写真

2017年10月25日

回帰と起源 「二つの球体」−2

TKL-09

二つの球体

































                                                        「神秘的な求愛」










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2017年09月27日

回帰と起源「事後性と写真の表現」−1

P013

部分と全体
























回帰と起源

視覚とは不思議なもので、いったい何を見ているのだろうか。写真に撮ればその空間の断片を写しとることは出来る。しかし夢のように何の脈絡もなく撮れた写真があるとしたら、判断できるだろうか。フロイトの夢判断のように、それを意味付けするためには言語化(分節化)しなければらない。つまり後から判断すること、ラカンはそこからフロイトの概念「事後性」の問題を見いだす。この「事後性」をラカン的に見るとすべての物事は「シニフィアンの優位」であると。つまり「シニフィアン」が「シニフィエ」を作るという事らしいが、そこで問題となるのは「シニフィエ」とは何であるのか、そのシニフィエを言語化しなければ意識の「かたち」として認識できないのではないか。すなわちこれを事後性という。そのように見るとシニフィエは無意味で解釈できない何ものか。これを解釈するのが「シニフィアン」であると、

これを記号に変換し意味作用の働きで意識に浮かび上がってくる。つまり分節化する。だとしてもその「根源-起源」は分からない。過去も未知であるし、未来も未知なるものである。これを言語化することの不可能性、それを観取する感覚の根源は何処からやって来るのか。起源は確かにあるはすだ。過去の時間的持続は無-時間の時間であるようにおもわれる。現在の視点は過去でもなく、未来でもない瞬時のあるもの。このように感じる。それを永遠という言葉で言っている。ベルクソン的には純粋持続なのであろう。デリダを学んでいる人はそれを差延として哲学的に感じとるかも知れない。しかしP-013の写真を撮ったわたしはこの写された意味するものを理解しているわけではない。

記憶とは感覚の強度としてしか言いようのない「もの」を言語化することである。しかしその強度とはかつて体験した「もの」の再現ではない。反復は確かに再現ではあるが、同一のものの再現はあり得ない。反復とは新たな強度を作るエクリチュール(クリエイティブ)なものなのである。クロソウスキー的にはファンタスムとシミュラークルの関係とも言える。シミュラークルは偽装、交換の媒体である言語によって反復を可能にし欲動を誘発する。

この考え方を写真に置き換えて、その被写体が何を語っているか、写された「もの」の起源は無限に理解不能な彼方からやって来る。微かな声を、その木霊をきいているがその姿は見えない。現実を確かに写し撮ってはいるが、見えるものの断片化された、たんなる空間の平面的複製である。しかし方向性を持つには、そこに何かを見いだす無意識の地層にあるもの(非-言語の歴史的地層)との出会いのうちに空間を感じとり、その一瞬を写し撮る。考えるより先に空間と心とが触れ合う。これも既に無意識の地層にあるものがその投影として空間を撮っているのかも知れない。鏡としての空間である。

またはその逆に空間が無意識の地層を気づかせる。両者は密接な関係にあるので撮ったものが、この内と外を明確に判断出きるわけではない。きわめて曖昧な希薄な膜を写し撮る。これは中平卓馬の「ブレやボケ」の「かたち」として身体表現の一部として、ついに写真の世界に現象学的なノエシス、ノエマを、その根源を追究していたのではないか。意識の生成のゾーンに踏み込む。こんな写真家は中平卓馬以外に考えられない。しかも最もカオスな社会の文化的テクストのなかで追究していた。

現実を写し撮る行為は詩的感性を必要としているので芸術とも言える。写されたものは現実にある「もの」ではあるが、別の意味に移行しシニフィアンの連鎖によって顕現化してくる。写真は現実の姿を見せるが、それとは別の物語を形成するメタファーでもあるわけです。見えないものをバルト的にいうとプンクトゥムの点を発見し、言語の媒介によって見えるものにする。しかしこの見えるものとは現実に写し撮られた「もの」のことではない。言語の介入により詩的となり、その起源を物語る。これをわたしは写真の「事後性」という。つまり物語りを作る。

現実的なストゥディウム的写真は社会的効果を狙ったプロバガンダとして利用される。個人的にはそれとは別のプンクトゥム的な見方もできるが、その見方ただと新聞の記事の写真は成立たなくなってしまう。国家としての政治的な方向付けをする写真である。フォトジャーナリストはそれを超え文明ー文化の係数をひたすら追い求めるひともいる。きわめて危険な場所に、戦場に行き写真をとる行為など。

写真はあまりに身近すぎるので風景の延長のように通りすぎてしまう。朝夕配達された新聞を見、そこに写真掲載されたものを見ても通り過ぎてしまう。辛い出来事の写真を見てもすぐ馴染んで麻痺してしまう。これはテレビも同じであるが、3・11の途轍もない巨大地震の出来事を何回か見ていると麻痺してくる。当事者はこの辛い出来事を一生忘れない記憶、あるいは現実空間として今も傷ついている。

写真家は方向性を明確にして、見る人に委ねる。この方向性を作品という。しかしこの方向性が無く、何の脈絡もない写真がもしあるとすると、人は果たしてその作品を見ることが出来るだろうか・・?という問いがある。しかし写真の方向性は誰が撮ろうとも必ずある。それは「もの」を写し出すからである。「もの」とは(人も含め)そこには歴史がある。歴史物、遺跡を撮るから過去と言うわけではない。「もの」とは現在を通してすでに歴史なのである。その意味で遺跡物も現在である。ベンヤミン的にいうとすでにそこにはアレゴリー的形象があり、煌く星座を一瞬のうちにして観取できるのである。

写真を見るとは「歴史-時間」を空間化する何ものかであり、しかもその起源は永遠に到達することない無-時間の過去である。彼方からやって来る過去であり、過去とは未来の出来事を写しだす現在でもあり、今も生成途上にあるフニィシアンの連鎖である。事後性とは後の意味付けであるが、これは起源の不可能性、到達することの無い過去、何処まで行っても消失点のない透視図法である。したがって思考において地図を作る。その形象はアレゴリー的な地図作成法である。ベンヤミンはアジェのパリの写真に何を見いだしたのか。その問いはアジェの写真を見ると伝わってくる。

わたしは写真に「もの」の「回帰と起源」を見ている。それは空間の断片を写真という機械で平面に定着させ、過去の無-時間性(迷路、不可能性)を固定化させる。しかし何をどのように固定化しているかは、説明することは出来ない。非常にシュールで街の移ろいやすい「もの」の変化率を、時間を空間化させた。永遠の時空の点を見せる物質的恍惚感があるとしか言いようが無い。写真をオントロジーとして見る場合「存在と時間」のような迷路に落ち込み、見える「もの」の見えない「もの」の形而上的な問いに必然的に向う。

写真は現在では多様な目的で使用されあらゆるメディアに、人文科学、自然科学、社会科学など総合的な科学の表現活動の一部としてきわめて重要な地位を占めている。写真論は人文科学的あるいは社会科学的な面をテーマとする言説が殆どですが、自然科学的な面では専門的な方法論を持っていないと論じることは難しい。しかし自然科学の写真を見ても美を感じることは出来る。電子顕微鏡の写真や天文写真など専門外でもその美しさを感じる。このように写真はあらゆる分野で利用されメディアとしての必需品である。

その意味でもし写真論を書こうとおもえば、多様性とボリウムがあり過ぎてとても難しいだろう。「写真とは何にか」などとても語り尽くせない。「回帰と起源」について少し論じることぐらいしか出来ない。過去とは何かその不思議な出来事、起源を感じているわたしにとってまさに事後性に過ぎない。どのような写真論でもターゲットを絞って論じることになるだろう。ある断片の情景をセレクトして言及する。一枚の写真あるいは数枚の写真を見てその意味作用を論じることになる。写真集ではその写真家の言葉が直接のることもあるが、その写された写真を論じているとは限らない。もっとずっと詩的な言葉で書かれていることもある。あるいは撮った状況のみで何の解説もしない。見ての通りと言うわけである。

中平卓馬のようにほとんど存在論的な、自己と他者の関係を探究するとアイデンティティとは何かその差異は何処からやってくるのか、風景と自己の生成とは一体何ものかというきわめて危険な接近を試みる。自己崩壊と風景の差異が無限大に接近する。この微分的要素は亀裂をピンボケに、最早情景を的確に写し撮ることでなく別の次元に移行している。植物図鑑であって動物図鑑、鉱物図鑑ではないもの。つまり空気を伝達する生命とは植物図鑑以外に考えられない。

静に生成する植物、この有機体生命は心を沈静化する精神に作用するアニミズムとしてではなく、中平卓馬は結局日本人は芭蕉に落ち着くということではなく、存在論的な「もの」と視覚の言語化への道を探究して行ったきわめて哲学的な写真家であると思える。対象と己との調和ではなく、その差異を無限に接近していく方法論をとった。このような写真家であるとわたしは思う。

束の間の一生を生きる微分的写真とは、その刹那を捉え己の生成は何処からやって来て、何処へ行こうとするのかその瞬間を撮る。しかしこの瞬間には永遠の過去と今、そして未来も含めすべての時間が一として顕現化してくる。多の無限の出来事を一瞬の裡に定着させる。歴史的な時間を空間化する。写真とはわたしにとって「回帰と起源」を最も表現することが可能なジャンルであると考えている。



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2016年11月16日

意味作用の消滅「対称-Xであるようなもの」

NLK-05A

2016-11-16_弁天池かも-1



































何を撮ろうとしたのか、
そこに意図はない。
池の水面に映る影、水草の枯れた姿、
秋からやがて冬を向える気配、微かに
見える緑の葉とのコントラストな色彩。
鴨をいっそう引立たすための背景でもない。
いったい何を撮ろうとしたのか、
言表行為の再領土化であるよなもの。

「・・・の意味作用から遠ざかるもの」

であるにしても、確かに見ている。




2016年11月13日

二つの要素と反復「奇妙な記号として差異生成してくる」

PHLK-18


カマキリA2


































記号(カマキリ)の記号(カマキリの影)を見る。
この二つの要素と反復。カマキリを見ているのか
カマキリの影を見ているのか、それは分からない。
反復は奇妙な記号として差異生成してくる。

着地点が不在である。しかしそれが強度として
立ち顕れてくる。統一されたある感覚が生成してくる。
これをシュルレアリスムという。

サルバドール・ダリは:
最もリアルなものこそシュールであるという。
この意味において写真は常にシュールである
その要素を持っている。





2015年12月25日

都市考学「隠された者たち」

TKL-25:隠された者たち

隠された者たち


































「隠された者たち」

そこに在る「者たち」は
すでに隠された声
球体のまま沈黙。

地球の影を模倣する
人類の道は遠近法の
思考で躓く。

それは始まりと終わりのない
円環運動のエナジーを
White Lineで標す





2014年12月05日

スタンリー・キューブリックの空間「一点透視図法の構成とは」

JJ-28-1 / Station

JJ-28-1_Station

































スタンリー・キューブリックの空間
「時計じかけのオレンジ」、「シャイニング」、「2001年宇宙の旅」、「フルメタル・ジャケット」など一点透視図法の空間で無限に続く数列のようで、その始まりは何処か、消失点へと限りなく接近する。わたし達はその消失点に向かって始点移動するが、決して到達することのないエンドレスな空間をみる。始まりを見ることはできない。その消失点の先は遥か太古に向かって、まるでビックバンの宇宙の始まりを、その出来事が脳のなかでイメージされてくる。しかも前面の像を最大限の大きさで見る情景は、さらに未来に向かって無限にエクステンションされ、その像はついにはわたし達の脳のなかに侵入し、それ自らの物体(像)のなかに溶け込んでしまう。空間自体(画面の映像)が身体化される。驚くべき神秘的空間を映像のなかで体験する。

イメージが過去‐現在‐未来として同時に展開する時空は、スタンリー・キューブリック空間の世界である。特に「2001年 宇宙の旅」は驚嘆すべき作品である。その一点透視図法の前で演じられるドラマは、空間的構成との相乗効果によっていっそうスリリングな展開となる。消失点へと向かう眼差しは、無限の過去へ、ワームホールのなかへと、そして現前で展開される出来事は、無限の未来とへと向かう。この未来に向かうベクトルが消失点の始点へと、終わることのないこの円環運動の時空は、イメージの眩暈をともなう。スタンリー・キューブリックの空間は、現実と虚構の境界を運動する神秘の宇宙へと向かう。

フィクションとしての写真
そこでわたしは一点透視図法の構図を写真に撮って見ようとおもった。条件を満たす空間は、人工的な宇宙ステーションのなかで生活する人間の営みがイメージできる、文明を感じるその場所を探した。地下鉄の構内か、高層ビル群を考えた。一点透視図法としては、高層ビル群では空間が広すぎて適切な場所を見つけられなかった。地下鉄の構内は適していたが、空気の層を感じられなかった。空間に浮いている地球というイメージはえられなかった。太陽系に属する地球上に生存する人類を、わが宇宙船地球号を、スタンリー・キューブリック的な一点透視法の空間としてイメージできるこの駅ビルを選んだ。

天井が透明のプレートで空が見える。それを写真のネガのように反転させ、宇宙空間に浮かぶステーションとして処理した。右側の壁も窓の外に見える暗黒の宇宙空間のように処理し、一部カラーにした。モノクロ写真として処理すると、たんなる一点透視図法の構図で社会を反映した写真になり、つまらない。カラー写真にしても映像的な要素がでてこない。そこでわたしは撮った画像を処理し、映像の断片として物語的な要素として見る。そのイメージをつくる写真を、フィクションとしての写真をつくった。




2014年11月03日

鉄道レール「モナドロジー」-2

JJ-27_1DC

JJ-27_1Dc


























「モナドロジー」−2
見える「もの」をコピーするために撮る。つまり写真は、見える「もの」の見えない「もの」を見るために適したツールである。コピーは鏡のようなもので、実体に触れることはない。空気の層みたいなものである。レールはアレゴリー的思考を触発するものとして撮る。そのためには断片的特質(レールの形象)を正確に写し取らねばならない。


2014年10月24日

空間と物質「プラットホームにある長椅子」

JJ-24_1f3

JJ-24_1f3























灰色のコンクリートの床、その上に濃いブラウンに塗られた長椅子、
天上には4つの蛍光灯が取り付けてあった。壁は無造作に塗られた
白い壁、  静かだ。


「モナドロジー」−1
写真を撮ること、絵を描くことの行為は、現象的な存在要素を蒸留し、詩的言語の発生を促すもの。たえず変化する物質の時間的(歴史的)なものを空間化し、あれでもなく、これでもない「もの」を見ること。過去でもあり、現在でもあり、未来でもある。一瞬の永遠を・・全宇宙の「一にして多」、「多にして一」の渾然一体となった構造を探究する。



2012年01月17日

変壊「消えることと現れること」−2

HA15_02A

変壊

 

 

 

HA15_02A
劫の点
外の線と内の線、
その区切りが
わたしをつくる。
わたしはつくられる
ものとつくるもの
とが瞬時に
あらわれる。
消えることと
あらわれることの
無限大円環性の
時空の点に
わたしはいる。

 

 

 

 

 

 

 

変壊

美しいことが、たんに美しいという受身の感覚だけではない。美しさに参加すること。それは能動的な変化を感じ取ること。やがて消えて往くものの刹那的な瞬間を捉える。何ひとつそこに留まってはいない。美の感覚さえとおり過ぎてゆく。空-無、・・それを概念化かしようとすると、たちどころに哲学となってしまう。そこでわたしは、樹そのものを被写体とせず、間接的に水面に映る姿を、そこに紅葉した色の美しい7枚の葉を選び池に落とし撮った。その葉が池に少し沈みかけていてる。わたしは美しさとしてよりも、カオスの接線を、その背後に見えない”時空”を感じるように撮った。一見すると刹那的な美しさを、日本画花鳥風月的掛け軸になるよう仕立て上げた。この画像では見えていないスケールを見る事。消えて往くものの刹那的な瞬間の背後に、それとは反対の(こう)を見る。仏教インド哲学でのとは、きわめて長い宇宙的な時間を意味するらしい。しかしどんなものでもそこにはとどまってはいない。ものを固定化してひとは安心する。しかしそれこそ無常の真っ只中で生活しているのではないか。



2011年09月28日

生と死「エロティシズム」−4

GF26-03Flower

Flower

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

誘惑するものと、されるもの
それは対立するものではなく、
融合する熱。

胎内の母

誘惑の色、それはエロスの罠、
思考するペニスはそれを知らない。
糜爛の液状化を時空化する
エロティシズムは、消滅をめざす
思考の放蕩を用意する。

柔らかい軌跡は「髪のなかの半球」を、
ジャンヌ・デュヴァルの半球の深淵を泳ぐ。
それは「異邦人」の空を、途方もない
変わり者の受粉を夢見て。

「・・私は思い出を
食べているような気がする

というボードレールアレゴリーを、
その断片的に現れるエロス
魅惑の花よ

その光の影を受粉するために
わたしは深淵の罠に落ち込む。
夜と昼が同じミューズの姿であることを
わたしは知ってる。

同性愛者のミューズよ、同じ影の
光よ、胎内の母より生まれ出る
柔らかい穂先のミューズよ、
わたしはそれを愛しく思う。

 

「ボードレール パリの憂鬱
訳:渡辺邦彦
発行所:みすず書房」参照

わたしは「パリの憂鬱」の渡辺邦彦の訳が分かり易かったので購入しました。他の訳も見たけれど、どうもしっくり来なかった。そんな経緯があります。そのなかので、特に「17-髪のなかの半球」が好きでそのイメージを描いたものがあります。上記の(胎内の母)は詩的に書きましたが、描くためのデッサンとしての言葉です。余談ですがジョージア・オキーフはわたしにとって胎蔵界曼荼羅のような気もします。それにわたしは形而上的なイデー(理念)を加え、思考の到達地点が金剛界曼荼羅であると感じている。ところがそこから両性具有というイメージが出てくるのです。男性であると同時に、女性でもある。わたしは変身してミューズのなかに入り込む男性、あるいは男性のなかに入り込むミューズ、自在な変身を、同性愛と仮定して胎内の母のなかに書いたのです。円周のどこにも無い中心(胎内の母)。この無いが、空というところに往き付きます。そんな無窮(無限な時空)の世界を瞬時に顕現化させるためにダイアグラム化したのが曼荼羅のように感じます。その意味では、全てのアートは曼荼羅だともいえます。



2011年09月21日

生と死「摸造する死の反転あるいは永劫回帰」−3

FG18-01Cicada-4

Cicada

 

 

 

FG18-01Cicada-4
「永劫回帰」

 

 

 

 

 

永劫回帰

カオスはある反転によってしか
体験できない。なぜならそれ自体
体験できないというパラドックスを
含んでいるから。しかしそれさえも・・

すべての対象を失ったとき、
脱皮するものが頭角を現す。
忍び寄るカオスの影、
強度はそれを餌に
自らを食い尽くす。
シミュラークル
それは分らない・・

仕掛けた罠は、自らの罠によって
己が捉えられる。言語はその欲望の翼か。

忘却それは摸造する死の反転
これがシミュラークルともいえない。
機械の反復作用、現れる姿、
鏡のなかに映し出された
怯える身体の予感、
まだそこに無いという振るえ。

厳かな鐘の音、時空の暗闇に
拡がる振動の影、カオスの支配下にある
震える言葉、忘却の彼方 永劫回帰、
生の反転、久遠の呼吸が生まれはじめる。
厳かな鐘の音が・・それと共振する。

しかし わたしはそれをしらない。
時空と共に抱かれた姿を
想像することも、思考することも
できない。移り行く時間、身体の共振、
二つのもの、すべてのものがわたしであると
同時に、すべてのものがわたしでない
もの、それは反転と転移・・



2011年09月09日

ジョルジュ・バタイユ「”ドキュマン”誘惑は個体化のエネルギー変化である」

GI07-01B2
GI07-02B

誘惑B

 

 

GI07-01B2
闇夜の誘惑

 

 

 

 

誘惑A

 

 

GI07-02B
闇夜の誘惑
「光を当てれば・・」

 

 

 

 

闇夜の誘惑

腐りかかった肉をわたしは砂利の上に捨てた
少し光を当てると、無数の虫が集ってきた

ジョルジュ・バタイユ:著「ドキュマン」この風変わりで奇怪な書物をどのように読んでいいのか、解釈にとまどうわたしがいる。しかしある感覚が喚起されくるのである。それは第13図の「足の親指」の拡大図である。一瞬、見てはならないものを見たという感じであった。なぜこれが卑猥に感じたのか、言葉がでてこない。それは第1図から第32図まであるのだが、この写真がわたしに一番インパクトを与えた。第31図は「蝿取紙と蝿」の写真であった。あれほど嫌われていた蝿が、情けない姿で無残に蝿取紙に捕らえられたものであった。第32図は「教会内に埋葬された修道士たちの骨で飾られた納骨堂」である。この第31図と第32図との連関をバタイユは述べている。しかしそれを読んだとしても理解できるというわけでもない。寧ろ直感的に身体の器官が作用しはじめる。この何ともいえない感覚、その感覚こそバタイユが求めてた”extase"ではないのか。ex-外へと出ること。自己を消滅させることによる一体化、自由な交感、・・を創出すること。

 

「ドキュマン」著:ジョルジュ・バタイユ
(訳:片山正樹、 ニ見書房)参照

わたしは「第13図、31図、32図」を見てあるイメージが湧き、それを表してみようとおもった。それは砂利の上に腐った4つの肉片を置き、そこに群がる虫を想像し描いた。写真の作品であはるが、死んだ動物の肉片と生きた虫の対比を考えついた。上図(GI07-02B)では暗い状態を、それも何かを待ち受けるような誘惑を、下図(GI07-02B)では少し光が当るような状態をつくった。わたしはジョルジュ・バタイユの書物を読むと、視覚的なある状態が想起されてくる。この高揚感は、わたしを刺激させてくれる。何点か描いてるので「カテゴリ」からバタイユを選んで観ることをお奨めする。



2011年08月21日

思考の果てに”空”をとりだす作用

GH20-02B

無題

 

 

 

GH20-02B
「思考の果てに」

 

 

 

 

 

 

 

思考の果てに

身体-(言語で埋め尽くされた無秩序
トートロジーのなかで人は別の
ものを探そうとする。
整理されたもの-秩序

分節化するもの、であるものが
このものという、個物化、そんな対象を
無限につくりだす言語の作用

区切り、この能力こそを離反させ、
かたちつくる。”Form  これを通して
観取可能なものへと導く。

しかしこのFormは、を含むその
ものへと向かう。何もないということの
沈黙・・を通して作用する。

詩の発生は言語の非言語を
とりあつかう空体・・のようなも。

そのものとはNothingであり、
Formであもる。

FormNothingは表裏一体の姿、
矛盾するもののなかに発ち現れる。
たえず、今ここという決定の
未決定の姿をとる。

セザンヌの未決定、マティスの塗り残し、
ジャコメッティの空虚、パウル・クレー
カオスの窓口、、さまざまなForm)がある。

 



2011年08月19日

官能的宇宙の形態は・・

GH18-02C2

トカゲ

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

官能的宇宙の形態は
意志にかかわり 障碍となる。
神秘的な形態は
知性を欠き
数学と同様
お互いの腕に抱かれる。

 

上記の詩は「母なしで生まれた娘の詩とデッサン、訳:鈴村和成」
フランシス・ピカビアの詩です。わたしの敬愛する画家です。GH18-
02C2の画像は詩の内容と関係しているのかは、わたしには
分かりません。ただわたしの抽象的なイメージです。



2011年08月08日

ウイリアム・ブレイクとウィトキン「想像し、出現するもの」−1

GH05-B1

心象風景A

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

出現するもの

どこか天体と繋がっているという
遠い声、そんな風景がある。

植物の嬉しそうな姿をみて、
おもわずシャッターを押してしまう。

それとは反対に不快感とグロテスクさを、
異質の体感をイメージさせる写真家がいる。
身体風景を撮る写真家、隠された光を見せるために
エキセントリックな構成、人体を撮る名人がいる。

それはジョエル=ピーター・ウィトキン
この異端の写真家が、わたしには美術家におもえる。
そんなウィトキンになぜか親しみをおぼえる。

Disciple & Master
暗黒の影のなかに見えない光、
そんな光景が見えてくる。
神の光、神秘、その遠い声が被写体の
グロテスクさから響き始める。
見えないものの神秘、イメージの星々に輝く。

想像することが現実となる

と、ウイリアム・ブレイクが言ったことを
ウィトキンはその想像力を写真に託す。

銀河の遠い声、消え行く瞬間の草花の
美しい力。想像力を喚起させる力が
草花にもある。その力は宇宙の響き、
ウイリアム・ブレイクの光をおもいうかべる。
道は繋がっている。

絶望の中にも光が必ずある。
あのフランシス・ベーコンの絵画のなかにも、
ムンクの絵のなかにもあるように。

暗黒の虚無さえ永遠の時間のなかで
抱かれる。この風景こそ身体のかなに
潜んでいるのではないか。

わたしはウィトキンからそんな光を感じる。
この見えない光は植物を撮っても、
わたしには変わらない何かが、
潜んでいるとおもえるのだ。



2011年02月08日

文明とは「自然と人工物(思考)の変身」-1

GB04-01_A

鉱山

 

 

GB04-01_A
文明の痕
「原生林と鉱山」

 

 

 

 

文明の痕
「自然と人工物」or
(思考の変身)

取り出されたもの、
都市とは、思考の総体
自然から人工的なものへ・・

鉱山は物質的思考の
最初の文明、
原生林を伐採し、
有用なものを取り出す。

無用なものの減少
思考のうちに、
容つくられる身体
アルゴリズムの褶曲

思考の廃棄物、それ自体が
やがてエネルギー体と化し、
遍在する情報量の地層が
出来上がる。
クラウドコンピューティング

厖大なビットの地層が
無意識機械を形成し
身体化する。
サイバネティックス全体主義

さてどうする・・

 



2011年01月17日

生と死「死は考えるものではなく、やって来る」

GA02-mantis_2A

mantis

 

 

 

 

 

 

 

 

 

生と死
(何も無いということの
身体的な意味)

何ものかが突然やってくることがある。
シミュラークルの瓦解、
それに対応できない
理性の無能力、思考の停止
身体の無、(用意されている空白)

シミュラークルは文明の、
あるいは文化の形態から
派生した歴史的、時間的要素の
集合体。

それ自体で成立し、
対象があるわけではない。

---ではアウラとは何か?

それを喪失すること
・・によって成立つ言語の海。
強度の再現 身体の擬似的空間の
さらにそのまた擬似的空間の器官化。

それを悪循環というべきか、
喜ばしき快楽の拡大、対象の無限定が
身体をかたちつくる、空集合の総体。

反応しない身体をつくり、反応する
身体の空集合をたえずつりく続ける
摸像的身体の孵化。

こんなアートがあるとすれば、
石田徹也の奇怪な図像か、
村上隆のフィギュアだ。

ウォーホルのアートはしかないから、
は死が添い寝している。
Nothingだけが観えてくる。

だからシミュラークルとは言えない。
(摸像していない) 死とは・・
表面に描かれた裏の無対象

さて死とは以前として謎だ
バルド・トドゥルの世界とは・・

 



2010年04月28日

ネットワークの夜に「cloud computing」

FD27-01

トカゲとサボテン

 

 

 

FD27-01
Lizard & Cactusor
Cloud Computing

 

 

 

 

 

ネットワークの夜に

王者は球体のCactusの上で姿を現す。
無数の棘にも痛はもたず、
無限()の尻尾をもったアルゴリズム。
暗黒の雲はCactusとなり人々を惑わす。

その王者は仮象のLizard
支配するものと、支配されるもの、
この両者はたえずローリングする。
受送信の波は空間を形成し、
非-知のなかでCactusが現れる。

それは仮象の王者Lizardを用意する。
数学的言語の4次元、5次元、次元へ、
無限大()の次元をもった数列・・・
その王者は仮象のLizard

 

わたしはこの写真から次のイメージがでてきました。エッシャーがシメントリーに繰り返し描いたワニ「爬虫類リトグラフ1943年」を想起させた。それは2次元から3次元へ、そして再び2次元へもどってゆく何とも不思議な絵です。次にCloud Computingというイメージが浮かんできた。それが仮象のLizardということです。それをリアルに現実の物に成立たせるものがアルゴリズムWizardでもあり、Lizardでもある。まさにWizard of Escher )というわけです。厳密に計算された幾何学が円環運動を発生させ、最後は「曼荼羅」へと発展してゆくイメージなのです。ようするに「宇宙の構造」との出会いとは、一つのシミュラークルをつくること。そんなふうに考えると、「美術」というジャンルなどどうでもいいことのようにおもえてくる。エッシャーとはそのような世界なのです。



2010年02月10日

Robert Mapplethorpe「身体とその眼差し・・」−2

FB-01Bl1/身体の彼方へ

R・Mapplethorpeのオマージュ

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

ロバート・メイプルソープの痕跡
わたしはメイプルソープのSelf portraitを、光と影をフレームの
中に収めた。そこには、彼の身体は写てはいない。フレームの上
に、黄金色に輝く光をカーテンのように描き、その中は暗黒に溶け
込むブルーのカーテンにした。そしてその末端は暗黒へと吸い込ま
れている。「もはやないNevermore」というポーの「大鴉」の詩が
浮かんできたのだ。放蕩者への最後の言葉が、なんと残酷な、
虚無の響きを帯びているのだろうか。このフレームの中に
メイプルソープがSelf portrait、1988年」ガウンを着て、大きな
木製の椅子に座っている写真と、オーバーラップしてくるのだ。
彼の写真はシャープで眼差しを形式化する、古典彫刻のように。


そこでわたしは、古代ローマのイメージが喚起されるフレームを台に置き写真に撮った。さらに暗黒の空間を出すため画像(FB-01Bl1)処理し制作した。性への欲望はブラックホールに呑みこまれる狂気か、永遠の静寂に抱かれる死への逃走なのか、死とは永遠の窓口なのか。そんな瞬間を見せるメイプルソープの写真は、生の形を垣間見せてくれる。そしてわたしはメイプルソープの身体を暗黒の星座へと、やがて輝きだす星を暗示させるよう、フレームの左上に光の微粒子で飾った。微かに見える光として描いた。

メイプルソープのことは(「性と身体そして形式美」−1)でも掲載しています。前回ではそのベクトルの彼方とはどこか抽象的に描き、述べました。今回も重複していることろはありますが、メイプルソープはカオスの窓を観ていたのではないか。放蕩者の眼差しを描いて見ようとおもった。しかしメイプルソープのイメージを描き、書くことはかなり難しい。何しろ身体と思考がぴたりと寄り添った写真家なので、そのセルフポートレートはどの写真家もなし得なかった様態を見せる、その驚きはわたしを感動させた。事実、ロラン・バルトは青年のセルフポートレート(1975年、右腕を大きく水平にあげ、微笑んでいる半身像)ではもっとも美しいとさえ言っている。この写真は無邪気でほんとうに素晴らしい。若くしてこの世を去ってしまった。エイズにて死去、しかしその痕跡はいまも輝いている。



2010年01月20日

Robert Mapplethorpe/メイプルソープ「性と身体そして形式美へ」−1

FA20-01gray

拡散と収束

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

性と身体そして形式美へ

性と死、そこには生きる力がある。ロバート・メイプルソープにとってセックスすることはアイデンティティーだった。若いとき、彼のセルフポートレートは輝いていた。性への好奇心と快楽と死の影。その様態をサド、マゾ・・あらゆる形態を写し撮ること。何かに拘束されたくて、解放されたい。それは身体を捉えること。この様態変化を人工的な写真の構築を試みる。一瞬のうちに解放された彫刻のように。そしてオブジェの回りをとりまく静寂、シャープな金属質の柔らかくて硬い”もの”、勃起したペニスの花。儚く壊れるもの達の光りと影。思考の発情した遠い過去の死。かたちだけが残りそれらをイデーのなかに、普遍的なものが形式化される。永遠を夢見てこのかたちにするメイプルソープ、まさしく光りと影の織り成す刹那さは男性特有の柔らかさを、勃起したペニスに花咲く一輪の花。その処女性の美は、メイプルソープのレンズを通した光りの反射と影。雌花と雄花の両方を兼ね備えたメイプルソープの花は、ナルキソスの鏡を見る。若き美しいメイプルソープは、今はもういない。そこに一輪の白いユリの花が咲いている。エイズにて死去、享年42歳合掌。

 

FA20-01gray:
この画像は外へ出ようとするベクトルと、内部へ向かおうとするベクトルの相反するもの、いわば生と死というように、同時に起きている出来ごとの「」をイメージして作制した。これは無数にあるシーケンスの瞬間を捉えた「欲望する機械」のようなもの・・その機械の背後にある何かを描きたかったので、さらにメイプルソープのイメージを、彼がいったい何を見ていたのか、具体的に身体とその眼差しを描いてみた。それは存在そのものに接近しようとする、非身体的なカオスの窓であるようなもの、そんなふうに感じます。



2010年01月03日

思考と都市「廃墟の果てに・・」

FA02-01blackA

都市工学  

 

 

FA02-01blackA
思考と自然

「夢の島地球号」

 

 

 

 

 

 

 

 

 


      神の扉
「都市の増殖と廃墟の果てに・・」

窓の向側は、まだ暗黒になってはいない。
あのマティスの「コリウールのフランス窓
ではない。2つの空間はどちらが内か外なのか
区別はない。窓を閉じる扉は確かにある。
一つの内在、すなわちそこは{神の扉}がある。
というのも、扉が身体を護り、。”カオスの襞”
いかにも自然と人工の乖離を解体する。
昼の暗い光と厚化粧の夜の光。二つの重なり
あう逃避。叫ぶ思考は閉じた「人工的なモノ」を
空に向かって無窮のビームを宇宙に放つ。

いわゆる、「人工的なモノ」が自然化する
現象とは、重なり合う死体の大きな黒い空洞を
創ること。すでに周りは砂漠の様相化している。
黒い空洞の跡におしよせるこの砂漠。
人々はそれを知っている。今日の喜びのために
明日の死体を創る。それが芸術の機械。
破壊の後の創造とは、生の死をエロティシズム
に変換する供儀、地球を破壊するとは、
ひとの「欲望する諸機械」のなれの果て・・

わたし達は何千年も前から、繰り返し
ピラミッドのような、「モノの思考化」現象を、
人工物を創っている。
もどるために・・

思考を駆使し、不可逆性と可逆性の両者を
身体に背負い生きている。それは地獄と救済とを創る・・
つまり都市化の思考とはこんな「モノ」を大地に今もつくり
続けている。 「夢の島地球号
砂漠の真中に、天にも届く思考のビーム。

人類の一本の電子ビームを外へ・・
人類の一本の電子ビームを外へと思考が叫ぶユートピア』
それは「グノーシス」ではない。
たんなる「欲望する諸機械」か・・



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