ジョルジュ・スーラ

2009年03月17日

Georges Seurat/スーラ「情動と社会機械」−7

スーラについて第6回は「グランド・ジャット島の日曜日」をとりあげました。第2回と第3回は「アニエールの水浴」の構図について論じました。その装置はどのようなものであるのか、Diagramを作成し、遠近法による視線の方向性が、不可視の構造を生成させカオスの平面をタブローのなかに見事に結晶化させた。この新しい概念を論じました。それはデュシャン的な装置の見方で観ることによって、スーラの絵画は「アンフラマンス=inframince」となる。これはデュシャンの造語で何を意味しているのか各自が体験してみる以外ない。もしそのことを説明しようとすると、トートロジーに陥るか、一冊の書物を書き上げなければならない。詩的に表現するか、実際にそれを創ったデュシャンの「便器=泉モノと言表行為とのアンフラマスでもある)」、「大ガラス」、「遺作」などを観て感じる以外ないというとこです。あるいは自分でその装置を創ればよい。しかしこういう体験は誰でもしているとおもうのだが、再-現前化させその装置を創るとなると、別問題です。デュシャンは「大ガラス」の制作に8年もかかっている。メモを入れると十数年はかかっているはずだ。しかも途中放棄している。デュシャンのことで少々脱線してしまいましたね。もとに戻りましょう。

 

シャユ踊りAサーカスB

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

シャユ踊り、1889-90」/「サーカス、1890-1891

スーラは網膜的な絵画から離反し、理念の幾何学的な感覚の形成を観るタブローとなって現前化してくる。つまり構成された点描の背後に、描かれえぬものの、極薄性の見えないものの観えるものが現前化してくることとなる。この見えないものの、見える視点は空気の層である。空気の微粒子がイデアの内部で結晶化し波動化する。それが「アニエールの水浴」であり、特にこの「ポール=アン=ベッサン、橋と波止場」では小さな女の子の体からオーラがでており、事実スーラは彼女の左側に点描でその空気の層を描いている。実際には在りえない出来事である。不可視の構造としてスーラのどのタブローにもたえず微粒子の影が結晶化した純粋時間のカオスがある。それは現すことも見ることも出来ない極薄性のカオスの平面である。とはいえ理念の内在として形成してくる何にものかを感じるのである。それに向かわすベクトルがあるということです。


情動と社会機械
さて今回テーマの「シャユ踊り」と「サーカス」は、一方は音と身体であり、サーカスは運動と身体である。この両者ともリズムが共通なテーマとなっています。それはひとつの波動をつくること。波動とは作用するものと、作用させられるものとの共振関係ということです。情動という動きを作用させるメカニズムを見せる装置をつくったということです。ここでわたしがいう情動とはスピノザのエチカ第3部定義3のことで『情動とは、私たちの身体の活動力を増大し、あるいは減少し、促進し、あるいは阻害する身体の変様の観念である』と、このような意味の情動のことです。最初にスーラは「アニエールの水浴」で5人の独身者と大地、水、空、そして欲望する諸機械を生産する表象としの工場の煙を描き、まだ社会機械の方へ視点はいっていない。空間と内在に重点を置いている。渡りボートがグランド・ジャット島に向かっているのでそれを暗示はしている。次にそのジャット島という地層のなかで人々の様相を配置する構想にスーラは着手する。「アニエールの水浴」が外と内の内在の構造に感心がいっているのに対しして、「グランド・ジャット島の日曜日」は、社会の反映としての内在に感心が向いている。この時点ではまだ人間の様相が社会機械の表現としての形を、その特異点を形象化しているに過ぎない。当時のファッションを外面的に描いた社会的な係数としての形象である。社会のベクトルは見えるけれど、心の動きはまだ描いてはいない。しかし近代資本主義の波がおしよせて来る、その反映としての心の状態に、その変様のメカニズムをすでにグランド・ジャット島でスーラは観ていたのである。欲望する諸機械の社会的な生産過程を敏感に感じていたというわけである。「アニエールの水浴」では工場の煙突の煙で表象していたのが見てとれる。

さて今回の「シャユ踊り」と「サーカス」ですが、これは明らかに外との反応であるより、内部の情動のメカニズムの方にスーラは感心がいっている。前述したようにこの情動のことをスピノザが的確に述べていることを踏まえて、更に精神のことは次のように述べている。『精神とは身体の観念のことである』と、そこでスーラは身体の様態のシステムに興味がいっている。このときでもスーラは外の時空を観察はしている。海の風景画を同じ時期に描いてもいる。たえず外と内の関係性を、その内在を観ている視点がスーラには必ずある。それはイデアの世界(多様体として)の具現化の確認作業でもある。そこで「シャユ踊り」や「サーカス」では何を表現したかったのだろうか。あるひとはシャユ踊りはあまりに図式的であるというし、サーカスでは何を表現したいのだろうかと、おもえるほど形式的な表現方法をとっている。ある意味では、わたしにとってはDiagramである。その機能を作用させるために意図して図式的な描き方をしている。では一体その機能とは・・そこからスーラの理念が観えてきます。「サーカス」も「シャユ踊」も顔の表情がほとんど記号的であり、何かを表現していることには違いないが個性を表現しているわけではない。顔貌性のそのシニフィアンなのである。事実スーラは顔の形態と情動の関係を記号的に追究していた。

社会とは欲望する諸機械の生産の総体であるということです。社会とはひとつの機械であり、その機械の表現が顔に刻印された、シニフィアンとして形相された表象なのである。名なしの顔、個性というより印(しるし)であり、無数に連接する機械の音、振動などの集合体である一つの係数なのである。それが顔として表現されるときポスターとなる。スーラがポスター画家ジュール・シェレに興味をもった理由はその意味で、一般大衆の欲望する諸機械を記号として表現するそのイラスト的なDiargamとして観る装置のことなのである。初期のスーラは「アニエールの水浴」や「グランド・ジャット島の日曜日」のように身体の配置にとどめ、個体としての内部運動は隠されたまま外部のひとつの表象として表現しているだけであった。静的な配置に徹している。ところが「シャユ踊り」や「サーカス」では内部の運動が外部へ形態として表出するその表情を表現するようになる。顔貌性の追究に、様々な形態による情動の表現をスケッチするようになる。そのメカニズムに興味がいくようになる。これは一体何を意味するのか、スーラは最後にこの課題を残して「サーカス、1890-91」の作品が遺作となり、未完成のまま1891年死去する、享年31歳。

シャユ踊り」と「サーカス」のことに関してそのメカニズムと情動、そして社会機械のいたるところにある欲望する諸機械について論じる予定でしたが、そこまでいきませんでした。それから構図が非常に面白く、その理論的な構成を分析し「アニエールの水浴」で画いたようにベクトル的な見方をするといっそう明確になってきます。「シャユ踊り」は各パーツを分解し再構成する方法はキュビスムの概念です。切断された各パーツを理念によって構成させるイメージの運動が、新たなタブローを生成させる、これは描かれえぬ、n次元のタブローを脳内で形成させる、ひとつの純粋時間の生成でもある。このようにスーラは「シャユ踊りで実験的な装置を創っていたのである。ただ当時の人々はそれを理解していなかった。図式的な表情描写が機械的であり、生気のないものとして感じていたのである。表象の背後にある、欲望する諸機械をスーラはDiagram的に表現していたのである。対象を類似として正確に表現することではなく、記号的な情動表現によってイメージを喚起させるメカニズムを追究していた。この思考は何と現代美術そのものではないのか。

 

補遺:
ジョルジュ・スーラの絵画論
は第1〜第7回まで連載となりました。わたしはスーラの点描の技法につては殆ど論じていません。それを論じると視覚のメカニズムの問題になるからです。あえていえば、脱個性的な普遍性がその空間表現とピタリとあって、スーラの個性と感性をいっそう豊にし、静寂な空間表現に成功しています。機械的なドットの描写表現が印象派の筆触分割技法とはちがって感情を抑えた理念として表現している。したがってスーラを観る視点は点描の背後にある、見えないものを観る理念として思考のうちに形成してくるある実体を感じるというアートなのです。そのことを強く意識していたのがデュシャンなのです。『いく本かの絵の具のチューブが一点のスーラになる可能性はアンフラマンスとしての可能なものの具体的説明となる』とデュシャンは語っている。スーラの絵画は今もシャニックがいうように本当に理解されているとはおもえない。あの点描の美しさの評価で人は満足している。もっと研究されていい画家だ。ゴッホセザンヌと同様、偉大な画家だとわたしは感じている。機会があれば、次回はそのことを現代美術の視点で論じようとおもいます。



2009年03月09日

Georges Seurat/スーラ「グランド・ジャット島の日曜日」−6

第1回から第5回までの掲載は、スーラの宇宙的で壮大なスケールのなかに於ける、カオスの断面と人間の内部ベクトル(方向性、速度、力)のことについて論じました。スーラの最初の大作「アニエールの水浴」をとりあげ第3回ではそのDiagramを画き、幾何学構成が不可視の構造を生成させ、カオスの線を触発させる装置の平面を論じました。さて今回は人間の心を中心に述べてゆきます。

 

グランド・ジャッド島

 

 

 

 

 

 

 


 


グランド・ジャット島の日曜日、1884-1886

その予告としてすでに「アニエールの水浴」のなかでジャット島に行こうとしている渡りボート(番号:8a)を描いていますね。そこに乗っているのが男女のペアで、グランド・ジャット島の男女を暗示しているようにおもえるのが興味深い。そのペアが「グランド・ジャット島の日曜日」では右画面の一番大きく描かれた男女のペアを想起させる。女性は猿を紐でつなぎ連れている。これは娼婦を暗示すると云われている。それを一番大きく描いている。画面中央には「ポール=アン=ベッサン、橋と波止場」と同様、小さな女の子を配置している。これは純粋時間の裸形の卵である。大地の地層と原初的生命の人間像を表象した無垢な魂である。宇宙の生命体の尊厳を感じる。これはポール=アン=ベッサンの「小さな女の子」は能動的な動きを暗示しているけれども、グランド・ジャット島の小さな女の子はそれを脱皮して少女への移行の違いだろうか、静に何かを見ている。

それは文明の諸機械を、身に着けていない無防備な魂・・すなわちスーラの意志なのであろうか。その女の子と手をつないでいる隣の女性はセーヌ川を見ている。小さな女の子を除いて、すべての人物はこの絵を見る鑑賞者に凝視してはいない。この小さな女の子だけが、こちら側を見ている。わたしは彼女と対話せざるをない状況に追い込まれる。いったい何を話したらよいのだろうか。わたしにとって「グランド・ジャト島」はたんに静寂な空気と美しい点描で描かれた絵ではないのです。それは次のステプに進みます。人間の心のメカニズム、情動のシステムへと探求は進んでいくのです。それは社会機械における欲望する諸機械の生産へと向かってゆきます。つまりスーラはそれを「シャユ踊り、1889-90」と「サーカス、1890-91」で表現してゆくことになります。次回はその「情動と欲望する諸機械」について論じたいとおもいます。当然それは「シャユ踊り」と「サーカス」のことについて語ることになります。



2009年03月08日

Georges Seurat/スーラ「内在と空間、ポール=アン=ベッサン」−5

スーラの絵画は非常に観念的な絵画ですので、思考することを要求されます。思考しないと、静寂で美しい、その点描の描き方にうっとりして終ってしまいます。鑑賞するぶんにはそれでいいのですが、スーラを体験するにはある種のイデアが必要です。また現代美術とストレートに結びつくとこが多々あります。その魅力です。重複する箇所もありますが、それでは前回よりの続きです:

・・スーラは空間のなかに於ける振る舞いを(有機的なもの、無機的なものを含め)たえず追究していたように感じます。そのタブローから観えざる不思議な力を感じることである。前回掲載した「ポール=アン=ベッサンの橋と波止場、1888」が特にそうである。この絵のテーマは描かれたものであるより、描かれ得ないカオスの断面が表象の背後にあるのです。多くの人はスーラの点描の表現の美しさに驚き、またその静寂な空間と人の神秘的な描写に感嘆する。そこで終ってしまう。同じ後期印象派のゴッホやセザンヌ、ゴーギャンには熱い眼差しとその批評が多くの評論家によって研究がなされ、事実読みきれない程上梓されている。それに比べてスーラは点描と科学的分析という言説に囚われそれ以外の見方をしょうともしない。ただデュシャンだけはスーラを特別な存在と見なしていた網膜的な絵画ではないと言っている。印象派とはまさに網膜的な絵画そのものではないのか、それとは反対のことをデュシャンは語っていたのである

そのことを前回も述べましたが、第3回の掲載で「アニエールの水浴」の構造を分析したとおりです。ベクトル成分という運動の世界が不可視の構造として再-現前化してくるその凄さを論じました。このスーラ論はシリーズとして継続して掲載しています。第1回から連関していますので、分からない場合は最初から読むことを奨めます。特にベクトルという用語の使い方の意味を第3回に説明していますのでそこをお読み下さい。さて本題に戻りましょう。スーラとデュシャンのことでしたね、デュシャンは運動そのものをエロティシズムと捉えているところがある。スーラの世界は静的であるけれども、不可視の構造では微粒子が動いています。一瞬であると同時に永遠の世界がスーラにはある。しかしフェルメールのように絶対零度の時間性、その永遠性でもない。間違いなく時間は流れている。その予感がどこかにあります。静的であるけれども、どこかで微かに足音が聞こえてくる予兆があるのです。崩れ行く束の間の永遠、微分的な切片の線を見せる非常に切ない美しさがあります。そのとき神の姿を一瞬見るような永遠の力が空間のなかからでてきます。

「ポール=アン=ベッサンの橋と波止場」を見てください。海藻を背負って、たよりなく歩く「老女」、神の子のように迷って突然出てきた「小さな女の子」、そして社会機械の反映でもある「関税吏」、この3者の三角形の配置は偶然にできたものではありません。「アニエールの水浴」と同様、周りの風景とぴったりと融合しているのです。桟橋の幾何学的な構成と連接しています。そして家々と丘、雲、そのすべてが有機的に構成されています。この連接の作用は不可視の構造でタブローを見る限り、静寂な空間と微かな流れとして体感するような殆ど永遠に近いものです。そのようにスーラは表象作用を触発する構図を計算してここでも幾何学的にしています。雲の形も現実とはちがった形態で描いています。デュシャン的にいうと観念アートなのです。近代芸術以前はすべて観念アートともいえるのです。宗教画とはまさに観念アートのことなのです。ところが近代に入ってから現実的なものへと移行し、網膜的な絵画になっていったのです。スーラは違います。詩的であり、人間の心を描こうとしていたのです。それは印象派のモネ的でもなければ、ゴッホ的でもない。あるいはゴーガンのように文明の逃走線を描こうとしていたわけでもありません。またセザンヌのように存在と格闘していたアートでもありません。

ではどのようなアートであったのか、次回の第6回の掲載でそのことを論じます。それは「シャユ踊り」と「サーカス」のことを書くことになります。情動と社会機械のことについて論じます。



2009年03月05日

Georges Seurat/スーラ「内在と空間」−4

Seurat/EC05-02A
ポール=アン=ベッサン、1888


Seurat-EC05-02A

 


 

 

 

 

 

 


 


Seurat-EC05-02CSeurat-EC05-02B

 

 


 

 

 

 


 

ポール=アン=ベッサン部分:EC05-02C
ポール=アン=ベッサン部分:EC05-02B

桟橋周りの幾何学的な空間、背景には家々と小高い丘、そして前景の広い空間には制服を着た税関吏、小さな女の子、海藻を背負っておぼつかない足取りの老女、この三者は三角形を形成した配置となっている。「アニエールの水浴」と同様、まるで無関係な孤独な描写なのである。上空には5つの半円の雲が平行に走っている。自然の状態では決して在り得ないような人工的に描かれかた雲。すべてが静寂で充たされている、媒質のなせるわざか。中心のどこにもない円周、定点のない無窮の空間、この壮大な宇宙の断面を観るにつけ、この神秘的な空間に投げ込まれた無のわたしを想起する。内在の揺動面、見えない波動のゆらぎに侵食されて静に深く刻まれる時、微分化された空気の永遠、しかし雲は流れている。救い、そこに一人の「小さな女の子」が立ってこちらを凝視している。少しばかり肩をいからして。わたしはそこに大地に根ざした裸形の卵を観る。



2009年02月27日

Georges Seurat/スーラ「アニエールの水浴その構造図」−3

機冒置の概要と見方

スーラの絵画「アニエールの水浴」は、第2回目ではその構図の骨組みを画きました。建築でいえば、全体を透視図的に軸組と梁の組合せの状態を画いたようなものです。その内部にどのような力が作用するのか、設計仕様書のように各特異点に作用するデータとその説明をしました。しかしこれは絵画ですので実際には数値ではなく、内包的な強度量の言葉に置換えなければなりません。わたしは、既存の見方とは違った見方をしてゆきます。内在を触発する基底にあるその構造を分析してゆきます。それは装置の仕組みということになります。設計され、配置した各オブジェクトが如何にある表象を想起させる構造となっているか検証します。それには従来のような見方はぜず、装置として観てゆきます。その仕組みを思考する絵画だという見方をします。この見方はデュシャン的です。スーラを別次元でものすごく評価していたのがデュシャンなのですから。スーラは網膜的な絵画ではない、といっているのです彼によれば、『シュルレアリスムやスーラ、モンドリアンのような特別の場合を除いて、印象派、フォーヴィスム、キュビスムから抽象芸術やオプティカルアートに至るまで、近代芸術は全部”網膜的”である。』と、これは驚くべき指摘です。その意味でも「アニエールの水浴」の構図論を書いているときは、いつも「大ガラス」の作品が念頭にあって、それと重なるところがあるようにおもいます。「大ガラス」の作品について知りたいかたは、著者:オクタビオ・パス/マルセル・デュシャン論がいいとおもいます。

 

アニエールの水浴構造図

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 








DIAGRAM
fig4:EB25-01Y1
アニエールの水浴

 

それは点描画家スーラではないのです。現代美術のブリジット・ライリーのような見方ではなく、彼女はスーラからの影響を認めている。網膜絵画そのものの純粋性へと発展していったが、デュシャンは観念の発生をスーラから読みとっていたとわたしは見ている。このようにスーラ絵画は様々な概念を孕んでいる。現代美術の殆どの要素がすでに用意されていたというわけです。観念の発生装置とは、対象の再現とその類比を見るものではありません。タブローそれ自体から生成してくる対象を観る装置(絵画)のことなのです。この装置を創ることにスーラは情熱をこめて思考していました。そのための多くのメモ(クロクトン)があり、 その特異点(内在と構造)を研究し、念入りに設計プランを構想してこの大作に反映したのです。

当時の人々は他の印象派の絵も観ていたのですが、「アニエールの水浴」はバランスが悪いという評判があったのです。特に上図fig:4の座っている少年(番号:1)が、バランスが悪いとおもえるようです。他の人物描写も何だか脱個性的な表現で機械的に感じるという人もいます。それは無理もありません。対象の再現をスーラは目指していません。他の印象派の画家のように移ろいやすい光や自然の変化を捉えて、たんに筆触分割で描いている絵ではないのです。しかしこれこそがスーラの本質を、その理念を設計図のように装置を構想し配置しているのです。思考を働かせてください。絵画は対象の再現ではないのです。自然界に存在しているものの類似や断言ではないのです。スーラはそこにはもういません。すでに別次元の世界に入っていたのです。フーコーの言葉をおもいだしてください。絵画はようやっと断言することから解放されたのです。タブローそれ自体のなかに、表象された背後に自律的な言表行為があるのです。それにスーラというとすぐに絵画を科学的に分析し、それを点描としての表現に一生涯捧げた画家であるという評価が強すぎ、固定されたレッテルを貼られてしまっている。確かにそうではあるが、その言説がシニフィアンの専制君主のようにシニフィエを隷属化している。その結果、思考が停止してしまう。さまざまな意見があっていいはずなのになぜか、そこに落ち着いてしまう。

わたしはその専制君主から離れ、スーラの内在をできるだけ観るように、その理念を追い求めたい。とくに「アニエールの水浴」は驚くほど画期的な概念を含んでいる。それは装置としての絵画、設計プランをメモ(クロクトン)しながら構想していく厳密さは、まさにデュシャンのメモ(グリーンボックス)をおもわせる。そこでわたしはこの偉大な画家の遺した大作を、その装置の背後にある厳密な幾何学的構成をダイアグラム化してみたのです。それは素晴らしいものであった。スーラの理念をなぞることによって、わたしは鑑賞ではなく、それに参加しカオスの断面を覗くこが出来たのではいか、すなわち:「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁さえも、大ガラスの1915-1923>」からあの「(1)落ちる水、(2)照明用ガス、が与えられたとせよ遺作1946-1966>」というところへ行き着く旅への最初の出発が「アニエールの水浴」なのです。この5人の独身者たち(番号:1〜6)の脳裡に欲望する諸機械が発生し、そのベクトルがグランド・ジャット島(番号:)への視線に、ついにはその逃走線が天体の星座(番号:7e1、7e2)へと向かう壮大なスケールもった宇宙像の構想をもっていたのではないか。わたしはそのように妄想する。これはわたしにとってカオスの平面を体験し、内在を形成するひとつの襞となった。外の線から内在へとその構成が内部ではなく、内と外の接線をつくったということです。一にして多、多にして一の無限大の円環運動に意識を向かわせたそのベクトル構成がすなわち「アニエールの水浴」であり、その装置を創ったのがスーラだったというわけです。

 

アニエールの水浴
構造図 fig4:EB25-01Y1
各記号の説明とその原理

機棒睫世垢訌阿法
このダイアグラムの記号説明は前回に「幾何学的構造、fig3:EB03-01Y0」として全体をパース的に表現しました。それを基本に今回はより抽象化し方向ベクトル的に(視覚運動or移動)表示しました。ベクトルの大きさは無視して、その方向性を観てください。速度は、関係はあるとおもいますが、鑑賞者の瞬時の出来事なので直感で観てください。運動とは、「速度」と「方向」、「大きさ」が関係してきますので、これを言葉で説明するのは大変です。そこで直感的に理解しやすくするために図解として数学的なベクトル記号を使用したのです。さて前回(第2回)の緒言で述べたように重複箇所が多々あるとおもいますが、削除せず掲載しています。特に各記号の説明は、今回はより詳細に説明します。また前回(第2回)の「構図の概要」以下掲載を削除し、こちらへ移動(3回)しました。いずれスーラ論が終わり次第まとめて整理する予定です。第2回目の掲載は、全て削除する可能性があります。第3回目へ順次移行中です。気付いた点があれば、その都度追記修正してゆきます。

 

供帽戎泙粒詰
・・幾何学的な厳密性をもった内部構造の設計であり、建築でいう構造力学的なバランスをたもっている。外部(内部ではさまざまな運動が作用している)では静的な均衡のとれた美しいスーラのプランを観るのです。わたしたちはこのデザインを直感的に感じ、この何ともいえない魅力に捉えられて、深い感動を味わうのである。わたしはこのスーラの設計図を視覚化しようと、その構造を想定して作成した。

.1)  構図の記号説明
1:座っている少年、1a:その帽子、b:衣服、1c:
2:肘を首に当て横たわっている男、2a:その男の前に座っている茶色い毛の犬、2b:支点、2c:
3:赤い帽子を被った少年(川の中に入り、手を口に当てグランド・ジャット島に向けて声をかけている少年)
4:川の中に入って背中を見せている少年
5:麦わら帽子を被った少年
6:帽子と白い衣服、靴が大地に描かれている、そこにはいない。6a:
7:空の空間、7a:工場群、7b:煙突の煙、7e1:無限、7e2:無限
8:川のオブジェクト(船など、番号:8a、8b、8c
9:グランド・ジャット島

.2)C/G:とは
the center of gravity
の意味で、この「アニエールの水浴」を支えているpointのことです。それが全体(タブロー)を安定させ意識することのない重心ということです。「グランド・ジャット島の日曜日」ではタブローのセンターに配置された白い服を着た小さな子供(女の子)です。またセザンヌの「大水浴,1906」では川辺の向こう側に立っている小さな人です。C/Gは意図的に不在(不安定に作動させることもあります)にする場合もあります。鑑賞者にとっては不可視の構造で無意識機械を作動させ、バランスをとる装置の重心点ともいえる。

.3) 各セグメントの構成
a)Horizontal line:h1,
タブローの大きな分割の基本線(水平線)は、画面の3分の2の位置に、
b)*Incline_1(gradient):g1,画面右下を基点に(水平線に向かって)−27度の左肩上がりの勾配でダイナミックに線を走らせている。視線はそのラインを追っかけ(これは幾何学的な透視図(遠近法)を計算して、まさに視線を走らせます。)遠方の橋の方へと向かわせ、その−27度(153度)の斜線が水平線との交点(消失点)となっている。
c)*Incline_2(gradient):g2,帽子と白い衣服(番号:6)を基点に右肩上り勾配+70度、その線は麦わら帽子を被った少年(番号:5)へと走り、水平線と緑(番号:7d)の樹に交(消失点)わります。大きなパースはこの線と−27度の線そして水平線の3つの要素で構成されています。
d)Incline_3(gradient):g3,帽子(番号:1a)を基点に−40度(140度)左肩上り勾配で水平線との交点に(消失点)
e)Incline_4(gradient):g4,川の中に入って背中を見せている少年(番号:4)から−16度(164度)の左肩上がり勾配で水平線との交点に(消失点)
f)Vertical line:7d,斜線と水平線の交点(消失点)に垂直の線を配置。この線は緑の樹(画面左側)で表現している。

*Incline_1g1、*Incline_2g2)の線はこの構図の基底をなす最も重要な線です。この線の原理は一点消失遠近法で、各人物の配置はそのライン上に沿って描かれている。そして背景のa)Horizontal lineh1)とf)Vertical line(番号:7d)にぶつかる。その4つのセグメントの交点がこの遠近法の消失点(f)です。他、g3g4も同様に消失点()に向かいます。この遠近法によって鑑賞者の視線の移動が無意識に行なわれ、この絵のミクロとマクロの無限大の相互のベクトルがカオスの断面を現前化する。このことは後述に論じます。この装置にとって決定的に重要な基底をなす要素です。その作動原理を要旨だけ述べますと、この原理が視線の移動を作用させます。はじめに全体のタブローを観、次に前景の5人の人物へ移ります。そこから自動的にこの遠近法に則って背景のf)Vertical line(番号:7d)までいっきに視線はいき、その樹を観、工場の煙突の煙と空(この空は無限への入り口、あるいは窓かも知れません)へ、そして右のグランド・ジャット島の隅の樹々へと視線が移動(すべては一瞬の出来事で移動というより運動です。しかも超高速度で光の速度かも知れません)します。次にその下に描いてある男女のカップルが乗っているボートへ、そして再び川の中にいる2人(赤い帽子を被った少年と背中を見せている少年)に視線が移り、5人の男たちの全体を観ます。この大きな流れの基底をつくっているということです。つまりカオスの平面(プラン)を見せる壮大な装置なのです。如何にこの「アニエールの水浴」が厳密な幾何学構成によって観念を生成される装置であるか、その凄さを理解できるとおもいます。

.4) 各幾何学的な構成要素の全体の配置
上記の如く、水平線(h1)と垂直線(7d)に4つのセグメントg1、g2、g3、g4が消失点()に集まり、一点消失遠近法で画面全体の背景を基本的なものとして構成されている。つぎに(h1)の水平線の構成は橋と工場の屋根、それと両サイドの川岸である。その中央に空気遠近法で描かれた工場の煙突を配置し、そこから番号:7b)が出ている。他7本の煙突がかすかに見える。橋の右側へ更に進むと45度に傾いた樹にあたる。その右側の樹は球体として表現している。その下にヨットとジャット島へ行こうとしている渡り船を配置している。この橋の両側の樹々はちょうど劇場の幕を暗示している効果がある。その舞台前面では、5人の男たちがこの装置のなかで宇宙を形成している。

.5) 5人の男たちの幾何学的な配置とベクトル
円の中芯は帽子(番号:1a)である。その帽子の隣に中心核である少年番号:1)が座っている。他4人(番号:2〜5)の男たちはその少年を中心に円周に配置されている。そして円周の楔の要素として、画面左の隅に大地に衣服(番号:6)だけ残して描かれている。以上、不在者を含めると6人(5人+1人)の男たちで構成されている。デュシャン流にいうと5人の独身者たち(番号:1〜5、番号:6は不在者)、というところか


掘砲海料置の作動原理「全体のパースペクティブ」
可視的な構造の内部に不可視の運動が作用している。
つぎに、この装置は如何なる装置であるのか、その作動原理について論じる前に、各オブジェクトの構成員を観てゆきます。そのブロックは、両サイドの樹々、橋、工場群とその煙と空、川とボート、グランド・ジャット島、そして5人の男性(各構成は:.5に示した通り)たちである。各人物の姿勢は背中をターゲットに視線がいくように構成されている。その意味はグランド・ジャット島の眼差しと、反対方向(背中の表象)に作用する2重の不可視の構造があります。3人(番号:1,3,5)は側面の背中で、画面手前の人物(番号:2)は背面のすべてのプロポーションを見せている。川の中にいる少年(番号:4)は後ろ姿の背中のみ見える。これらの5人の人物は原子核(番号:1)と電子(番号:2,3,4,5、6<不在者>)のように見えない力が作用し、核の周りを4つの電子が角運動している。そのようなイメージを描いてください。

前述した2重の不可視の装置は何を表象しているのだろうか。そのベクトルを観てみましょう。川岸にいる前景の男たちはグランド・ジャット島を見ている。とくに赤い帽子を被った少年(番号:3)は口に手を当てて声をかけている。この少年の視線と身体的な行為は鑑賞者を自然にグランド・ジャット島の方に向かわせる。しかし画面に描かれているのは、そのグランド・ジャット島の隅にある樹々しか見えない。わたしたちは、この先端の少年によって右方向の見えないグランド・ジャット島を観ることになる。ここに仕掛けがあるのです。対象が不在でありながら、見える思考を形成させる作用が働くのです。当時のパリの人々はこの島がどんなところであるのか知っているのです。まさに遠方のボートに乗っている2人の男女のカップルがグランド・ジャット島に向かっているのが暗示され、いっそう効果的です。そこには当時の社会が濃縮されて反映されている。対象が不在であることによって、思考の裡に見えるかたちが描かれるのです。不可視のうちに、そのようなベクトルが(再-現前化の作用)当時のパリの社会機械を見ることになる。無意識機械が内部の感覚を生産するというわけです。

また、これだけに留まらず、こんどは背中の反射があるのです。その反力として別の作用が、そのベクトルが背中を基点に左方向に発生しているのである。ひとつの物体に同時に向きが反対の2つのベクトルが作用する。それはちょうど社会機械(グランド・ジャット島)と抽象機械(カオスの断面へと向かい、ついには天体の星座へ)を同時に見せる平面なのである。またその背中とは内在の象徴的表象でもあるわけです。このスーラの描く背中とは詩的な宇宙を表現しているともいえる。すなわち互いに向きの違う2つの方向性(ベクトル)は、相反するどころか、可視的に見える領土を脱領土化し、不可視のめくるめく体験を発生させる星座へと。すなわちカオスの断面を見せる平面(プラン)なのである。次に5人の男たちの配置が視点の移動(運動)を喚起する構造となっており、その角運動がミクロ物理学の内部を暗示する。その運動と連動して遠近法で描かれた逃走線ともいえる、.3)-b-c-eの通り視線が走り、空気遠近法で描かれた工場の煙へ視線がいき、更に遠景の深いブルーで塗られた空へと抜けていくのである。このミクロとマクロの無限大の往復運動によって鑑賞者は、静的でありながら不可視の内部運動によってイマージュが形成し、そのカオスの断面の平面(プラン)を観ることとなる。こうして厳密に設計された装置はひとつのダイアグラムであり、抽象機械が作動しているのである。この装置はやがてデュシャンの「大ガラス」の装置へと発展する概念をもっている。次に、デュシャン流にいうと5人の独身者たち(番号:1,2,3,4,5.6)の運動を具体的に観てみよう。

-1)この装置の作動原理
(5人の男たちの角速度、ミクロとマクロの相乗
効果)、地層化された大地と人=エネルギー、水、空→宇宙(無限)

視点の移動と差異(純粋時間の結晶化)そのDetailとは:
前述、論じたように5人の男たちとグランド・ジャット島、工場群とその煙そして空、これらの各ブロックが連接と離接の循環運動として作用し、且つ全体のパースペクティブをも形成している。これはたえずカオスの断面を平面化(プラン化)する無限運動でもある。その内部運動のDetailが、ミクロ物理学的な平面を構成している5人の独身者というわけである。そこで鑑賞者の視線が、どのようにこの5人の男たちに向けられていくのか、その視線の運動を観て見ましょう。スーラはこの視線の運動を作用させるために、厳密に幾何学的な構成を計算して配置している。上図/fig4:EB25-01Y1の通り、立っている帽子(番号:1a)を中芯に等距離上にそれぞれの男たち(肘を首に当て横たわっている男の臀部:2b、最後の帽子と白い衣服(番号:)を配置している。それは座っている少年(番号:1a)を核に、円軌道を周っている5個の電子のようでもある。うちひとりは不在者(番号:6)である。しかしスーラの絵では、5人の独身者たちは静に佇んでいる描写なのである。その絵からは、どこにも運動している表現としては描いていない。判断できないのである。この静かな存在こそ内部エネルギー(ポテンシャル)を作動させるものなのである。その仕掛けは幾何学構成と視点の移動を鑑賞者に促す無意識機械がこの装置のなかに仕込まれているのである。

その視線の運動は、最初にタブローの中心に座っている少年(番号:)を観て、次にその頭上に描かれた遠景の工場の煙に向かいます。鑑賞者はこのとき無意識にミクロとマクロの相互のベクトルを体験することとなる。これが全体のパースであり、そこから視線は各特異点のDetailに鑑賞者は向かいます。またそのように視線が向かうように設計されているというわけである。先ず座っている少年(番号:1)から横たわっている男(番号:2b)の白い壁のように配色した衣服の臀へと向かい茶色の犬(番号:2a)へ、そして黒い帽子へと視線は移動します。この三角形の運動からはじまり、そこから流れるように黒い帽子を基に中芯点:1a(帽子)を基軸に角運動が起こります。

その流れは黒い山高帽をかぶった男性(番号:)のその帽子から後ろ姿の広い肩へ、そしてなだらかな曲線をえがいた臀部(番号:2b<円環の支点でもあります)へと流れます。更に視線は男の黒いズボンへと進み、足元の靴に辿りつきます。白の上着と黒のズボンがいっそう流れの方向性をスムーズにさせています。(いったんこの流れがはじまりますと、座っている少年を核に、永久運動のような奇妙な感覚にとらわれます。非常にシュールな感覚です)この足元の靴は川へ向かわす導きてとなり、すぐに川の中にいる赤い帽子をかぶった少年(番号:)へ視線が向かいます。そして、少し離れたところの後ろ姿で水面を見ている少年(番号:)へと視線は連続的に運動します。いったんここで速度が減速し視線(運動は限りなく微小ではあるが作動している)はとまり、少年の背中を観ることになります。水面を見ている少年の眼差しと鑑賞者がその背中を見ている眼差しが2重映しになり、ひとつの内在を想起させます。それは少年が見ているものと、その少年の後ろ姿を観ている鑑賞者は何をイメージするかは、スーラはその対象を不在にする。一つの思考を発生させる、見えないものの、見える絵をつくるわけです。この構造は先述したのグランド・ジャット島の一部の樹を少しだけ描いただけで、まったくグランド・ジャット島を描いてない構造と同じです。そういう内部のベクトルを発生させる装置はこの「アニエールの水浴」の最大の魅力です。

まえに戻りましょう。いったん減速された遠景の川の中にいる後ろ姿の少年(番号:)にとどまり(内部運動のベクトルへ)、それと同時に運動はマクロの画面中央の工場の煙突の煙へと高速度で視線も行っているのである。この連接から離接への飛躍は宇宙像を暗示するものであり、見ることが出来ない沈黙となり、あるいは一瞬裸体の純粋時間を、花嫁を見たかもしれない。しかし再び視線は座っている少年(番号:1)の背中と付近の川の水面に視線はもどされる。そこから速度は定常となり、川岸へ向かい、丘へ上り麦わら帽を被った少年(番号:)へと視線が移ってゆく。そこで神秘的な不在者(番号:6)の電離したものの影を見ることになる。この円軌道の最後に楔的(番号:6)なものを配置し、弱い力の強い結びつきで、最初の山高帽を被った男性(番号:)へと再び向かい、この角運動を循環しているというわけである。このように円の軌跡を循環運動する構造となっている。

この厳密な幾何学構成がミクロとマクロの壮大なスケールを感覚のうちに体験し、見えない空間が見える空間化へと現前化させてゆく純粋時間の結晶化が、カオスの断面を平面化していきます。すなわち、「観念の発生装置」をスーラは創っていたということです。デュシャン流の言葉でいうと、印象派でありながらすでに網膜的絵画ではない、別のものを創っていたということです。この「アニエールの水浴」は非常に神秘的な作品です

 



2009年02月18日

スーラ「アニエールの水浴とは厳密な幾何学的構成による宇宙像である」−2

緒言
今回の掲載は、幾何学的な構成図を下図”fig3:EB03-01Y0”のとおり追加しました。わたしにとっては「デュシャン」と同じくらいこの「アニエールの水浴は神話的なのですこの作品は画期的な概念があります厳密に構成された装置なのですこの壮大なスケールをもったアニエールの水浴」に、その宇宙像にどこまで接近できるかわかりませんが、スーラの軌跡を追い求めていきます。そのきっかけは何回見てもある法則の基に触発させられ、未知なるものへとそのベクトルが作動するのです。こんな絵画を今までに見たことがない、あえて言えばデュシャンの大ガラス、1915-1923」でしょう。そこには何か原理があるに違いないとおもえようになったのです。またこの絵はたんに視覚からくる要素ばかりではなく、脳に直接振動を与えるカオスの平面が現前化してくるのです。この体験は神秘的で静寂な空間のなかに突然あらわれる原子の運動、あの宇宙の永遠性のようなもの・・それほどスケールの大きい作品なのです。後述そのことを論じますが、これはほんのさわりに過ぎません。その前にはじめてこのスーラ論を読む方は‘09・01・26付掲載をお読み下さい。スーラ絵画の代表作品を掲載しています。またその概念を要約して論じています概要を掴んだあと'09・02・27付掲載「アニエールの水浴その構造図ー3」を読むことをお奨めすます。詳細に論じています

 

アニエールの構図Y2

 

左fig3:EB03-01Y0
アニエールの水浴
幾何学的構造図

下左fig2:EB04_01
「5人の男たち、
1883」クロクトン
装置の構想と内在平面





5人の男たち

アニエールの水浴


下右fig1:EA22_3
「アニエールの水浴

1883−1884」

 

 



2009年01月26日

ジョルジュ・スーラを「現代アートの視点から観る」−1

今年は少しずつ現代美術の視点で古典、近代絵画を観ていこうとおもいます。絵画の通史としてではなく、確立された絵画論や一般的に評価された見方とは別次元でみていこうとおもいます。空間と内在という問いに焦点をあわせて、現代の視点で観たその構造を述べてゆきます。それは現代でもその概念の発展途上にあるとおもえる絵画を抽出し、そのなかに何か新しい発見を、その概念をみいだすために書いて(描いて)ゆきます。従って確立された既存の概念をなぞる絵画史とはなりません。わたしの感じたこと、作品をつくる思考の延長として観てゆきます。そしてわたしの作品の概念とリンクして思考してゆきます。その第1回として、ジョルジュ・スーラをとりあげます。スーラは現代美術との接点がものすごくある画家です。わたしにとっては、デュシャンと同じくらい画期的な概念をもっています。それは「装置としての風景」を最初に表現した画家なのです。今回はそこから入ってゆきます。尚、「アニエールの水浴」の構図論の詳細は第3回目に掲載しました。厳密な幾何学的構成のすごさが明になってきます。

 

花瓶の花座っている少年


 

Seurat_EA22_1/EA22_2
花瓶の花、1878-1879」/
座っている少年、1883-1884」

1・空間と内在
結晶化した時間の現働化


 

アニエールの水浴



Seurat_EA22_3
アニエールの水浴、1883-1884」

2・装置としての風景
人物を空間に配置し、
再領土化する。それは、
自然からの対象を解放し、
カオスの断面を捉えること。
 

 


 

グランド・ジャッド島

 

Seurat_EA22_4
グランド・ジャッド島の日曜日の
午後
、1884-1886」

3・装置としての風景
社会、文化を風景のなかに
再領土化し、その断面を配置する。


 

 

エッフェル塔

シャユ踊り

 

Seurat_EA22_5/EA_22_6
エッフェル塔、1889」/
シャユ踊り、1889-1890」

4・近代テクノロジーと社会機械及び
その欲望する諸機械あるいは
情動のダイアグラム

 

 

大水浴

 

Cezanne_EA22_7
大水浴、1906」

5・分子的無意識
欲望する諸機械など。
カオスの断面を
ミクロ物理学的なものへ
向かわす内在性

 

 


 

 

1・内在と空間
花瓶と花:
この絵は不思議な絵である。花瓶と花は正面から見た視点で、テーブルは45度上から見た視点のようにもおもえる。そして背景は荒いタッチで筆触の跡があり、しかも立体的な空間性(リアルな空間)として描いてはいない。エモーショナルな2次元的空間をつくり抽象表現主義的な感じさえする。花瓶と花は自画像のように描いている。そして花瓶から出ている二枚の葉がテーブルの上に射している二つの光と同系列の配色で描いている。それはまるで光の粒子を取り込んでいる手のような二枚の葉として、すなわち無限大のカオスを、その切片を取り込む内在として描いてる。この構造は(世界は)スーラの本質を成している。後に描く絵はすべてこの哲学に貫かれている。内在と空間性の問題をすでに表現していたのである。若干二十歳の時に描いた絵である。驚くべき才能である。しかも詩情溢れるスーラの内在性があり、内と外の見事な接線を、その平面を観せる魅力のある絵である。

構成要素は4つの平面から成立っている。ひとつは幾何学的なテーブル、二つ目は花瓶と花、3つ目はテーブルの上に射した二つの光、4つ目はエモーショナルな垂直に描かれた筆触の跡がある背景である。この4つの構成要素で調和のとれた絵となっている。 幾何学的なテーブルが3つの要素(背景、光、花瓶と花)を静かに確り受け止めている大地の要素となっている。もっと先え進むと、4つの構成要素の平面を分解し、格視点をずらし再構成するとキュビスムとなる。このスーラの絵は、花瓶と花の視点とテーブルの視点が明らかに違う。ずれているのだ。これは意図して描いたのだろうか。素晴らしい構成要素だ。

座っている少年:この絵は「アニエールの水浴」の習作で、コンテで描いた作品である。わたしはスーラがコンテで描いたデッサンがものすごく好きで、かなり影響を受けている。わたしはブラックインクでスーラ的技法でエッチングのように描いてる。エッチングといえばレンブラントの線の描き方、その技法は完璧である。線の方向性、ベクトルがまったく無駄がなくパーフェクトである。両者とも光の画家であるとわたしはおもっている。ただし印象派のあのモネのような光の捉え方のことではありません。モネは空虚なものに対して、哲学的な問いを感じない風景画家のように感じ、わたしにとってはあまり興味を惹かない。スーラの話に戻りましょう。この「座っている少年」もそうですけど、スーラの描く人物は側面の構図が多いですね。頭、首、そして背中の曲線へと向かい、臀部が支点なって足元へと流れてゆく。背中が光を受け止める窓となっています。ちょうどそれは外と内在の接線の役割をはたしています。カオスを受けとめる孤独なモナドのようでもあり、それは『内在・・すなわち一つの生』という問いを感じます。この内在とは内部意識のとこではない。あえて言えば、関係する外と内の流動的な此性の・・強度的なことを意味します。

2・装置としての風景:この「アニエールの水浴」は、わたしにとっては実験的な風景画なのです。モネを代表する印象派のような風景画ではありません。自然を写しとる対象としては描いていない。それは現実の風景画ではなく、ひとつの構築された装置としての風景画なのです。自然という対象を離れタブローそのものに向かう絵画としての自立性がそこにはある。たんなる筆触分割技法で描かれた印象派の画家とは違います。それは画期的な絵画に対する新たな概念がそこにはあります。この絵は神秘的で不思議な空間構成となっています。デュシャンに通じる宇宙エネルギーをもっている。それはシュールレアリスム的にさえ感じる。その構造の概要だけ今回論じます。

何しろこの絵は遥か彼方の天体の運動を、あたかも静止しているような構図で描いている。しかしである、人物は静止しているかのようでありながら、熱平衡状態に向かって膨張する宇宙の銀河を想起する。静止した内部では運動(座っている少年<原子核>を中心に4人の<4個の電子>男たちが円軌道を描いて動いている、ミクロであると同時にマクロでもある。)が起こっている。スーラの描写では、そこにはどこにも運動している要素を描いてはいない。しかし不可視の構造として、脳内では円運動をしているのである。この静止と運動の矛盾が、わたしの脳内では在り得ないことがおきている。シニフィアンの背後に理解不能のシニフィェの超現実的で、めくるめく神秘がわたしの感覚へと作用しているのである。この宇宙の神秘を垣間見せてくれる。まさにこれこそ「装置としての風景画」なのである。これはまぎれもなく現代美術の視点である。わたしはスーラの絵のなかで最も好き絵なである。セザンヌの「大水浴、1906」がひとつの神話であるなら、わたしにとって間違いなく、この「アニエールの水浴」もそれに匹敵する神話であり、大作である。


3・装置としての風景:
社会、文化を風景のなかに再領土化しその断面を配置する装置としの絵画である。それは自然という対象を絵画空間として再現することではない。この「グランド・ジャッド島の日曜日の午後」は「アニエールの水浴」の概念を応用し、絵画空間として完成されたものとしてスーラは提示したものとも言える。従って絵画の魅力としてはある。グランド・ジャッド島の絵は「アニエールの水浴」にはあまりなかった(アニエールの水浴は遠景の工場として表現しているが)近代文明、文化を、その社会性を服装や市民生活の様態をとり入れて表現している。次に社会機械へと移行するスーラの思考が見える。このグランド・ジャッド島の表現では、スーラは風景より人物の方向性にウエイトをおいている。社会機械のなかにその情動を置いて観ている思考がうかがえる。後にこの情動を欲望する諸機械として「シャユ踊り」として表現してゆくことになる。この欲望のエネルギーを静にいかにもスーラらしく、この画面右側にいきなり愛人(娼婦かも知れない)らしき婦人と紳士を大きく描いている。これは欲望する諸機械を暗示させ、この絵の全体の中心(重心)には白い服を着た小さな子供を描き、その右側に母親を配置している。視点は愛人と紳士から母と子供の立像に移り、この対比も計算して描いてる。しかも「アニエールの水浴」と同様、子供の服をポイントとして白い色で配色している。それは全体を統一しすべてを観ている子供であり、スーラの眼差しと反射している。また鑑賞者を見据てもいる。

4・近代テクノロジーと社会機械及びその欲望する諸機械あるいは情動のダイアグラム。この「エッフェル塔」は近代資本主義の最初の欲望する生産である。社会機械のなかにある欲望の象徴的表象である。後にこれをニューヨークに置き換え、あの摩天楼群を幾何学的に抽象的な表現で描いた、「ブロードウェイ・ブギ・ウギ」のモンドリアンへと接続されてゆくこととなる。点描をどんどん進めてゆくと、一つのブロックとして秩序構成され、分子状から有機的なシステムが形成される。モンドリアンの絵がその究極までいきついた表現手段である。色彩は両者とも赤、黄色、ブルーが主に配色されている。「エッフェル塔」を平面図的に表現し、それを分解し抽象化の作業をとおして幾何学的に再領土化すると、必然的にモンドリアンの概念へと向かう。

シャユ踊り」はポスターとして観ることもできますが、スーラの思考はそれも含まれますが、もっと先へいっている。社会機械のなかに潜在的にある欲望する諸機械をダイアグラム的に表現していると観る。既存の概念で観ると、えらく幼稚に見えるか、猥雑さのあるたんなる絵としか観ない。決してそうではない、これは生産する欲望を機械的に観ている画期的な概念が含まれている。この概念は最後にはウォーホルまでいきます。この絵の構造は各断面を合成した平面となっている。踊り手、指揮者、ベーシスト、観客など。それぞれの視点で観ている。これらの画面構成はキュビスム的な平面があり、その先駆者として高く評価されてもいる。スーラはこれに限らず他にも先駆的な作品を創っている。

5・分子的無意識の欲望する諸機械など。カオスの断面をミクロ物理学的なものへ向かわす内在性。すなわち近代文明の思考概念を脱領土化する逃走線と、その地層を、ニコラ・プッサン的な寓意を再領土化するというテーマがセザンヌの課題とみる。しかしそこには社会機械の諸問題があり、それをどのように身体性の変調なしに、世界へ接近できるのか。むしろそれを射程において、プッサンへの回帰をしょうとしたのか・・・、ゴーガンゴッホの深い傷跡をみるにつけ、その方法論を・・、今回はスーラがテーマなのでこのセザンヌ論は述べません。いずれ書きます。

補遺:
まえからスーラに関してまとめて書こうとおもっていたので、やっと論じることができた。これでもまだスーラの一面だけで、内在というテーマに沿った部分だけを抽出して書いただけです。なぜわたしがスーラにこれ程までにこだわるのか、それはセザンヌゴーギャン、ゴッホなどの画家と比べて、多少影が薄い存在のように扱われているのは間違いで、それと匹敵する程偉大な画家であると思うからです。そしてわたしに多大な影響を今でも与え続けている。



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