アントナン・アルトー

2008年08月18日

顔貌性「多様な線・・逃走線と内在」−1

DF27-20red1/DF27-02gray_1C1

顔A顔B

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

逃走線と内在

わたしはそこから逃走する
否定されるからではない。

むしろ否定を肯定するために逃走する。
供犠の時間性であるような・・

その場所から移行せねばならない
空白の顔が変身する時間を待つ。

「変形を恐れる顔が現れる。」

自我の基底が崩れる。
立ちどまった顔貌性の線

呼吸を止め器官を・・身体の
言語を探す--がいまだ届かず。

思考の外へ、襞の影が
シミュラークルを探す。

 

波が砂の波形をつくる

前にいた影が2重映しになる。
暗黒を見ているから、器官が
圧しだされる、波が砂の波形を
つくる。砂は波を知っている。

それは無音の思考で、無数の線が
身体の無秩序に波形をのこす。
思考の萌芽がそこにはない。
虚無の身体がカオスを標す。

「出始めの儀式が始る」

かたちを変える波形であり、
いわゆる顔貌性の無数の線

それは暗闇の時間が始ることのない
最後の自我に終わりを告げる音・・
耳を澄ましてごらん、ほらそこに。

 

前回アルトーの自画像のことを書きました。その思考の基となったのが、この画像掲載(DF27-20red1/DF27-02gray_1C1)です。この絵は雑誌のなかにあった少年の顔が、いまにも崩れそうな恐怖と不安感のある顔に強くうたれた。その少年の視点はどこにあるのだろうか。不思議なインパクトがあった。そこでこの少年の顔のイメージを鉛筆スケッチし、アルトーの「器官なき身体」の線をこの少年の顔に仕立て上げた。しかし少年のイメージを描き追い続けていくうちに、その顔は段々と戦禍による空虚な深い悲しみの顔へと変貌していった。わたしはこの少年を社会機械の犠牲者にしたくなかったので、さらに描き続け、眼の視点を変え、暗黒の底部を見る視線であるより、遥か彼方を見すえる水平線を暗示する光となるよう描き直した。それが前回描いた「DF27-02gray1_2A:光る短剣と器官なき身体」です。



2008年08月11日

アントナン・アルトー「神の裁きと訣別するため・・の線」

DF27-02gray1_2A

アルトーの面影

 

 

 

DF27-02gray1_2A
光る短剣と
器官なき身体

 

 

 

 

 

 

光る短剣と器官なき身体

わたしは少年の顔を見て、たまらなくアルトーを
想起させたのだ。5才のときに脳脊髄膜炎を
患い、一生涯異様な頭痛に悩まされる、死の
深遠をすでに少年のなかに刻印された、あの
生を回収しようとする、凄まじい戦いを予感する
その顔に、既に少年でありながら、「神の裁きと
訣別するため」に光る短剣を頭脳にもっていた。

こんなふうに思わす一枚の写真にであった。
その写真がなぜアルトーを感じさせたのか、
わしには判らない。まだ少年なのだ。

わたしはアルトーが木炭でデッサンした一枚の
ポートレートに胸をうたれた。生まれたての
純粋な光りに包まれたアルトーの顔を見、
その星座が優しく包んでいるのだ。
彼は狂人ではない。

「ヴァン・ゴッホ 社会が自殺させた者」

・・彼、アルトーは狂人ではない。
社会が精神異常者、狂人なのだ。
こんなふうにおもわすアルトーの
あまりに無防備なポートレートは、
わたしは、彼を痛ましくおもうのだ。

Selbstportrait WV2

一枚の写真、無邪気にも神から見放された
空虚な悲しさをその少年はもっていたのだ。
わたしは、この少年の額の上に十字架ではなく
光る短剣を描いた。そこにアルトーの描いた

Ohne Title WV45

・・を置いたのだ。この短剣は『器官なき身体』の
生と死を超えた新しい身体のイコンとして
わしたしは少年の額の上に描いた。そして白い
無数の線は思考の無能力を、首から下の太い
白い水平線を身体の内乱状態と「神経の秤」を、
その周りには暗黒のカオスを太いタッチで描いた。

地上の暗黒と天上の微かに見える光りを
暗示するよう、少年の頭の上に不可視の星々の
星座を、星の煌めきを数個の白い点で置いた。
わたしはバロック的な天と地、光りと暗黒を
少年のなかにアルトーを住まわせ、
仕立て上げた。

 

わたしはこの少年をアルトーの青年時代のセルフポートレート(WV2)に重ね、その眼差しをイメージし描いた。いったい何を見ているのか・・、そして額の上に光る短剣を置いた。この短剣(WV45)を透明な光として描いたのだ。画像掲載(DF27-02gray1_2A)は少年を描いているうちに、青年の相貌へと変容していった。というのもアルトーのポートレート(WV2)の眼には生れたての何かを凝視している無垢の眼球をしていたのだ。わたしはこれに捕らわれ、胸をうたれた。このような顔貌性は対社会からの限りなく逃走線を内に秘めた線をもっている。その多様な線をデッサンしたかった。それはアルトー以外にない。



2008年04月04日

絵画と身体性「基底材とは誰か、アルトーとは・・」−2

DE02-02B_Red2a

神経の秤



 

DE02-02B
_Red2a
「神経の秤」

 

 

 

 

 

 

 

わたしはアルトーが如何なるひとであるのか知らない。デリダが書いた『基底材を猛り狂わせる』というアルトー論を読んでみる。よく分からない。わたしはアルトー論の書物はまったく読んでいない。デリダが書いた、このアルトー論がはじめてなのである。なぜなら読んだとしても、もっと分からなくなるからだ。余白の周りをサーカスのように接近しては猛り狂わせる怪物に、「基底材とは誰か・・?」という問いにわたしはお手上だったのである。難しいということより、言葉の壁にぶっかったのだ。

それよりアルトーのデッサン集を見ることで、視覚をとおして思考を読まされる、あのアルトーの声がじかに迫ってくる緊張感、そして残酷なこの形態に、わたしは堪らなく傷ついているアルトーを読みとる。残酷さの背後に衰弱したミケランジェロの「ロンダニーニのピエタ」の美しさを感じるのだ。 怪物にやられている身体が透明感をおびはじめるというあの美なのだ。

『私は2千年前にゴルゴダの丘で十字架にかけられたのだが、それと同様に、全生涯にわたって毒を盛られてきたのだ・・』というアルトーのくだりは、彼のデッサン集を観ると、これは告白であり、真実を語っているということが分かってくる。わたしはアルトーを思考し、身体の衰弱体がキリストの受難と同等の価値が、異様に透明感を増してくる、あの空虚と取引したアルトーの思考の涙をおもいうかべるのだ。

わたしはアルトーのデッサンが、何かに対する反応を描いている、ということは気づいていた。<・・この何かが問題なのである。>しかしである・・アルトーのデッサンで驚くべき透明性をおびたものがある。それは自画像の木炭デッサンである。『自画像1919年』、この作品を見ると、まるで無防備なアルトーなのである。この自画像を見ると恐ろしく何かに傷つけられるであろうという、美しさを秘めている。美しい事物の生まれたての存在を感じるのだ。ただこちらを凝視している眼差しが、何か非常に傷つきやすい星として、遠いとこらからやって来た一つの星座のような気がするのだ。社会の残酷さを告白せずにはいられないキリスト像なのです。生贄の前のこの透明な美しさにわたしは感動するのです。そこにはすでに一つの身体を、透明な大気を呼吸しているアルトーがいる。

「神経の秤」が、今は暗黒の静謐な空間となり、永遠にそこに存在している目に見えない光を湛えている星として、わたしはアルトーのイマージュを十字架で、そしてその光りをダークブラウンと深いクリムソン・レーキ色で描いた。

 

「基底材を猛り狂わせる」:ジャック・デリダ
訳:松浦寿輝、<発行:みすず書房 >参照



2008年03月31日

アルトーの残酷絵画とは「技法の彼方にある、あの怪物を・・」

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水の出現3水の出現4

 

 

 

 

 

 

 

 

 

DE02-01A/DE02-01B
       「Untitled


ブルーの中から現れてくるものが何であるのか、ひとは理解しようとする。わたし自身理解していないのに。ひとは類似を求めて安心する。それらの集積が既知の認識であるとおもう瞬間、解らないということを目差すこの思考運動が、それ自体から現れてくる怪物を探し始める哲学者たち。あのアントナン・アルトーの「残酷な絵画」を誰が解るというのか・・技法の彼方にあるあの怪物を。

つまり理性の力は狂気を止められるのだろうか。狂気が理性となる場合は。多分人は、それを理性と言わないだろう。ジャック・デリダなら『基底材を猛り狂わせる』というだろう。かれは言語のパフォーマーであり、サーカスだ。そこで演じているアルトーは、ピエロか綱渡りの曲芸師だ。思考の狂気を綱渡りしている。落ちたらおしまい。しかし彼、アルトーは思考の綱ですでに非-思考に落とされてる、ということを知ってる。

 

「哲学者たち」ということを考えていたら、とんでもない方向にいってしまった。あのアルトーに頭がスイッチしてしまった。しかしおもいついたらそのまま書くのがわたしの慣しである。というのもイメージが後にアートの覚書になるからである。



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