セザンヌ

2012年06月09日

印象派の絵画「近代科学の思考と社会」−2


どの国でもその時代によって社会をどのように見ているかは、絵画を見ると、目に見えるかたちForme)として表現されている。特に西洋では、視覚的に表現された絵画はキリスト教の見方の変遷でもあり、分かり易い。西洋を理解するとはユダヤ=キリスト教の父性原理を考えると非常に厳しいものがある。日本的な母性原理からみると、ゴッホはなぜあれほどまでに厳しい生き方をするのかと惑ってしまう。しかしこの思考の相違が日本人にかえて深い感動と共感を覚える。事実わたし自身、西洋的な思考で物事を見ている。概念あるいは体系というやつだ。西洋的な父性原理は息苦しくなってくる。どうでもいいではないか、というところがない。そこで自然科学は発展するが、無意識という領域では東洋の方が深く追究している。


モレの教会

 

 

 

 

HF1-1/Sisley
 朝の日差しを浴びる
モレの教会
1893年
油彩 カンヴァス
80 x 65cm
 ヴィンタートゥール美術館

 

 

 

 


 

ルーアン大聖堂

 

 

 

 

HF1-2/Monet
ルーアン大聖堂
1893-94年
油彩 カンヴァス
100 x 65cm エッセン
フォルクヴァング美術館

 

 

 

 

 


 

オーヴェールの教会

 

 


 

HF1-3/Gogh
オーヴェールの教会
1890年
 油彩 カンヴァス
92.5 x 75.0cm パリ
ルーヴル美術館

 

 

 

 

 


 

19世紀になってその問題がではじめる。いわゆる産業革命と意識の問題、そこからボードレールランボーからニーチェにいたるまで神という原理にどのように対応してきたのか、思想的なものが身体を支えていたのだろう。その思考が西洋文化を長い間だ保ってきた。思考が身体まで浸み込んでいる。そこから離反することは大変なエネルギーがいる。精神が分裂してしまう。そのはじまりがボードレールあたりからでしょう。神とこころの関係から、自然科学の発展とともに精神と物質の関係へと移行してゆく。自己の確立をどのようなかたちにすればよいのか。そのことを絵画で見ると、マネからはじまりゴッホゴーギャンセザンヌスーラなどモネも入りますけれどいわゆる印象派という画家たち。日本人が大好きな印象派です。西洋的な思考の葛藤を感じる最初の絵画でもある。そのような見方をすると教会を描いた3人の画家たちは、大変興味深いものがある。そこでどのような相違があるのか見てみる。

シスレー:
前回述べたようにシスレーの絵はこころの中に大気が溶け込んでいる。このモレの教会モネの「ルーアン大聖堂」と比較され低く評価されている。古典的で革新的な要素がなく平凡な日常であるという評価か。それは美術史的な見方でしょう。しかしシスレーは光学的な光の反映であるより、見たとおりの感覚を描いている。筆触分割法(色彩分割法)により瞬時に捉える自然のフォルムは、大気の感触がそのままカンヴァスに塗りこめられている。自己と自然との関係を守るためにパリには留まらなかった。都市化された思考を嫌った。

ゴッホの不安定さ、モネの光の反射の印象からくる非-存在性と比べるとシスレーの教会の建物は安定している。そこにいる人々も教会の建物とマッチし、静かな空気が流れている。日常的なささやかな出来事を描いている。目に見えないないところでは壮大なカオスがそこにはある。東洋的な見方をすると無常感というものがあり、非-自己的なものがある。その生き方を貫くにはパリから離れ自然の風景を描くためにモレ・シュル・ロワンなどセーヌ湖畔の町に住み、生涯その風景といったいとなった精神を描き続ける。

モネ:
モネ
の絵は視覚的な作用を促す印象派という物理的な反射の網膜絵画、そんなふうに感じる。そのイメージの追究で脳がクラとする部分がある。それをどんどん抽象化すると現代アートブリジット・ライリーかなと。ライリー自身スーラの影響をうけているといっているが、むしろモネの方にそれを感じる。スーラはわたしにとってはコスモロジー的絵画だ。デュシャンによればスーラ網膜的絵画ではないと言っている。印象派のなかでは特別な画家であるとわたしはおもっている。風景を装置のように思考している。スーラのことに関してはダイアグラムを作成して詳細に論じて言います。「アニエールの水浴その構造図−3」をカテゴリから参照してください。

ヴァン・ゴッホ:
際立ってゴッホの表現方法が自我と自己の関係を追求している事がわかる。到達地点がいったいどこなのか、その意識の彷徨性が社会機械と深く関係していることに気づく。現代もその問題はすこしも変わっていない。社会問題とは、あのアルトーが書いた「社会が自殺させた者」というゴッホ論だ。ここからいっきに「器官なき身体」という奇妙な概念が見えてくる。キリスト教的な思考が近代科学の発展と産業構造の革新的な変化によって心を脅かされてゆく。すでにボードレールは「昔のパリはもう存在しない」と詠っている。西洋的な思考の根幹であるユダヤ-キリスト教の原理とどう調和してゆくのか、悪戦苦闘しているゴッホがいる。ゴーギャンタヒチへ、ランボーは詩を放棄してアフリカへ。自我あるいは自己とは、この問題を個人として支えるのはあまりに荷が重過ぎる。

ゴッホは神から火を盗もうとしたプロメテウスか。アルトーはそれ自身で成り立つ自立というとてつもない思考を、思考していた。ゴッホの「オーヴェールの教会」をだれが支えているのか。ゴッホ自身の自我か、この不安定な教会。それでもいいというゴッホの自己か。画面中央から道は2つに別れている。孤独と不安な道を歩いて行く一人の婦人。左側の道を選んだこの婦人。純真なゴッホのこころとさえおもえてしまう。それにしても静かだ。それらを覆うように青い空とうねり。ゴッホは恐ろしく全体を冷静に凝視している。この空、教会、婦人そして道と町、すべてがゴッホのこころの投影か。到達地点は不在のまま神話を待ち受けているのか。



2012年04月11日

土方巽-はるかなる視線「消えることと現れること」−2

はるかなる視線
消えることと現れること

セザンヌはこれだな、というところから絶えず遠のいてゆく現前化、その痕跡を遺す。分割すれば、つぎの隙間が絶えずでてくる。その隙間を置く行為は終らない。これだなというセザンヌが追っかけていった痕跡を見ている。わたしは終った後からセザンンヌの絵を見ているにすぎない。終らないセザンヌの行為がどこからやって来るのか知りたい。そうするとセザンヌの舞踏を見るわけです。

モネの絵は光の踊りを見るにつけ、そこには空虚というものの隙間がセザンヌよりいっそう見えてしまう。それどまりという虚しさだ。ひとが宇宙と交信するより、消える風景のように見えてしまう空気、そんな雰囲気でいったい人類はどこから来たのかという声がきこえない。

ゴーギャンは聞こうとしたのか
ランボーはなぜ灼熱のアフリカへいったのか
ゴッホはなぜ火を盗もうとしたのか
ゼザンヌはなぜものの本質に自らの感覚を刻印しようとするのか
本質と感覚のずれは埋まらない

ようやっとそこから自然科学の力をかりること。自然科学の到来を待ち受ける印象派の絵画が登場する、スーラが特に際立った存在でしょう。神話の喪失の神話がはじまる。「現代美術だな」というところからわたしは、見はじめる。しかしちっとまてという人をよこでちらちらと観るようになって、からだのことは置いといて、というわけにはいかない。クライマーは全体と部分の達人だなというおもい。空気の(時空)切りと閉じ、そんなものが絵画に入りこめばたちまち舞踏になる。ジャクソン・ポロックはどうですか、と言われても「衰弱体に呑みこまれるひとに聞いて下さい」としか言いようがない。

 



2011年12月01日

ダ・ヴィンチとニュートン「神の遍在性と運動力学」-1

GL01-101A/WilLiam Blake

アイザック・ニュートン

 

GL01-101A
「ニュートン」
1795年
40 x 60cm、ロンドン
テイト・ギャラリー蔵

 

 

 

 

 

神の遍在性と運動力学

セザンヌ幾何学を「地球のものさし」だったということを、ガスケ宛てに書いたのか、あるいはベルナールセザンヌから聞いた話を語ったのか、わたしはその経緯を知らない。しかし「大水浴1906年」を観ると、なるほどとおもう。カント的な先見的必然性を幾何学(ユークリッド幾何学)に絶対的真理として観ていたのかも知れない。

さてダ・ヴィンチのことを書こう。想いつくままにキーボードにむかって手を動かし書き始めた。ところがイメージが次から次へとでてきていっこうに纏まらない、終らない。そのためのDiagramは身体(手の動き)と思考の運動でデッサンのように幾何学的な軌跡を描くことが出来た。というのもダ・ヴィンチの絵「聖アンナと聖母子」を観れば自然と宇宙的な運動を、瞬間のなかの永遠を、円環運動の幾何学的な軌跡をベクトル化できる。ダ・ヴンチの絵を観れば視点がそのように無意識に動き始める。だれでも感じているはずである。わたしはそれをなぞっただけであると感じている。そうであるならダ・ヴィンチのことは想いつくままに書けるとおもっていたのだが、いつまでたっても終らない。そこで連関のあるイメージをわたしになりに書いてみた。遍在する神重力のことなど。神のイメージ数学的な記述とがどう折合がつくのか。そんことを考えるともう纏まらない。とりあえずニュートンライプニッツそしてセザンヌをおもいつたので書いてみた。ダ・ヴィンチの世界は専門家にまかせて思考のスケッチとして自由に書いていくことにしょう。

ダ・ヴィンチとニュートン
あるいはセザンヌの感覚について

上述しましたようにセザンヌの「大水浴1906年」を論じる場合、個々の人物の表情や女性の身体が問題なのではなく、その配置がいかに宇宙の顕現化を構成できるかという問題です。セザンヌは動的な要素を考慮するより、空間に存在するもの内部意識の、感覚の発生プラン(平面)を一つの公理系として観る。3次元の空間を円筒、球、円錐として観ようとするが、描かれたものはそれらを分解し視点をずらし、再構成し幾何学的な一つの法則を見出そうと格闘している”かたち”を観ることになる。”かたち”とは奥行次元)きの追究です。3次元にもう一つの次元(時間)を入れると、生成変化の現象学的な差異性に悩まされ、生涯自己の感覚の法則を、その奥行を追い求めていたひとだ。色は分割され一つの接線を、微分法を脳内で形成させ宇宙の全体像に迫った。絵画のなかの絵画を確立していった。まさに「近代絵画の父」というな名にふさわしい。

しかしダ・ヴィンチは絵画というジャンルにどどまらない。むしろ自然科学的な思考のダイアグラム化であり、すべての思考をデッサンし、具体的に宇宙像を示したひとである。あらゆるものを記述したライプニッツににている。むしろライプニッツヴィンチ的というべきかもしれない。宇宙は無限の襞によって出来ている。セザンヌは一本の線が無限の襞で出来ていることを感取している。その物質の波動を、奥行きとしての公理系を確かめるため「サント=ヴィクワール山」の描写に何回も試みる。構成と時間との格闘。幾何学と意識(感覚の振動)、その定理を追究していた。感覚と理論を統合すること。そんな無謀な行為をしていた。

一方ダ・ヴィンチ運動エネルギーについて思考し、そのメカニズムを追究していた。ダ・ヴィンチは運動の波形を、その振動するメカニズムを人体の”かたち”(さまざまな構成)のなかに、風景と同一のように宇宙の法則を観ようとしていた。というよりすべての物質の根源を”運動エネルギーの神”、宇宙の設計図を思考し続けたひとでした。それはニュートンに通じるものでもある。ニュートンは神の作用を真剣に思考し続けたひとでもあり、「機械的原理」はどこからやってくるのか、言い換えると数学的な記述がなぜ宇宙の原理を記述できるのか、神秘的としか言いようがないもの、それをニュートンは錬金術と関連して追究していた。これには驚かされる。あの近代科学の基礎をつくったひとなのだろうか。まさにローマ神話双面ヤヌスである。わたしは、「錬金術師ニュートン:THE JANUS FACES OF GENIUSthe role of alchemy in Newton's thought ) 」日本語訳を読んではじめて知った。ニュートン力学は今日でも工学の分野では力の単位すらなっている。自然科学を追究していたひとが神の存在を生涯追い求めていたのは驚きです。そのなかにニュートンの言葉:

神のうちにすべてのものは含まれ、動かされている

と述べている。神の遍在性(あらゆる存在の場)という言葉は何か謎めいて神秘的だ。そのことと関連して現在でも数学は発明」なのか「発見」のなか、わたしには分からない。現実の事象を記述するのにあまりに的確すぎて不思議だ。

補足:
セザンヌの構成
    
時間との格闘


水浴する女たち

 

 

 

 

 


大水浴1906年」

この絵を観ると、向かって右側の人物の肩の位置が幾何学的な構成を意識している痕跡がある(まだ決まってはいない。右側の人物は三角形の樹と見事に調和している)それをどう処理していいのか途中で放棄している。しかし構成という面ではこれ以外ないというほど肩の角度と腕の曲げ具合が決まっている。この不自然でありながら意識内部である抽象性が漸近的に接近している。生成途上にあるがゆえに、内部意識の発生を促がす未完の完成にベクトルは向かう。この厳密な構成こそセザンヌが求めていた、定理ではないのか。わたしはそんなふうに感じる。この放棄こそある原理が存在してると思えてくる。このようなセザンヌの意識は、フランシス・ベーコンジャコメッティにもある。

ウィリアム・ブレイクとニュートンについて
ウィリアム・ブレイク
ニュートンを論理的で冷たい機械論的な見方をしていた。ところがニュートンは決してそのようには観ていない。ある絶対的な原理のもとで作用する、その神秘的な現象を追究していた。法則と神的な関係を生涯見続けていたひとだ。



2010年12月08日

ポール・セザンヌ「知覚の構成」

FG22-03

赤いチョッキの少年

 


FG22-03
「赤いチョッキの少年」
1894~1895年
カンヴァスに油彩
75.9 x 64cm / チューリッヒ、
E.G ビュルレ・コレクション

 

 

 


庭師ヴァリエ

 

 

FH01-01
「ヴァリエの肖像」
1906年
カンヴァスに油彩
65 x 54cm
個人蔵

 


 


水浴する女たち

 

FH01-02
「大いなる水浴する女たち」
1906年
カンヴァスに油彩
208.3 x 251.5cm
フィラデルフィア美術館蔵

 


 

知覚の構成

セザンヌの絵画は晩年になるほど透明感がでてきて非常に美しい。対象から断面の総体、再構築された線、色彩、それらの対象はオブジェクトの再現であるより知覚したものの世界へと、新たな線を確立しようとする知覚の線である。構成という平面(プラン)の最高傑作は「大いなる水浴する女たち、1906年」である。セザンヌが到達した世界は完成しているのか、未完成なのかは、いまだ生成途上にあるものとして存在している。現前(見えるもの)にあるものと、知覚との差異、そこから導きだされるものは構造である。ものの本質へと接近する方法があの技法に到達したわけである。塗り残し、不確定な形、遠近法の無視(比率)・・それらの断面をカンヴァスに再構成すること。特に「サント・ヴィクトワール山、1902-1906年頃」の作品は、セザンヌ自身が認識したもの、それらの像を確立することであった。対象から(現前する目に見えるものから)離反し、カンヴァスの平面に描かれたものは次元の再構築であり、セザンヌ自身が知覚(感覚器官)したものの確立、それらを構成することであった。

現前化するものとの差異、たえずこれと格闘しながら構成し続ける無謀な試み、その痕跡をみる意識の生成がある。この痕跡(知覚の構成)とは印しであり、表象であり、対象の類似性を観るものではない。その痕跡が思考を作用させそれを超え、新たな絵画を創ろうとする格闘がある。神話の誕生である。それは「大いなる水浴する女たち」の作品である。20世紀最初(1906年)の金字塔であり、セザンヌによって、はじめてタブローが独立し、それ自身による生き生きとした姿が観えはじめる。知覚の生成とでもいえる。多次元の構成が機械的に脳内で形成しはじめるのである。この感覚はフランシス・ベーコンにも受け継がれている。

赤いチョッキの少年」は:
右腕が少年の思考の印しであり、最初のスタート地点へのベクトルである。腕の長さの比率の違いはそのためのものであり、別次元の感覚を喚起させる方法なのである。まさにセザンヌが少年を観る眼差しは、セザンヌ自身による知覚の構成、厳密に計算されたものなのである。それによっていっそう少年の像へと向かわせる。また左腕は憂愁に充ちた顔に手を当て支え、弧をした背中の描き方がいっそう少年の内面を引きだしている。さらに左腕の肘の近くに白く描かれた手紙らしきものが置かれている。沈思する少年とこの対比も実によく計算された構成である。しかしこれらの構成は具体的なものを正確に描写することとは違う。抽象的に描かれ、どれも厳密に計算されたこの構成は、セザンヌが知覚した認識の印し(イデーの記号化、現実に存在しないものの実在化)ともいえる。また少年の背景に描かれているものも具体的に描いてはいない。

そして色彩は少年の赤いチョッキによって画面は密度をまし、その周り(Back Ground)は空間の再配分(断面)によって像(少年)はひとつの生命を、沈思するかたち、憂愁に充ちた少年を見事に描きだしている。ゼザンヌの作品のなかで論理的な構造など気にしなくてすんなりと意識のなかに溶け込んでくる作品である。わたしの好きな作品である。他の作品はセザンヌの理念がかたちとして観えるので、けっこうしんどいところがある。絵画としての視覚の快楽より、精神的で脳の機能を直接作用させるものがある。それはジャコメッティへと接続され、存在と不在(空虚さ、無ではない)の曖昧な不安定さがある。それは境界の接線である。マティスの絵画にもこの不安定さがある。運動という定点のない存在の漸近的で、微分された断面の再統合を試みるひとつの冒険であった。

庭師ヴァリエの肖像(側面),1906年」は:
最晩年の作品で体力の衰えがあるはずだが、本質に接近しようとするセザンヌの真摯な態度が観える。「存在」という重厚さ、密度がこの肖像画にはある。背景は「赤いチョッキの少年」のように具体的なかたちは描かず抽象的で、ヴァリエの像をいっそう存在させるための重い空気の層を独特のタッチで描いている。これほど重力の中心(像の)が観えるこの作品は凄い。少し離れて観ると彫刻的な次元をもっている。それは彫刻的になるということではない。そうではなくて次元の問題がこのタブローそれ自体から生成してくる意識の発生が構成されてくるのである。多次元的(数学では高次元から無限次元まで扱う)な内部意識が対象を離反し知覚の構成というカンヴァスに独立性をもたらすのである。このセザンヌの理念は幾何学的なトポロジーの概念と連関するように思える。現代アートの思考はセザンヌの理念をまさに受け継がれている。デュシャンセザンヌからマティスへと向かい、その思考は確り影響を受けている。

今回、はじめてセザンヌ論めいたものを書きましたが、そのさわり程度は何回か書いている。セザンヌについて語るのは本当に難しい。曖昧に書くと、輪郭がぼけてくるし、存在論的に書くと哲学の方向性にはまり込む。美的に書こうとするとセザンヌから拒絶されるような感じになる。一般論的に書こうとすると、多くの専門家が論じたセザンヌ論に、その言説にとらわれてしまう。結局わたしが感じた偏見的な見方で書くこと以外にない。しかも断定的に観ること。というのも定点を設定しないと、いつまでたっても接近できない。そんな難しさがある。その難しさこそセザンヌの本質ではないか。カンヴァスの中に多次元的な空間がある。それは完成された・・未完成(時空を形成する内部時間)である。



2009年01月26日

ジョルジュ・スーラを「現代アートの視点から観る」−1

今年は少しずつ現代美術の視点で古典、近代絵画を観ていこうとおもいます。絵画の通史としてではなく、確立された絵画論や一般的に評価された見方とは別次元でみていこうとおもいます。空間と内在という問いに焦点をあわせて、現代の視点で観たその構造を述べてゆきます。それは現代でもその概念の発展途上にあるとおもえる絵画を抽出し、そのなかに何か新しい発見を、その概念をみいだすために書いて(描いて)ゆきます。従って確立された既存の概念をなぞる絵画史とはなりません。わたしの感じたこと、作品をつくる思考の延長として観てゆきます。そしてわたしの作品の概念とリンクして思考してゆきます。その第1回として、ジョルジュ・スーラをとりあげます。スーラは現代美術との接点がものすごくある画家です。わたしにとっては、デュシャンと同じくらい画期的な概念をもっています。それは「装置としての風景」を最初に表現した画家なのです。今回はそこから入ってゆきます。尚、「アニエールの水浴」の構図論の詳細は第3回目に掲載しました。厳密な幾何学的構成のすごさが明になってきます。

 

花瓶の花座っている少年


 

Seurat_EA22_1/EA22_2
花瓶の花、1878-1879」/
座っている少年、1883-1884」

1・空間と内在
結晶化した時間の現働化


 

アニエールの水浴



Seurat_EA22_3
アニエールの水浴、1883-1884」

2・装置としての風景
人物を空間に配置し、
再領土化する。それは、
自然からの対象を解放し、
カオスの断面を捉えること。
 

 


 

グランド・ジャッド島

 

Seurat_EA22_4
グランド・ジャッド島の日曜日の
午後
、1884-1886」

3・装置としての風景
社会、文化を風景のなかに
再領土化し、その断面を配置する。


 

 

エッフェル塔

シャユ踊り

 

Seurat_EA22_5/EA_22_6
エッフェル塔、1889」/
シャユ踊り、1889-1890」

4・近代テクノロジーと社会機械及び
その欲望する諸機械あるいは
情動のダイアグラム

 

 

大水浴

 

Cezanne_EA22_7
大水浴、1906」

5・分子的無意識
欲望する諸機械など。
カオスの断面を
ミクロ物理学的なものへ
向かわす内在性

 

 


 

 

1・内在と空間
花瓶と花:
この絵は不思議な絵である。花瓶と花は正面から見た視点で、テーブルは45度上から見た視点のようにもおもえる。そして背景は荒いタッチで筆触の跡があり、しかも立体的な空間性(リアルな空間)として描いてはいない。エモーショナルな2次元的空間をつくり抽象表現主義的な感じさえする。花瓶と花は自画像のように描いている。そして花瓶から出ている二枚の葉がテーブルの上に射している二つの光と同系列の配色で描いている。それはまるで光の粒子を取り込んでいる手のような二枚の葉として、すなわち無限大のカオスを、その切片を取り込む内在として描いてる。この構造は(世界は)スーラの本質を成している。後に描く絵はすべてこの哲学に貫かれている。内在と空間性の問題をすでに表現していたのである。若干二十歳の時に描いた絵である。驚くべき才能である。しかも詩情溢れるスーラの内在性があり、内と外の見事な接線を、その平面を観せる魅力のある絵である。

構成要素は4つの平面から成立っている。ひとつは幾何学的なテーブル、二つ目は花瓶と花、3つ目はテーブルの上に射した二つの光、4つ目はエモーショナルな垂直に描かれた筆触の跡がある背景である。この4つの構成要素で調和のとれた絵となっている。 幾何学的なテーブルが3つの要素(背景、光、花瓶と花)を静かに確り受け止めている大地の要素となっている。もっと先え進むと、4つの構成要素の平面を分解し、格視点をずらし再構成するとキュビスムとなる。このスーラの絵は、花瓶と花の視点とテーブルの視点が明らかに違う。ずれているのだ。これは意図して描いたのだろうか。素晴らしい構成要素だ。

座っている少年:この絵は「アニエールの水浴」の習作で、コンテで描いた作品である。わたしはスーラがコンテで描いたデッサンがものすごく好きで、かなり影響を受けている。わたしはブラックインクでスーラ的技法でエッチングのように描いてる。エッチングといえばレンブラントの線の描き方、その技法は完璧である。線の方向性、ベクトルがまったく無駄がなくパーフェクトである。両者とも光の画家であるとわたしはおもっている。ただし印象派のあのモネのような光の捉え方のことではありません。モネは空虚なものに対して、哲学的な問いを感じない風景画家のように感じ、わたしにとってはあまり興味を惹かない。スーラの話に戻りましょう。この「座っている少年」もそうですけど、スーラの描く人物は側面の構図が多いですね。頭、首、そして背中の曲線へと向かい、臀部が支点なって足元へと流れてゆく。背中が光を受け止める窓となっています。ちょうどそれは外と内在の接線の役割をはたしています。カオスを受けとめる孤独なモナドのようでもあり、それは『内在・・すなわち一つの生』という問いを感じます。この内在とは内部意識のとこではない。あえて言えば、関係する外と内の流動的な此性の・・強度的なことを意味します。

2・装置としての風景:この「アニエールの水浴」は、わたしにとっては実験的な風景画なのです。モネを代表する印象派のような風景画ではありません。自然を写しとる対象としては描いていない。それは現実の風景画ではなく、ひとつの構築された装置としての風景画なのです。自然という対象を離れタブローそのものに向かう絵画としての自立性がそこにはある。たんなる筆触分割技法で描かれた印象派の画家とは違います。それは画期的な絵画に対する新たな概念がそこにはあります。この絵は神秘的で不思議な空間構成となっています。デュシャンに通じる宇宙エネルギーをもっている。それはシュールレアリスム的にさえ感じる。その構造の概要だけ今回論じます。

何しろこの絵は遥か彼方の天体の運動を、あたかも静止しているような構図で描いている。しかしである、人物は静止しているかのようでありながら、熱平衡状態に向かって膨張する宇宙の銀河を想起する。静止した内部では運動(座っている少年<原子核>を中心に4人の<4個の電子>男たちが円軌道を描いて動いている、ミクロであると同時にマクロでもある。)が起こっている。スーラの描写では、そこにはどこにも運動している要素を描いてはいない。しかし不可視の構造として、脳内では円運動をしているのである。この静止と運動の矛盾が、わたしの脳内では在り得ないことがおきている。シニフィアンの背後に理解不能のシニフィェの超現実的で、めくるめく神秘がわたしの感覚へと作用しているのである。この宇宙の神秘を垣間見せてくれる。まさにこれこそ「装置としての風景画」なのである。これはまぎれもなく現代美術の視点である。わたしはスーラの絵のなかで最も好き絵なである。セザンヌの「大水浴、1906」がひとつの神話であるなら、わたしにとって間違いなく、この「アニエールの水浴」もそれに匹敵する神話であり、大作である。


3・装置としての風景:
社会、文化を風景のなかに再領土化しその断面を配置する装置としの絵画である。それは自然という対象を絵画空間として再現することではない。この「グランド・ジャッド島の日曜日の午後」は「アニエールの水浴」の概念を応用し、絵画空間として完成されたものとしてスーラは提示したものとも言える。従って絵画の魅力としてはある。グランド・ジャッド島の絵は「アニエールの水浴」にはあまりなかった(アニエールの水浴は遠景の工場として表現しているが)近代文明、文化を、その社会性を服装や市民生活の様態をとり入れて表現している。次に社会機械へと移行するスーラの思考が見える。このグランド・ジャッド島の表現では、スーラは風景より人物の方向性にウエイトをおいている。社会機械のなかにその情動を置いて観ている思考がうかがえる。後にこの情動を欲望する諸機械として「シャユ踊り」として表現してゆくことになる。この欲望のエネルギーを静にいかにもスーラらしく、この画面右側にいきなり愛人(娼婦かも知れない)らしき婦人と紳士を大きく描いている。これは欲望する諸機械を暗示させ、この絵の全体の中心(重心)には白い服を着た小さな子供を描き、その右側に母親を配置している。視点は愛人と紳士から母と子供の立像に移り、この対比も計算して描いてる。しかも「アニエールの水浴」と同様、子供の服をポイントとして白い色で配色している。それは全体を統一しすべてを観ている子供であり、スーラの眼差しと反射している。また鑑賞者を見据てもいる。

4・近代テクノロジーと社会機械及びその欲望する諸機械あるいは情動のダイアグラム。この「エッフェル塔」は近代資本主義の最初の欲望する生産である。社会機械のなかにある欲望の象徴的表象である。後にこれをニューヨークに置き換え、あの摩天楼群を幾何学的に抽象的な表現で描いた、「ブロードウェイ・ブギ・ウギ」のモンドリアンへと接続されてゆくこととなる。点描をどんどん進めてゆくと、一つのブロックとして秩序構成され、分子状から有機的なシステムが形成される。モンドリアンの絵がその究極までいきついた表現手段である。色彩は両者とも赤、黄色、ブルーが主に配色されている。「エッフェル塔」を平面図的に表現し、それを分解し抽象化の作業をとおして幾何学的に再領土化すると、必然的にモンドリアンの概念へと向かう。

シャユ踊り」はポスターとして観ることもできますが、スーラの思考はそれも含まれますが、もっと先へいっている。社会機械のなかに潜在的にある欲望する諸機械をダイアグラム的に表現していると観る。既存の概念で観ると、えらく幼稚に見えるか、猥雑さのあるたんなる絵としか観ない。決してそうではない、これは生産する欲望を機械的に観ている画期的な概念が含まれている。この概念は最後にはウォーホルまでいきます。この絵の構造は各断面を合成した平面となっている。踊り手、指揮者、ベーシスト、観客など。それぞれの視点で観ている。これらの画面構成はキュビスム的な平面があり、その先駆者として高く評価されてもいる。スーラはこれに限らず他にも先駆的な作品を創っている。

5・分子的無意識の欲望する諸機械など。カオスの断面をミクロ物理学的なものへ向かわす内在性。すなわち近代文明の思考概念を脱領土化する逃走線と、その地層を、ニコラ・プッサン的な寓意を再領土化するというテーマがセザンヌの課題とみる。しかしそこには社会機械の諸問題があり、それをどのように身体性の変調なしに、世界へ接近できるのか。むしろそれを射程において、プッサンへの回帰をしょうとしたのか・・・、ゴーガンゴッホの深い傷跡をみるにつけ、その方法論を・・、今回はスーラがテーマなのでこのセザンヌ論は述べません。いずれ書きます。

補遺:
まえからスーラに関してまとめて書こうとおもっていたので、やっと論じることができた。これでもまだスーラの一面だけで、内在というテーマに沿った部分だけを抽出して書いただけです。なぜわたしがスーラにこれ程までにこだわるのか、それはセザンヌゴーギャン、ゴッホなどの画家と比べて、多少影が薄い存在のように扱われているのは間違いで、それと匹敵する程偉大な画家であると思うからです。そしてわたしに多大な影響を今でも与え続けている。



Recent Entries
「最新トラックバック」は提供を終了しました。