ニコラ・ド・スタール
2006年11月24日
Nicolas De Stael「ニコラ・ド・スタール」
D-140GreyA
D-140GreyA
Space-Time Forms 3
「ニコラス・ド・スタールへ」
あまりにも美しすぎる
天から降りてくる美をとらえれば、
天へ上る精神がではじめる。
水平線と空、そこに精神が飛んでいる。
軽やかな色彩と自由な翼。
美は人生の苦を消去する。
感覚の泉は透明な色彩を用意する
赤、青色、灰色など。
そして存在の大きな黒いピアノと
非存在の配色としろい色、そして孤独。
見えないものの影は大きく
立ち止まることが濁ることであるなら、
いつも旅立たねばならい。「何処へ、」
---それはかもめの群れが
逝こうとしている彼方へと・・
上記の文はニコラ・ド・スタールの絵画から感じたことを詩的に書きました。スタールの絵に潜んでいる精神と病は、美でもあるけれど、わたしにとって危険なアーチストであります。わたしは接近してくる美に対して拒否する。最も接近してくればの話ですが、イヴ・クラインもそうです。向こう側でもなく、こちら側でもないもの、その危険性を避けるための中間地点をわたしはマティスから学びました。鑑賞するぶんにはいいのですが、描き参加する行為となると、その必然性から逃れることができない人のみがなし得る宿命です。そんなものを背をっていないわたしは、美しいという理由だけで接近はしない。
・・失うことによって得る天使の感覚は人生を削る作業のようにもおもえる。飛んでしまったら二度ともどってこないニジンスキーを見るにつけ、神は見ない方がいい。また見れる人種は限られている。与えれた人だ。見ようとしても見れるものでもない。見ようとすると盲になる。アクタイオーンの悲劇をどこまで感じているか、予知できるかのことでしょう。それが芸術家の才能です。わたしは、この才能から離れて貨幣経済の才能をもちたいとおもうのですが、わたしにはないようです。
・・どうやらこのニコラ・ド・スタールは、ゴッホの「青い空の下の麦畑、1890年」と同様あの無限への逃走が精神の救いであるような世界へ行かざるを得ない宿命を背負っている。---そういうことを深く考えさせる画家であるようです。つまり才能とは宿命であり、運命を感じさせる人種のことだ。すなわち天才ということです。わたしが気にとめるアーチストはそういう人である。