アンリ・ミショー

2012年04月21日

土方巽-はるかなる視線「ミショーのムーヴマンとは舞踏する線である」−4

はるかなる視線
ミショーのムーヴマンとは舞踏する線である

アンリ・ミショーの絵画は時間的な軌跡を見せる線である。いったいその線は何であるのか、犯すものと犯されるものとの共犯関係の線、時間的な暗号の彼方を描き印されたものの線である。このムーヴマンとは全てのものでもあるし、そうでもないあるもの、空間に対する反応といっておきましょう。生命現象の記録である。はるかなる元素の記憶、そんなものをミショーは記録していた。厳かな歩みがある。大地でありながら、雲の上に乗っている最初の人、後の2人は緩やかな坂を静に歩いている。しかし止まっているようにも見える。これはまさしく土方の舞踏ではないか。「アクリリック1979年の作品 page83」を見るとそんな感じをうける。

頭上近くの雲は方向性を示してはいるが、何処へ往こうとしているのか、大地と雲は共犯者の-無、そしてこの青空は人を操る法則を用意する。描かれたものの、描かれえぬものの圧倒的な力、生と死のドラマ、他者の影がある。消滅に向かうのか、それ自身表現すべきものがないもの、ただ歩いている人。このミショーの絵は土方巽の舞踏を想起する。たしかに一つの卵を脇に抱えて持っている。何処で孵化させるかという問題でもない。ただ持っている。「静かな家」の方へだなというおもい。このためにのみ歩いている。「これは舞踏だなぁー」とわたしは深く感動する。そこには何でも無いものの充溢がある。

空間(景色)がわたしをつくっている。しかしその空間を食べているミショーがいる。消えかかたかたちを増殖する。そのとき言語に痛めつけられたからだの棘がでてくる。透明な針の黒い陰が棘抜き言語となって光りだす。この軌跡の線を見るにつけ、ミショーはいったい何を描こうとしていたのか。彼自身わかって描いているわけではない。そのわからない部分を、自分以外のものと深くかかわること。暗黒のなかから生まれ出るメードザンたち

生と死のドラマを覗いてみても、盗まれるばかりだ。しかし盗まれてもいいんだというおもい、フランシス・ベーコンの盗まれたからだの崩壊、入れ替えのからだがかたちつくる崩れかかった顔貌性とは違い、異型の元素の顔貌性、メードザンたち。居心地悪い黒い透明な傷、棘の痛みを見せる。痛みつけられているなというこのおもいは、からだの発祥の番地を探す。これはミショーの襞というやつだ。かくしてわたしはミショー舞踏の線を見る。

 

参考図書
アンリ・ミショー ひとのかたち
編著:東京国立近代美術館
発行:平凡社 2007年



2008年03月27日

アンリ・ミショー「消えること、現れること」−5

CG12-80Bro_1

アンリミショーF

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 CG12-80Bro_1
「消えること、現れること」

 

・・存在とは消えることと、現れることの線であり
現れるとき、外の線は最小値となり、
内在の平面は最大値となる。
(孤独のなかに折り畳み襞をつくる。)
外の線はそのとき内在の接線をつくることになる。



2008年03月26日

アンリ・ミショー「襞をつくること」−4

CG11-01_4/CG11-01Aa1

ミショーの空間A

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

「ミショーの身体」

そこに身体がない、”みじめな奇跡”とは気化した
身体の襞である。だがどこへ、微粒子の拡散した
痕跡が、”みじめな奇跡”となるのではない。
無限に拡げられた襞がそこに観えたとき、

「さらに無限へと高まらねばならない・・」

という無窮の意志が発生することである。
そのとき同時に孤独も発生する。
この”みじめな奇跡”・・

「それはモナドである。」

「出入り口もなければ窓もない」内部の空間が、
暗い闇から光りを呼び寄せ礼拝堂をつくる。
折り畳まれた襞、世界の秩序が形成される。

この人工的な建物は、人工的ですらなく、
世界圏へ導く非知覚の「内側の空間」で
襞は拡げられ、それが身体を折り畳み襞となる。
そして外の線が内在性の時間をかたちつくる。



2007年07月12日

アンリ・ミショー「フーコーとドゥルーズそして”襞”について、あるいはモナドなど」−3

「襞のなかで生きる」

『・・フーコーはハイデガーよりアンリ・ミショーに近く、場合によってはコクトーにも似ているとおもいます。フーコーは生の問題、呼吸の問題を介してミショーとコクトーに合流するのです。』とドゥルーズは言う。フーコーがどのようにしてミショーから霊感を受けたのか、わたしは知らない。しかも『フーコーにとってミショーは着想の源になりえたのです。』とも語っている。ドゥルーズがどのようなことを指して言っているのか、わたしは理解してはいない。ただミショーが”襞”について語っているところがある。その文面をみると手がかりはある。

CG12-50Yell2

アンリミショーD

 

 

CG12-50Yell2
「ミショーとその影」

 

 

 

 


 

ドゥルーズは”この襞”についてのミショーの考えがフーコーに限りなく接近していると指摘している。もっともドゥルーズの襞に関する考え方は、マラルメに対しても指摘している。『・・襞は、おそらくマラルメにとって最も重要な概念である。』と言い、『”エロディヤード”は、すでに襞の詩なのである。』とさえ言っている。それと同時に『・・”書物”あるいは数多くの頁をもつモナド。こうして"書物”はあらゆる襞を含んでいる・・』という、ドゥルーズの思考は深く考えさせられてしまう。襞とは何か、この深い問いをわたしは語ることができない。けれどもそれを絵画的な問のしかで語ることはできる。それはドゥルーズがライプニッツの哲学を語った”襞”という書物があります。その箇所をとり上げてわたしの画像解説(CG12-50Yell1/CG12-50Yell2)とします。

『・・ライプニッツは”哲学者の信仰告白”においてこう言っている。「光りは闇のまっただ中に亀裂から射すよう漏れてくる。」光りは天窓から、肘型に曲がったあるいは折れた開口部から、鏡を介してやってくるのであり、白は「いくつもの小さな鏡の反射」からなっていることを理解しなければならないのだろうか。もっと厳密にいえば、モナドは亀裂などもたず、光りは「密閉され」、これが理性まで高められるとき、それぞれのモナドのなかにともされ、内部のあらゆるちいさな鏡によって白を生じるのである。

光りは白を作り出すが、また影も生み出すのだ。生み出された白はモナドのなかの明るい部分と溶け合い、暗い地、つまり底(fuscum)にむかって暗くなり、減衰してゆくのである。この暗い底から、「多なかれ少なかれ、よく調節された陰影と色調によって」ものが生じるのである。まるでデザルグの場合のように、遠近法を反転し「眼のかわりに光るものを、物体のかわりに不透明なものを、射影のかわりに陰影を」おくだけで十分だったのだ。ヴェルフリンは、この増大し、減衰し、度合いによって伝播する光りの漸進性から何かを学んだ。それは明るさの(また動きの)相対性、明と暗が不可分なこと、輪郭の消滅であり、ようするにデカルトに対する反駁である。デカルトは光りの物理学と理念の論理学という二重の観点から、ルネサンスの人であり続けたのだ。

明るみはたえず暗がりに潜ってゆく。明暗は、ニ方向に移動することができる一つの系列にしたがってモナドをみたす。一方の端には暗い底があり、他方の端には密閉された光りがある。密閉された光りはそれが灯るときには、限られた地域に白を生み出す。しかし白はしだいに影を帯び、モナドの全体のなかの暗い底にむけて広がってゆくにしたがって、暗さに、徐々に厚くなっていく影に場を譲ってしまう・・』

 

ドゥルーズがフーコーとミショーの関係を語った箇所は「記号と事件」の第珪蓮"フーコーの肖像”で語っています。尚、襞に関してはこれもドゥルーズで「ライプニッツとバロック”襞”」で出版されています。わたしにとって、あのスピノザと同じくらい直感で感じる以外ない、そうおもえる本だ。体感し、リアルな世界と結びつかなければ、ただの言葉の遊びになってしまう。ドゥルーズが何を云っているのか、・・の解釈ではなく、己の身体にたたみ込まれた襞とは何であるのか、諸力の関係を導きだすものでなければならない。それは概念を超え、アートの世界にモロ突入する情動の世界へとむかうものでなければ、だだの学問。たえずポエジーの発生を予感するものでなければならない。

ちなみに画像掲載した絵がどのようなものであるのか、わたし自身必ずしも理解しているわけではなく、ある強度としてやって来る何ものか、そういうものです。それが絵画です。しかし言葉で表現するとドゥルーズが”襞”ということで分析し、あるいは”モナド”について語っていることがそうなのでしょう。その思考は刺激的で、わたしのイメージを刺激する。また「モナドには窓がない」という謎のような言葉も意味が深い。



2007年07月08日

アンリ・ミショー「普遍的アルファベット」−2

CG10-07Oran/CG10-07Gray1

アンリミショーAアンリミショーB

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「普遍的アルファベット」−2

・・身体性の問題は、出来事が精神となり、それが身体観念をかたちつくり、文化の係数として地層化される。その地層がデジタル化されたシミュラークルの世界では、主体化の問題は複雑に絡みあい、何だかさっぱり解らない。コピーするという行為がオリジナルなのか、オリジナルがコピーなのか区別さえできない。こんな空虚な身体でできあがった精神が、本質はどこにといっても、明晰な思考の持主で無い限り主体化の本質など解らない。いつそのことそれ自体をアートにした方がはるかに世界を表現できる。表層の世界を徹底することである。

このウォーホル的世界は、アンリ・ミショーの深層の世界とは逆である。しかし深いところでは、その根源は同一のところからやって来る。ウォーホルを評価するには、ミショーの世界を感じていなければならず、ミショーの世界を評価するにはウォーホルの世界を理解していなければならない。この表層と深層の襞は、ライプニッツの世界へと接続されてゆくイメージに、わたしを導く。

・・このような時代に、ミショーは身体的な変位を、その変化率を描き記録する。思考の秩序を、運動の方程式を発見するのではなく、自らの身体を運動させ、そのものへと行為する。この行為はすでに歩いている。より早く、より遅く。あるいは消えること。それらを放置し、この無能力を呼吸しているミショーは、何処にいるのか、探しても無駄である。運動していること。無限機械である神経細胞のモナドへ、シナプスの無限の接続、この様態をミショーは描く。

・・そこに畳こまれた襞の拡張された軌跡を見せるミショーの絵は、いったいどこから来たのかと、問うてはいけない。死を微分してはいけない。分子状のあのカオスへと身体を微粒子化する行為は自殺を意味する。それゆえただ放置すること。秩序と混沌は同一平面上にあることを身体に感じるだけでよい。それはムーヴマン(運動)という行為が神の呼吸であることに気づく。それは出現と消滅の運動に身体が参加すること。

CG10-07Oran/CG10-07Gray1
前回掲載した画像は(CG09-02Black1c)ダイアグラム的な図表でアンリ・ミショーのポートレートを制作した。わたしには表面的な世界の方があっている。内在性を追究するにはあまりに多くのものが在り過ぎる。堆積された地層を掘り返しても、どれが本質か分からない。思考それ自体がすでに分離して表象の世界にどっぷり浸かっている。しかも何を表象しているのかそれが見つからない。ただ情動だけが何かを感じ、わたしを突き動かしている。そこでこんどは前回の平面プランに色彩をいれ感情を作用させよとおもった。それにはシンプルな平面的な絵画がよい。表面的ものを追究すれば、するほど反転された身体が出始める。鏡の国のアリスということか。



2007年07月06日

アンリ・ミショー「普遍的アルファベット」−1

CG09-02Black1c

アンリミショーC

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「普遍的アルファベット」−1

・・それについては語ることができない。ミショーは何も語ってはいない。動きが語り、出はじめる。不定形なフォルムと線。頼りない何かが見えるのだが、確かではない。探そうとしているよりは、歩いている。身振り、いったい何の。こんなふうに虚無の影と不定形が交じり合って、確かにざわついている顔が何かに反応している。ムーブマン、生きていること。星々の遺伝子の影に覗いてる眼差し、黒い影と揺らぎを贈る風・・*立っている6人の人たちはそれについて何も知らない。

CG09-02Black1c
わたしは『カール・フリンカーの「ミショーとその影」、1959年』の写真を観て感動しました。素晴らしいミショーのポートレートである。わたしはこの被写体から深いインスピレーションをうけ、アンリ・ミショーのもっているカオスを記号的なフラットな「言語の絵画」をつくろうとおもった。わたしはミショーに接近し、別な方法で、絵画的なその内在平面の影を描きたかった。そのことによって少しでもミショーの感覚を、その彼方をわたしは感じたい。詩的であると同時に絵画的もある不思議な神秘を。

それは絵を思考している行為が詩の言葉であったり、詩を思考している行為が絵を描いたりしている。この相互の浸透力の魅力にわたしは惹きつけられた。鑑賞しているだけでは、その良さは伝わってこないとおもい、ミショーのポートレートを描いてみた。描いてみると、何かが伝わってくる。それは何であるか分からないけれども、わたしはもの凄く感動した。多分手から伝わる、あのミショーの運動なのだろう。この不可視の構造を垣間見せてくれた、ミショーのポートレートに感謝しなければならない。

*立っている6人の人たちとは、ミショーが描いた
「油彩、huile 1982-83」人物像のこと。



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