哲学

2017年09月27日

回帰と起源「事後性と写真の表現」−1

P013

部分と全体
























回帰と起源

視覚とは不思議なもので、いったい何を見ているのだろうか。写真に撮ればその空間の断片を写しとることは出来る。しかし夢のように何の脈絡もなく撮れた写真があるとしたら、判断できるだろうか。フロイトの夢判断のように、それを意味付けするためには言語化(分節化)しなければらない。つまり後から判断すること、ラカンはそこからフロイトの概念「事後性」の問題を見いだす。この「事後性」をラカン的に見るとすべての物事は「シニフィアンの優位」であると。つまり「シニフィアン」が「シニフィエ」を作るという事らしいが、そこで問題となるのは「シニフィエ」とは何であるのか、そのシニフィエを言語化しなければ意識の「かたち」として認識できないのではないか。すなわちこれを事後性という。そのように見るとシニフィエは無意味で解釈できない何ものか。これを解釈するのが「シニフィアン」であると、

これを記号に変換し意味作用の働きで意識に浮かび上がってくる。つまり分節化する。だとしてもその「根源-起源」は分からない。過去も未知であるし、未来も未知なるものである。これを言語化することの不可能性、それを観取する感覚の根源は何処からやって来るのか。起源は確かにあるはすだ。過去の時間的持続は無-時間の時間であるようにおもわれる。現在の視点は過去でもなく、未来でもない瞬時のあるもの。このように感じる。それを永遠という言葉で言っている。ベルクソン的には純粋持続なのであろう。デリダを学んでいる人はそれを差延として哲学的に感じとるかも知れない。しかしP-013の写真を撮ったわたしはこの写された意味するものを理解しているわけではない。

記憶とは感覚の強度としてしか言いようのない「もの」を言語化することである。しかしその強度とはかつて体験した「もの」の再現ではない。反復は確かに再現ではあるが、同一のものの再現はあり得ない。反復とは新たな強度を作るエクリチュール(クリエイティブ)なものなのである。クロソウスキー的にはファンタスムとシミュラークルの関係とも言える。シミュラークルは偽装、交換の媒体である言語によって反復を可能にし欲動を誘発する。

この考え方を写真に置き換えて、その被写体が何を語っているか、写された「もの」の起源は無限に理解不能な彼方からやって来る。微かな声を、その木霊をきいているがその姿は見えない。現実を確かに写し撮ってはいるが、見えるものの断片化された、たんなる空間の平面的複製である。しかし方向性を持つには、そこに何かを見いだす無意識の地層にあるもの(非-言語の歴史的地層)との出会いのうちに空間を感じとり、その一瞬を写し撮る。考えるより先に空間と心とが触れ合う。これも既に無意識の地層にあるものがその投影として空間を撮っているのかも知れない。鏡としての空間である。

またはその逆に空間が無意識の地層を気づかせる。両者は密接な関係にあるので撮ったものが、この内と外を明確に判断出きるわけではない。きわめて曖昧な希薄な膜を写し撮る。これは中平卓馬の「ブレやボケ」の「かたち」として身体表現の一部として、ついに写真の世界に現象学的なノエシス、ノエマを、その根源を追究していたのではないか。意識の生成のゾーンに踏み込む。こんな写真家は中平卓馬以外に考えられない。しかも最もカオスな社会の文化的テクストのなかで追究していた。

現実を写し撮る行為は詩的感性を必要としているので芸術とも言える。写されたものは現実にある「もの」ではあるが、別の意味に移行しシニフィアンの連鎖によって顕現化してくる。写真は現実の姿を見せるが、それとは別の物語を形成するメタファーでもあるわけです。見えないものをバルト的にいうとプンクトゥムの点を発見し、言語の媒介によって見えるものにする。しかしこの見えるものとは現実に写し撮られた「もの」のことではない。言語の介入により詩的となり、その起源を物語る。これをわたしは写真の「事後性」という。つまり物語りを作る。

現実的なストゥディウム的写真は社会的効果を狙ったプロバガンダとして利用される。個人的にはそれとは別のプンクトゥム的な見方もできるが、その見方ただと新聞の記事の写真は成立たなくなってしまう。国家としての政治的な方向付けをする写真である。フォトジャーナリストはそれを超え文明ー文化の係数をひたすら追い求めるひともいる。きわめて危険な場所に、戦場に行き写真をとる行為など。

写真はあまりに身近すぎるので風景の延長のように通りすぎてしまう。朝夕配達された新聞を見、そこに写真掲載されたものを見ても通り過ぎてしまう。辛い出来事の写真を見てもすぐ馴染んで麻痺してしまう。これはテレビも同じであるが、3・11の途轍もない巨大地震の出来事を何回か見ていると麻痺してくる。当事者はこの辛い出来事を一生忘れない記憶、あるいは現実空間として今も傷ついている。

写真家は方向性を明確にして、見る人に委ねる。この方向性を作品という。しかしこの方向性が無く、何の脈絡もない写真がもしあるとすると、人は果たしてその作品を見ることが出来るだろうか・・?という問いがある。しかし写真の方向性は誰が撮ろうとも必ずある。それは「もの」を写し出すからである。「もの」とは(人も含め)そこには歴史がある。歴史物、遺跡を撮るから過去と言うわけではない。「もの」とは現在を通してすでに歴史なのである。その意味で遺跡物も現在である。ベンヤミン的にいうとすでにそこにはアレゴリー的形象があり、煌く星座を一瞬のうちにして観取できるのである。

写真を見るとは「歴史-時間」を空間化する何ものかであり、しかもその起源は永遠に到達することない無-時間の過去である。彼方からやって来る過去であり、過去とは未来の出来事を写しだす現在でもあり、今も生成途上にあるフニィシアンの連鎖である。事後性とは後の意味付けであるが、これは起源の不可能性、到達することの無い過去、何処まで行っても消失点のない透視図法である。したがって思考において地図を作る。その形象はアレゴリー的な地図作成法である。ベンヤミンはアジェのパリの写真に何を見いだしたのか。その問いはアジェの写真を見ると伝わってくる。

わたしは写真に「もの」の「回帰と起源」を見ている。それは空間の断片を写真という機械で平面に定着させ、過去の無-時間性(迷路、不可能性)を固定化させる。しかし何をどのように固定化しているかは、説明することは出来ない。非常にシュールで街の移ろいやすい「もの」の変化率を、時間を空間化させた。永遠の時空の点を見せる物質的恍惚感があるとしか言いようが無い。写真をオントロジーとして見る場合「存在と時間」のような迷路に落ち込み、見える「もの」の見えない「もの」の形而上的な問いに必然的に向う。

写真は現在では多様な目的で使用されあらゆるメディアに、人文科学、自然科学、社会科学など総合的な科学の表現活動の一部としてきわめて重要な地位を占めている。写真論は人文科学的あるいは社会科学的な面をテーマとする言説が殆どですが、自然科学的な面では専門的な方法論を持っていないと論じることは難しい。しかし自然科学の写真を見ても美を感じることは出来る。電子顕微鏡の写真や天文写真など専門外でもその美しさを感じる。このように写真はあらゆる分野で利用されメディアとしての必需品である。

その意味でもし写真論を書こうとおもえば、多様性とボリウムがあり過ぎてとても難しいだろう。「写真とは何にか」などとても語り尽くせない。「回帰と起源」について少し論じることぐらいしか出来ない。過去とは何かその不思議な出来事、起源を感じているわたしにとってまさに事後性に過ぎない。どのような写真論でもターゲットを絞って論じることになるだろう。ある断片の情景をセレクトして言及する。一枚の写真あるいは数枚の写真を見てその意味作用を論じることになる。写真集ではその写真家の言葉が直接のることもあるが、その写された写真を論じているとは限らない。もっとずっと詩的な言葉で書かれていることもある。あるいは撮った状況のみで何の解説もしない。見ての通りと言うわけである。

中平卓馬のようにほとんど存在論的な、自己と他者の関係を探究するとアイデンティティとは何かその差異は何処からやってくるのか、風景と自己の生成とは一体何ものかというきわめて危険な接近を試みる。自己崩壊と風景の差異が無限大に接近する。この微分的要素は亀裂をピンボケに、最早情景を的確に写し撮ることでなく別の次元に移行している。植物図鑑であって動物図鑑、鉱物図鑑ではないもの。つまり空気を伝達する生命とは植物図鑑以外に考えられない。

静に生成する植物、この有機体生命は心を沈静化する精神に作用するアニミズムとしてではなく、中平卓馬は結局日本人は芭蕉に落ち着くということではなく、存在論的な「もの」と視覚の言語化への道を探究して行ったきわめて哲学的な写真家であると思える。対象と己との調和ではなく、その差異を無限に接近していく方法論をとった。このような写真家であるとわたしは思う。

束の間の一生を生きる微分的写真とは、その刹那を捉え己の生成は何処からやって来て、何処へ行こうとするのかその瞬間を撮る。しかしこの瞬間には永遠の過去と今、そして未来も含めすべての時間が一として顕現化してくる。多の無限の出来事を一瞬の裡に定着させる。歴史的な時間を空間化する。写真とはわたしにとって「回帰と起源」を最も表現することが可能なジャンルであると考えている。



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2014年12月23日

分部と全体「無数の外部世界を表象する」

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JK-06B2
















                                                               




  分部と全体

  分部とは何か、
見える「もの」と見えない「もの」

  全体とは何か、

・・の間に起こるもの
「かたちつくられるもの」と、
「かたちつくるもの」

空間と時間は関係性の
秩序として現れる。

知覚の作用によって
無数の外部世界を表象する。

そこに留まることなく無限な移行、
すなわち時空の生成として
表現される現在、

それは過去を含むもの、
未来を孕むものの現在である。



2014年11月03日

鉄道レール「モナドロジー」-2

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「モナドロジー」−2
見える「もの」をコピーするために撮る。つまり写真は、見える「もの」の見えない「もの」を見るために適したツールである。コピーは鏡のようなもので、実体に触れることはない。空気の層みたいなものである。レールはアレゴリー的思考を触発するものとして撮る。そのためには断片的特質(レールの形象)を正確に写し取らねばならない。


2014年10月24日

空間と物質「プラットホームにある長椅子」

JJ-24_1f3

JJ-24_1f3























灰色のコンクリートの床、その上に濃いブラウンに塗られた長椅子、
天上には4つの蛍光灯が取り付けてあった。壁は無造作に塗られた
白い壁、  静かだ。


「モナドロジー」−1
写真を撮ること、絵を描くことの行為は、現象的な存在要素を蒸留し、詩的言語の発生を促すもの。たえず変化する物質の時間的(歴史的)なものを空間化し、あれでもなく、これでもない「もの」を見ること。過去でもあり、現在でもあり、未来でもある。一瞬の永遠を・・全宇宙の「一にして多」、「多にして一」の渾然一体となった構造を探究する。



2014年10月13日

ヴィトゲンシュタインと荒川修作「あるいは天命反転について」

JI-35C

JI-35C




























線(ワイヤーフレーム)の構成で反転
「X面」と「X'面」について(〜として見える/〜を見る)

しばらく眺めて見る。Xは上面で(垂直の視点)Xを底面として、Xは前面で(水平の視点)
Xを背面〜として見える。ひとつの図形(X面orX'面)が見えても、反転してしまう。
ヴィ
トゲンシュタインの「アヒル、ウサギ」についての論考を幾何学図形として画いて見る。
この反転を空間概念として構築する場合、どのような出来事が生じるのか、構造として考える。

ドアと窓は「内」と「外」の境界、「蝶番」は反転の力学的作用点である。行為は運動、
視覚は地図作成法の「外」と「内」の行為概念をもつ。脳には、空間定位の領野がある。

しかし「アヒル、ウサギ」はどうか。もし空間定位の領野が機能不全に陥ったら
どのように空間を意識するのか。あるいは意図的にその空間定位を操作した設計は、
どのようになるのか。すべてのものがblank(地図が)となり、つまり反転が起きる。

その先は、荒川修作の「建築する身体」にいくのではないか。「意味のメカニズム」から
実践へと建築設計に。すなわち行為概念の構築に命を賭けて思考していたのが、
荒川修作ではなかったか。特に芸大の講演は、まるで岡本太郎が憑依しているような、
情熱をもって語っていた。たぶん他でもそのような講演をしていたのだろう。



2014年10月08日

Dante's Divine Comedy「神曲 ダンテ(挿絵ギュスターヴ・ドレの魅力)」

神曲 ダンテ」の挿絵を描いたギュスターヴ・ドレは魅力的である。神話を思考するのにドレの挿絵を見て描いて体感する。ドレダンテの思考をシンクロすればとおもい、わたしはこの本(訳:谷口江里也)を購入した。この名作を読む楽しみと、挿絵をみる両方の楽しみがあり、ドレの挿絵は木口木版でその技法に驚く。色はモノクロトーンなので、どうしても夜の感じか、明け方の印象をもってしまう。あるいは白が多い場合は真昼の感じがしてしまう。それでもイメージが広がるので、かえってモノクロの良さがよく出ている。わたしはギュスターヴ・ドレの挿絵に色をつけ、見えない光りの効果を出してみようと、色の素材としてパステルを選び描いた。水彩はいったん色を置くと、修正が出来ない難しさがある。透明水彩は特に重ねた色の効果を技法として駆使し、美しさを最大限にひきだす。あのギュスターヴ・モローの水彩のテクニックには感嘆する。実に美しい。ターナーの水彩画も素晴らしい。わたしはそのようなテクニックがないので、今回は断念した。テクニックとは才能のことです。


JJ-06A_神曲-地獄篇




































絵のスケッチは、ドレの「かたち」をそのまま模写するのではなく、アレンジして背景もより抽象化し、装飾的に描いた。ドレの別々の挿絵を二つの部に分け、上部は空間的に山岳の風景を、パオロフランチェスカの愛を永遠に、パオロフランチェスカの後ろから優しく抱き、フランチェスカはそれに応えるように彼の首に手を沿わせる。そして彼の眼をじっと見つめている。むしろダンテベアトリーチェの再会のように。

神曲ではフランチェスカ夫ジェンチオットに二人は胸を刺され殺されてしまう。『パオロとフランチェスカ、風に飛ばされていつまも、互いの愛に身を委ね、遂には死を招いた二人、吹きよせられる辺境(はて)も無く、だだ吹き飛ばされて、 風の中』とう内容です。互いに愛し合う故に悲劇となってしまう。ドレの挿絵は厳しい様相で描かれている。それとは違って、わたしは二人の穏やかな様相を描いた。ウィルギリウスは若くしてこの世を去ったベアトリーチェに頼まれ、ダンテを地獄、煉獄まで、迷わぬよう導く。ベアトリーチェとは「愛と美の女神」であでり、それを推めた至上の愛「母なるマリア」であり、「光りの聖女ルチア」である。 

                      

JJ-05A_神曲-地獄篇
































上部の絵は全体図の部分詳細です。明るい山岳の岩をオレンジ色に、遠景は少しブルーがかった空気遠近法で描き、左のグリーン、オレンジ、赤の色のアーチ型の帯は大地と空の雲を結ぶ象徴として描いた。このラインに多くの人物像を描くために下絵としてスケッチした。天まで上昇する人々と下降する人々の、天国から地獄への相反する様相を描き、動的な流動するものとして下絵としてスケッチしたが、いずれも旨くいかない。ウイリアム・ブレイクやドレの絵が浮かび、とてもわたしの技法不足では表現できなかった。それで抽象的で幾何学的な人物像を想定したが、構想スケッチで断念した。その構想は固定したものでありながら、イメージのなかで運動するものとして。しかし全体のバランスがとれず失敗作です。部分図も単調すぎた。しかし色彩の柔らかさはでているのでよしとする。

さて下部の部分詳細ですが、ドレの挿絵では争っている人々が沢山描かれています。この挿絵では特に各闘争している人物像は、相互の関係性は無関係に描かれている。ドレは争うパーツを個別にデッサンし、それをもとに配置したとおもわれる。この構成方法はニコラ・プッサンも個別に人物像を研究し、総合的に配置する。二重分節的構成法である。この方法も後のジョルジュ・スーラも個別に人物像のステュエーションを研究し、配置してる。一見相互に無関係のように見えて、冷たく感じるが、そのことによって全体像はイメージへと結びつき、知的な構造をもった絵画となる。「アニエールの水浴」や「グランド・ジャット島の午後の日曜日」など見事な配置構成となっている。

デュシャンスーラを高く評価している理由は、この知的な構造と神秘的な宇宙像である。さてわたしはこのドレの闘争している多くの人物像から画面中央の部分を抽出し、上部の絵と同様顔の表情は描かず、暗示にとどめた。背景は多くの人物像を描くのではなく、波のうねりを抽象化し描いた。ドレの挿絵は岩々で厳しい山岳風景である。この絵では5人を古典的な色彩調で描いた。ドレの挿絵をそのまま模写するのではなく、「」をつけ「かたち」を変え、無限という意味を「人間のかたち」を通してみることでっあった。これは古典的な見方で近代絵画以前の概念である。ようするに神という思考を通して観念的に見ることです。現代アートが観念的に見る行為とはとしてではなく、新たな観念を構築する。その概念を再構築したのが「デュシャン」ではないかと、新たな観念をつくった。その前にダダシュルレアリスムがありますが、これは20世紀の新たな神話です。観念の最高峰としては科学的な思考をもつレオナルド・ダ・ヴィンチです。「最後の晩餐」もいいですが、特に「聖アンナと聖母子」、「モナ・リザ」は最高です。永遠、無限という神秘があります。神の設計図のようで神話的です。

翻って現代アートを見ますと、この神話という部分が抜けてしまうと、たんなる言表行為諸記号に従属し、領土化された「身体-意識」のグロテスクインスタレーションとなってしまう。社会諸機械身体的諸記号と化した亡霊のような身体になってしまう。石田徹也のアートはその意味で非常に厳しい作品です。しかし彼は『聖者のような芸術家になりたい』と言っていた。これは神話を創りたいという意味にわたしは捉えます。現代アートは「パロディー」、「ユーモア」、消費経済係数の感覚化としての「フィギュア」、「ゆるキャラ」これ以外のアートをつくろうとすると難しい。諸記号に従属した擬似的身体化(シミュラークル)快楽を味わうゆとりを失うと、身体は乗っ取られる。あの「飛べなくなった人 1996年」、拘束された悲しみを見ると非常に厳しい時代だなと、おもいます。その意味でわたしはずいぶん昔に描いたこの絵を見て、神話とは何かということを再確認したい。そのために当時描いたこの絵の思考プロセスを忘れないうちに書きとめた。

補遺:
現代アート
経済身体-意識を深く思考する
社会諸機構のシステムを擬似的に装置としてつくりインスタレーションする。しかし経済至上主義資本主義のグローバル化のなかで作品をつくる行為は、そのシステムからブレイクスルーするはそうとうしんどいでしょう。むしろその帝国に応える。上述したように「パロディー」、「ユーモア」、「フィギュア」、「ゆるキャラ」で欲望する諸機械のシミュラークルをつくる。「ふなっしー」などは現代アートとしてわたしは見ている。消費経済と感覚を等価に見るその思考は、資本主義機械の諸記号に従属した身体化ともいえる。経済と現代アートの関係はいずれ論じたいとおもう。



2014年09月29日

マネの絵画「アルジャントゥイユのタブローとは何か」

「アルジャントゥイユ」このタブローは「マネの絵画」論でフーコーがフォーマリズム的な解説で、構成要素のスケルトンを少し述べて、後は何も語っていない。最もフーコーのマネ論はバタイユのように文学的には論じていない。より構造的に論じている。それが非常にイメージの拡がりをもたせ、絵画の可能性を感じさせてくれる。バタイユのマネ論はボードレールが頻繁にでてきます。ボードレールの散文詩「パリの憂鬱」のなかに出てくるマネのことに関して書いている「紐」は、辛辣です。


JI-02マネ_アルジャントゥイユ



































JI−02
「アルジャントゥイユ」1874年
カンヴァスに油彩 149 x 115cm


フーコーの「アルジャントゥイユ」で論じているキータームは「戯れ=ゲーム」です。タブローが現実空間の印象をカンヴァスに定着させる行為でないことは、この絵を見ればわかるとおもいます。タブローそれ自体の自律性があります。現実空間との類似で絵を見ようとすると、どこか異次元の空間を感じてしまう。当時の人々は、この絵を見て背景の水の色は壁のように平面的に見え、評判がよくなかった。しかしこの表現こそ現代アートの概念がすでに含まれていたことがわかってきます。

エドゥアール・マネ(「鉄道」、「フォリー・ベルジェールのバー」その装置と現代アートとは」)-2・2

マネ論は「カテゴリ」から選択か、上記でも論じているのでそこをご覧下さい。



2014年08月28日

等価交換「拘束アートとしての原理」

JH-02/サーカス

等価交換orサーカス

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

サーカスとは:

内的拘束と外的拘束の鬩ぎあいである。



2014年01月08日

ウィトゲンシュタインのこと

IE24-05 / Untitled

IE24-05Untitled

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

記号として:
『われわれは、自分たちの眼前にすでに
公然と横たわっているものを理解しようとする。
なぜなら、それをわれわれは何らかの意味で
理解していないように思われるからである。
(哲学探究、89)』



2013年01月16日

Michel Foucaultの鏡「ラス・メニーナスのこと」−3

FA21-Mirror-X3

In the mirror

 

 

FA21-Mirror-X3
「鏡の中の焔」

 

 

 

 

 

 

鏡の中の焔

かってそうであった出来事が
鏡の中に入り、記憶の彼方へと
置き忘れる。身体の痛みがこの
場所に、微かに残っている。
忘却された回廊。

言葉の痛みが鏡に映しだされる。
そのときようやっと身体の模倣が
はじまる。ひとは、それを確かな
証拠として提出するのだが、
すでに遅れている。

差異・・こんな反復作業をする
記憶は、わたし達の消えた痕を探す
天文学の数字、何億光年の
事象を観ている。

わたし達は記憶を探すために探し、
消え、発見すると、たしかにともし火が
目の前に現れる。触れ逢うものは
すでに鏡の中に入っている。

この深い悲しみの不可能な記憶は
夜明けのまえに、入らねばならない。
すでに鏡の前に多くの言葉が、
散りばめられている。

そしてようやっと現前化する言葉は
「鏡のもの」が「出来事の発生」から分離し、
表象関係の純粋性が発生しはじめる。

 

FA21-Mirror-X3の画像について:
Michel Foucault
(フーコー)のことは「マネの絵画」で前に掲載しましたが、今回ベラスケスの「ラス・メニーナス(侍女たち)」のテーマはなんどろう。そうおもうと鏡がイメージされてきました。それはわたしにとってフーコーのとなのです。そこでわたしは、自然発生的に焔が出ているように微かに灯る焔を描いた。蝋燭の焔だと、何か宗教的なイメージが湧くのでやめたわけです。鏡に映し出された焔の位置は右側に少し移動して描いた。シンメトリーに描いてはいない。マネの「フォリー・ベルジュールのバー」を考えること。深く・・



2012年10月28日

孤独とは有限の境界線のこと

HJ14-01

walker_C

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

孤独のかたち

孤独の”かたち”とは有限の境界線のこと。
それは無限のものへと向わせる接線の闇、
そこで留まり、分離されたものが無関係な
空虚なものとして見えてしまう。

一つのもの、分別された対象を言語で
埋め合わすこと。哲学の発生を促す合理性、
どこへ往こうとするのか、思考する。
二つで一つのもの、有限と無限のふらつく

トートロジー

無限の空間を掴むとは、意識内部の
出来事を外へと放り投げること。

すなわち孤独の深い感覚に耐え、
じっと観想すること。すると部分と全体が
等しいことに気づく。脱-合理性の変換が
起きる。

闇が光だし、円の中心は一点ではなく、
いたるところにある無限の円、その点である
有限の自己と同時に無限の非-自己が、
生成されてくる。

この運動をとおしてのみ無限の空間を、
直感することができる。しかしそれは
困難で漸近的に、その接線へと近づいて
往こうとする意志の運動にゆだねる。

この意志の運動こそ天体の法則に
従って生きていることに気づく。
地球の呼吸音をきくことができる。

銀河と身体の鼓動が一体となって
包まれる。孤独をいっきに取り去り
その喜びに満ち溢れる。



2012年10月23日

神話の世界「2つの意識」ー6

 AK2502-O3

再開C

 

 

 

 

 

 

 


 

 

AK2502-O3:「再会」

意識の再会:
2つの意識はときとして思わぬところからやって来る。
それが誰であるかもわからずに再会し、自分の意識と
意識の間にずれが生じる。過去は時空を超えた未来
でも在りうるし、現在でもある。しかしいつも現在の
時間としてそこに寄り添う。他者と自己、この区別は
できない。わたしが、わたしに再会している。これを
内在として見ることもできる。つねに2つで1つである。

 



2012年06月13日

情報伝達のForme「記号の場景」−1

HF13-01B

言葉の場景

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

出来事の発生
どんなものでも意味として捉えてしまう。「だから見てのとおり
無意味なものを描けない。本当に「無意味なもの」を描ければ、
どんなものでも対応できる。芸術はその反対のことをしている。



2012年02月01日

非-体系的に見る事への移行

GI02-01

遠隔j装置

 

 

 

 

 

 

 

 

 

”空”
強度の配分

何にものにも作用を与えない
流入するものと、流出するものでもない
それ自体というものでもない。

経験を揺さぶるもの、未体験のものの
領土、方向性をもたないことによる
限界-当のものが発生してくる。

感覚が強度の配分を決めるのか、
強度の配分が感覚を決めるのか、
比率の反射・・さらに共鳴

つまり現れてくるもの、延長量と
強度量(内包量)の不均衡、
例えば、GI02-01(図像)はどのように
知覚するのか?
空間(時空)物体/線分/意識など・・

物理的なものと、空間的な延長を
もたない量・・との関係、
ひとつの位置エネルギーを持つ、
電位の不均衡

経験的なのもがなくなり、感性、
美的な判断から離反し、与えられた
条件の地図作成法をつくること。


日本庭園の対象は、自然的人工の劇場の””自然化である。実在する自然の模倣を超えて、抽象化された自然。これは”もの”その”ものへ”ということではない。自然への類似を不在化するもの。そんな形体を追究すれば、白砂と石の組み合わせの表現へと行き着く。あるいは白砂を円錐のかたちに積み、サイズの違う円錐を配置する。同じ素材の白砂を敷地に詰め、その周りを波形のかたちや円形のかたちで表現する。それはミニマルアートとどこが違うのか。

という思想を体験しなければ、概念だけでは難しいでしょう。芸術にしたてあげれば、禅の思考から遠のくし、非-芸術にすれば、ただの”もの”。それも”存在そのもの”ということではない。”もの”はすこしもそこに留まってはいない。さてどうする。禅を芸術的に表現すればジョン・ケージか。多くの人がそれを見て楽しむことができる。日常にしたてあげなければならない。そんなことが可能というのは、現代芸術では困難がともなうケミニュケーションである。



2012年01月29日

出来事「すべてのからくりが転回する」−4

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窓の顔F

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

すべてのからくりが転回する

出来事1~3までの連載は、最後に「現代アートの方向性」を
述べるために図像を載せ書いた。それはオクタビオ・パスの言葉で:

『*1.絵画の言語はその意味を他のシステムの中に見出す記号システムである』、また『*2.絵画が表象の専制から解放されると、エクリチュールの隷属のなかに陥るほかはない

ということです。つまり、外の世界が内部の世界へと接続されず、五感の機械的な作用だけが動く、どこにも行き着かない。ただ強度のトーンだけがのこる。世界をもたず、対象のない強度、シミュラークルですらなく、イコン的な理念さえもない。背景に人の顔らしきものを抽象的に描がいてはいるが、これは絵画ではなく、たんなる色彩の強度と形体のイメージ、しかしこれが何であるのか探しまわる感覚的な機械作用がある。言語へのエクリチュール的な隷属になる図像さえも、通り越し、この機械は瞬時に対象がないことを観る。これは無というわけでもない。ただ現前に見える光景を展開しているだけ、という出来事がある。わたしはその無対象の発生がある意味へと導き出す作用を図像と言葉で記述した。絵画論的になることをさけ、できるだけ詩的な感じになるよう短文にした。わたしはオクタビオ・パスのいう*1、*2をさらに進めたのが、荒川修作氏であり「意味のメカニズム」であると感じている。まちがいなくデュシャンの意志を受けついている。芸術だけはやるなという意志だ。

 

上記*1、*2
「マルセル・デュシャン論」
著者:オクタビオ・パス
(訳:宮川淳 柳瀬尚紀)参照



2012年01月23日

出来事「眼で思考する原理と詩」−2

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窓の顔A

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

眼で思考する原理と詩

視覚が思考へと接続できない
思考しようとすると反転が起きる。
表面のまたその表面を見る。
強度の非-強度、それ自体の反転
を見る非-出来事の出来事、
アリスのトランプの裏側へ印された
後に・・わたしを見る反転



2012年01月22日

出来事「自然は言語化によって反転する鏡である」−1

HA27_02

窓の顔D

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ゼロを食べたがっている身体

わたしは見る、何を・・そんなことは分からない。
自然を模倣する非-自然を見る。言語の芽生え、
強度の代理物を、諸衝動の身体化を
内部では何事かと、言葉が騒ぐシミュラークル。

おそらく反転は起きている。(出来事)とは、
無数の言語による合成された身体化の形象
それは帰還すべき叫びを、ゼロへと向かう
呼吸する身体化をすでに用意している。



2011年08月21日

思考の果てに”空”をとりだす作用

GH20-02B

無題

 

 

 

GH20-02B
「思考の果てに」

 

 

 

 

 

 

 

思考の果てに

身体-(言語で埋め尽くされた無秩序
トートロジーのなかで人は別の
ものを探そうとする。
整理されたもの-秩序

分節化するもの、であるものが
このものという、個物化、そんな対象を
無限につくりだす言語の作用

区切り、この能力こそを離反させ、
かたちつくる。”Form  これを通して
観取可能なものへと導く。

しかしこのFormは、を含むその
ものへと向かう。何もないということの
沈黙・・を通して作用する。

詩の発生は言語の非言語を
とりあつかう空体・・のようなも。

そのものとはNothingであり、
Formであもる。

FormNothingは表裏一体の姿、
矛盾するもののなかに発ち現れる。
たえず、今ここという決定の
未決定の姿をとる。

セザンヌの未決定、マティスの塗り残し、
ジャコメッティの空虚、パウル・クレー
カオスの窓口、、さまざまなForm)がある。

 



2011年01月18日

生と死「模像する死の反転」-2

GA18-01Cicada_4

Cicada

 

 

 

 

 

 

 

 

 

生と死
(模像する死の反転)

生とは・・そんなことは語れない。
死とは・・そんなことも語れない。

では何が語れるのか、
現れるとき、もうそこにはいない。

強度 そのまた影の生き物
残像・・の再現でなはない。

あの器官に住み込んでいる
言葉の彼岸の声・・言霊、
祖先の光と影の1回きりの摸像。

神の影に怯える、反転された生の死。
いまここに聞こえる光の空間に
錬る思考の脚は動く。

 



2010年10月25日

物を描く事とは、物のイメージであり、そのBack groundである

FJ22-02line1A-C

出来事A出来事B出来事C

 

 

 

 

 

 

物を描く事とは

a)物を描くことは、必ずしもその物を
 描く必要はない。その物のイメージを描く、
 それはBack groundであり、
 ときとして、木々を描いてもそれが海の
 イメージへと結びつくことがある。
 どんなものでも意味へと関系する
 言葉のネットワークが身体に
 こびり付いている。堆積、地層、
 歴史は過去ではないし、
 現在の分身でもある。

b)断面図は地層のかたちを観る
 観えない全体である。
 断片の集合、言葉、線、色など
 それらが統一され調和する機能、
 すなわち、カオスから組織をかたち
 つくる外と内の区分が生じる。

c)言葉は分離され、浮遊する
 無-意味な殻をもちあわせている。
 それに秩序を与え方向性をもたせる
 と、空間化された内部意識の
 出来事が発生する。それ自体の空間化、
 フィクションとも言われるが、
 もともと本質を観るということが
 曖昧なのである。水についての
 イメージは語れるが、
 水そのものについては語れない。
 



2010年08月24日

カオスの関数「内部意識の比率」−2

FH22-01/比率

比率

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

内部意識の比率

コンポジション
不安定なものが”かたち”つくられる運動は、
カオスと生命のそのバランスを観る比率。
つまり”つくられる”という内部意識の発生をともなう。
それは過去を、未来を、そのどちらでもない
現在の曖昧さが、フォルムをつくる。
押しだされた根源。

これは差異ではない
強度の線が散逸するのは他のものの比率の結果である。
しかしその内部意識で何が起きているか、観ることは
できない。それ自身は何も語らない。

エンドレスな出来事としての線
水平線、あるいは垂直線は、限界と無限のどちらにも属さない。
線分の概念は、端がないとしても数学の出来事、
ゲームのルールと同じように、直感は働く。

水平線の強度
上下の強度を誘発する境界、上のカオスと下の退化は
局所的な領土の再配分が行なわれている。すなわちカオスの
領土へ、上下の線の解体へと向かう。それはゴッホの
「青い空の下の麦畑」のように、空へと続く麦畑。境界線、
意志の限界、向こう側。・・尚それを観ている精神の秤。



2010年05月17日

絵画における形態とは「”可視的な物”の不可視化である」

FE16-01

切られた音符とハサミ

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

Untitled

 

切られた音符とハサミ

それは可視的な物が無意味へと作用させる
構造をつくりだす事である。フォルムは必ずしも
対象をもつわけではない。眼に観えない物の
思考の空間化でもある。不可視の機能を持つ。

そのためには可視的に配置された物が
類似や相似(二つの意味の違いはあるのだが、実際には
区別はできない)などの意味作用を空中に置き去りにし、
別の思考が発生しはじめることが必要である。

そのとき「置き去りにした物」と「思考の空間化した物」との
差異をつくりだす。これは不可視のものが可視的となる
ポテンシャルをもったタブローであることが条件となる。

この原理は物を統合する思考の裡に形態をつくりだす
眼に観えない、非対象の空間化、どこにもない物、
脳の不可思議な現象というほかはない。



2010年02月26日

時間の部屋とは「見えないものを見える想念となるようなもの・・」

FB25-01/赤い時間の部屋

赤い部屋

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

赤い時間の部屋

・・発掘されたこの円環運動の軌跡は、思考の前に座っている。
わたしがみいだしたものは一点の無数の永遠性、時間の微粒子
だった。嘗て遇ったものが、存在と非存在の間ですべてが消え、
堆積された地層は不定形な浮遊した思考の島(身体)をつくる。

凝固したものは時間の昇華を発生し続ける。
それは忘れ去られた大気の時空となり、解明されぬままに
わたし達は呼吸している。その大気の書物を視覚空間として
捉えねばならない。わたしはそれを”見えないものの
思考絵画と呼ぶ。

絵画が思考となるとき書物となり、思考が絵画になるとき
見える思考の絵画となる。対象が見えないことによって絵画となり、
その連関作用が時空の微粒子をとらえる。詩は言語によって
現すことができない言語をとりあつかう。見えないものへ語らす
沈黙、マネの絵画のように。その意味においてわたしにとって
絵画も詩も同じところからでてくる、別の視覚言語にすぎない。

思考の無限性を”見えるかたち”にするには、どのような
ものでも”現前化しているものとは違った”見えないものの
見えるかたちにしなければならない。

デペイズマンとはシュルレアリスムの手法とは限らない。
わたしは地層化された内部から永遠の時間性を、その目録を
見る身体の言語へと、「赤い部屋の時間」をつくらねばならない。

強度の永遠回帰を、昇華している気体の言語を、その粒子を
感じるとるために凝固させるのである。昇華を見えないものの、
見える思考にかえねばならない。視覚作用を十全に活用する
絵画の技法とは、その彼岸に横たわっている神秘を発見
してゆく作業なのである。



2010年02月23日

こわされたカリグラム「マグリットの平面」

FB23-01B/-01R

blue shoesred shoes

 

 

 

 

 

 

 

青い鳥と赤い鳥

わたしは青い靴と赤い靴を描いている。
脚も同色で描いている。ありえない脚の色、
靴の色はリアルにあるかもしれない。

わたしが描いているものは靴ではないし、
それを履いている脚でもない。

青い鳥と赤い鳥」を見えないものの
見える思考を描いているこの言表?
隠されたもの・・

いったい何を描いているのか

それは詩(絵)としてのタイトル
青い鳥と赤い鳥」を描いているのか?
隠されたもの・・

描かれていないものの、描いている
思考を現前化する、
それはトートロジーのようなもの。

 



2010年02月14日

絵画とは「視覚を通し、視覚を分離し純粋表象の出来事を創る」

FB12-01/秘めたるもの

空間に立つ人体D

 

劇場としての哲学

---深層への拡がりを持つ物体の
限界点で、出来事は非物体的で
ある。(形而上学的表層)物と言葉
の表層では、非物体的な出来事は

 

 


命題の意味となる(論理学的領域)ディスクールの連なりにあっては
非物体的な意味=出来事は動詞によって留められている
(現在の不定法的な点)----

---出来事の系列と幻影の系列とを共振させねばならない。非物体
的なるものの系列と、触知不可能なるものの系列とを共振させねば
ならないのだ。どこまでも生きのびおのれを顕示する闘いと死の系
列と、飛翔する到達すべき偶像の系列とを共振させること。

それはほかでもない、武器と武器とが触れあう衝撃の向こう側で、
人間たちの心の内面ではなくその頭上に、運命と欲望とを共振させ
ることである。運命と欲望とが両者に共通のある一点といったとこ
ろ、なんらかの幻影的な出来事とか模像の原初的根源といった
場所で収斂するというこてではいささかもない。出来事とは、幻影の
系列には決って欠如したものなのだ。

---それは、起源なき出来事の反復が、およそあらゆる模倣の外部
で、また類似の束縛から自由な姿でおのれをそれと示すという欠如
である。したがって反復の仮想であり、何ものをも隠してはいないど
んな場合も個別的な仮面であり、隠蔽を意図せぬ模像であり、
いかなる裸像を蔽ってはいないみじめに不調和な衣裳なのであっ
て、つまりは純粋な差異なのである。

 

著者ミシェル・フーコー
「言説・表象」劇場としての哲学、
訳:蓮實重彦より抜粋


 フーコーの「劇場としての哲学」はそのまま絵画論でもある。ベラスケスの「ラスメニーナス、侍女たち」やマグリットの「これはパイプではない」は絵画空間ではあるが、ひとつの思考空間を、純粋表象を発生させる言語の力をもっている。デュシャンは言葉の力を、というより詩の力を最大限にデッサンとして駆使したひとである。不可視のものを見えるものとして言語の力を巧みに絵画へと連関させる力、その相互のベクトルの作用によってわたし達を神秘の世界へと導いてくれるのである。最終的には分からないものの感じる世界を生成させ、純粋表象の出来事を創り続けたひと達なのかも知れない。宇宙的神秘。

結局「沈黙の絵画マネへと接続させるバタイユやフーコーの「マネの絵画」に対して異常な関心を抱いているものは”鏡とその視点(場所、位置)”--表象の背後にある何ものかを感じ取ろうとする、一つの逃走線なのかもしれない。けっして捉えることはできない不可能な出来事を可能とする、ある出来事を生成させること。つまりそれを「劇場としの哲学」というのかもしれない。それは絵画とて同じことである。わたしにとっての「劇場としての絵画」は、マネの「フォリー・ベルジェールのバー、1881-1882年」であり、ジャスパー・ジョーンズの「Summer,1985 Fall,1986 Winter,1986 Spring,1986」や「Face with Watch、1996」などである。

わたしの描いた(画像FB12-01/秘めたるもの)ものは、人体らしき影だけで、背景も何も表現していない。ただ色彩の強度(彩度、明度、色相)などの変化をつけただけである。視覚と言語の相乗効果を観たいとおもい作品化したものである。「秘めたるもの」というタイトルにした。何も語っていない絵画、純粋強度の視覚化といえるもの、そんな感じです。フーコーの「劇場としての哲学」は、わたしにとって哲学というより絵画論になるのです。あるいはピエール・クロソウスキーであったりもします。



2009年11月25日

抽象絵画は情動の具象化でもある「イメージの不在化へ」


隠されたもの
抽象絵画はあるイメージが顕現化しくてるが、
わたしはイメージが顕現化してこない不在なもの、
秘めたるものへ」、その覆いを被せた。
blueredの中に、何があるかは判断できない
ある現象が生成している。そういうイメージの
強度をもたせるために、抽象化した作品に
仕立てあげた。そこには自己主張もないし、
個性というものもない。差異と反復の永遠性・・・



2008年12月06日

内在、すなわちひとつの生・・とは

DL05-walker_3

walkerB

 

 

 

DL05-walker_3
「冬の風景と内在」

 

 

 

 

 

 

 

 

内在、
すなわちひとつの生・・とは

一人の哲学者の言葉を、この最後の章を・・
失速しそうになるシナプスの彼方を追い求める
メスカリン素描のアンリ・ミショーを、
わたしは思いうかべる。

微粒子のざわめき、この「内在、
すなわちひとつの生」であるような
あの「みじめな奇跡」を思いうかべる。

ただ、ぼーとした無窮の空間に
光と影、水面の波、霧、ゆらぎうつろう身体、
わたしは、ジョルジュ・スーラを思いうかべる。

それは風景と人が分離してはいない。
けれどもどこかで、一人でたたねばならない。
それは、現れることが消えることのように寂しい。

・・すなわち一つの生が、産まれる透明性の影、
この影が内の光をつくり、外の光りと同化する
一つの孤独をつくる。

外を観るための内部の暗い光は、
カオスの微粒子を体内に送り込む。
そのために、たえず夜でなければならない。
それはミショーの「メードザンたち」の
夜の光をもった身体として現れる。

 

わたしは風景(空間)と内部の心が一体になることが、望ましいのかは分からない。夜が必要なこともわかる。ジョルジュ・スーラの絵を観ると、「内在、すなわちひとつの生とは・・」何かということを問いかけてくる絵なのです。それは人物の内在性の風景画なのです。その内在とは無限大の宇宙の反映、その微粒子でしかないある種の虚無感が漂ってくるのも確かです。意識とは空間の変数によって変化してしまう、うつろい易い現象なのか。



2008年08月03日

人体の夜「外の線と内在」−2

FF06-09

黒い窓


 

 

「人体の夜」とは、

カオスの窓のことであり、
空間的な広がりを
感知する受送信の装置、
すなわち身体の力、
生命のことである。

 

 

 

 


それはマティスの
「コリウールのフランス窓」
のような開くと外が光ではなく、
暗黒。見えないものの
見える思考の・・光である。
まさしく人体の夜。

それは「Blank]という力を
意味するのかも知れない。
”Re-distributing”・・
荒川修作氏の言うように。



2007年07月12日

アンリ・ミショー「フーコーとドゥルーズそして”襞”について、あるいはモナドなど」−3

「襞のなかで生きる」

『・・フーコーはハイデガーよりアンリ・ミショーに近く、場合によってはコクトーにも似ているとおもいます。フーコーは生の問題、呼吸の問題を介してミショーとコクトーに合流するのです。』とドゥルーズは言う。フーコーがどのようにしてミショーから霊感を受けたのか、わたしは知らない。しかも『フーコーにとってミショーは着想の源になりえたのです。』とも語っている。ドゥルーズがどのようなことを指して言っているのか、わたしは理解してはいない。ただミショーが”襞”について語っているところがある。その文面をみると手がかりはある。

CG12-50Yell2

アンリミショーD

 

 

CG12-50Yell2
「ミショーとその影」

 

 

 

 


 

ドゥルーズは”この襞”についてのミショーの考えがフーコーに限りなく接近していると指摘している。もっともドゥルーズの襞に関する考え方は、マラルメに対しても指摘している。『・・襞は、おそらくマラルメにとって最も重要な概念である。』と言い、『”エロディヤード”は、すでに襞の詩なのである。』とさえ言っている。それと同時に『・・”書物”あるいは数多くの頁をもつモナド。こうして"書物”はあらゆる襞を含んでいる・・』という、ドゥルーズの思考は深く考えさせられてしまう。襞とは何か、この深い問いをわたしは語ることができない。けれどもそれを絵画的な問のしかで語ることはできる。それはドゥルーズがライプニッツの哲学を語った”襞”という書物があります。その箇所をとり上げてわたしの画像解説(CG12-50Yell1/CG12-50Yell2)とします。

『・・ライプニッツは”哲学者の信仰告白”においてこう言っている。「光りは闇のまっただ中に亀裂から射すよう漏れてくる。」光りは天窓から、肘型に曲がったあるいは折れた開口部から、鏡を介してやってくるのであり、白は「いくつもの小さな鏡の反射」からなっていることを理解しなければならないのだろうか。もっと厳密にいえば、モナドは亀裂などもたず、光りは「密閉され」、これが理性まで高められるとき、それぞれのモナドのなかにともされ、内部のあらゆるちいさな鏡によって白を生じるのである。

光りは白を作り出すが、また影も生み出すのだ。生み出された白はモナドのなかの明るい部分と溶け合い、暗い地、つまり底(fuscum)にむかって暗くなり、減衰してゆくのである。この暗い底から、「多なかれ少なかれ、よく調節された陰影と色調によって」ものが生じるのである。まるでデザルグの場合のように、遠近法を反転し「眼のかわりに光るものを、物体のかわりに不透明なものを、射影のかわりに陰影を」おくだけで十分だったのだ。ヴェルフリンは、この増大し、減衰し、度合いによって伝播する光りの漸進性から何かを学んだ。それは明るさの(また動きの)相対性、明と暗が不可分なこと、輪郭の消滅であり、ようするにデカルトに対する反駁である。デカルトは光りの物理学と理念の論理学という二重の観点から、ルネサンスの人であり続けたのだ。

明るみはたえず暗がりに潜ってゆく。明暗は、ニ方向に移動することができる一つの系列にしたがってモナドをみたす。一方の端には暗い底があり、他方の端には密閉された光りがある。密閉された光りはそれが灯るときには、限られた地域に白を生み出す。しかし白はしだいに影を帯び、モナドの全体のなかの暗い底にむけて広がってゆくにしたがって、暗さに、徐々に厚くなっていく影に場を譲ってしまう・・』

 

ドゥルーズがフーコーとミショーの関係を語った箇所は「記号と事件」の第珪蓮"フーコーの肖像”で語っています。尚、襞に関してはこれもドゥルーズで「ライプニッツとバロック”襞”」で出版されています。わたしにとって、あのスピノザと同じくらい直感で感じる以外ない、そうおもえる本だ。体感し、リアルな世界と結びつかなければ、ただの言葉の遊びになってしまう。ドゥルーズが何を云っているのか、・・の解釈ではなく、己の身体にたたみ込まれた襞とは何であるのか、諸力の関係を導きだすものでなければならない。それは概念を超え、アートの世界にモロ突入する情動の世界へとむかうものでなければ、だだの学問。たえずポエジーの発生を予感するものでなければならない。

ちなみに画像掲載した絵がどのようなものであるのか、わたし自身必ずしも理解しているわけではなく、ある強度としてやって来る何ものか、そういうものです。それが絵画です。しかし言葉で表現するとドゥルーズが”襞”ということで分析し、あるいは”モナド”について語っていることがそうなのでしょう。その思考は刺激的で、わたしのイメージを刺激する。また「モナドには窓がない」という謎のような言葉も意味が深い。



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