マーク・ロスコ

2010年01月12日

Mark Rothko/マーク・ロスコ「”key of Life”それは不安な夜に・・」

EK24-01blue/EK24-01red

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Untitled

 

不安な夜に・・

・・気にはしていたのだが、その絵を観たときから
ある予感を感じてしまった。美しいとか、上手に描けて
いるとかそういう絵ではない。鑑賞する絵でもない。
わたしは「それに」近づかないようにしていた。
マーク・ロスコの絵とは、わたしにとってそういう
そういうところに在る絵だ。感情(情動)が身体性と
なって形成されてくる、生を超越した死か・・

この危険性をたえず孕んでいる。」

生の不安定さ、揺らぎ、生成の向こう側・・
彼岸とは・・それは涅槃・・永遠・・
だが、生の発生はどこからやって来るのか、
だれにもわからない。生の死、この身体性を
脅かすものとは何者か・・

それは「Key of Life・・

 

EK24-01blue/EK24-01red:この画像は’09・11・25に掲載したものです。昨日ロスコについてNHK3で放映されていたので、わたしの感想として上記の文を追記しました。わたしがなぜ抽象表現主義にいかないのか、その理由は長期にわたって行為し続けるとやがてクラフトになるか、精神の衰えが、じかに身体を蝕む。それとともに、散逸の構造が現れてくる。やがて思考の(無意識も)コントロールの喪失をともない、その絵の世界を支配する非主体性の王国が表現行為となる。その表裏一体、主体と非主体の格闘がいっそう強まる。

そこにはJackson Pollockポロック)のように銀河がではじめることもたしかである。しかしこの格闘が喪失(宇宙空間の塵となって拡散してゆくように)すると緊張感の喪失となり、更に持続してゆくと、上述したように、たんなる美しいクラフトになる。その技法をめざす人はべつにして、死の彼岸が観え隠れする揺らぎの色彩が濃厚となる可能性がでてくる。身体の衰えとともに密度が薄れてくる。de Kooning(デ・クーニング)もそうかもしれない。わたしの好きなアーチストである。Tom Wesselman(トム・ウェッセルマン)やRoy Lichtenstein(ロイ・リキテンスタイン)もデ・クーニングのデッサンが好きだったらしい。そこからドナルト・ジャッド的な世界へ移行するのも必然性がある。わたしはできれば形式のなかにマティス的な思考をしたいとおもう。

あるいはさらに商業主義的なポップアートに、ビジネスアートの先駆者でもあるAndy Warholウォーホル)のようになってゆくのも時代の流れでしょう。それはドルを稼がなければならないということです。しかしウォーホルにはあの「エンパイア・ステート・ビル」、「食べる」などの非ビジネスアートの、だれが観ても感動しない映画を創ってもいる。これは抽象表現主義の反対の世界である。究極の非主体性の世界でもある。いずれにしても強度をどのベクトルにもってゆくのか決定をせまられる。わたしはそこでアートにもならず、詩でもない曖昧な中間の世界をおとしどころにすればいい、という考えをもっている。強度の問題をPierre Klossowski(ピエール・クロソフスキー)的(永遠回帰とは強度の問題でもある)な現代版であればいい。そんな方向性をたせたらいい。カオスのシュミラークルでもあり、形式の永遠回帰、またMatisse(マティス)の絵画のなかにある”ぞっとする”宇宙にもわたしは魅力を感じている。いずれにしても神の扉を開けるのは誰、それはKey of Life・・ということでしょう。



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