アンディ・ウォーホル

2012年06月25日

現代アートの非-人称的メッセージ

AK0107_4/多くの同じ人々

多くの同じ人々

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ビジネスといわれる物」をガジェットのなかにコンテンツとしてもぐりこませ、無数にコピーされ分散されて自動的にアグリゲーションされたものを見る。その収益をどのよなシステムにすればよいか思考しつづける。すべてが広告、私自身も広告の一部で、アートも広告。非-人称的なメッセージで人々が最も反応するものをつくること。それに反応し、五感を通して感覚器官に作用させたので、それはアートだ。もともと無いものだから、無いものに反応するから、そこにあるものとしてイメージが脳内でかたちつくられる。あるものに変換させてくれる。しかしもともと無いものだから物語をつくる。ひとは物語を必要としている。

芸能スキャンダルは物語だ。ひとは高尚な神話より身近な物語を感じて生活している。私はコンピューターのなかで生きている。コンピューターは私を分離する。私を分離したがってる。他者の声を多くの人が聞いている。他者の声と自分の声が分からない。領主が誰だか分からない。本当に偉い人を決められない。「お金が無ければ、誰が偉いのか分からない」このウォーホル的な言葉、ひとを判断するのはお金と権威。

ひとの心は分からない。それを分からそうとするのは、もっと大変だ。いちばん分からないのは悟っているのか、そうでないのか判断すること。だから判断できるよう沢山のコンテンツを頭の中に詰め込む。そうすると分かった気がする。哲学が終わらないのは分からないからだ。多読しているひとはそのコンテンツのなかのものを取り出して語る。それに対してなるほど、とおもう。そこに自己がすんでいないので分かりやすい。自己がすんでいない社会を取り出すアート。その動いている社会をコピーしてビジネスアートに仕立て上げたウォーホルがいる。

エルビスモンローは社会に写る表象の表面のパッケージ、その裏には不可視のコピーがある。映し出された社会の出来事や事故死したものの背後が見えない装置、乱反射の出来事の機械をつくる形而上的な死がある。死ぬことができない2重の反転がある。ついには類似物の不可視のブラックホールウォーホルの影となって現れる。そのときウォーホルの身体の仮死性の姿を見ることになる。肖像画を写し取る行為の神格化を消滅させ、社会に浮遊する言語のコピーと化する。裏の無い死

その出来事無-対象対象化であり、内部意識というべきものは、自動的にアグリゲーションされた散乱物を見るたんなる鏡の言語である。ウォーホル的にいうと「表面だけであり、裏はない」この意味こそフーコーの「表象は純粋な表象関係として示されることができるわけである」しかしである、ウォーホルはそれを更に反転させる。社会を投影したものの鏡は、社会を投影したものの反射でしかない。純粋な表象空虚なものへ絶えず投げ返される。恐ろしくブラックホールである。ウォーホルアート天体の星座へと近づく虚無の星座をもっている。死を貯金する生の消費の世界である。エントロピー増大の宇宙へと参加する。



2011年01月17日

生と死「死は考えるものではなく、やって来る」

GA02-mantis_2A

mantis

 

 

 

 

 

 

 

 

 

生と死
(何も無いということの
身体的な意味)

何ものかが突然やってくることがある。
シミュラークルの瓦解、
それに対応できない
理性の無能力、思考の停止
身体の無、(用意されている空白)

シミュラークルは文明の、
あるいは文化の形態から
派生した歴史的、時間的要素の
集合体。

それ自体で成立し、
対象があるわけではない。

---ではアウラとは何か?

それを喪失すること
・・によって成立つ言語の海。
強度の再現 身体の擬似的空間の
さらにそのまた擬似的空間の器官化。

それを悪循環というべきか、
喜ばしき快楽の拡大、対象の無限定が
身体をかたちつくる、空集合の総体。

反応しない身体をつくり、反応する
身体の空集合をたえずつりく続ける
摸像的身体の孵化。

こんなアートがあるとすれば、
石田徹也の奇怪な図像か、
村上隆のフィギュアだ。

ウォーホルのアートはしかないから、
は死が添い寝している。
Nothingだけが観えてくる。

だからシミュラークルとは言えない。
(摸像していない) 死とは・・
表面に描かれた裏の無対象

さて死とは以前として謎だ
バルド・トドゥルの世界とは・・

 



2010年08月21日

カオスの関数「デュシャンの熱機関とウォーホルのHeat Deathなど」−1

FH08-01A

The second law

 

 

FH08-01A
カオスの関数

 

 

 

 


 

カオスの関数

温度と熱の概念について理解しょうとすると、たちどころに微積分の概念と関係式の理解を求められる。さらにSI系単位ジュール(エネルギー、仕事、熱量、電力量)の定義を知らなければならない。わたしが感覚的に理解しているのは、夏の暑い日に飲む冷たいビールの味である。この感覚はアートな世界です。熱力学的には外気温を考慮して夏のビールは5℃くらいが美味しい。これはわたしの感覚ですが、もっと冷えたビールが好きなひともいるでしょう。冷やす原理はカルノーサイクルの図表(圧力Pと体積Vの関係)を観ると分かりやすい。熱力学第二法則エントロピーの概念は抽象的で掴みどころがない。そこでいっきに数式でとり扱うと観えてくる。つまり乱雑さを定量化することである。その概念を原子や分子のミクロの運動として捉えていたのがボルツマン1844〜1906)でした。彼の墓に碑文として「S=k log W」と関係式が書かれています。その記号の意味は(Sは系のエントロピー、kはボルツマン定数、Wは系の無秩序さを測る量)です。この数学的な言語の意味は、アインシュタインの「E=mc^2」の関係式と同じくらい有名です。ミクロとマクロの宇宙を観る壮大なスケールをもっています。それはエントロピーという概念だったのです。それにしても熱エネルギー第二法則は、散逸系から観ると物理学なのだろうか・・

わたしはこのカオス(秩序と無秩序)というイメージを上述したように熱力学第二法則を数学的な言語を使って、これから説明するために述べたのではありません。デュシャンウォーホルを物質の平面(プラン)として観るための方法です。それは美術論ではありません。なるべく日常的に使用している言葉を避けたい。作品を物質の平面として、熱力学の用語を機械的に用いて言葉をばらまいてみようとおもう。構成は意識に任せてしまう。そうすることによって言葉の変換が起きてくる。そのような言葉と言葉の熱移動のような新たな意識の発生を促がすもの。それによって内部のシミュラークルあるいはファンタスムが発生してくればいい。つまり意識にしろ、無意識にしろ”役立たず”のエントロピー、「レディ・メイド」として記述する。カオスが増大⇔減少する言葉とHeat Death、すなわち利用可能なエネルギーから利用不可能なものへと変化していく度合、生と死の比率を観る絵画、熱による仕事と死へと散逸していくた無数の原子、ガス状の銀河。意識内部の比率をだれが決めるのか、偶然性による尺度を見る、マラルメの詩など。あるいは荒川修作の比率アート(与えられた仕事、死と生との可逆サイクル)、デュシャンとウォーホルを第二法則的な用語などで書いてみるとおもしろそうだいわゆるカオスの関数など


掲載画像FH08-01A:カオスの関数」)は、
生命と非-生命の度合いをイメージして描いた
図像です。ある状態、局所的な空間の変化、
「カオスの関数」というイメージです。

 

次回はカオスの関数−2でデュシャン、
ウォーホル、荒川修作などの作品を、
上述しましたように具体的に書く予定です。



2010年03月09日

エドゥアール・マネを「現代アートの視点から見る」−2

前回は’09・01・26付で第1回として(ジョルジュ・スーラを「現代アートの視点から見る)−1」をとりあげました。そして今回の第2回目ではエドゥアール・マネを掲載しますマネの絵画とは不思議なタブローをもった謎のような絵です。その不可視の構造から観えてくるものは生の死、あるいは沈黙その瞬間から観えてくる永遠のなにものかが・・)わたしを非常に惑わせます。スーラと同様、現代アートの先駆者でもあります。わたしにとって「限りなく人間とは何か」という問いを仕掛けてくるタブローなのです。フーコーが最後までメモしていた画家であり、おもいとどめていた画家だったのです。そのような偉大な画家マネは、今でもその概念の途上にあります。前回のデュシャンで”見えないものの、見える思考を”書いて終らせるつもりでしたが、近代絵画の最初の画家がManet/マネ”であり、そのことを抜きにしては考えられないので、今回はマネをテーマにその周辺と現代アートの関係性をみてみようとおもいます。

ウォーホルデュシャンの概念は共通することろがあります。それとマネの絵画がいかに現代的な概念を含んでいるのか、分かってきます。マネの絵画とは見えるものの、見えない謎が顕現化してくる、「眼差しの彼方にあるものとはいったい何・・」という最も謎に充ちた画家です。マネの絵画は美術史的には写実主義と印象派の画家ですが、わたしにとっては現代アートそのものなのですボードレールとともに「人間とは何か・・」、この謎に充ちた深い問いを、近代資本主義(社会機械と内在)の発展に移行する時代を捉えた画家なのです。ボードレールはそのことを「バリの憂鬱」に、散文詩で見事に表現しています。マネのことを赤裸々に語っています。スーラはもっと踏み込んで現代の思考へと発展する概念をすでに描いていましたね。今回はわたしの感じたことを論じたいとおもいます。下の画像を参照しながらご拝見下さい。尚、ボードレール、ウォーホル、バタイユの関連はカテゴリ」にありますのでそこを参照してください。

  FC03-01A/-01B/-01C

Manet-green

Manet-brown

Manet-blue

FC03-01A,B,Cを3つの単色で
反復させると、事故が
ウォーホルの無感動的な
概念の
沈黙へと接近してくる

 

  FC02-01

Manet_自殺

 

FC02-01:自殺
1881年,Oil on
canvas
38 x
46cm
チューリッヒ、
ビューレ・コレクション

 

 

 

 

  FC07-1                            FC07-2

バルコニー燕

FC07-1:バルコニー、1868-1869年
Oil on canvas
169 x 125cm
パリ、オルセー美術館

   FC07-2:燕 1873年
Oil on canvas
65 x 81cm
チューリッヒ、ビューレ・コレクション

 

 FC07-3                                   FC07-4

皇帝マクシミリアンの処刑アトリエでの食事FC07-3:皇帝マクシミリアンの処刑
1867-68年,Oil on canvas
252 x 305cm
マンハイム州立美術館

FC07-4:アトリエでの食事
 1868年,Oil on canvas
ミュンヘン、ノイエ・ピナコテーク

  FC04-01                               FC04-02

鉄道

フォリー・ベルジェールのバー
FC04-01:鉄道
1872-73年,Oil on canvas
93 x 114cm
National Gallery of Art

 

 

FC04-02:フォリー・ベルジェールのバー
(1881-1882
)/Oil on canvas  96 x 130cm 
London, Courtauld Gallery

 

マネのタブローは現代美術の先駆者に相応しくまるでバタイユ的な”無”の眼差しがそこにはあります。画面前面に立っている少年の眼差し「アトリエでの食事」もそうですけど、「バルコニー」の作品もそうでしょう。マグリットもこのモチーフで描いています。それは4つの棺を配置した不思議な絵です。題が「パースペクティヴ供1950年」で、この絵は「マネ作:バルコー」からマグリットは死のイメージを喚起されたのでしょうか。マグリットの絵は死体を入れた棺というより、死を生きた形にした現在というイメージで、一方マネは生を死の形にした現在という捉えかたもできます。そのマネとマグリットのイメージは表裏一体の不思議な関係性にあります。その神秘は、二人の婦人の服装は白い色彩で、男性は黒のスーツを、そして黒い背景に溶け込んでいるように描かれた背後の男性、この白と黒のコントラストは非常にイメージをかき立てます。最後にこれを囲むように平行に走っている緑色の鉄柵と、縦の線とクロスした鉄柵、その両サイドには鉄柵と同色の窓の扉が待ち受けている。これらの情景を見るとマグリットの棺「パースペクティヴ」を暗示させます。そして3の人物の眼差は、まるで無関係のようにそれぞれ別方向なのです。なんという不思議な眼差しなのだろうか。

マネの作品にあるこの眼差のべクトルはいったいなんだろう、そういう深い問がでてきます。というよりひとを不安にさせる沈黙があるのです。無対象なのだ。「そこから引き出せるものは何・・」まるで静物画の無関心とでもいえる「ものの現前化」があります。このマネの眼差しの対象は何処へ、見えないものの沈黙とはなんだろうとかとおもいます。この描きだされた人物たちはウォーホル的な無関心さの様相なのです。

ウォーホルは: 『美しさ?何それ?--そこにある美なんて無意味だ』と言い放ち煙に幕く。束の間の瞬間、エンドレスな反復行為によって網膜の快楽を麻痺させ、見ているのだが、観ていない。やがてそれを観ることをやめ、この無関心な視覚化ともいうべきものへと移行してゆく。「エンパイヤ・ステートビル」や「食べる」などの映画です。ではそこにない””はあるのか。そこに”無い”のだからそれは”死というモノ”なのでしょうか、表象の背後にあるものは何かという問いがでてきます。絵画はせないものをすこと、鏡の部屋純粋表象そのものへフーコーの関心事もそこにあるのでしょう。バタイユもそうです。存在としての「何ものかを・・あの沈黙の彼方にあるものとはいったい何」ということでしょう。

ウォーホルの作品、自動車事故の現場をカンヴァスにアクリルとシルクスクリーンで描かれた「Five Deaths Twice ,1963年」や「Green Burning Car 機1963年」があります。事故という大変な出来事にも係わらず、この反復された画面の無感心さ。報道写真家はもっと劇的な場面を撮っているでしょう。マネの絵画にもあるのです。「皇帝マクシミリアンの処刑」がそうです。特に画面右側の兵士は、銃口を45度に上げ、引き金をひいて次の銃撃の準備をしている。その兵士の顔は眠っているかのような無表情なのです。最初に処刑された左側のマクシミリアン皇帝の部下は苦しんでいるのだろうか。バタイユが最後まで持っていた写真は、中国の残酷刑罰生写真があります。これは刀で胸と脚を剥いでいる写真です。刑罰を受けいている被写体の顔が奇妙に恍惚の絶頂のような表情なのです。この顔とマクシミリアン皇帝の部下の顔とがなぜかオーバーラップしてきます。まるで無関心の永遠のような気さえするのです。

それとマネの作品FC02-01:自殺」とを見比べてください。見易くするために同じ状況をグリーン、ブラウン、ブルーの単色で反復した上の画像”FC03-01A/B/C”を観てください。ウォーホルの概念とマネそしてバタイユの思考がわたしには同質の何かが見えてくるのです。それは何か・・沈黙の彼方にある”無”か、それが現前化してくるときそれぞれの特異性が表現されているのです。それはマネの眼差しバタイユの絶対非-知ウォーホルの無-感心が、しかし共通点があるのです。それは「器官なき身体」という概念が、その平面が観え隠れしているような気がするのです。これはなかなか難しい問題です。一冊の書物では到底著せないものがあります。

それでは現代アートの概念をつくったデュシャンは”もの”をどのように観ているのだろうか。そのことは前回に書いたとおりです。M・デュシャンとP・カバンヌの対話の部分を再度引用するとデュシャンは次のようにP・カバンヌに言っています。

M.デュシャン: 『---美的な感動を何も受けないような無関心の境地に達しなければいけませんレディ・メイドの選択は常に視覚的な無関心、そしてそれと同時に好悪をとわずあらゆる趣味の欠如に基づいています。』

この言葉はウォーホルの反復する概念(作品)とは反対ですね。このことによって慣れされ、人々は視覚的な無関心になるのです。その無関心から、表象の背後にあるものは何・・絵画はせないものをすこと。ウォーホルは何も現していない平面の「Nothing」なものをつくた。これはデュシャンとは正反対のように観えて、実はウォーホルの概念と共通するところがあるのです。 

 

次の第2回目は、マネとボーレールの関係性など、「さくらんぼを持つ少年」、「」、「ボードレールの愛人」と、散文詩30・縄」など、とくにマネを論じたボードレールのことにつて書いてゆきます。テーマはすでにマネの「カテゴリ」にて詳細に論じています。またウォーホルとバタイユの関係性はバタイユの「カテゴリ」にあります。第3回目は鉄道=サン・ラザール駅」、「フォリー・ベルジェールのバー」とジャスパー・ジョーンズのこと。あるいはマネの鏡ベラスケスの鏡など、いままで書いてきたことのまとめとして論じてゆきます。



2009年12月08日

Andy・Warhol/「ウォーホルのアートは”器官なき身体”である」

EK04-FL03red/EK03-FL03blue

flowerAflowerB

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ウォーホルの”器官なき身体”とは

アンディ・ウォーホルのアートは「器官なき身体」である。
・・こんな事を述べるのも「生とは、死にそこないの出来事」である、
というためではない。強度を限りなく繰り返す生の死であり、
シミュラークルの変形された身体である。これを「器官なき身体」と
いう意味においてだ。

まさに死をたえず素材にするウォーホルの
アートは、宙吊りにされた生の出来事を内在性の無反応
として引きずり出す装置である。それは時間現象の無限性、
エンドレスな「もの」の反復である。そこから表面を蒸留し
シミュラークルを形成させ、内在平面の不在化が純粋な
時間を身体にに与える。・・永遠回帰、反転されたアルトー
であり、あるいは終ることのないルイス・キャロルの
不思議の国のアリス」である。どこまでも表面・・・
裏が不在化する身体である。

しかしである・・その背後には、巨大な暗黒の宇宙へと突き
進むウォーホルの眼に見えない不可視のアートがある。
意識内部に無反応化のベクトルが作用し、反感覚の強度が
発生してくる。その真髄がウォーホルの映画「食べる」、
エンパイア」などである。その「抽象機械」の作動原理を
観せるウォーホルのアートは見事である。その醍醐味は凄い。

それとキャンヴァスにシルクスクリーンで制作された
「キャンベルスープ缶」なども同じ原理である。
この反復されたものとは、そのダイアグラムである。
コピーのオリジナルの代表が刷られた「お札」というわけである。
生きるということが、すべてがコピーするためだという
のが面白い。内在平面に対してこれほど、反アルトー的で
ありながらどこかで繋がっている。

もちろんあのフランシス・ベーコンとも関係していることは
言うまでもない。生と死についての平面を考えればよい。
ではデュシャンとの共通点はと、問われれば、それは当然
あるでしょう。「問いがなければ、解がない。」という「物質」の
詩的言語の平面を考えればよい。その賭けが神秘の裸体へと
導き、(詩的言語の結晶化でもある)「大ガラス」、や「遺作、
1・落ちる水、2・照明用ガス、が与えられたとせよ」という
神秘的な装置をデュシャンは創った。生と死のドラマから
エロティシズムを見事に蒸留することに成功している。

 

前回'09/11/10に第3回目としてウォーホル論を書きたいとおもっていました。第2回目の<ウォーホルなど「現代美術の世界」その場所は2>ではわたしの体験を通して書きました。これはきわめて個人的な論評です。それをより普遍的に書きたい希がありましたが、どうしても書くことがでませんでした。かなりしんどいという事と、詩的表現にならなければウォーホルに接近できない。というのも「出来事の無反応」という感覚を、その意味を論理的に述べざるを得ない、深い哲学的な思考になってしまうのです。わたしには到底無理で、ウォーホルのいう「Nothing」の哲学が生を仮死状態にする、シミュラークルの強度の問題であることに気付いたからです。ウォーホルについてはもう沈黙した方がよいとおもい、論じないことにします。ただ上記に書いたように「器官なき身体」の、あのアルトーの逆鏡であるような強度をもっている、とだけ申し上げて終わりにします。

上記画像は”EK04-FL03red/EK03-FL03blue”わたしなりにウォーホルの暗黒のイメージを視覚化して表現したものです。ウォーホル論は以前に書いたのでそれを参照にしてください。



2006年01月18日

ウォーホルなど「現代美術の世界」その場所は−2

BA09-Black2B:「無題」

暗黒の前に座るB


                 

 

神の彼方へと
行かなければならない。
[......]私はいつたい
どこへ行くべきなのか?
神の彼方の砂漠へと私は
行かなければならない。

 

 


『わたしはウォーホルがスロヴァキアの移民の人であることは知っている。ミコヴァの素朴な田舎ではよく集いや教会に行くのが習慣であったらしい。彼がキリスト教信者であるかどうかは知らない。毎週教会に通っていた噂はあったのだが、真意のほどはわからない。本当らしいきもする。晩年1986年にダ・ヴィンチの「最後の晩餐」をシルクスクリーンで制作している。翌1987年死去する。できすぎた話だ。才能ある人はいつも運命を感じる。

自然科学の人ニュートンが神の存在や錬金術を生涯追究していたのも神秘的だ。C・Gユングが今日でも芸術家に多大な影響を与え続けているのはそれなりの理由がある。現代美術ではどうか、ウォーホルについて書くとき、いまさら分りきったことなど書かない。別の言葉に変えて学問的な美学論を書くようなことはしない。ウォーホルはわたしにとって「神は死んだ」というところからはじまる。わたしはジャンクフードを食べ過ぎて身体の変調と精神の失速に悩んできた人間だ。わたしの身体は砂漠で、その上を精神が砂のように飛んでゆく。


デュシャンはあらゆることを疑ったという、いかにも無神論者のように見える。カバンヌとのインタビューで神を信じますか」と聞かれたとき、デュシャンは激しい反応を惹き起こしたと、カバンヌは語っている。それまで彼は静かに答えていたのにその質問になると、「・・・それについて話したくもないのです・・」と言っている。心の動揺を敏感にカバンヌが感じとったのでしょう。あのデュシャンですら「神」という響きは強い。思考の中心にあったはずだ。どのような「神」であるのか知らないが、だぶん「神」というイメージが宇宙のメカニズムに対する畏敬の念がよぎったのだろう。

西洋人にとってキリスト教の歴史は「神」というイメージで何千年ものあいだ養われてきた。その感覚は体内の奥深くに滲みこんでいる。ジャック・デリダの「名を救う」ですら、「神」という観念を否定神学のように自問自答し、迷路のなかで詩作行為の言語の誕生のような声を微かに聴こうといている。不可能な問いと、現出を待ちうける言語に対する信頼性は不在のまま進む。超えられない「あるもの」に対する声を、実りのない不在の迷宮を、そこで救われるのか、放置された思考はいつまでも宙ぶらりんだ「名を除いて」。

この名のない事態(思考を超えたもの)は「美」や「芸術」である以前にそこに見え隠れする。この不可視の構造を追い求めるには勇気が必要だ。ときとして、これ以上接近してはならないもの、「神の領域」この地平を超えてしまた狂気の詩人ヘルダーリンや「牧神の午後」を踊った後、ニジンスキーは二度ともどることはなかった。狂気が人間性を保つ最後の表現であるとはあまりに悲劇的だ。おそらく狂気は「神」にたいする純粋な叫びなのだろう。ヴァン・ゴッホの真実は誰にもわからない。ただ作品をとおしてその軌跡を見るだけ。身体に刻んだ「神の痕跡」を。身体と精神の病がどこらやってくるのか、この根源を「アントナン・アルトー」はゴッホのことを『社会的な生贄の結果、自殺に追いやったこの文明』と言い・・この呪縛から解放するため「残酷」な演劇をとおして身体と精神の自由を獲得するめに立ち上がった。

今、この21世紀初頭ではすでに忘れ去られた身体の傷跡、これを埋め合わせるようにウォーホルは再び「死」の定義を消費という資本主義の快楽に楔をうった。「死」こそすべてという暗黒のブラックホールを見せてくれた。身体を空虚に満たしてくれたのだ。この空虚こそ身体を復活させる形而上学であり、死なないために他者を用意する消費の王国を、資本主義を、マネーを導きだすポテンシャルであることを見事にウォーホルは見せてくれた。身体を復活させることとは「死」で覆われた「軆」そのものを「0」として言語化すること。形而上的な「死」として再配分する身体のことである。そこにはいない身体。不在の影として、言語として取り扱う「もの」。そういう「もの」としての身体を復活させた。

そこに表現されたものは芸術的であったり、宗教的であったり、哲学的な「死」の深さの表現なんかではない。どこにでもある、どこにでもない「死」だ。芸能とスキャンダル、バイセクシャル、性と暴力、事故死、死の電気椅子など、内面の深さなんか関係ない、これこそが私たちの日常なのだ。ジャンクフードを食べ続ける目に見えぬ身体のレディ・メイドと、いつ精神が瓦解するか分からない「切れる死」。わたしはこれをウォーホルからどの芸術家よりも多くを学んだ。そしてアルトーとはウォーホルがもっとも近くにいる腹違いの親戚なのだ。その隣にフランシス・ベイコンが座っている。デュシャンは科学の錬金術とエロティシズムの天体に逃げ込む。

・・「神は死んだ」と狂気の哲学者が叫んだ後に87年間の経過を待つ間アルトーがその手助けをしていた。身体の錬金術師を、生を永遠にするための死を、あの残酷な叫びを演じていたアルトーがいた。どこにいるか分からない不在な影を「死は死んだ」と叫んでいるウォーホルが、「死」についに楔を打った。文明の病を芸術として永遠を叫ぶのではなく死を再び「0」にもどすために。天体に返したのだ。身体の傷を抵当にアルトーが実験した文明の残酷な死から蘇らせようとしたこの「永遠の生」さえウォーホルは放棄したのだ。希望も絶望もない、そこで死んだという物理的な死を不在な影として死を印刷する。繰り返し食べるキャンベルスープのように。

それこそが「死は死んだ」と消費する思考の王国アメリカ、この資本主義の最も進んだ都市の真っ只中で生き死んで逝ったウォーホルは記録していた。「死」を意識のなかに濃厚に表現した20世紀後半の新しいパラダイムの「死」を確立した人、20世紀後半のシャーマンだ。そして今は「神は死んだ」と叫んだ後に、87年間の年月を経ってウォーホルが受け継ぐ、「死は死んだ」とテイプレコーダをもつて機械の声で囁いている。蒼白な顔と銀髪の髪。

・・わたしは精神と身体をデジタル信号で変換する見えぬ記号の真っ只中にいる、このコンピュター、いまでは資本主義の1つの贈り物として誰でももっている。死ぬことのない「ネットワークの夜」をウオーホルならどのように表現するだろうか。意識は信号に呑みこまれ、信号のジャンクフードがわたしの身体のなかに贈り物として寄り添っている。死は忘却の彼方にいき、死ぬことができぬ故に、いまでは永遠の生もない。そこにあるのは「スーパーフラット」な死、残酷さは「死」を感じることができぬ故にますます増大している。アルトーは何処へいった。ウオーホルよ、死さえも死ねなくなってる。

あなたは突然1987年に暗黒の天体の彼方に去っていった。そして遺言のように残していった。私たちに必要なもの、それはキャンベルスープの作品のように繰り返すこと。同じような食事をして、いつまでも「死」は他者のまま流通機構のかなで機能する「快楽の資本主義」と「金融の王国」そして空虚な身体と死、このエンドレスな生活であること、表がないから裏もない。そこに哲学はない。そしてこの台詞:

『死ぬときはそこにいなから分からない』

と言ってそのとおり死んでいった。死は自分の「もの」ではなく病院の「もの」であり、自分に属さない。これほど「現代の文明、文化」をみごとに表現した人をわたしは知らない。他の芸術家達の情報量を遥かに凌駕する20世紀後半最大のアーチストである。そこにはすべて表現することのない厖大な大衆の表現が、消費が、哲学のない哲学がある。そしてウォーホルはこれらを「否定神学」のようなシャーマンで「非表現」する。エンパイアステート・ビルを時間で呑みこむブラックホールの神話を創った。

資本主義、マネー、そして身体と精神など、アルトーはこの身体と精神を抽出し、抽象的モデルを「残酷劇」という形に仕上げ素晴らしい未完の芸術にした。ウォーホルは「死」を言語としてとり上げた偉大な資本主義の最初の形而上学者となった。それは芸術を今日の死学に徹底的に仕上げる。そこに無駄はない。「死」に対する新しいパラダイムを確立した人、それがウオーホルだ。』

 

画像右の言葉は:「名を救う」ジャック・デリダ著作
訳:小林康夫・西山雄二、(発行:未來社)の一部を引用したもの。



2005年06月26日

アンディ・ウォーホルの哲学 

私はウォーホルの作品と言葉が好きだ。資本主義経済の真っ只なかで生き、泳ぎ倒れてしまったウォーホルが好きだ。軽くて、重いウォーホルの次の言葉。
 
「アートはもともと反応を芸にするビジネスで、大衆は最も反応する人々だから、それにならうことがビジネスになる。ビジネスがアートになるのは心の問題とおもうけど、アートがビジネスになるのは権威と流通機構の問題であるのはおもしろい。
 
価格を維持するダイヤモンドの流通機構に似ている。ダイヤモンドは工業的に役にたつが、アートは役にたたない。人々が反応してくれれば、役にたつが、そうでなければただのゴミ。権威に支えられた刷られた「お札」というわけ。社会的信用経済の力はすごい。人々はそれをよく知っている。」
 
デュシャンもこのことをよく知っていて、実に注意深く生きた人だ。どのようなものでも流通機構にのらなければただのモノ。
今日のようにインターネットの発達した時代では誰でも参加できる。どれが本物かわからない。
 
数人の権威ある人にセレクトされ、これが本物などといわれてもネット上では役にたたない。いちばん反応があれば芸をビジネスにしたアートだ。ウォーホルがいればネット上でもっとおもしろいビジネスをアートにしただろう。流通機構にのせた、ただのモノ「便器」が「泉」に。デュシャン神話もおもしろい。
 
 
注)アンディ・ウォーホルに関する詳細を知りたい方は『ウォーホルなど「現代美術の世界」その場所はー2』に記載しています。参照して下さい。
 


Recent Entries
「最新トラックバック」は提供を終了しました。