フランシス・ベーコン

2013年03月18日

フランシス・ベーコンとゴッホのリアリティとは

IC-01/ベーコンの痕跡/重力と蒸発
IC-02/ゴッホ 耳を切った自画像

 

蒸発と重力

 

 

 

 

IC-01
ベーコンの痕跡
or 重力と蒸発 

 

 

 

 






 

 

 

ゴッホ「耳を切った自画像」

 

 

IC-02
ヴァン・ゴッホ
耳を切った自画像
51 x 45cm  1889年1月
ニアルコスコレクションと
されるか、所蔵は不明

 

 

 

 

 

IC-01/ベーコンの痕跡or 重力と蒸発

わたしは「フランシス・ベーコンとゴッホのリアリティ」を、そのイメージ現代アートふうに変換してつくった。その手がかりとなるベーコンの絵から感じるキーワードは、「拘束(ロープ=精神と神の関係) 解放(蒸発 ロープの周りの血=パイプの煙) 重力(吊り下げた円錐の錘=頭部前面の黒い帽子、精神のバランス) 円環運動の場(劇場、緑のマット=ゴッホの上着)」などである。そしてベーコンとゴッホの色彩の強度を背景につくった。ゴッホの背景は眼の位置と同じ位置にレッドとオレンジに明確に二分されて描いている。それはバタイユのいう太陽と向日葵のことかもしれない。そしてわたしは背景に数字アルファベットを記入した。ゴッホの手紙あるいはその思考を暗示させるために。ベーコンゴッホから受けたイメージを対話するようなかたちでわたしは、以下のように書き記した。

あなたがリアリティというとき「ゴッホの耳を切った自画像」を想起します。あるいは「戦艦ポチョムキン」の(叫ぶ乳母のショット)など大変な影響を受けたという。『いつか人間の叫んでいる最高の絵を描きたい』という。このリアリティとはいったい何処からやって来くるのでしょうか。あなたはそれに一切応えないでしょう。また応えることができないあるモノとしか言いようがない。このあるモノリアリティ、それは言葉には出来ない、絵画独特の表現形式だ。この形式を最初に表現したひとがゴッホであると、あなたは言うでしょう。そしてこのリアリティは人工的であり、創りだされた再創造であると。おそらくそうでしょう。

あなたは瞬間速度の物体の運動を精神に置き換え、視覚と直接脳に作用を及ぼすエネルギーを捉えた画家であると、わたしは想う。むしろ囚われの方でしょう。「・・の囚われ」拘束と解放(蒸発)、物体の消滅の瞬間、あの恐怖の叫びを『いつか人間の叫んでいる最高の絵を描きたい』このことでしょうか。重力の空間のなかでそのドラマを、幾何学的フレームのなかで演じさせる劇。遥か遠くに通じる闇黒の扉を開け、その中へと厳かな葬儀の儀式に黒い喪服を着た5人、カオスの黒と同じ色をしたこの5人、この人を観よとあなたは矢印(→)で指示する。そして闇黒の扉のまえに小さな幾何学的フレームのなかに頭部を消えさせ、小さな赤い色で円を描く。下半身はふくよかなルーベンスの肉を持ち、足元は運動しかかった楕円で描いている。

背中に小さな赤い矢印(→)を描き、大きなカンヴァスの空間はオレンジ色で塗り、この空間からそれを眺めよというこの矢印(→)、そして空間の全体を占めるオレンジ色に大きな幾何学的フレームを描いている。重力空間の広がり、このオレンジ色のなかに闇黒の、カオスの入り口を描く。その右上に一番大きな矢印(→)を描く。あたかも最後のエンディングがカオスへ往くのが定めであるかのように、その案内を示すこの矢印。決められた道路の上に、決められた静かな行進をする黒い色の5人。アンリ・ミショーの厳かな消え往く人のように。あなたの「通りの像と人物 1983年」は描いている。

わたしはこの絵をカオスに呑みこまれる儀式として見ればいいのでしようか。それとも死すべき生命の儀式が今もどこかで行為されている。あるいはわたし達の”からだ”は瞬時にこの儀式を行っている。生と死のドラマをあなたは、その叫びを人間の不可解な出来事を捉えようとする。この情熱をわたし達にメッセージをしているのでしょうか。あなたの絵は、あの消え往くミショーの絵「アクリリック/acrylique 1979年」を想い浮かべずにはいられない。静かに移行している空へと歩く足はミショーではないですか。あなたの描く「通りの像と人物」は。ゴッホ的なものを見ながら確りとミショーの眼差しをもっている。あなたは「遠回りして人間のイメージを作りかえる手段なのです」、あるいは「たいていは畑のうねのあいだをのろのろと歩く人間の姿なのです」という。

ミショーの絵は歩いたり転んだりしている人間の姿を描いている

という。ミショージャクソン・ポロックよりはるかに優れているとあなたはいう。一方ゴッホ(IC-02)は、遥か向こうを透視しているけれども、寂しげな眼差しと鋭い透明な空間へとすい込まれ往く眼差しとの境界を見せている。二分して描かれた背景のオレンジレッドの境がゴッホの眼を横切っているこの線。わたしはこの人口的な線に驚愕する。ここに真のリアリティがある。ベーコンにもある。この自画像は「青い空の下の麦畑 1890年」、この空間を見ていたのか。ゴッホの眼差しに無限の沈黙が押し寄せてくる。束の間のタバコをくゆらすゴッホがいる。この「耳を切った自画像」とはいったい何なのか。平面的に厚塗りされたレッドとオレンジ色の人工的な感触にわたしは捉えられた。ゴッホの思考と身体はどこかに掠とられいてる。

生れ落ちたときから掠め取られた身体を見届けると、ようやっと舞踏家の身体に馴染んでくる。そのような土方巽ですら最後には「神は怖い」といった。この神に身を寄せる思考は身体が蒸発する希望の星へと、ニジンスキーの「牧神の午後」へと向う。それとは反対に神の不在を、その身体の叫びを呼び寄せる。この身体の痙攣的瞬間ベーコン無神論的にやってのける。リアリティとは無神論であること。形而上的超越性を許さない。ミシェル・レリスはそうとう苦しんだに違いない。

 



tneyou4595 at 15:53コメント(0) この記事をクリップ!

2012年11月11日

ジャコメッティとフランシス・ベイコンの思考方法

HI10-01

水浴をする人

 

 

 

 

HI10-01
水浴をする人

 

 

 

 

 

 

 

 

周辺の線から

ジャコメッティの時間的な捉え方はセザンヌを受け継いでいる。これはフランシス・ベイコンもそうである。マティスセザンヌ的な時間論と存在の顕現化が不安定であるという、動的な決定的な要素がある。これはピカソのように確信に満ちた断言でもない。有機的なもの、あるいは非-有機的なものを含め、”かたち”という概念は、ジャコメッティについては断言できるものがない。たえずその周辺を触りはじめる。正確さというものは別な意味をもつ。時間によって解体させられる。

絶えず初期化される線、その何本もの線が線によって否定されてゆく、そのドラマを見る”かたち”である。これは極めてセザンヌ的だ。どこで止めるかという問題が絶えずつきまとう。この究極の選択を迫られる”かたち”はどこからくるのか・・フランシス・ベイコンの絵はこの時間的な格闘の結果、導き出された”もの”である。このグロテスクさはウィトキンと同様、部屋に飾るべき絵ではない。最後の西洋的思考の絵画というべきものである。

ジャコメッティは東洋的な要素に近づきはじめている。存在への接近法は、無か有かという問題ではなく、そこに在るという感覚の確認をどこで気づくかという戦いでもある。これは極めてセザンヌ的だ。厳密な絵画を構成する。あの普遍性に到達しようとする格闘である。つまり絶えず周辺を描く中心の無い無限の中心点を探してる。

フランシス・ベイコンエントロピーの増大以外思考しない。その入力エネルギー(秩序)が自己であり、システムを維持する装置として思考する。またそれを破壊するのが他者だと言っている。しかしこの入力エネルギーをどこから取り入れるのか。これを彼は「欲が深いんだ」という。このとは「快楽」か。つまり無と有を往ったり来たりする情動の装置を描いている。このメカニズムは自由という分けでもない。むしろ拘束されたある意味を提示する。しかしこの意味無-意味である。「床の上の血 1986年」の絵は蒸発(相転移)した物体の痕跡(血)とそれを見ている吊さがった2本の電球、そして右側にあるそのスイッチ自己のオン-オフを、背景のオレンジ色は尚もエントロピーが増大し続ける無窮の宇宙を暗示している。そんな見方もできる。

増殖と崩壊のエンドレスな時空を見る絵である。ベイコンの絵は部屋に飾れない。唯一飾れる絵は「アングルのデッサンにもとづく人体の習作 1982年」である。わたしの好きな絵である。危ういバランスの上に座っている裸婦である。頭がなく、大きな乳房が心の安心感を与えている。ユーモアがあり、生命感に満ちている2つの卵というところか。

ベイコン部分と全体を等しく見ている。全体の方は見えない力が作用し、むしろこの作用が非常に大きな要素となっている。部分は絶えず崩壊してゆくその作用点をみる。そのことによってすこしもとどまってはいないものの出来事を見る。不安定でありながら、どこか安定している、そのシステムをみる動的平衡な絵画である。しかし絶えずカタフトロフィーがある。ベイコンは意図的にその漸近線を探している。厳密な具象であると同時に抽象である。その驚異的な絵である。

 

画像掲載「HI10-01」は:
マティスの『*水浴をする人、1909年』の作品を鉛筆デッサンしたもの。チャイニーズレッド系の単色で画像処理したものです。マティスのこの作品は不思議な絵で、過去であるのか、現在であるのか定まらず、極めて不安定な状態で顕現化した奇妙な絵です。マティスの原理としての絵画(マティスのなかで最も哲学的な絵です)だと感じている。この現れ方はジャコメッティにもあり、セザンヌの存在論と深く関係しているとおもう。マティスの『水浴をする人』を細身に描けばジャコメッティへと接近してゆくことが分かる。その父はゼザンヌであろう。

*『水浴をする人』の詳細は
カテゴリのマティスを参照して下さい。



2010年02月04日

顔貌性「最後の画家、フランシス・ベーコンの自画像とは・・」−2

 

平面の余白に

この平面の余白に多くの顔があり、わたしは、わたしでない
顔がある。フラットな色彩の中に描き込まれた平面
この無名性の顔貌性。かつての肖像画ではないし、主体性の
問題でもない。ゴッホ、レンブラント、セザンヌ、この画家達は
美学であるより、それは一つの政治学であり、社会学の顔でも
ある。あるいは自然科学でもある。ベラスケス
ラス・メニーナス」はフーコーにとつての、ひとつの鏡であり、
絵画は断言することから、純粋表象の発生装置でさえあるのだ。

近代科学と同様、絵画の世界でも、方法論的に主体の問題を
客体的に捉えようとする、その矛盾を孕みつつ格闘する画家、
ゼザンヌがいる。また近代ヨーロッパ文明を絶望的に逃走する
ゴーキャンの自画像がある。さらに遡って、栄光と挫折の織り成す
レンブラントの自画像。人生そのものが彼の自画像であった。

この21世紀初頭に、いまわたし達はいる。いったい何を描けば
いいのか、画家にとって自画像とは何か・・こんな疑問に応える
画家は、多分もういないだろう。それは画家ではなく、いまでは
アーチストと称され、とても文明など背負いきれないだろう。
そこにある「もの」とは不明な顔、この顔こそ平面のひつの
抽象機械というべきものである。

その顔は、船が何処へ進むのか迷路の航海をしている顔である。
アートはひとりの才能でもなければ、個性でもない。多重な構造
の下でもがいている記号的な顔である。そんな顔を表現すれば、
自画像であるより文明の社会の機械と化した顔貌性である。
追究すればとんでもないものに出っくわす。顔が瓦解し、変形し
すぎた様相を描く最後の画家、フランシス・ベーコンがいる。

無名な、のっぺらぼう的ポップアートの顔貌性とは正反対である。
セザンヌ的な、そこにはある方法論がある。主体と客体の闘争、
その背後に何が潜んでいるのか、瓦解しかかっている顔、
ベーコンが描くのをやめたき、キャンバスに残っている「もの」とは
いったい何にか・・アルトーの「神経の秤」か、
否そうではないだろう。有機的な最後の形態か。

確かにそこには虚無がある、人々を不安定にさせるものが、
しかし絶妙なバランスがそこにはあるのだ。眼に見えない
無というべき光がある。主体でもなく、客体でもない感覚を
発生させる力があるのだ。「」というものは形態の
視覚的な快楽の心地よさでもなく、そのグロテスクさを排除
するものでもない。それは感覚の発生が無基底の光を伴って
生成してくるものであるということ、そんな顕現化があるのだ。

それがある形式を、フォルムを生成してくれる純粋感覚の発生を
うながす。この感覚の発生はセザンヌ的だ。彼の後続者は
ジャコメッティマティス、おそらくフランシス・ベーコン
含まれるだろう。



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