ジョエル=ピーター・ウィトキン

2013年01月18日

ジョエル=ピーター・ウィトキン「そこには目に見えない深い愛がある」

BF03-40A

ウィトキン1

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「Sander's Wife, New Mexico, 1981」
   Witkin 写真集よりスケッチ

 

「Sander's Wifeのスケッチ」

わたしはウィトキンの写真集を見る。
いったい何を表現しようとしているのか。
それは聖なるグロテスクか、かたわの聖者か、
その眼差しは形而上的な意志と形而下的な
身体を写し撮るウィトキンがいる。

わたしはSander's Wifeのウィトキンの
構想スケッチを見る。そこに描かれたものは
滑らかさと、柔らかいタッチを感じさせる。
そしてそこには光があり、愛がある。

わたしはそのウィトキンのSander's Wifeの
写真を描きはじめた。マスクに隠された
意志と豊満な女性のエロティックな身体を、
ウィトキンの意志を感じるためにわたしは
スケッチした。目に見えない愛を
感じるために、わたしはそれをなぞった。

 



2011年08月08日

ウイリアム・ブレイクとウィトキン「想像し、出現するもの」−1

GH05-B1

心象風景A

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

出現するもの

どこか天体と繋がっているという
遠い声、そんな風景がある。

植物の嬉しそうな姿をみて、
おもわずシャッターを押してしまう。

それとは反対に不快感とグロテスクさを、
異質の体感をイメージさせる写真家がいる。
身体風景を撮る写真家、隠された光を見せるために
エキセントリックな構成、人体を撮る名人がいる。

それはジョエル=ピーター・ウィトキン
この異端の写真家が、わたしには美術家におもえる。
そんなウィトキンになぜか親しみをおぼえる。

Disciple & Master
暗黒の影のなかに見えない光、
そんな光景が見えてくる。
神の光、神秘、その遠い声が被写体の
グロテスクさから響き始める。
見えないものの神秘、イメージの星々に輝く。

想像することが現実となる

と、ウイリアム・ブレイクが言ったことを
ウィトキンはその想像力を写真に託す。

銀河の遠い声、消え行く瞬間の草花の
美しい力。想像力を喚起させる力が
草花にもある。その力は宇宙の響き、
ウイリアム・ブレイクの光をおもいうかべる。
道は繋がっている。

絶望の中にも光が必ずある。
あのフランシス・ベーコンの絵画のなかにも、
ムンクの絵のなかにもあるように。

暗黒の虚無さえ永遠の時間のなかで
抱かれる。この風景こそ身体のかなに
潜んでいるのではないか。

わたしはウィトキンからそんな光を感じる。
この見えない光は植物を撮っても、
わたしには変わらない何かが、
潜んでいるとおもえるのだ。



2009年12月23日

ジョエル=ピーター・ウィトキン「神秘とグロテスクそして聖者なのか」−1

EK22-01

ウィトンキン5

 


EK22-01
「ウィトキンの写真集
より鉛筆スケッチ」

 

 

 

 

Ref:[Sanitarium, New Mexico1983
       photo:Joel-peter Witkin]

このタイトルの写真にでてくる被写体の「太った女性」は、ロープで首吊りにされた猿の死体から2本の管で、彼女の口と接続されているのだ。あらゆる生命体の血を吸って生きている奇妙な吸血鬼にさえおもえる。なんというグロテスクさなのだろうか。わたしはその彼女(被写体)がサトゥルヌスのように感じたのだ。その印象をわたしは急いでスケッチしてみた。いったい彼女はサナトリウム「(Sanitarium)=療養所」で何を療養しているのだろうか・・、わたしには彼女が「サターンの女王」にさえ観えてくるのだ。そこでわたしはソファーに横たわっている、この威容に太った女性を「サターンの女王」として描いた。

わたしはこのサナトリウム(Sanitarium)というタイトルが、何を意味しているのか分からない。しかしこの言葉によって誘発される、ある存在が被写体と巧妙に絡み合って、わたしの感覚に訴えてくる「何ものか」がある。それにしても、ウィトキンの写真はグロテスクなのかエロティックなのか、あるいはゴヤの絵に出てくるサトゥルヌスなのか、理解不能の彼方からイメージがやってくる。その感覚はわたしを刺激するのだ。

2006年12月18日

Joel-Peter Witkin [ DISCIPLE & MASTER ]

AK2709-YELA3

磔のキリスト

 

 

 




「磔のキリスト」

ジョエル・ピーター・ウィトキンの「DISCIPLE & MASTER」の写真集を見ていると、この絵「磔のキリスト」をエンディングのページに置きたい気がします。ウィトキンの写真は、わたしにとって宗教画なのです。ウィトキンの写真にはなぜか「神」というイメージが付きまとう。あんなにも残酷でグロテスクなのに。このようにどうして宗教的に感じるのか不思議だ。

この絵の描写元は、キリストの肉体から血を流しているもので、あまりにリアルに描いてあった。その画集を見てわたしは強い印象を受けショックを感じました。それを逃さぬよう、いっきに流れるように鉛筆でドローイングしました。素晴らしいできばえであった。しかし今ではどの画家の絵か覚えてはいない。デッサンだけがのこっている。

放置したままの、このデッサン画の線のタッチが生き生きしていたので、中世の宗教画を想起させたいとおもいつき、再現してみようと考えた。そこで画像処理し、本物の金粉で色を付けたようにしてみると、線のタッチとピッタリ合い、金のプレートで作ったレリーフのようになり、緊張感と光りを感じる聖像となってイコンのように仕上がった。

わたしは無宗教でキリスト信者ではない。しかしながらウィトキンの写真集を見ると、宗教的な精神性の深い何かを感じるのです。今日では、「神」という概念がどのようなものであるのか、全く想像できない。中世のような宗教画でもないし、仏教では「神」という概念はない。

かろうじてイヴ・クラインやデュシャンの絵をみて「神」ということの意味が別な方向から見え隠れしている。それと同じようにウィトキンの作品を見ると感じるのだ。わたしは中世の人々がどのように「神」を感じているのか知らない。

デカルトやスピノザが論じていたところの「神」の存在から、「神」の不在へといく声が、微かに聞こえるのを感じます。それに変わるものは何か、という問いが芸術なのではないか、こんなふうにウィトキンの作品は提起しているのかも知れない。それにしてもなぜあのようなグロテスクな作品をつくるのだろうか。



2006年06月07日

マティスのエロスと「ジョエル・ピーター・ウィトキン」の方へ3

BF06-3

ウィトキン4

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


La Serpentine, Marseilles, 1992
「ウィトキンの写真集よりスケッチ」

わたしはウィトキンの写真集のなかで、この裸婦のポートレートを見て驚いた。とびきり官能的なのだ。マティスの絵もこれと同じくらい官能的であり、わたしを虜にする。それは抽象的で思考の彼方へと運び去る知的官能が、宗教的な要素へと置換する。この変位のイメージが官能的だとおもえるのです。また厳密な論理的構成がセザンヌ的でもあり、わたしを惹きつける。 

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