マルセル・デュシャン
2014年10月11日
追憶「その時間は天体と繋がっている」
デュシャンといえば「大ガラス 1915-1923年」と「遺作 1946-1966年」です。この2つの作品、特に遺作は20年もの長い間かけてつくっていた。こういう生き方もかなり魅力的だ。デュシャンのいう生活習慣病からうまく逃れ、空気のような生活をしていた。描くことの時間より思考することの時間を詩人的な方法で作品をつくっていた。「グリーン・ボックス」や「ホワイト・ボックス」の詩的なメモは作品行為と等価であった。見えないものの向こう側を詩的言語でメモしていた。
画家はなぜ病的な絵ばかり描くのか。これはなかなか難しい問題です。ヴァン・ゴッホはどのように考えていたのだろうか。あるいは詩人はどのように社会と対応して生きてきたのか。ボードレール、ランボー、マラルメなど。その時代の空気と反応し、生きた神話をつくろうとその運命に身を任せ、この宿命に生きた人々であった。前人未到のドアを開けてしまい、もう二度と帰ってこない。ニジンスキーの舞踏「牧神の午後」など、神話の世界に踏み込み、わたし達には到達することの出来ない世界を見せてくれる。
JI-30 / The Door
この未知の扉を勇気をもって開け「独身者の機械」に参加する。あるいはトリスタン・ツァラの空のポケットをもって宇宙の法則に身体を委ねる。言語の光学をもって無秩序の帝王に反逆するロートレ・アモンのように。真夜中のドラマに、『母の禁止にもかかわらず墓にあそびに行く』イジュチュール、この扉の向こう側へと自らの手で開け進む。神の姿を多少とも、ちらっと見ることが出来るかも知れない。盲目となったとしても本望であるという勇気をもって行為する。それは神に選ばれたひとであろう。
あるいは晩年のクロソウスキーのように絵と戯れるのもひとつの方法かもしれない。マティスの「コリウールのフランス窓」は暗闇ではあるが、見えない光りがある。カオスに「からだ」は抗うことは出来ないけれども、この闇黒のなかにこそ星の誕生があり、消滅もあり、ドラマがある。わたし達の「からだ」も1秒たりともそこに留まってはいない。しかし懐かしい思いでは「からだ」が憶えている。その時間は天体と繋がっている。ドアを開けるのは、たった独りだけれども、見えないところで光っている星々と交信している。
2011年06月18日
2010年08月21日
カオスの関数「デュシャンの熱機関とウォーホルのHeat Deathなど」−1
FH08-01A
FH08-01A
「カオスの関数」
「カオスの関数」
温度と熱の概念について理解しょうとすると、たちどころに微積分の概念と関係式の理解を求められる。さらにSI系単位のジュール(エネルギー、仕事、熱量、電力量)の定義を知らなければならない。わたしが感覚的に理解しているのは、夏の暑い日に飲む冷たいビールの味である。この感覚はアートな世界です。熱力学的には外気温を考慮して夏のビールは5℃くらいが美味しい。これはわたしの感覚ですが、もっと冷えたビールが好きなひともいるでしょう。冷やす原理はカルノーサイクルの図表(圧力Pと体積Vの関係)を観ると分かりやすい。熱力学第二法則のエントロピーの概念は抽象的で掴みどころがない。そこでいっきに数式でとり扱うと観えてくる。つまり乱雑さを定量化することである。その概念を原子や分子のミクロの運動として捉えていたのがボルツマン(1844〜1906)でした。彼の墓に碑文として「S=k log W」と関係式が書かれています。その記号の意味は(Sは系のエントロピー、kはボルツマン定数、Wは系の無秩序さを測る量)です。この数学的な言語の意味は、アインシュタインの「E=mc^2」の関係式と同じくらい有名です。ミクロとマクロの宇宙を観る壮大なスケールをもっています。それはエントロピーという概念だったのです。それにしても熱エネルギー第二法則は、散逸系から観ると物理学なのだろうか・・
わたしはこのカオス(秩序と無秩序)というイメージを上述したように熱力学第二法則を数学的な言語を使って、これから説明するために述べたのではありません。デュシャンとウォーホルを物質の平面(プラン)として観るための方法です。それは美術論ではありません。なるべく日常的に使用している言葉を避けたい。作品を物質の平面として、熱力学の用語を機械的に用いて言葉をばらまいてみようとおもう。構成は意識に任せてしまう。そうすることによって言葉の変換が起きてくる。そのような言葉と言葉の熱移動のような新たな意識の発生を促がすもの。それによって内部のシミュラークルあるいはファンタスムが発生してくればいい。つまり意識にしろ、無意識にしろ”役立たず”のエントロピー、「レディ・メイド」として記述する。カオスが増大⇔減少する言葉とHeat Death、すなわち利用可能なエネルギーから利用不可能なものへと変化していく度合、生と死の比率を観る絵画、熱による仕事と死へと散逸していくた無数の原子、ガス状の銀河。意識内部の比率をだれが決めるのか、偶然性による尺度を見る、マラルメの詩など。あるいは荒川修作の比率アート(与えられた仕事、死と生との可逆サイクル)、デュシャンとウォーホルを第二法則的な用語などで書いてみるとおもしろそうだ。いわゆる「カオスの関数」など。
掲載画像(FH08-01A:「カオスの関数」)は、
生命と非-生命の度合いをイメージして描いた
図像です。ある状態、局所的な空間の変化、
「カオスの関数」というイメージです。
次回は「カオスの関数」−2でデュシャン、
ウォーホル、荒川修作などの作品を、
上述しましたように具体的に書く予定です。
2010年04月05日
2010年02月28日
Marcel Duchamp「それはガス体のシュルレアリスムである」
FB27-01/A sneeze of Duchamp
「マルセル・デュシャンの部屋」
デュシャンの部屋に入ると霧のようなガス体が立ち込めています。
わたしはそれを吸うと神秘的な測定器が働いてクシャミをします。
きっとそのガスを吸い込んだからでしょう。
『ローズ・セラヴィよ、なぜクシャミをしない?』という応答なので
しょう。わたしはレディ・メイドの服を着てその部屋を
歩いたのです。というより着せられたのです。
ガス体のレディ・メイドはデュシャンの言葉と個体が出合い
化学反応を起こしたもの、いわゆる昇華したものです。
そんな装置をつくるデュシャンは、変化するもののクシャミである。
「小さい鳥かご、体温計、イカの甲、大理石の立方体」それらの
組み合わせは地層の原理を見せるローズ・セラヴィである。
蒸発を待ちうける女性名、ローズ・セラヴィという別の人格をもった
一つのデュシャンのようなもの。それは詩的化学反応を起こす想念
絵画、脳化学反応のガス体というべきものである。
そこでわたしはクシャミをしたデュシャンを想いうかべ、「大ガラス」
の独身者の9人を繋いでいるその線を「クシャミからでた鼻水線」と
おもい、描いた。それを右下に「A sneeze of Duchamp、デュシャンの
クシャミ」と書き、上には「Please cover your nose with a tissue、
ティツシュで鼻を押さえてくれ」という文を英辞書から選んで抽出し
書いた。「Ahchoo」という意味は日本では「はくしょん!」という
音であるが、英語圏の人はどのような音でするのかおもしろそうだ。
これでまでわたしの絵画論らしきもの、見えないものの見えるメカニズムを書いてきましたが、いかに網膜絵画から脱出することが可能か、デュシャンの最後の言葉をもってこのシリーズをおわりたいとおもいます。わたしがデュシャンから学んだことは「ジョルジュ・スーラ」と「マティス」なのです。詩ではジュール・ラフォルグ、マラルメ、ランボーも入るでしょう。とくにラフォルグです。そんなわけで21世紀ではどのようなアートの様式がでてくるのか、新しい概念の発見へと冒険する勇気がますます必要になってくるでしょう。だれが、これがアートなどとセレクトするのか問題でしょう。評価されたものがアートで、評価されないものを発見していく行為はアートではない。つまりアートでないものを発見(新しい概念を)していく道のりを歩んだ20世紀後半の代表の画家は、わたしにとってデュシャンです。彼は最後に「信じるか、それを信じないか」といった、そういう到達地点にいったひとだとおもいます。その意味でわたしはそれなりに「デュシャンの部屋」を少しだけ覗いたに過ぎません。では下記にM.デュシャンとP.カバンヌの対話を引用して「デュシャンの部屋」につて終ります。
M.デュシャン: 『---美的な感動を何も受けないような無関心の境地に達しなければいけません。レディ・メイドの選択は常に視覚的な無関心、そしてそれと同時に好悪をとわずあらゆる趣味の欠如に基づいています。』
P.カバンヌ:『あなたにとって趣味とは何ですか』
M.デュシャン: 『ひとつの習慣です。すでに受け入れたものを反復すること。何かを何度も繰り返していれば、それは趣味になります。いいにしろ悪いにしろ、同じようなものです。やはり趣味であることに変わりありません。
P.カバンヌ:『あなたはどうやって趣味から抜け出したのですか。』
M.デュシャン: 『機械製図によってです。それはあらゆる絵画の約束事の外にありますから、いかなる趣味も負っていません。』
わたしが引用した本はタイトルが:『デュシャンの世界』、
エピステーメー叢書/訳:岩佐鉄男+小林康夫/朝日出版社の
ものです。
この本によってわたしは”スーラ”と”ラフォルグ”を知ったのです。それは本当にラッキーだった。まえからこの二人は好きだったのだが、たんに感覚だけでその思考方法までは、まだ理解してはいなかった。このブログにデュシャンとスーラ、ラフォルグの「カテゴリ」を設けてありますので、そこに詳細に書いています。御覧になりたいかたは拝見してみて下さい。上の画像(FB27-01)はデュシャンをモチーフにしたわたしの言葉遊びです。
2010年02月01日
顔貌性「Self portrait、それは不確定なXである」−1
FA14-03/Self portrait X
顔貌性とは
それは不確定な基底材Xである。
どんなに自分を描いて観ても、
はみだすものがある。何回見ても定まらない。
この「もの」、この顔とは何か・・狂気に
みちた顔貌性を観せる画家たち。
レンブラントの最後の自画像、暗い背景を
まえにして笑っている顔。自ら耳を切り落とし
包帯を巻いたゴッホの自画像。空間を押しのけ、
そこからでてきたようなセザンヌの自画像、
内在すなち、風景のなかに溶け込もうとする強靭な
主体と解体、そんな行為を観るにつけ、いったい
自画像とは何だろう。自画像とは自画像以外の
「もの」。そんな問いを描き続けることは、
「スフィンクスの謎」のようなものである。
デュシャンが女装して撮ったSelf portrait
「ローズ・セラヴィ」、これは画家が自画像に
固執するものとは正反対である。
もの「顔、あるいは身体」がそこから乖離する
一つの「もの」をつくる。言葉遊びの顔貌性、
不確定な基底材Xの崩壊、それはひとつの
抽象機械であるようなもの・・
2010年01月18日
Duchamp/デュシャン「・・それは沈黙と透る鏡を用意する」
FA-02pBlue3
FA-02pBlue3
Hands:星々の手
「・・それは沈黙と透る鏡を用意する 」
----はじめに用意されたわけではない。
想わぬところからやって来る。それは
突然でもなく、継続でもない。閉じられた
口の渇きからでてくる。沈黙は色彩のない
色彩というように夢に似ている。
取り出そうとすれば、空虚のなかに言葉を
埋め、身体に色をつけねばならない。
生きた言語、「強度の永遠回帰」を創りだそうと
する。それは腫れ物にさわる痛さと快楽の言語を
とり出す。この予測される生成を待ち受けるものに、
こわばった身体へ餌を与えねばならない。
ひとは「アー・・」とか「ウ・・」とか分からぬ
意味不明の身体言語に遭遇する。
痙攣と言語の中間でひとは、ようやっと
舞踊をする。そうやって創りだした「もの」を
見せびらかす行為を観るのは、なんだか
はずかしい。絵画は、はじめっから裸になって
どうぞという、図々しさがある。言葉を追いやる
という、あの視覚をよりどころにする快楽に
落ち込む図々さというやつだ。
言語で埋め尽くされたメモ「グリーンボックス」は
この図々しさを脳みそにしまいこんで、
絵画の脳みそを創り続けたデュシャンがいる。
そこからでてきたものは、意味不明の神秘と
言語の乖離からくる「Infra-mince=アンフラマンス」
であった。しかしそれは、ある接近を意味する。
乖離でありながら言語がそれを接近させるのである。
「何を・・」それが「アンフラマンス」を接近させる
これは再現でもないし、経験でもない。
言葉はすでに「アンフラマンス」を含んでいる
未生成の脳内の視覚化、「仮想のもの」という
ように、あるシミュラークルが不可視の構造を
言語の彼方に創っている。これは語ることが
出来ず、未視覚の「実体」とでもいえる、神秘の
領域に、脱領土化の「ミステリーゾーン」に
入ってゆく。
こんな領域を開拓し続けていたデュシャンは、
絵画の見るという網膜の快楽から解放した。
思考の詩的絵画「”グリーンボックス”など」で、
言語と視覚の融合をやってのけたのである。
それは「アンフラマンス」を再領土化する作業
だったのである。それも何年もかけて創り続けて
いた、あの「大ガラス」と「遺作」となった
作品などである。
上記の文と画像掲載(FA-02pBlue3)とはあまり関係がありません。全然ないことはないが、関連付けて見ない方がいいでしょう。当初は身体と言語、それと視覚化の思考を書こうとおもっていたら、いつのまにかデュシャンのことになってしまった。書いているうちに自分のなかで変化していくのもおもしろい。わたしはおもいついたらどんどん過去の記事を追記したり、削除して更新していきます。訪れたかたは多少途惑うかもしれませんが、これからも流動的に記事を変化させながら掲載していきますので、あしからず。