トム・ウェッセルマン
2013年01月13日
アンリ・マティスの絵画は無限の可能性を秘めている
CD21-1Blu1/CD21-1Blu2/CD21-1Blu3
「星と裸婦」
マティスの「座るピンクの裸婦、1935年」を鉛筆スケッチし窓の外に星を描いた。
紫の単色でメタフィジックふうに制作してみた。繰り返す無限の宇宙へと繋がるイメージへ、
比率の違う同じを絵を3枚提示し、フラクタル感のでる空間とした。始まりが、どこからか
定まらない迷宮の夜へと踏み迷う感覚と、星の希望が同時にでてくればよいとおもった。
古風なポップアートふうに仕上げた。
・・結局マティス絵画はカオスから盗んできた凄さがあるので、如何ようにもアレンジできる
可能性があることがよく分ります。装飾ふうにもできるし、論理的で、哲学的な絵画ふうにもできる。
またグロテスクな絵にもなります。あらゆるエロティシズムがその絵のなかに含まれている。
トム・ウェッセルマンはその魅力に惹かれたのだろう。
2009年09月11日
偉大なアメリカンポップアーチスト「トム・ウェッセルマン」
体調は少しずつもどってきましたが、まだ作品の整理はできていません。トム・ウェッセルマンのことを2年前に掲載しましたが、纏まりのない文で削除しました。また掲載してほしいといわれましたので、そのまま掲載しておきます。ウォーホルと同じくらい素晴らしい作品を残しています。2004年(享年73歳)に死去されました。わたしの大好きなアーチストでした。
トム・ウェッセルマンの作品はどれも好きで部屋に飾ってある。もう何年も飾っているので色褪せてしまった。とくに「Porch,1960」、この作品がいい。野菜や果物をコラージュにした作品でマティスの静物画を想起する。宇宙的な広がりがあって野菜や果物が無限のなかの有限の様態を示す。というように存在の本質を見せてくれる。これはわたしがマティスを観るときいつも感じる本質的問いです。そこから派生してさまざまなバリエーションをかたち創る。ウェッセルマンのこの絵は将にマティスと同じ眼差しです。物質の存在を垣間見せてくれる。
CF05-20
TOM WESSELLMANN
(portrait.1980)
鉛筆スケッチ
わたしにとつてウェッセルマン
とは一生涯マティスを師匠にし
た人だ。そうおもえる。限りなく
マティスを尊敬していたにちが
いない。初期のコラージュ作品で
「Porch、1960」、
この作品がもの凄く好きだ。
毎日観ても飽きない。
この絵はウェッセルマンの原点のような気もします。そこから派生してさまざまなバリエーションを後に造形化してゆくことになる。このウェッセルマンの“Porch”という作品は将にマティスと同じ視線をもっています。しかも両者とも少しも抽象化せず具体的なモチーフを使って表現している。装飾的なスタイルのなかに深い哲学的な要素が確り表現されている。それは眼に観えないけれど、両者とも共通しているその眼差しは、非常に厳しい視線をしている。ウェッセルマンの、どのポートレートを見ても眼が厳しく物事を客観的に観ている眼差しを感じます。口元の表情は優しさがでています。スケッチして見るとそのことが分かってきます。
またウェッセルマンはデ・クーニングが好きでその自由なスタイルに憧憬をもっていたらしい。わたしもデ・クーニングが好きで、A4サイズの複製画をポスターサイズに拡大して額縁におさめて飾っています。その絵を観るにつけ、自由に描けば描くほど嘘がつけなくなってくる、その運動性と色彩の痕跡が、筆跡が真実に迫ってきます。デ・クーニングのドキュメンタリーを観ている素晴らしさです。
特に「女、1948−53年代」、このシリーズはウェッセルマンが描こうとしても決してできない完成度に達していたとおもう。むしろウェッセルマンはマティスと同じようにフォルムを形式のなかに溶け込ませ、世界を表現する。裸婦のフォルムを形式化しポップアートというフラット的なスタイルに仕上げるにはピッタリする。しかも立体的な3次元空間に移行してもアメリカの消費社会の奥行のなさとうまく合う。
初期のデ・クーニングの作品に「静物、1927年」というのがあります。この作品は、ある人は少しマティス風だという。またこれを抽象化した作品「無題、1934年」があります。この絵もマティスの切り絵を連想します。わたしにとってこの2つの絵はまさにマティスそのものの眼差しです。カオスというものがあります。少しマティス風どころではありません。世界を観る視点はマティスそのものです。
それとウェッセルマンの「Porch,1960年」の作品とデ・クーニングの「静物、1927年」は、まったく同じテーマで描いているのに驚かされる。両者ともこの絵が世界を見る眼差しの原点であることには変わりはない。後にデ・クーニングはアーシル・ゴーキーと知り合い、影響を受けることとなる。わたしにとってウェッセルマンは最後までマティス的な見方を変えなかった人であると感じている。晩年には鉄板を線状に切り抜いてヌードを作り、それに色彩をし、その背景にはマティスの静物画を配置している。この技法はマティスの切り絵からヒントを得たのか知りませんが、実によくマティスを学んでいる。
初期のドローイング「Drawing for Great American Nude #20 1961年」などはマティスの技法とその眼差しまで貪欲に学んでいる。“本当にマティスが好きなんだな!”とおもいます。そういうわたしもこのサイトにマティスのことを書き、あるいはその技法を学び随分吸収して来ました。それは測りしれないほどだ。マティスの本当のよさはまだまだ発掘されてはいない。それは、あの情動表現の形式化の背後にあるカオスを学ぶことなのである。