葉(詩)」−1

GH28-03B1

Gasburner

 

 

GH28-03B1
Gasburner


 

 

 

 

ルネ・マグリットの謎

マグリットの絵を観ると、一瞬のうちに神秘的な感覚が形成されてきます。この原理で、もっとも単純な構造で人々を惑わす作品があります。「これはパイプではない」という図像言葉の作品です。このパイプと言葉の奇妙な関係は、相互に反発しているのか、それとも強い力で引き合っているのか、理解不能です。断言できない感覚の眩暈から出てくる大量のイメージ、鏡の乱反射、宙吊りの状態、混乱の秩序、間違いなく感覚が一瞬のうちに統一され、方向性をもって可視的な詩をもって現出してきます。

その詩的な作用、名づけ得ぬもの、言語と描かれたものを超えて感じてくる何ものか。そんな絵画を演じさせるマグリットの装置は、迷宮としかいいようがない。それは超現実(シュルレアリスム)というより、ある作用(叙述し得る)によって””を媒体とした新たな感覚時空)が形成されてくる。一つの身体の形成、新たな言語の誕生で、それは言語と視覚の相乗効果によって眼に見えるものと、そこに現ていない見える思考(詩-考)の誕生でもある。

思考は快楽や苦痛とまったく同じく眼に見えません。しかし絵画は一個の困難を介入させます。つまりものを見る思考、眼に見える形で叙述し得る思考というものがあるのです・・

マグリットは云う。この意味を徹底して追究していたのが荒川修作です。まさに「意味のメカニズム」である。言語は身体と離反したところのものでもなく、身体は言語と離反したものでもない。ではどういうことか?それは””あるいは”Blank”のなせるわざ、時空をつくること。どのような、今あるところのもの。荒川修作なら思考のランディング-サイトというかもしれない。しかしそれは、どこにおりたつ場なのか、それが迷宮なのである。

 

「これはパイプではない」
ミシェル・フーコー:著
(豊崎光一+清水正:訳)参照

上記画像GH28-03B1 Gasburner)は、パイプから炎が強く出ている状態を描いて、その右上に「A burner child
dreads the Fire
」と意味のない言葉(ことわざ)を書いた。直感的には何かのイメージがあります。しかしそれは、わたしにも分からない。ミシェル・フーコーの「これはパイプではない」、あるいは「ラス・メニーナス」など、読むとマグリットの絵がいっそう感じることができる、ということとは別問題です。言葉はとんどんリダクションしてくる。そんな構造をもっています。その構造を踏まえて、とんでもない言葉を使用すると”禅問答”のようになってしまう。これも一つの詩であると、わたしは解釈している。



2010年10月15日

荒川修作氏のこと「マラルメの虚無からランディング・サイトへ」−5

はじめに「ドナルド・ジャッド論」と合せて読むことをお奨めします。
ジャッドの西欧的な思考と「Symmetry」の概念、荒川修作氏の
行為する建築としての概念など。両者とも建築の概念について
深く思考しています。特に荒川氏の「 Blank, Bioscleave 」の
概念とは、有機体-人間の根源を「生き生きと到来する行為」へと
導く不思議な力を持っている。


ED05-20black2

Dark Site

 

 

 

ED05-20black2
「途方に暮れて、
その星座へと」

 

 

 

 

 


 

Landing Sites

わたしは、荒川修作氏について考えるようになったのはステファヌ・マラルメからだった。それはわたしにとって重要な出来事であった。ユリイカの「マラルメ」特集号(1986年)で詩人、文学者と荒川修作氏の鼎談でした。それまで図面的に描かれた作品には特別興味をもっていませんでした。Conceptual Artのひとつとして観ていた。「意味のメカニズム」の概念をわたしはそれほど気にしていなかった。ところがこの鼎談を見て、かって身体に感じたあの異様な音が蘇ってきたのです。それはマラルメのイジチュールまたはエルベノンの狂気」を読んで身体の変動を、その振動音に驚き、音楽がきこえてきた出来事だった。この体験は身体のメカニズム、有機体-人間、共振する相互の集合が、あるシステムとして自己組織化するその振動音だったのです。それはカオスの淵・・を体験したマラルメにとって到底言語に現すことができずに、ひとつの劇を漸近的で厳密な抽象・・」というあの荒川修作氏の言葉がぴったり当てはまる緻密な散文詩で書かれていた。この経験は言語にできず「」とマラルメはいう。言語の寄集め、ダイアグラムをつくること、それは「漸近的で厳密な抽象・・」だった。暗黒に静かに身を潜め、恐怖と不安、虚無に苛まされ、必然性としての「」を、「イジチュールまたはエルベノンの狂気」を草稿のまま筐底にしまいこんでいた。

荒川修作氏がマラルメにこだわる理由は、初期の詩篇ではなく、後期詩篇でした。おもうに荒川氏の初期作品「抗生物質と子音にはさまれたアインシュタイン」を観ると、生と死が同時に感じられる不思議なオブジェなのです。しかし何かが誕生している気もします。それは時空が、意識内部のそれ自身によるそれ自身の生成が、つまり有機体-人間としてそこには反転がおきている。死滅した細胞の跡と、まだ発生はしていないが、新たな細胞の芽がそこにはある。荒川氏は19歳頃、彼自身が語るところによると死の恐怖や不安な時期で、辛い欝病になってしまったらしい。何もないという恐怖、己がどこにいるか分からない非人格性の身体、落としどころが見つからない。空中に浮いた身体から、死への道以外に見つからない恐怖、そのことを「・・マラルメは薬のかわりになったんです。そのころはこの世から出られるものなら何でもよかった」と話している。この体験はマラルメの詩を危機意識として深く理解し、マラルメが観ていたものを、どのようにそこからスタートすればよいか、Landing Siteを一生涯追究するに至る道が、すでに感覚内部ではじまっていたのかも知れない。死を反転せざるを得ない必然性を感じます。「死なないために

渡米する前の20代初期の作品は、凄い凝縮力をもった作品です。墓というイメージがでてくるのは、死の彼方以外ありえない。そこからでてくるものはひとつの元素、多数の元素や分子・・の結合された身体の静かな叫び、遠く言語をはなれてある有機体-生命の出現、人間という生命形態の出現を感じます。死への傾きであるより反転、内部意識の発生が、空気が光となってでているのです。すなわち・・をとおして現れてくるものは何。その追究を日本人には類稀な体系をもった概念形成として、思索行為をすることとなる。それが「意味のメカニズム」です。図面は思考する行為によって成立つ。たえず完成へと向かう部品の集合です。厳密な構成によって予測されたもの、それが設計図です。しかしそれでさえも予測されたもの以上の出来事が発生する。力学に限定すれば計算されたより以上の応力が発生すれば建物は崩壊する。しかし身体をどのように作動させるか、「意味のメカニズム」を問うて設計はしない。作業空間、経済空間、文化的空間、その他さまざまな空間を、その用途に応じ、想定して設計する。言語で埋め尽くされた空間からの開放であるより、身体は言語で塞がれることを望んでいる。・・を見込んで想定し、設計される。

そうではなくて身体に住み着いた言語(幾何学的な抽象も含め、あらゆる言葉)を剥がし、「漸近的で厳密な抽象・・」をかたちつくる身体へと、Cleavingするもの。それはイデー(理念)ではない。決定しないこと。それは「これでもなくあれでもない」あるいは「あれでもなくこれでもない」というように固定しないもの、たえず変化してゆく速度、空気、密度・・の流れ、「切り閉じる」外と内の身体運動の無限大の速度変化を触発するもの、すなわち「建築する身体」であるということです。ドナルド・ジャッドの建築は幾何学的イデー、厳密な数学的シメントリーへと回帰するものをもっています。この厳密な抽象・・は色彩を与えることによって、よりいっそうイコンのような神秘性をましてきます。荒川修作氏の概念は西欧(ギリシャ的な)的な哲学に回帰しないし、フッサールの現象学的なものでもない。ハイデッカーの存在論や構造主義後のドゥルール的なものでもない。特にドゥルールの哲学はひとつの呼吸法を学ぶけれども、ガタリを除外すれば、社会に対して直接触れる実践的な身体は失われる。ランディング・サイトのない永遠回帰の呼吸法でかなり泳いでいかなければならない。そこからスピノザのいう「コナトゥス」がでてくるような気もします。

そんなふうに荒川修作氏の「Making Dying Illegal 」から感じます。この本はわたしにとってスピノザのエチカ:第三部、備考」のことを想起せさる。身体、精神、運動そして言葉・・など、非常に荒川修作氏の「建築する身体」へと連関して考えさせるものがある。さてこの「Making Dying Illegal 」から生々とした生命-有機体である人間の活動が蘇ってくる。それに対して幾何学的構成(シメントリー、数列など)の建築はドナルド・ジャッドのイデー(理念)を思いだしますが、テキサス州マーファの平原にコンクリー製の巨大な作品が置き去りにされたかのように配置されている。荒川修作氏の「漸近的で厳密な抽象・・」という言葉はドナルド・ジャッドにも当てはまりそうですが、身体の運動(変化率)というテーマはジャッドの建築理念からは、結果としの身体は感じますが、そのプロセスとしての運動という建築的な身体はない。どのような建築もそのような概念は見当たらない。荒川修作氏独自の建築的行為する概念です。

実際に施工された「三鷹天命反転住宅」ですが、身体行為としての建築は「Making Dying Illegal」でその概念を詳細に記述してあり、それなりに理解できます。ところが色彩についての記述がまったく論じていません。周りの空間とは特別に異彩を放った色彩は目に付くとおもう。なぜあのような原色を使用して配置したのか。「死なないために」も色彩のことは語っていないし、荒川氏の他の書物では詳細に色彩論のことを述べているのだろうか。絵を描く場合、色彩そのものを見ることは、同時に他の色を見ていることになります。一つの色をキャンヴァスに置くとすると、連続的な反応をひきおこし、この固有色から離反します。そのとき固有色は消失し、描かれてはいないイメージの色が出てきます。色と非-色との間にCleaving(切り閉じ)が生じている。すなわち行為ばかりでなく、色のBioscleaveがあると感じる。それは「意味のメカニズム」で追究していたとおもう。色とは固有色と非-固有色のイメージによって成立つ。そのイメージのベクトルをひとつの出来事として観る。空気、流体、微粒子のスペクトル。太陽の光をプリズムで見ると、7色に分解されて見える。わたし達はそれらの色を人間という視覚機能をとおして合成された色で自然界をみている。犬はどのような色で見ているのだろうか。

この7色を(赤、橙、黄、緑、青、藍、紫など)合成される以前の色で配置すること。これは原色であって原色ではない。脳内で合成された色というべきもののように感じる。色の配置、配列「漸近的で厳密な抽象・・」であるような、ここでも出来事の織り合わせが生じている。つまりCleaving(切り閉じ)が行為されている。身体運動とともに空間をかたちつくる微粒子が流れている。それはBack groundではない。認知するもののイメージの生成に近い。一般的なビルやマンションの建物の色は、それとは逆にイメージの固定化、イメージの作用しない色、安定した色という選択がなされる。単色で色を使用することはあっても、原色を複数(赤、橙、黄、緑、青、藍、紫など)組み合わせて使うことはまずない。行為する身体はもちろんのこと、視覚をとおしても反転するという色彩の配置、配列はない。荒川氏の「三鷹天命反転住宅」では、この7色の原色の組合せで視覚をとおしての脳内の合成を促がす。そのような作用を計算して配置しているとおもえる。それは原色であっても、原色の組み合わせが色自体を変換させ、和らげ、自然が体内から生成されてくる色である。その色は原色を超える原色である。

さてわたしが荒川修作氏に興味をもった理由は、最初に述べたようにマラルメに対する見方です。マラルメにたいしては多くの研究がなされ、どれもなるほどと、思えるのですがマラルメを体験していたという、その感覚が荒川修作氏から感じられたのです。どれだけ宇宙に接近していたか分かりませんが、それぞれが、自分自身の感覚をとおしてマラルメを感じている。しかし荒川修作氏は特別な思いがあって、その当時からLanding Siteを探していた。そのことを強く感じます。でなければ「死への病」、死ぬことができないゆえに、不安、神経症、消滅する恐怖、虚無、闇、この深い病から抜け出せない。「マラルメが薬になった・・」ということは大気圏脱出のあの星座へと向かう身体の、純粋身体(牧神の午後、詩はマラルメが後にドビュッシーが曲をつくる)をとりだすニジンスキーからLanding Siteを探していたのかも知れない。虚無に到達したマラルメの観念それ自体を演(劇)じさせることであるより、演じさせる仕組みへの発生へと向かってゆく、あの「意味のメカニズム」の表現行為となる。問いそのものが発生してくる応えの感覚、これはマグリットジャスパー・ジョーンズの絵画と通ずることは当然であるが、何かの方向性をもつたオブジェクトであるより、何かの発生がでてくる問いの反応を観る絵画、すなわちそのメカニズムを追究していた。絵画における詩の発生のメカニズムともいえる。

詩的な響きを感じる絵画といえば、デュシャン、マックス・エルンスト、マグリットなどシュルレアリスムにもっとも関係のある画家たちです詩そのものといえる画家は、わたしにとってはパウル・クレーです絵画の詩とは、詩の発生を促がすものであるということです。荒川修作氏にもどりますが、多くの批評は建築に関する概念のことなのであろうか。わたしにとっては行為する詩、運動を詩に変換する環境をつくった。その哲学を後世に伝えるために「Making Dying Illegal」を遺したと、考えます。「漸近的で厳密な抽象・・」の地図作成法を、だれでもそこから読みとれるよう書き記した。哲学書とは違って、詩的な用語が多々あります。それは言語では追いつかない速度と密度をもたすためであって、用語の難解さではありません。そのような印象を受けます。かといって易しいわけではありませんが、すくなくともあの難解な哲学用語を読みとるスキルを必ずしも必要としない。荒川修作氏は、まぎれもなく詩人であり、哲学者、建築家、この宇宙の中の地球、有機体-人間の存続を継承しようとするものの行為である。それはあらゆる分野を含む。

荒川修作のことは、第1回から第5回まで連載してきましたが、必ずしも「建築する身体」の行為としての(荒川修作+マドリン・ギンズ)概念をあまり述べていません。それだけを捉えて論じることは、多分「養老天命反転地」や「三鷹天命反転住宅」を体験していないひとがほとんどであり、さっぱり分からない。 しかし「意味のメカニズム」や「TO NOT TO TODIE」を観るとその概念が体系的に連関していることが分かってきます。残念なことに「三鷹天命反転住宅」の場で身体の経験なしには、何ひとつ語れない。わたしもそのうちのひとりですが、そうはいっても手掛かりはある。それは「Making Dying Illegal」を手に触れ、読み瞑想して観る。山を歩くときの身体運動、あるいはフリークライマーの最高峰である山野井さんを観る。そこからCleaving(切り閉じ)が、岩を前にしての空気の流れ、Landing Siteの配置(知覚、イメージ、次元化など)が瞬時に行なわれる。このような特異な場としては、普通のひとには経験できないけれど、日常の場でもどこかにある。デュシャンは「ひとつのものから他のものへの移行は、極薄アンフラマンス=infra-minceにおいて起こる」という。荒川修作氏では「ランディング・サイトは中性的なしるしであり、単純で魅力のあるメモであり、それ以上ではない」というように。

 

「Making Dying Illegal :
Madeline Gins +Arakawa
訳:河本英夫+稲垣諭
発行:春秋社」参照

最後に
荒川修作+マドリン・ギンズ」のことは建築的な行為や現代思想としての21世紀の「新しい行為概念」をつくったひと、ということで重点的に論じることもできますが、もっと一般的で、上記にも書いたように、ごく日常でもランディング・サイトは起こりうるということです。・・単純で魅力のあるメモであり・・、まさに今あなたは、行為しているかも知れない。この魅力ある「行為する概念」は専門家や熱狂的なファンのためばかりでなく、生きるための行為書です。それが「Making Dying Illegal」です。この書物こそ外に出、社会のなかに浸透し、各自が行為する手引きとなる書物、死を反転し行為するLanding Site、「生き生きと到来することの書物です現代アートは、ますます流通機構にのせた見世物になりつつある今日、社会状況の係数に、固有のオリジナルを付加するだけの反復行為となってしまった。そこから脱出することを必要とする21世紀の時代は、すでに突入している。荒川修作氏はその声に応えるべくして「意味のメカニズム」という類稀な「新しい概念」を40数年前につくろうとしていた。彼こそは現代のプロメテウスではないのか。



2010年09月25日

荒川修作氏のこと「多田富雄”生命と医学”or TO NOT TO DIE」−4

FF02-01

FF02-01Still Life

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

FF02-01
Still Life

これはある状態を示したものです。
古典的な茶室に置く生け花を
掛け軸のように仕立てあげた。
切断と延長の境界、反転された
カオスというイメージです。
定点をもった存在として観ては
いけない。これはクリーヴィングする
ための予備的訓練です。所謂流動
する空気の一瞬、動いてはいるが
永遠の化象・・

Landing Sites
免疫学者であり、能の作者でもある多田富雄氏の書いた「免疫の意味論、1993年」は、専門家や門外漢のひと達にも大変感銘をうけた書物です。一方、荒川修作氏の「意味のメカニズムThe mechanism of Meaning、1963-1971、1978年」は、現代アートの世界では1970代の「Conceptual Art」の第一人者として評価されていた。わたしはこの本を今年の4月頃入手しましたが、この書物のことは、前にも書きましたので「カテゴリ」を参照してください。大変美しい光のある図面的絵画で、なるほどかなりデュシャンの影響を受けていることも分かりました。そしてルネ・マグリットのこわされたカリグラムにも、にているとおもいます。・・そうして意味を分解し、再配分された図形と言語の意味は何、・・この何という、何かが、わたしのなかでつくられてくる。混乱⇔秩序、これは新たな概念が身体をかたちつくり、また新たな身体が概念をかたちつくるものだと感じます。

これは内部観測の問題を深く孕んでいる。知覚の現象学(M・メルロー・ポンティー)からはみ出た問が、問いそのものの動きが「意味のメカニズム」にはあります。それはCleave切り閉じ)。つまり有機体と人間、これは「生命と医学多田富雄)」が荒川修作氏の追究していたことと大変接近しています。特に多田富雄氏の「スーパーシステム」という概念が興味深いです。最近読み始めた「Making Dying Illegal (Arakawa+Madeline・Gins)」ではLanding siteとはどのような行為なのか、出来事の発生をかたちつくる、Bioscleaveなど、漸近的で厳密な抽象が・

 

「免疫の意味論:多田富雄
発行:青土社、1993年
死ぬのは法律違反です:
荒川修作+マドリン・ギンズ
訳:河本英夫+稲垣諭
発行:春秋社、2007年」参照



2010年09月12日

荒川修作氏のこと「デュシャンとマラルメから、かたちつくられる身体へ」−3

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chaos

 

 

FI09-05A1
分岐と持続

 

 

 

 

 

 

荒川修作氏の作品とは、
かたちつくられる身体か

進行中の著作という意味のメカニズム1963-1971年、1978年は驚くほど時代を先取りしている。そのことを見事に序文で瀧口修造氏は見抜いていた。当時のArakawa氏の作品は、観念アートという見方で多くの評論家は見ていた。事実Arakawa氏の作品はとても美しく描かれた図面のような技法を駆使していた。この奇異な「意味のメカニズム」という書物の序文に、瀧口修造氏はいきなりマラルメの終わりから語り始める。

Arakawa氏は19歳のとき、瀧口修造氏をとおしてマラルメデュシャンのことを知ったらしい。その経緯から瀧口修造氏はその後のArakawa氏の思いを、序文に書いたのかも知れない。今から47年前のArakawa氏の出来事(作品)である。一つの数直線のように見事なほどの体系があって、概念を手探りしながら体験していった。現在でいう脳科学と身体性のことをArakawa氏はすでにはじめていたのであるそれはアートで、という限定した行為を逸脱している瀧口修造氏は、あらゆる学校から遠く離れて・・という適切な言葉で表現している21世紀にはいり
Arakawa氏の思考は、ますます必要とされてくる時代になっている。

 

「THE MECHANISM
OF MEANING:Arakawa/Madeline H.Gins
Japanese Translator:Shuzo Takiguchi
発行所:ギャラリー・たかぎ」参照




2010年05月27日

荒川修作氏のこと「消えることと、現れることの様態」−2



出来事の発生とは・・」

生まれることと、
死ぬことの同時に発生させる
時間のない、時間
それは
Blankのこと

*1) Arakawa氏は:
FORGET ANY FORM
FORGET ANY NON-FORMと、

横たわる男性の個体と気化の
混沌、空気など・・を印す。

それは一つの生と死
あるいは消滅。
存在するとは、存在すると-いえない。
では存在しないのか・・接線の奇跡

すべての言葉はトートロジー
*1)「意味のメカニズムの放射・・
それは遠い
自己原因の今、
反転された遺伝子の裏側へ

すなわち:
抗生物質と子音にはさまれた
アインシュタイン》の作品のように。

 

この本(意味のメカニズム)をお持ちのかたはpage91にでている「横たわる男」の写真を観てください。「16.検討と自己批判」です。そして「抗生物質と子音にはさまれたアインシュタイン、1958-59年」を見比べてみると、「消えること」と「現れること」が同じ次元で起こっています。もっと厳しいことをいうと「死と生」です。そこに介在する「Blank」が謎のように見え隠れしているのです。わずか22歳頃の作品です。驚くべき完成度をもった作品です。このような作品をつくると天才といわれ、たいていは夭折してしまいます。ところが感覚に身を任せず、なぜこのような感覚がでてくるのだろうか?と。この神秘を論理的に生涯追究してゆくこととなる。日本人には類稀な「美の概念建設」を、情熱をかたむけてつくりつづけたひとでした。

わたしにとって「意味のメカニズム」は図像と言説の踏み迷い、言表行為の絵画、思考の眩暈・・を体験する不思議の国アリス」です。そして「TO NOT TO DIE」の方は詩的言語の美を体験する響きをもち、それはスピノザの「精神は身体の観念である」ということを想起させます。前回そのことを「自己原因」と関連して述べました。最後は身体の体験として「養老天命反転地」へと、伸びたり縮んだりする精神と身体のワンダーランドに向かいます。Blank空白、空虚変様の様態・・お好きなように

そして最初にもどってArakawa氏の言葉で終ります。わたしはこの*2言葉が《抗生物質と子音にはさまれたアインシュタイン》の作品のことのように感じます。

*2『 Immediately following the shaping of any world,
  even a suspicion of,
the un-imaged imaging power, the blank power
to shape, to be shaped
  is re-distributing
.』

このRe-distributingは無限大の、終わりのない始まり・・であるような動的な永遠を作動させる原理、煌めく星の誕生と死、そのようなものを初期作品《抗生物質と子音にはさまれたアインシュタイン》から感じます。それは現れることと消えることの同時次元の不思議な感覚を蘇らせる。意識の永遠性のようなもの・・が、すでにこの作品のなかにある。Arakawa氏は生涯この観えざるものの探求者となる。反転とは観えざるものの現れ、永遠回帰の鏡のように観え、沈黙に呑みこまれる感動も同時にあるのです。主体の消滅・・。そこにはいまだ無いという危険性もあります。生と死のドラマを体感する煌めく図像学、意識の踏み迷いのなかに未曾有の時空を生成させる、この「意味のメカニズム」、わたしは迷路に陥る快感を味わう。謎かけ遊びの言語と図像。「意味」と「非-意味」の2重の仕掛、それは危機を孕んだ世界。この世界を情熱をもって生涯追求していったArakawa氏は、正真正銘の芸術家だ。それ以外考えられない。この世に美しいものがある、「意識とは美」だということをわたしはArakawa氏からもらった。『精神(意識)とは身体の観念である。』というスピノザのエチカを感じます。意識は身体であり、逆に身体も意識である。この身体性とは養老天命反転地の出来事のことなのでしょうほんとうに有り難う

 

*1意味のメカニズムN02)」
Arakawa and Madeline .Gins
[発行所:ギャラリー・たかぎ]91page参照
*2TO NOT TO DIE 
Arakawa and Madeline .Gins
[発行所:リブロポート]78page参照



2010年05月25日

荒川修作氏のこと「アートする身体など・・」−1

FE24-01

抗生物質と子音に--

 

 

FE24-01/Arakawa Shusaku
抗生物質と子音にはさまれた
アインシュタイン》/1958−1959年
国立国際美術館蔵

 

 

 

 

 

死なないための葬送
荒川修作初期作品展
04/17〜06/27

 

TO NOT TO DIE
死なないために

わたしはこの詩を読みました。”Blank”ということがテーマだと
おもいました。それは次元の問題を孕んだ壮大な宇宙を想起さ
せます。

「いったい”Blank”とは何だろう」と、それは空白がわたしをつくる。
わたしが空白をつくる・・の関係性へ、用意するものと、用意される
ものの同じ次元からやってくる、別次元の現れ。それは身体が
アートすること

たえず別次元のなかに”Blank”がすでに潜勢力としてある。
わたしのいう次元とは、スピノザの最初の定義のように
自己原因」を、そしてArakawa氏から身体の変様を
作用させる”Blank”のことなど・・それは:”TO NOT TO DIE”

『《Iforms a spacetime that is killed or used up
by the species as a whole
.』のように・・

スピノザは「エチカ」第3部定義では:

情動とは、私たちの身体の活動力を増大し、あるいは減少し、
促進し、あるいは阻害する身体の変様、そして同時にそうした
変様の観念である

と、わたしはそこからArakawa氏が「コーデノロジスト」であることを
強く感じた。わたしの身体は美術という名の制度からどんどん解放
され、より自由な思考をもつようになった。そしてたえずわたしを
刺激しつづけてくれたひと、それがArakawa氏だった。絵画という
分野であるより、「概念建設」であった。

 

TO NOT TO DIE
著者:Arakawa/Madeline Gins
「訳:三浦雅士/ リブロポート」参照

 

三浦雅士の訳では『《はひとつの時空をかたちづくる種全体によって抹殺されたり消尽されたりするひとつの時空を。』のようになっています。参考に掲載しておきます。味わい深い言葉だとおもいます。この”TO NOT TO DIE”はわたしにとってスピノザの「エチカ」を想起させます。最初の定義が「自己原因」からはじまります。Arakawa氏は「Blank空白空虚)/出来事event」からはじまっています。”用意するものと、用意されるもの”という無限と有限の関係性をBlankが「」を相互に作用させる。そのような感じをもっています。Arakawa氏の作品を直接体験すると、身体をとおして感じてきます。哲学もいりませんし、視覚化のみをとおして感じるという従来のアート作品の制度でもありません、美術史を学び、洗練された知識も要りません。

わたしにとってのArakawa氏の作品体験は「Blank、空虚」です。その装置は直径2m x 高さが3m位の円筒形でできたテントみたいなもので、なかに入ると外界と遮断され、完全な暗黒の世界です。 いままで見えていたものが突然見えなくなり、脳の信号(想念)だけが見える。そのときのわしの身体の動き、これは恐怖です。一瞬のBlankだったのかもしれない。可視的なものと不可視の差異、そこから発生する世界は「精神の身体観念」です。わたしを生成させる何にものかが観えてきます。この体験は強烈で今でも忘れない。

Blankは次の次元を用意する。それは『《はひとつの時空をかたちづくる・・』という体験なのかもしれない。そんな体験をさせてくれたArakawa氏は「ステファヌ・マラルメ」の詩から虚無ということをだれよりも体験していたひとであると、それ以来おもうようになった。その書物(TO NOT TO DIE:Arakawa/Madeline Gins)は、精神の身体観念とは・・の幾何学的な原論でさえあり、スピノザの「エチカ」のような響きをもっている。したがってArakawa氏はこの「公理」をもとにして建設しはじめる。「養老天命反転地」それはTO NOT TO DIE”の概念建設

5月19日ニューヨーク市内の病院で死去、享年73歳。これからも美術以外の分野でもその哲学は行き続け、意識の永遠性を美に、その概念を「TO NOT TO DIE」に書き遺したこの原論は、わたし達の財産となる。そして他の多くの作品も同様に。

補遺:
TO NOT TO DIE”を拝読し、わたしにとってArakawa氏は死去したのではなく、生きたArakawa氏となっているのです。そして初期の作品《抗生物質と子音にはさまれたアインシュタイン、1958-59年》は、わたしを感動させてくれました。その作品は生まれたてのArakawa氏なのだろうか、死後の元の世界なのだろうか、そこには永遠がある。初期宇宙の元素を採集したものなのだろうか。宇宙の遺伝子など・・


《抗生物質と子音にはさまれたアインシュタイン》の作品のことは
(「消えることと、現れることの様態」−2)に掲載しています。



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