アンリ・マティス

2012年11月21日

「記号と意識」ー3

AK0102-5
AK0106-4


記号と意識A

 

 

 

 

 

 

 

 

記号と意識B

 

 

 

 

 

 

 

 

AK0102-5:「コンポジションX
AK0106-4:「時刻表

 

AK0102-5:「コンポジションX
記号には、必ず意味が発生する。この5個のピースが(不定形な黒丸、斜め75度のバー、縦の赤いバー、クロスした黒いバー)何を意味するのかは、不明である。しかし見てもとおりである。無意味性という現象である。音声的記号作用の体系である言語に付着しないように注意して配置する。すると形態に意味を作用させる感覚が生まれてくる。これをわたしはシステムの形成作用として見る。

AK0102-4:「時刻表」
この作品は分解と生成を同時に見えるように描いた。システムを形成しようとする、これから現れようとするのか、形成した後に分解し消滅しようとするのか判断できないもの。この原理はマティスの「水浴をする人 1909年」を見ると分かる。いわば、物質の時刻表である。

 



2012年06月18日

カオスの窓「アンリ・マティスのリトルネロ」

FH19-01

カオスの窓

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 






アンリ・マティスのリトルネロ

カオスメロディーに。窓とは取り入れ口であると同時に出口でもある。呼吸するリズムをつくり、無化する時間を有機体化する生命の切と閉じである。膜をつくり内部のかたちを保つ。無を無化するためのアートではない。カオスを取り込みリトルネロが生まれ、暗黒から生きる喜びへ解放してくれるアートはマティスだ。マティスにはリトルネロがある。ピカソは意図的にそれを排除している。ところが落としどころがないサーカス的なアートだ。ひとはそのサーカスを観て圧倒される。自我あるいは自己というものの無明の表現の達人である。宗教的な要素がなくてもアートが可能である。いまでも美術を志すひとの教科書になっている。男女関係ノイズストレートに表現されている。そうするとどうしてもというからだの表現になる。よりどころのないからだの表現から、それを見てカオスへと接続されるその凄さかなと。

それはリトルネロとしてのカオスが不在であるがゆえに、またしてもというカオスの淵に落ち込む。そのトートロジーをやり続けたひとがピカソではないか。そしてピカソはその淵を見せることがアートだと断言している。わたしはピカソの絵を見るにつけそんなふうに感じる。わたしはこのトートロジーから開放する方法をマティスから学んだ。あれほどカオスを見ていたひとが、なぜ装飾的な絵画へと移行したのか疑問に感じているひともいる。しかし最も装飾的といわれている切り絵のなかで、「イカロス1947年 ジャズの挿絵」は、最も美しいカオスの淵だ。そこには宇宙と生命がある。

しかしマティスピカソカオスの淵を見ているというおもいは共通している。そこからお互いに認めあっていたのだろう。わたしは初心にかえってマティスの断片を収集しイメージ化してスケッチした。これを平面と立体のミックスしたボックスアートふうに仕立て上げようと構想している。そのスケッチHF19-01)をお見せする。プロセスを公開するのは、かたの決まっていないダンサーの振り付けをみせるようで気が引けるが、その思考状態アートのうちというこでスケッチを掲載した。



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2011年06月20日

水浴をする人「空間についてスケッチ」−1

GF20-05B

GF20-05B

 

 

 

GF20-05B
「水浴をする人」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

水浴をする人

この画像(GF20-05B)は「水浴をする人1909
New York, The Museum of Modern Art 」にある
マティスの作品をわたしがスケッチしたものです。10点ほど
スケッチしている。そのうちのひとつです。マティスの作品の
なかで最も論理的で哲学的な深い内容をもっています。
わたしの好きな絵のひとつです。

マティスの描いている人物像は、非常にシンプルで背景はブルー
一色で宇宙のすべてを描いてる。水と空の境がなく、イメージが
無限に広がって素晴らしい作品です。わたしはそのイメージを
つかみたいとおもい、スケッチしました。すると、どんどんセザンヌ
になり、ついにはジャコメッティに接近してくる。もともとマティス
水浴をする人」のポーズが、あのジャコメッティ
類似しているのです。存在論として当然といえる帰結です。

マティスでは、頭部が完全に球体で描かれています。全体が眼に
見えない幾何学的構成、--それが生成してくるのです。
その結果ダイレクトに脳髄を刺激する強度をもって現れてきます。
わたしはその存在に刺激されてスケッチしてみた、というわけです。

マティスの「水浴をする人」の作品を存在論として詳細に
カテゴリの「マティス」で論じています。知りたい方はそちらを
御覧になってくだざい。またジャコメッティについても、この
水浴をする人」と、どこかテーマが類似しいるところがあります。
これについても論じていますので御覧になってください。

マティスはわたしにとって非常に重要なアーティストです。
デュシャンが「ゼザンヌよりむしろマティスを発見したことだった」
と、対談でピエール・カバンヌに語っている。
これは興味深い出来事です。

 



2008年12月24日

アンリ・マティス「イカロスの墜落とカオス」−1

DL20-10C_3/DL20-10C_4

イカロスの墜落1イカロスの墜落2

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

イカロスの墜落
 (生贄)

『・・死すなわち虚無は目眩(めくるめ)きのかたちに
なぞらえるべき<私>の主権が----まさしくその衰退
を通して----無限に飛翔する領域にほかならないから
だ。この<私>と、そしてその主権は、自暴自棄的
性格の純粋性に到達し、かくして死に臨んだ<私>
の純粋な願望を実現する。考えうる一切の制限の
彼方へまで無想の領域を拡大する、酔いしれた人間
の願望・・』


 

上記の文の一節は
G・バタイユ:「生贄」
訳:生田耕作を参照
発行所:奢灞都館

わたしは「イカロスの墜落」がなぜ画家や詩人たちにとって、魅力的なテーマなのか不思議におもっていた。このデッサンシリーズでイカロスのイメージをわたしなりに描きはじめて観ると、バタイユへと到達してゆく思考の磁力に驚いた。思考の背後に消尽する生命の焔があるのだ。燃えさせるものへと無限に接近しようとす不思議な力があり、感覚がそのことを求める。暴力的な太陽の熱に身体を消滅させたいという不思議な力があるのだ。有機体でありながら自己毀損の志向性が、死の到来を待ち受けている。何という自己矛盾。あの無機的なものへと向かうエネルギーの変換のような燃焼を求めている。

この身体の消滅、それは死であり、カオスによる壊滅を防ぐてだてはない。しかしそれをなだめ死と生の瞬間があるのだ。むしろカオスへとむかう潜在性の形式を創ること、宗教を除いてそのような行為があるのだ。それは芸術いがいにない。マティスの「窓辺のヴァイオリニスト、1917」はカオスをなだめ、カオスをよびこむリトルネロとなり、内在平面をつくる線となり調和へと向かいます。「王の悲しみ、1952」は音楽を止めカオスの平面へと向かう悲しさとなったその瞬間を捉えている。音楽がもはやカオスの微粒子と化した消滅へ向かう、リズムの黄色い木の葉が空間に舞っている。カオスへと帰ること。消滅の美しさを効果的に暗示した黄色い木の葉と死にゆく生命、これを美として表現しているマティスの光を感じます

コリウールのフランス窓1914」はこちら側と向こう側をカオスの境目として窓を表現していると、わたしは感じます。窓は開いているけれど外は暗闇なのだ。これは部屋の外が夜であったというわけではない。ひとつの内在の世界、カオスの窓を暗示しているのだ。芸術行為とはかくも厳しく向こう側へと行く恐怖と勇気、ぞっとするほどの虚無が、あのブラックホールが待ち受けている。身体がそれに耐えられるかという深奥を感じます。精神を支えるのは何・・という問いが闇から聞こえて来ます。

そして最後に切り絵の「イカロス、1947」は人類がこの地球に棲み思考の翼でそこに新たな地層をつくる。この地層はたえずカオスの潜在性をもった現働化であり、そこに至りつく死へのダイアグラムである。上昇する思考の翼とは、カオスに限りなく接近しよとする死への落下であり、ついには翼を破壊され死を迎える。それは生命の営みを再び宇宙に還すカオスの殉教であるような美、脱領土化した限りなく美しい有機体としての人類を讃えた絵である。それがマティスの切り絵の「イカロス」である。賛美歌のように美しい。再領土化さた芸術の思考は、虚無とひきかえに「死」を死ななければならない。リトルネロとしての「窓辺のヴァイオリニスト」のように音楽を奏でることによってしかカオスの壊滅を防ぐてだてはない、ということである。これが「芸術の力」であるとおもう。

 

DL20-10C_3/DL20-10C_4:この画像掲載はひたすらカオスに向かって上昇する思考の翼を描いたものである。デッサンシリーズでは「イカロスの墜落」を何点か掲載しましたが、マティスの切り絵の「イカロス」についには到達します。わたしはその途上にある「イカロス」を描きました。絵は2点掲載し、暗い太陽と煌めく太陽のさらに銀河に到達しようとするその途を暗示的に描いた。そしてカオスとは多分バタイユの「生贄」のように自暴自棄的な毀損の行為なくして共存できないのだろう。唯一芸術だけがそのカオスをなだめる力があるということなのかも知れない。

これでデッサンとしての「イカロスの墜落」はひとまず終ります。なぜ惹かれるのだろうかとずーと考えてきました。いかに「イカロスの墜落」というテーマが神秘的で、生と死のドラマを神話というかたちで見せてくれます。そしてわたしは、マティスの「イカロス」にいきつくことをわたしなりに発見しました。

余談:
この画像掲載で特に左のイカロスから発光している青い色が、宮沢賢治の「よだかの星」を感じてしまいました。そのきっかけは朝おきたとき「よだかの星」という言葉がでてきたのです。わたしは、賢二の童話は殆ど読んでいない。子供のころの記憶が突然でてきたという感じです。さっそくネットで調べてみると「よだかの星」は最後に、

・・そして自分のからだがいま燐(リン)の火のような青い美しい光になって、しずかに燃えているのを見ました・・

というような描写があります。そして銀河の一部になって永遠に光ってる、このような物語です。ジョルジュ・ブラックにも深いブルーの色の大きな空間に(ルーブル美術館の天上画)鳥を描いている。天体の星座のようでもある。カオスと同一になるというテーマがあるのだろう。それはシミュラークルの世界なのだが、ピエール・クロソフスキーの永遠回帰にわたしはむしろ惹かれます。

賢二の世界でわたしが馴染めないのは生身のエロティシズムがデリートされているところがあるので、ついてゆけないのです。究極はたしかにそうなのではあるが、このデリートそれ自体がバタイユとは違った東洋的な禁欲的な反力としてのエロティシズムなのかも知れない。賢二の童話にも「イカロス」とは違った方法でアプローチしていたのは驚いた。上昇と落下これを対社会性の問題、そして生と死のテーマを深く追究した童話であることが、多くのひとに感動をあたえているのだとおもう。自己犠牲の深い哲学な問いが賢二の童話の根底にあるのでしょう。それは「愛」ということでしょうか。



2006年09月29日

マティス絵画の論理「アルベルト・ジャコメッティ」の方へ

BI29-10Yel3

水浴をする人からJ1へ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

「水浴をする人、1909年」アンリ・マティス
よりそのイメージをスケッチ

わたしは前回マティスの「水浴をする人」でその論理的な構造を書きました。ジャコメッティとどのような接点をもっているか、セザンヌを通してどちらも生成変化を絵画の本質に置いていることを書きました。その中で「マティスの抽象機械」を4つのバリエーションで表現して前回画像掲載しました。今回は「水浴をする人」の構図をそのまま利用し、ジャコメッティへと接続される要素をイメージしてデッサン(画像BI29-10Yel3参照)してみました。驚くほどジャコメッティに近づいていきます。この構図は確かジャコメッティにもまるでそっくりなのがあります。これは偶然ではありません。両者ともセザンヌの方法論をとっていることからきています。

・・それは存立平面へと進み、宇宙的な存在論の彼方へと発展してゆきます。水浴から宇宙圏へといっきにイメージを飛躍させる構図となっています。前回そのことを書きました。重複しますが、一部抜粋してジャコメッティの部分のみ掲載します。全文は(アンリ・マティス絵画の論理と構造「水浴をする人」・1)を参照してください。

『・・更にジャコメッティはそれを先鋭化させ見事なデッサンをわたし達に見せてくれます。彫刻では、ついには物質が消えそうになるまで追い求める。極限値に近い形態を表現している。ジャコメッティの立像は不思議な空間を感じます。その物は現れようとしているのか、消えていこうといているのか、存在とは一体何者か。という「スフィンクス」の謎を感じます。この人物(水浴をする人)の形態をジャコメッティのスタイルで彫刻化すれば、そのまま立像として成立つ構成要素(構図)をもっている。空間の中に存立している人物像の不安定さこそ生成変化の真只中にいる「時間変位の量」として感じる「差異」そのものとして現働化する。』



2006年07月20日

アンリ・マティス絵画の論理と構造「水浴をする人」・1

BG18-30Bblue

水浴をする人E1

 

「水浴をする人」
BG18-30Bblue
水彩で描く


(原画はカンヴァスに油彩)
1909年
92.7 x 74cm  New York,
The Museum of Modern Art

 

 


わたしにとってマティスの描いた「水浴をする人、1909年」は<原理としての絵画>であり、わたしの最も好きな絵のひとつである。というより存在論に向かわせる神話であり、わたしにとっての教科書なのです。それはマティスの造形思考の根幹を成すものであるとおもいます。残念ながらこの絵は、殆どの画集には掲載されていません。あまりにシンプルで原理的な描写のせいか、見方に途惑うようです。しかしこれこそマティスの本質がよくでている作品なのです。セザンヌがそうであるように<存在の根源>を見事にとらえています。

こういってよければ、造形思考というより、宇宙を微分化した存在論であり、マティス哲学の運動方程式であり、(水浴をする人)という命題をもとにしてあらゆる方向性へと展開できる公理でもあります。この作品はすべての無駄を削ぎ落とし、1つの切片を、瞬間を捉え、現働化された物質の存在が現在という定点をもたない流れの瞬間速度と無限の潜在性をもったもの、持続の顕現化したものであると同時に、そこに現れない未使用の時間を先取した潜勢力をもった“かたち”という形態をとる。

それは固定され確定したものではなく、生成変化しつつある物質の変位量の瞬間を見せる絵画でもある。したがって作品はある不安定さを感じさせる要素があります。この不安定性こそ、そこに本質が潜んでいます。ピカソ絵画のように自信にみち確定された絵画表現とはまったくちがいます。その物質的な捉えが独特です。マティス絵画には外延的なもと内包的なものとのスリリングな緊張感があります。これは物質の運動ということの捉え方ですが、マティスのデッサンにはそのプロセスを見せるものがあります。「水浴をする人」の絵はその意味を明確に表現しています、それは現働化した物質の瞬間的な形態を、微分化したものを見事に捉えています。具体的には次のようなことであるとおもいます。

・・これは物質そのものへという意味ではない。潜在性が存在を措定するのではなく、生成を形成する本質的ベクトルへと導く存在としての差異であるという意味である。差異とは存在のことであり、存在とは差異のことであるとも言える。しかしこんなことよりマティスの「水浴をする人」を見れば、いかにこの原理的なことを直感的に表現しているか分かります。この直感とはベルクソン的な意味であり、方法としての直感のことである。それは苦心して厳密に構成されたひとつの方法です。

またわたしはフィリップ・ソレルスの「セザンヌの楽園」のなかにマティスが語ったというエピソードふうに書いてある箇所をおもいだす。マティスが所有しているセザンヌの「水浴をする女たち」を前にして彼は、その本質をマティスの証言のように語らせている。

・・絵画というもの自体が水浴であり、絵は泳ぐのさ

と、セザンヌの絵を見ながらマティスは語った、という言葉で表現しています。これは「水浴をする人」と水との関係、物質と空間のことであり、存在に係わる身体性の問題でもあります。そして意識と空間への本質的問いでもあります。ひとつの神話をつくる創造的絵画へと進みます。それはわたしにとって「原理としての絵画」なのです。そして「・・絵は泳ぐのさ」ということは生成変化の真只中にいるということです。

ここで「水浴をする人」についてわたしが感じたことを書く前に、その論理的な構造の要約を最初に書きました。マティスの絵は直感的に掴めるように究極的な構図(構造といってもよいが)をもって表現しています。私たちがマティスの絵に接するとき、そのスタイル自体が感覚を想起させ時間変位の美を味わう喜びをもらいます。つまり生成変化の感性を味わうことで、この論理性(構造)は機能によって解消され、理屈抜きで鑑賞できる分けです。

 

しかしこの論理性をもって接するのと、ただ鑑賞するのとは劇的に変わってきます。今回とり上げます「水浴をする人」は、ただ鑑賞するだけでは見えてきません。直感まで到達する訓練と厳密な規則を何らかの方法で発見してゆく思考を鍛え上げる努力が必要だと、この絵を見るにつけ、マティスから云われている気がします。

 

絵画は直感に到達するために、
論理と思考を鍛え上げねばならない

 

といっているのです。当然わたしは絵を描くものとして、その論理的な構造なしにマティスの絵を学ぶことはできません。天才であれば論理的な構造が直接に直感というかたちで顕現化しますが、マティス自身苦労してその方法論を生涯追究しています。冒険と不安をセザンヌに精神的なよりどころとしていたほどですから。その意味で直感とは苦心して構築された論理性の上に始めてでてくるものなのです。このことをわたしはマティスから深く学びました。この連載を記載していなければ、わたしはたんに自分の感性に頼って独断で世界を解釈していたかも知れません。

 

このようにマティスの絵はきわめて論理的な構造もっています。マティスもセザンヌから絵画の論理的な側面を学んでいるはずです。デュシャンが最も重要な画家としてマティスを上げているのは理にかなっている。わたしもそうおもいます。このことを踏まえて「水浴をする人」の作品について書いてみます。この絵に込められたメッセージは深く謎のような問いをわたしに突きつけます。わたしはそれにシビレ存立平面の彼方へと思考を向かわせます。もちろん芸術の見方はひとそれぞれちがいます。またその面白さでもあります。わたしが絵を描く理由もそこにあります。ではその「水浴をする人」の彼方に、世界に入って行きましょう。

 

『・・背景色は全体を深みのあるブルーで塗られています。原画では、ブルーの空間色の上に筆タッチの痕跡を残す描写によって、人体の運動とその潜在性を表象的(タッチの痕跡が暗示します。マティス絵画のこの技法はセザンヌから受け継いでいるとおもいます。もの凄く重要な要素です。「差異」を発生させる要素の技法になっています)な方法で表現しています。

 

また、足元の水の流れは生成変化の瞬間的な微分係数的なその切片を暗示させている。マティスの技法にある塗り残しや物の輪郭線を意識的にずらし、ブレタ何本もの線を描くのは、定点として固定化された物質の表現を措定しないためである。この方法は物質の本質を捉えようとする絵画哲学でもあり、ゼザンヌから徹底的に学んでいます。時間とともに変化する何ものかを捉える。意識現象と物質の顕現化を、その究極を追究していたのがセザンヌです。

 

更にジャコメッティはそれを先鋭化させ見事なデッサンをわたし達に見せてくれます。彫刻では、ついには物質が消えそうになるまで追い求める。極限値に近い形態を表現している。ジャコメッティの立像は不思議な空間を感じます。その物は現れようとしているのか、消えていこうといているのか、存在とは一体何者か。という「スフィンクス」の謎を感じます。この人物(水浴をする人)の形態をジャコメッティのスタイルで彫刻化すれば、そのまま立像として成立つ構成要素(構図)をもっている。空間の中に存立している人物像の不安定さこそ生成変化の真只中にいる「時間変位の量」として感じる「差異」そのものとして現働化する。

 

また「水浴をする人」ではマティスの特徴でもある平面的(空間処理が平面的であるが故に時間形成を促す内在性が彫刻化「見えない彫刻」へと変位する)な表現を大胆に取りいれている。特に人物像は同一色で塗られたフラットな描き方である。それがいっそう立体化する。外部の存在とは内部の存在でもあるというマティス絵画の醍醐味がそこにはあります。「森の中のニンフ、1935〜43年」は意識内部と現存在の存立が同時並行的な平面(プラン)へと進む。存在の構造を物質的な側面としてではなく、内部の意識現象とその現れかたを追究しているマティスの論理は間違いなくセザンヌ的だ。詳しくは次回かきます。

 

この平面性は全体の空間をイメージとして捉えている。表象としての空間が意識の空間性へと置換され、厚さ、深み、時間、拡がりへと生成される。足元を見て欲しい、そこだけ見ると膝まで浸かり、まさしく川の流れに向かって立っていることを暗示されるため表象的に緑色で楕円の図形を描いている。足元を見なければ、水の中にいるイメージより、大気のなか中にいる人物像を想起させる。

 

この意味は、足元の水の流れが現実的なリアルな空間へとイメージが付着しないよう幾何学的な抽象表現に留めている。色彩も単純化し・・の方向へ時間軸が示す方法としての記号(時間変位を想起させる装置として水の流れを記号的に描いている)に止め、全体的な宇宙の構造を示すため、水と青空(空間)を区分しないことによって表象的な空間構造へとイメージを形成させる。このことによって絵は抽象機械へと発展し、イメージが宇宙を喚起させるスケールの大きい無限大の空間へと接続される装置として作動させている。

 

また「水浴をする人」を見ますと人物は前進しようとしているのか、あるいは後退するのか、留まっているのかは判断できません。まさにその存在の不安定さを生じさせます。そのことによって全体と部分(人物)の関係が物質としての現れとして、無限の宇宙の中で飛躍する物質の瞬間速度を見るおもいがします。これこそがマティス作品のダイナミックさであり、凄さを見ることになります。この作品は、わたしにとっては神秘的であり、哲学的でもあり、あらゆる可能性を秘めた素晴らしい作品です。

 

・・しかもすべての存在に対する見方の定理として、わたしに提示します。その作品がこの「水浴をする人、1909年」なのです。



2006年05月18日

アンリ・マティス「(ダンス)その構造と場所・1」−5

DB03-01_2c

ダンス

 

BD03-01_2C
「ダンス供廛┘襯潺拭璽献緘術館
1909/1910年
(ダイアグラム的にスケッチ)

 

 

 

『前回はマティスの「音楽」の構造について書きました。今回はダンスについて掲載します。「ダンス」の作品は2点あります。1点目はニューヨーク近代美術館にあり、2点目はエルミタージュ美術館にあります。わたしが画集よりノートにスケッチしたものは2点目のエルミタージュ美術館のものです。

ニューヨーク近代美術館にあるものは絵としての空間処理を意識した構成美を感じさせます。5人の人物がダンスをしている運動状態を捉えた、静的な絵画空間として描写しています。絵画としての強度を求めたマティスの描写力の美しさやセザンヌ的な空間意識がのこっており、緑の島は領土化への地層隆起としての形態にまだ留まっています。絵画空間的には調和のとれた、たいへん美しい作品です。

一方、エルミタージュ美術館にある作品は存立平面へと身体が移行してゆき、見る者にとって、視覚から思考へと接続され、絵画を分解し、分子状の回路へと誘います。わたしをうっとりさせます。思考の快楽放射を生成させるというやつです。この深い哲学的な方向性がより明確にでています。平面的な表現であるけれども、立体的(彫刻的な意味も含めて)な思考を感じさせるのはマティスの特長です。意識現象を、(空間概念あるいは物質と記憶)を巧みにキャンバスにとり入れる技法は凄い。このマティスの論理的思考とは、外延量(絵画空間)を内包的な要素にとり込み解体(差異)させ、両者の区分を分子状にするマティスの方法論でもあります。

 

そのことによって、イメージは深さとより厚みが増し立体化し、絵画に空間概念を形成させる(思考の潜在性が立体化させる差異として)マティスの驚くべき論理性が作品のなかにあります。その論理は、あの単純化された形式として表現されています。論理を達成するために、思考錯誤しながら冒険し、探究心の真摯さには、あたまがさがります。いつも傍らにセザンヌの絵を置いて、精神的な支えにしていたのはよく理解できます。きっと挫けそうになったことがあるのでしょう。マティスは言っています。

 

「もし、セザンヌが正しいなら、私は正しい」

 

と、この言葉はいかにセザンヌを心の支えにしていたか分かります。わたしが今回マティスを連載している理由はそれと同じことです。まだ大作はつくってはいないけれど、思索行為の真只中ですが、アイデアがあれば、デッサンはしています。このサイトにも一部掲載はしています。「メタモルフォーゼ」がそうです。社会との関係を表現しようとすると、たちどころに「病的な絵画」に陥ります。わたしはそれを避けるために「抽象機械」のみダイアグラムとして表現しようと考えています。「マティスの抽象機械」を学んでいます。思索ノートとしてこのサイトに書いています。今回は「ダンス」のことについて書く予定でしたが、そのまえに少しだけでもマティスの論理的な思考を感じるといっそう興味がでてきます。わたし自身こんなに深い哲学的要素があるとは想像していなかった。のめり込む程凄い。デュシャンがマティスを重要な画家であるというのもうなずける。

 

いずれ詳細に論じます、この連載の最終回あたりに予定はしている。それもピカソと比較して論じようと考えている。何故ピカソはシュルレアリスム系に類似したところがあるのか、象徴的ではあるが何故マティスはシュルレアリスム系の手法にはならないのか、この相違は絵画表現の本質的なスタイルの相違であると同時に、根本的な物質の存在論へと発展してゆきます。その哲学の相違が作品に現れています。ピカソはマティスの作品を見て、

 

「あなたの作品は不安定すぎる」

 

と言った。あの「青い裸婦検1952年」など確かにピカソが指摘したように不安定に感じる。わたしはこの不安定性こそマティスの本質のひとつであり、哲学的深さを感じる。その魅力であるとおもっている。そこから派生して無限のイメージが湧いてくる。それは潜在性であり、生成変化の思考を差異として現働化させている。それがマティスの作品の魅力です。わたしにとってマティスとは「差異」そのものの画家である。そこからすべての物質、有機的なもの、無機的なものを超え普遍性へと接続され、宇宙圏の無限の抽象機械を想起させる。デュシャン的なものへと接続される要素を、エロティシズムをマティスの作品から感じます。

 

それに比べてピカソは断定しいている力強さを感じますが、その力強さがわたしにとって弱さの尺度として感じてしまう。時として虚無というものが見え隠れする作品もあります。逆にいうとそれだけ人間的であるといえる。そのことが多くの人々に愛される理由でもある。以上のことを連載の後半に論じようと考えています。わたし自身マティスのことを書き始めてからいろいろな発見があり、今後作品をつくる上で多大な影響を受けることをある意味で楽しみにしている。作品からインスピレーションを受け、身体のなかにマティスの思考がどんどん浸透してくるのが分かります。これほどまでマティスの作品が哲学的で、しかも感性豊なものであるとはおもってもみなかった。作品を見る度に言葉が次々と出てくる。この言葉を抽象化し、素材を発見し、精錬して作品までもっていくための思考作品のつもりで書いている。わたしは誤解を恐れません。もともと作品はおおいなる誤解から成立っていますから。

 

今回は「ダンス」がテーマなのですね。マティスの哲学的な平面の方向性へ脱線してしまいました。いつも考えているからでしょう。最終回に用意していた内容を一部記載したまでですが、ある程度わたしがし考えているマティスの哲学を知ってもらうのも、いいかなとおもい、あえて削除せず記載しました。

 

今回記載する内容は「音楽」から「ダンス」へと移行するリトルネロについて書く予定でした。その概要は「音楽」より更に、あらたなアレンジメントによって脱領土化へと進み、外へでるために輪となり手を組み、存立平面へと移行するリトルネロとなる。緑の大地は、「音楽」より島はいっそう円くなり、単純化され、ダンスをする5人の人物は躍動する形態となっている。マティスの空間意識は脱領土化への開かれた地平へと向いています。「ダンス」は永遠回帰という哲学的エレメントを感じさせる作品となっている。そのようなイメージへとわたしを喚起させ、宇宙的なスケールの大きい天体の星座へと導きます。』

 

尚、余談ですが、マティスの論理的構造を端的に表現した作品があります。この作品は、あまりにシンプルで原理的な構造のみを表現しているせいか、面白味に欠けている作品のようにおもわれています。殆どの画集には掲載されていません。もしあなたがその作品を見て、面白味のない作品と判断し、無意識にスルーしているかも知れません。もう一度じっくり観て下さい。おそろしく哲学的な作品であることが分ります。そういうわたしも最初は見逃していたのです。マティスにのめり込み、時間が経つにつれてその凄さを感じるようになったのです。その作品名は下記の通りです。詳細に論じています。

 

水浴をする人、1909年

 

 

今回は「ダンス」がテーマですが、「ダンス」のテーマを永遠回帰にしぼって、ディオニュソスとテセウスについて例をあげ、何故マティスは晩年「王の悲しみ」を描いたか、その哲学的なことを書く予定です。

 

*マティス関連で:

はじめてこのサイトに訪れた方は『アンリ・マティス「メタモルフォーゼ」−1』を読むことからお奨めします。 「有人彗星」管理人



2006年04月10日

アンリ・マティス「(音楽)その構造と場所」ー4

前回パウル・クレーの「さえずる機械」でカオスとリトルネロの関係を記載しました。すでに「千のプラトー」ドゥルーズ/ガタリの共著を読んでいる方は、リトルネロの概要は掴めているとおもいます。今回は予告に従って、その概念を使ってマティスの「音楽」につて記載してゆきます。マティスの絵画を「新しいパラダイム」で語りますので難しい哲学用語がでてきます。

BD10-01_1

音楽DC03


BD10-01_1/図表

「音楽」1910年、
アンリ・マティスの作品を
ダイアグラム的にスケッチ

 


 

今回はマティスの作品、「音楽」についてその構造を記載します。上記図表を参照しながら論じていきます。わたしの感じたことを書いていきますのでまた違った見方もあるかもしれません。その面白さこそ美術を観る醍醐味かもしれません。皆さんもご存知のようにマティスには大変美しい作品が数多くあります。その中のひとつである「音楽」は理論的構造がまったく見えず隠されています。「ダンス」もそうですね。しかしその背後にゼザンヌと同じくらい論理的構造をもっています。

その構造は見事に形式と融合しており、視覚的には、その構造は機能によって解体されその調和のとれた美しさしか見えません。皆さんもその美しさにウットリしていることでしょう。鑑賞するぶんにはそれでいいのですが、わたしのように作品を創る側は、そうはいきません。マティスの絵は表面のフォルムだけ学んでもどうにもなりません。その哲学的深さを確実に掴まねばなりません。マティスの絵にはゾットするような凄みのある作品があります。その絵こそ本質が潜んでいます。あのピカソでさえマティスの哲学的な思考にコンプレックスをもっていました。それほど論理的で構造がしっかりしています。わたしはそこを見逃しません。この思考を学ぶのです。

 

わたしはこの連載で、「エラン・ヴィタール」までマティスの道を追究していきます。その象徴として「葉の束、1952年」という作品があります。この作品を「オートポイエーシス」、システム論でみるとマティスの作品がいかに現代科学や現代哲学の世界に深く関係しているか分かります。ハイデッカーや現象学系の哲学より、ベルクソン、ドゥルース/ガタリ系のポスト構造主義に近いように感じます。「水浴をする人、1909年」の作品はわたしにとって驚くほど哲学的な作品です。他にもありますが、何点かとりあげてこの連載で書いていきます。わたしはこの連載を思考作品と呼んでいます。今回は「音楽」をとりあげていきます。

 

近代絵画の流れとして、セザンヌ→マティス→デュシャンと接続される画家であるとおもっている。徹底して生成変化の画家であり、リトルネロが領土から脱領土化してゆき内在平面が宇宙の生成へ、諸機械状アレンジメントの作用が抽象機械をかたちつくる。そのメカニズムを見せる画家でもあります。マティスの絵画はそれ故ダイアグラム的な絵画であり、「記憶と物質」を、脳内の意識現象を明晰に追究した画家です。その技法を思考錯誤しながら実験的に行為し、最後には調和と美の形式を確立しました。あの切り絵に到達した人です。

 

マティスの初期の作品に「風景」というのがあります、この作品は内部意識の記憶からはじめています。そしてその追求に一生涯かけていきます。ついにはカオス、宇宙的な世界と内在平面の関係を徹底的に追究することとなります。機械圏をいつも意識していた人です。デュシャンはこの機械圏のメカニズムをダイアグラム化した画家でもあります。マティスの造形思考はそれほど奥が深いといえます。

 

では今回とりあげる作品、「BD10-01」を参照してください。それに基づいて進めていきます。マティスの画集がお手もとにあれば見てください。特にマティスの絵は色彩が形態と同様重要な要素ですから。「音楽」と「ダンス」は対になっており、「音楽」は領土性のアレンジメントによって形成されていきます。「ダンス」はそれを受け外にで、飛躍し、脱領土化したリトルネロとなります。それによって分子状となり、宇宙の振動と合一する。両作品とも、その理論的構造が形式のなかに溶け込み、マティスの特長でもありますが、大変すばらしい作品です。

 

この作品「音楽、1909〜10年」はカオスをとりこむ前段階の1つの儀式、詩の発生原理としてのダイアグラムである。リトルネロとは領土的なアレンジメントに向かい、カオスの諸力をなだめ領土化し、壊乱、破壊それ自体の振動を歌の力でとり込み、カオスの振動に共鳴する内在平面を質料(A=ヴァイオリン、B=縦笛)に伝達させ空間に振動させる。そのことによってカオスに歌わせます。それはカオスのなかに同一の波動が振動し、リトルネロの作用が出はじめます。このリズムがやがてメロディーとなり領土が形成し始めてゆく。

 

大地のグリーン(領土)はそのメロディーに反応しスプライン状の線を描く。領土はまだ流動的である。大地と空のベクトルは調和のメロディーを奏でている。質料のない人物Cはその共振(共鳴音)で歌い始め、人物D,Eはまだ伝達してはいない、そのため身体は緊張しているが、歌(ヴァイオリン、たて笛)の共鳴が空間を振動させ身体としての質料が奏でる準備(それはダンスへの移行を暗示させます)をはじめます。

 

・・身体の円やかさはこの共鳴を受け、大地の境界線であるスプラインはその共鳴によって領土化する。この領土化が形成されるに従ってリトルネロが2つの質料(A,B)と3人(C、D,E)の集合的な和音となり、カオスの無限大の1つの点として空間に振動(共鳴)する。身体の色はカオスの共振の声のように赤色で統一され、存立平面の身体化のようでさえある。まだ外にはでていない。「ダンス兇里茲Δ陛径里留澳脹親亜▲妊オニュソス的なもの」のように脱領土化された分子状の飛躍はまだない。

 

顔の表情は無意識機械からの生産で記号状機械(日本のアニメや漫画の「そこには現れてはこない抽象機械であり、集合的多数の機械状アレンジメントによってダイアグラム化されたもの」である。スーパーフラット的な情動描写である。それはニュ―ペインティング的なある種の表現主義的な描写であったり、フォーヴィズム的な表現でもない。ある限定された世界を描写することでもない。非限定的な情動機械的な内包としての要素を表示する。外延的な空間を組織化した形態として顔を表現してはいない。

 

それゆえ、内包的な(強度)として形態(顔貌)を描(定義する)く。おそらくマティスはこの5人の人物描写にはそうとう自信をもっていたにちがいない。わたしは完璧に感じる。マティスのなかで「音楽」は装飾的でありながら、論理的構造が形式自体によくでている。わたしの好きな作品の一つである。ある人は「5人の人物が楽譜だ」と言ったが、それは正しい。境界線(領土、グリーンの大地)がメロディーラインのようでもある。



2006年03月31日

アンリ・マティス「カオスとリトルネロ」−3

はじめにマティスからいきなり書くより、パウル・クレーの「さえずる機械」の概要からはいります。そしてマティスの「音楽」と「ダンス」へと進みます。というのもわたし自身理解しながら書いていこうとおもいます。どのように展開していくかわたし自身予測できません。今は頭の中に記憶をとどめておく作業です。作品を創るとき、これとは反対に、わたしは殆ど考えません。意見を頭のなかから追い出します。作品は概念を超えねばなりません。理解することとはちがいます。概念は道具なのです。わたしはその道具を使って書き進めます。

物質と時間の関係を求め、幾何学的な運動エネルギーを感性に変換して行く作業をマティスのなかに求めてゆきます。そのことによってマティスの造形思考のなかに入りこみ、その驚くべき論理性を書いてゆきます。「音楽」と「ダンス」の作品は、「ピアノのレッスン」や幾何学的なまでに抽象化された「座るピンクの裸婦」のように理論的な形態は見えません。論理はその形式自体のなかに溶けこみ、見事な調和となって現れています。楽譜は機能するとき、消えます。それと同じことです。

 

スケルトンのない家はすぐ壊れてしまいます。絵も表面の美しさだけでは時間に風化させられてしまうでしょう。ゼザンヌやマティスの絵はまさにその強靭なスケルトンをもっています。それはカオスからもらった自然な構造体をもっているからなのです。論理は論理の向こう側を潜在的に内包しています。わたしは今回マティスから思考の養分をもらうために認識する作業をします。それは前作品行為の思考なのです。そのことによって作品を創る思考の養分をマティスからもらい、わたし自身挫折しないようにするためのものなのです。

 

それはマティスの造形哲学を十分吸収し、体の中に浸透した記憶が差異として、作品みずから湧き出てくる生成変化を直感的に捉えるよう、その地平を開示する行為へと進むものであってほしい。作品が何を語っているかわたし自身理解していないところまでもってゆきたい。意見から遠くはなれて自立した存立平面を形成したいのです。

 

これから書くことは普段あまり目にしない言葉の用語使いになるかも知れません。わたし自身も使い慣れていません。他の言葉になっているとき、わたしは作品を創ります。今は思考するための道具です。道具はまだ世界を形成していません。言葉が何かを探しているのです。言葉は空虚であるがゆえにスピノザ的な情動を接続させるシナプスのようなもの・・としての気配を送る身体的な反応を待っている機械を振動させる媒質なのかも知れません。

 

今回はクレーの「さえずる機械」について書き進めます。BC14-1Cの画像掲載を参考にしてください(お手もとにカラーの画集があれば、御覧になって下さい)。これはわたしが画集よりスケッチしたものです。この絵は技法的には結構クレーが苦労して制作しています。色調を微妙なトーンで表現しています。それゆえいっそう緊張感のある空間をつくっています。右上の黒い滲んだ色と鳥を囲む淡いブルーグレイの色使い、そしてグランドに置かれた淡いバーミリオンに塗られたベッドが空間色のブルーグレイと滲み、いっそう小鳥たちを緊張させる。左上にはそれと同色のバーミリオン色で滲んだトーンが地と空のカオスが剥きだしに現れているような感じさえします。

 

この「さえずる機械」の絵はドゥルーズ/ガタリの共著「千のプラトー」、第11章の”リトルネロについて”で明晰に論じられています。最初の出だしは、『暗闇に幼な児がひとり、恐ろしくても、小声で歌をうたえば安心だ・・』というところから書きはじめ、リトルネロの構造を段階的に深くはいってゆきます。その最後の章は宇宙規模の無限な機械(機械圏)の作動原理を暗示して終っている。芸術とは何かという概念を深く思考させられる哲学にもなっています。つまりフーコーも言っていますが、

 

『自らのうちにカオスを抱えない人間は、躍動して輝く星を生み出すことはできない』

 

と、このようなことを言っています。マティスもこれと同じようなことをいっています。”カオスのない芸術はたんなる意見にすぎいない”と言っています。わたしはこの「さえずる機械」を見てクレーからカオスを感じとらねばならない。

 

・・何故4羽の小鳥たちがさえずるのかを、空にむかって、森にむかって、大地にむかって、仲間にむかって、そして敵にむかって、そうしてクレーの「灰色の点」を感じねばならない。この「灰色の点」とはブラックホールのことであり、「灰色の点」とは小鳥たちをとりまくブルーグレイ色(掲載したわたしのスケッチでは判断できませんが画集を見てください)で塗られた空間のことであり、無限の拡がりのなかの位置決定が不可能なカオスそのものなのです。

 

そしてその点は『自らの上に飛躍し・・重力に勝利した遠心的な力の圏内に入って、実際に大地から舞い上がって行くのだ』という言葉でドゥルーズ/ガタリは書いています。この言葉の概念を次回書こうとおもいます。それはカオスと共鳴するリトルネロの作用を「音楽」と「ダンス」へと接続されていきます。

 

今回はクレーの「さえずる機械」の触りとしてその概要を書きました。クレーのもっているカオスと「内在平面」のことに関しては、クレー自身が、大変危機的状況のなかでたえず創作活動しているその凄さを見るおもいがこの作品から感じます。「さえずる機械」という作品は絵画というより、そのリトルネロの仕組みを見せるダイアグラムでありシンプルな図表でさえある。それはカオスの境界でさえずる小鳥たちの彼方を、抽象機械を、機械圏へと接続される諸アレンジメントを垣間見る。

 

リトルネロとは(歌をうたうとは)カオスの破壊としての振動を逆に共振させ領土化し、カオスをとり込み、カオスみずからの波動によって歌となり共振する。それによってリトルネロは内部時間をつくり灰色の中の「点」となり、カオスは共鳴してゆきます。揺らぎはいつ切断されえてしまうか、か細い糸で繋がれた「アリアドネの糸」なのです。たえず危険に晒されています。その意味で小鳥たちのささやかな無意識機械とは、わたしでもあり、あなたでもあります。そのようにドゥルーズ/ガタリから感じます。

 

『暗い夜道に迷わぬよう、わたしも歌をうたい、くちずさみ”エレボス”を遠ざけ、無限の故郷の家にもどる「時間の神」のなかで・・』



2006年03月10日

アンリ・マティス「差異と現象」−2

『・・アンリ・マティスについて思考すると限りなくイメージが湧いてきます。わたしが哲学者か美学の専門家であるなら、一冊の書物を書きたくなるくらい魅力ある絵画である。それはマティスの絵画に表現されているものではなく、そこにないもの、意識の潜在性が作品を創るイメージの凄さのことです。既に確立されたマティスの美学のことを指しているのではありません。別次元から見た「新しいパラダイム」を意味しています。

すでにどこかの書物で論じられているかも知れません。そのことを語っている書物をわたしはまだ見ていません。マティスがゼザンヌの作品を所有して心のよりどころにしていたように、わたしもマティスの作品を心のなかに留めています。わたしは作品を創らねばならないので、技法にいたる思考が必然性をもって自然との関係を探求して作品化していきたい。物質と時間の変位を見るアートのようなもの。

その延長にあるものが、マティスの時間変位の重要性を作品からわたしなりに発見しました。それはマティスの思考を模写することなのです。キャンバスに塗り残された筆跡の関数と運動量の軌跡を残すその技法。その空間はひとつの論理的構造を導きだします。計算された構成と運動の軌跡は宇宙のカオスから導きだしたマティスの意識現象をわたしは観ています。

そのことをデュシャンはマティスに対して見事な洞察をもって、「意識の化学反応によって作品を完成させる技法」と、確かこのようなことを言っています。それは後期印象派やフォービスム、シュールレアリスムすらのり越えて現代科学の複雑系へと結びつく要素をもっていると感じている。そのことに関しては最後の章で書きます。まずはマティスがいかにカオスからその創造的原理を構築していったか、セザンヌを原典のように大切にしていたか根拠から語ります。何故マティスはシュールレアリスム的方向に決していかなかったか、何故ピカソはその傾向をもっているか、その哲学の違いは作品を見るとよく分かります。その違いを書くことによって「差異と現象」というマティスの本質が明確になります。

このシリーズは7回に渡ってかき進めます。もっとも哲学的になるのは「水浴をする人、1909年」の作品になります。この作品はほとんど解説されていないし、見過ごされている作品です。それだけ見方が難しいということです。他にも何点かあります。あのマティスのもっている装飾的な調和と美しさとはほど遠い作品があります。これこそマティスの哲学の深さを、論理的構造の凄さが潜んでいます。わたしはそこに焦点を合わせ書き進めます。

わたしはこの作品「水浴をする人」をベルグソンから多大な影響をうけ、新しい概念を創りだしたジル・ドゥルーズの哲学をかりて書きます。というのもわたしにとってマティスとは「差異と反復」の画家そのもと感じているからです。マティス自身徹底的にベルグソンの哲学を熟読し、それを生きた形ちとして絵画理論の根幹にしていると感じている。最後は色彩とかたちの同時進行「切りえ」の方法に到達します。身体的な不自由さからその技法に到達したというより、それは必然性があります。

これから書き進める内容は、マティスの評論の対象外にある作品を観てゆこうとおもいます。それは「新しいパラダイム」によって見えてくる世界です。マティス自身その作品につてはあまり語らない。後世にゆだねるというスタンスをとっているように感じます。まずはマティスの素晴らしい作品「音楽」、「ダンス」を別次元から入っていきます。それは”リトルネロ”「カオスとリトルネロ」−3」という概念で語ります。』

 



2006年02月25日

アンリ・マティス「メタモルフォーゼ」−1

アンリ・マティスについて書くとき、わたしはまったく違った次元で語ろうとおもう。フェリクッス・ガタリのいう「美の新しいパラダイム」を考えねばならない。今までもそうであるが、できるだけ美術評論にでていないもの、紋切り型の文は書かないようにしている。わたしが今思考しているアートの作品と関係していることの問いとして書いていこうとおもう。作品を創る過程として思考している。

マティスの絵画が内包している驚くべき世界を記述していこうとおもう。その行為はわたしのなかに内在する無数の記憶へと向い突然変異のように回路が接続され発生する思考の装置として、マティスのカオスがわたしの体内に作動するこを願う。解説とはほど遠くわたしの思考の旅へと向かう宇宙空間の暗黒へ、あのマティスの窓の外へ、闇の向こう側の世界を観なければならない。

『コリウールのフランス窓』を開けた暗黒の世界へと、光りの裏側の世界を視なければならない。マティスはそのカオスを盗み精錬し装飾絵画をつくった。色彩と形態に生命の生きる光りを注ぎ込んだ。マティスはむこう側に行かず地球の上で生物のエランヴィタールを描きとめる。その苦しみと刹那さがたえずマティスの作品のなかに見え隠れしている。まさに「王の悲しみ、1952年」なのです。



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