ジョルジュ・バタイユ

2011年09月09日

ジョルジュ・バタイユ「”ドキュマン”誘惑は個体化のエネルギー変化である」

GI07-01B2
GI07-02B

誘惑B

 

 

GI07-01B2
闇夜の誘惑

 

 

 

 

誘惑A

 

 

GI07-02B
闇夜の誘惑
「光を当てれば・・」

 

 

 

 

闇夜の誘惑

腐りかかった肉をわたしは砂利の上に捨てた
少し光を当てると、無数の虫が集ってきた

ジョルジュ・バタイユ:著「ドキュマン」この風変わりで奇怪な書物をどのように読んでいいのか、解釈にとまどうわたしがいる。しかしある感覚が喚起されくるのである。それは第13図の「足の親指」の拡大図である。一瞬、見てはならないものを見たという感じであった。なぜこれが卑猥に感じたのか、言葉がでてこない。それは第1図から第32図まであるのだが、この写真がわたしに一番インパクトを与えた。第31図は「蝿取紙と蝿」の写真であった。あれほど嫌われていた蝿が、情けない姿で無残に蝿取紙に捕らえられたものであった。第32図は「教会内に埋葬された修道士たちの骨で飾られた納骨堂」である。この第31図と第32図との連関をバタイユは述べている。しかしそれを読んだとしても理解できるというわけでもない。寧ろ直感的に身体の器官が作用しはじめる。この何ともいえない感覚、その感覚こそバタイユが求めてた”extase"ではないのか。ex-外へと出ること。自己を消滅させることによる一体化、自由な交感、・・を創出すること。

 

「ドキュマン」著:ジョルジュ・バタイユ
(訳:片山正樹、 ニ見書房)参照

わたしは「第13図、31図、32図」を見てあるイメージが湧き、それを表してみようとおもった。それは砂利の上に腐った4つの肉片を置き、そこに群がる虫を想像し描いた。写真の作品であはるが、死んだ動物の肉片と生きた虫の対比を考えついた。上図(GI07-02B)では暗い状態を、それも何かを待ち受けるような誘惑を、下図(GI07-02B)では少し光が当るような状態をつくった。わたしはジョルジュ・バタイユの書物を読むと、視覚的なある状態が想起されてくる。この高揚感は、わたしを刺激させてくれる。何点か描いてるので「カテゴリ」からバタイユを選んで観ることをお奨めする。



2010年02月18日

バタイユ「死を前にしての歓喜の実践」そのデッサン−7

AJ1401M

光りは光源からA

 

 

AJ1401M
「バタイユの方へ」

 

 

 

 

 

死を前にしての歓喜の実践
          
        1.
消滅の状態へ到達するまで私は静謐に身を委ねる。
河が海に、星の輝きが夜空に消え去るように争いの
ひびきは死のなかへ消え去る。

戦いのちからは一切の行動が静まることによって
完遂される。暗い未知なるもののなかへ踏み込むような
かたちで私は静謐のなかに入る。

その暗い未知なるもののなかに私は落ち込む。
その暗い未知なるものに私自身が変わる。

        2.
私は死を前にしての歓喜である。

死を前にしての歓喜が私を運び去る。
死を前にしての歓喜が私を突き墜す。
死を前にしての歓喜が私を消滅させる。

私はその消滅のうちに留まる、するとそれから先は
複雑な絶え間ない断末魔のかたちで表明される諸々の
ちからが集まった一つの作用のように森羅万象は私の
脳裡に映じる。

こうして私は理解できない底なしの空間のなかへ徐々に
のめり込む。

私は諸世界の底に達する
私は死に蝕まれる
私は熱に蝕まれる
私は暗い空間のなかに吸い込まれる
死を前にしての歓喜のなかで無に帰し。

 

ジョルジュ・バタイユ
「死を前にしての歓喜の実践」
訳:生田耕作/発行:奢灞都館


上記の文は『アセファル』誌、1939年バタイユ著作、生田耕作訳の1、2を引用したものです。わたしのデッサンでは「アセファル」とは逆で、頭と胴はあるが下半身を描写せず暗示に留めた。この(「バタイユの方へ)は、最初に(’05・12・29)わたしのスケッチ(AJ1401M)を掲載したものです。わたしの思考を述べたりもしていましたが、’10・02・17付けですべて削除した。言葉が沈黙に、無に到達する喚起力がなければ、ただのバタイユ論。わたしは書くことを放棄。それより直接詩を、「死を前にしての歓喜の実践」を名訳されている生田耕作氏の訳文を掲載しておきます。参照してください。わたしのデッサンがバタイユのイメージなのですから。

以後これをもとに、バタイユに喚起され様々なバリエーションで描いています。バタイユを思考すると、どうしても「からだ」の問題が強烈に自然発生的にでてきます。それと同時にヘーゲル的な思考が「からだ」を痛めつけます。それは神経症をわずらうほど強烈です。たんなる考察ではとうてい到達し得ない、神秘的な実体というようなものが現れてきます。それまでのロゴスの帝王が瓦解してきます。そのときに、いったい何が起きているのか。その問いがわたしのデッサン(AJ1401M)です。ようするに各自が「無神学大全=内的体験」のような宗教的なエクスタシーを体感する以外にないということです。わたしのデッサンをカテゴリに「バタイユ」を設けましたので、そちらを参照して下さい。バタイユに関しては機会がありましたら別のかたちで表現しようとおもう。



2008年12月12日

バタイユ「無神学大全”有罪者” 恍惚の点」−6

ED05-30wh5

恍惚の点

 

 


ED05-30wh5
恍惚の点

 

 

 

 

 

 

 

 

恍惚の点・・・

『未完了、傷口、これは交感に必要な苦痛だ。
完了は交感の反対物である。

交感はひとつの欠損を、「断層」を要求する。
それは死とおなじく、鎧の欠損部から入ってくる。
交感は、私自身のなかで、また他者の中で、
ふたつの裂け目が符号することを要求する。』

 

 

無神学大全”有罪者”:G・バタイユ
山口裕弘訳(”虎鮃の点”より参照)
現代思潮新社

上記の文はバタイユの「無神学大全”有罪者”」の(検」鮃の点)から抜粋したものである。わたしは血がエロティシズムとどのような関係にあるのかは分からない。なぜ血が死とエロス、そして聖なるものを喚起させるのか、しかも有機的でありながらあの無機的な非ー存在を・・その彼方を想起させるのも神秘的である。神の血という無限の微粒子をもっている宇宙の顕現化を想起させるのだ。それと同時に残酷さの印しでもある。慈悲と残酷、この両者の結合がバタイユのいう供犠のことなのか。

この画像(ED05-30wh5)のタイトルは「恍惚の点」とした。バタイユの無神学大全”有罪者”の(検」鮃の点)よりとったものである。バタイユはわたしにとって限りなくイメージが湧いてくる偉大な芸術家なのである。4点ほど描いてる。



2008年02月21日

バタイユ「内的体験ー"希望の星"or”死にゆく自我”」ー5

DB17-01Gre

無限の囁き

 

 

DB17-01Gre
希望の星「死にゆく自我」
or「横たわる男」、ドローイング
(GreenにBlack-ink)

 

 

 

 

 

 


・・何を希望しているのか分らずに、
希望している。遅延された時間と現存在
偶然性は破棄されて
「死にゆく自我」を待ち受けている。
こうしてわたしはバタイユの熱狂とは反対に静謐な
空間に身を委ねる。あのジョージ・トゥーカーの描く、
仮死状態となった身体を眺める。


交換可能な身体に住んでいると、
神経の秤が透明性を帯びた無時間の墓を探り当てる。
この無能力の極致が圧力を作動させ、
思考の往復運動が始まる。バタイユはこの
人間機械を停止させ、それ自体のなかへ
『死を前にしての歓喜の実践』を・・
非ー知の彼方を望む恍惚。

こうして、『恍惚が生れるのは、この悲劇的な、
人工的な世界においてである。』といったバタイユの言葉は、
精神と身体の苦痛なしには起こりえない。
この人工的という意味がすべてだ。

この「死にゆく自我」の解体を悲痛な
人工的な叫びでポエジーをつくる。
バタイユ

わたしは虚体の言語で応える
「もはやそもには無い」と。
アリスの落下を捉え、反転させ、
アルトーとアリスの複素数をつくる。



2008年02月16日

バタイユ「消尽したもの "ウォーホル的に・・”」−4

DB16-10Blu_EL/DB16-10Blu_EL1

GバタイユAGバタイユB

 

 

 

 

 

 

 

 

G・バタイユ
(鉛筆スケッチに色彩)

 

・・無意味というなら、わたしはウォーホルを想起する。彼は現代のシャーマンだったし、何しろあのエンパイアステートビルを無意味に8時間もカメラを固定して撮りつづけのだから。コンセプショナルなアート何かではない。消尽すること、ただそれだけ。これこそ「器官なき身体」だ。このアルトーの後ろにウォーホルがいる。

彼は生きているときでも死んでいたし、死んだあとも生きている。蒸発した作品はそこには無い、という表面をつくる。およそ言語の構造によく似ている。気化された表層は、言語の連鎖のなかで深層の身体を変形さ、言語の身体化をつくる。だから、落下したアリスをつくらねばならない。<身体の変位量を計測する物語をつくりださねばならない。>と、ドジソンがいっているのですよ。

この変位量を供犠の形式として、言語の中に溶け込ますこと。表層の中の表層を、言語の連鎖反応を身体の奥深くへと・・バタイユの虚数をつくりだすこと。こんな妄想をしたくなる。バタイユにのめり込めば、のめり込む程、その無意味な力が無重力化してくる。言語の虚体が頭角を現す。



2008年02月02日

バタイユ「無神学大全”有罪者” 消尽したもの」−3

DB02-50_3

67950

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

TITLE:「67950」or「消尽したもの

 

雷の不在
涙を流す水また水の永遠のひろがり
そしてわたしは哄笑する蝿
そしてわたしは切られた手首

わたしはシーツを濡らしてばかり
そしてわたしは過去だった
盲いの死んだ星であった

黄色の犬
奴はそこにいる
恐怖
卵みたいに吼えながら
手の不在の中に
おのれの心臓を吐きながら
わたしは泣き叫ぶ

天に向かってわたしは泣き叫ぶ
泣き叫んでいるのはわたしじゃないと
この引き裂く電撃の中で
死んでゆくのはわたしじゃない
それは星をちりばめた空だ
星をちりばめた空は泣き叫ぶ
星をちりばめた空は涙を流す

わたしは眠くてたまらない
そして世界はおのれを忘れる
わたしを太陽の中に埋葬しろ
わたしの愛を埋葬しろ
裸のままで 太陽の中にだ
わたしの接吻を埋葬しろ
それにわたしの白い涎もだ

 

無神学大全”有罪者”:G・バタイユ
出口裕弘訳:(上記詩篇は、笑いの聖性、鍵媚屐忙仮
発行所:現代思潮新社

 

今回でこの無神学大全、「有罪者」で全三冊を、わたしの感じたことを描いた。決して語ることはできない。「ニーチェについて」、「内的体験」から、最後に時間的な流れを考慮して、「有罪者」で天体の思考へと接続され、その矢が放たれたのだ。バタイユの書物が、無意味なものへ向かわす狂気を秘めている。それが素晴らしいのかは、わたしには判断できない。既知を超えた、非認識からやって来る判断不可能な地平へと追いやる。

即ち、接近することが、危険な思考を余儀なくされる生贄的な、己へと向かう刃物であることは確かである。その志向性がポエジーとなり、問いの真っ只中で、太陽に接近し過ぎて墜落するイカロスを想起する。わたしはそいうバタイユの思考を、帰還できない思考を、<その狂気には近づかない方がいい。>という理性の言葉を超え、それを黙らせるところからやって来る。それにしても既知的なものの集積では到底接近できないある一瞬があるのだ。わたしはそれをバタイユやアルトー的な深層ではなく、ウォーホル的表層の世界で感じるのだ。この平面は2重の世界をもつひとつの複素平面であるようにおもわれる。

・・このバタイユという毒を飲みこむことなしに、どうやって交感できるのか。わたしはそれを拒否するというよりは、別のルートを、言語の連続性の表層のなかで到達できない地層をわたしは歩く。より深層へと接近するのではなく、より表層へと渡り歩く、付着不可能なものへと向かう。そういう反転されたカオスも虚無に到達するあの宇宙があるのだ。焼尽する対象が不在の「非ー自然」の迷宮を求める。平行線は交わる。・・の先は同一の線へと合流する。

DB02-50_3:画像掲載は(バタイユ「無神学大全”ニーチェについて”」−1、「無神学大全”内的体験”」−2)に掲載した続きとして「無神学大全”有罪者”」−3を描いた。このー1、ー2、ー3でひとつの絵として描き、時間的な流れをもつよう作制した。



2008年01月30日

バタイユ「無神学大全”内的体験” 過剰なもの」−2

DA21-01_1/DA21-01

死を前にしての歓喜C死を前にしての歓喜D

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「*イト高キニオイテ我に栄光アレ

天の一番の高みで、
天使たちがわたしたちの栄光をたたえる。
その声がわたしに聞こえる。
太陽のもと、わたしは一匹のさまよえる蟻、
小さな黒い蟻。石がひとつころがってきて、
わたしに当り、
わたしを押しつぶす。

わたしは死ぬ。
天空に
太陽は狂い輝き、
眼を灼きつぶす。
わたしは叫ぶ、
「太陽はまさか断行すまい」と。
太陽は断行する。

わたしとは誰か
「わたし」ではない ちがうちがう
だが砂漠 夜 無辺際
わたしとは何か
それは何
砂漠 無辺際 夜 獣
そして何も知らずに
「死」 太陽の夢のしたたる海綿
わたしを深く沈めよ
どうかわたしがもはや
この涙しかし知ることのないように

わたしは星だ
おお 死
雷電の星
わたしの死を告げる狂った鐘

雄々しくない
かずかずの詩篇
だが優しさ
至楽の耳
牝羊の声が泣きたてる
その向こうまでゆけその向うまで
消えた松明


勝ちっぱなしの賭け
わたしは死ぬ君は死ぬ
彼はどこ
笑いもせず
わたしは死んだ
墨をながしたような夜の中
彼に向って
放たれた矢

 

無神学大全”内的体験”:G・バタイユ
出口裕弘訳:(第5部、イト高キニオイテ我に栄光アレ、神)
<発行所:現代思潮社>参照
*ミサで歌われる賛歌(イト高キニオイテに栄光アレ)
をもじったもの。

 

前回わたしは、無神学大全”ニーチェについて”を書いた。というよりも、言葉で表現できないので描いた。この書物の生贄のような恐怖を味わい、わたしの高揚する感情を視覚的に投影して描いたのだ・・その身体を供犠として--のように置き去りにした。死体遺棄の犯罪者としてわたしは交感する内的体験。それはバタイユの”罪とは供犠だ”また”交感は罪だ”ということを体験する恐怖。その不安神経症・・死への過剰な防衛としての病。彼方へとゆかねばならない精神の未完了の病・・

わたしはそれでも希望はある。わたしには確信があるのだ。あのムンクの絵を観て遠い遠いことろからやって来る光りがあるのだ。キャンバスに描かれた数々の傷あとの背後に、見えない光が微かにある。太陽の光りは神の影であることを、バタイユは見抜いているはずだ。眼球をナイフで突き刺し、太陽の煌めを隠す内在性の光りがあるのだ。やがて暗黒星雲の無辺際の空間と化する。消尽するもの・・・ついには星々の微粒子、ガス状星雲の暗黒の彼方へと溶け込む身体こそ、それは「放たれた矢・・」だ。

DA21-01_1/DA21-01:この画像は前回掲載した画像の続きで、身体を内部燃焼させ、消尽する背後のエネルギーを暗示する。暗黒の空間はその目撃者・・



2008年01月22日

バタイユ「無神学大全”ニーチェについて” 過剰なもの」−1

DA21-03_1/DA21-03_1a

死を前にしての歓喜A死を前にしての歓喜B

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Time out of joints

 

そして私は呼ぶ
継ぎ目からはずれて
これは何だ
もう希望はない

私の心の中には
死んだような二十日鼠が一匹隠れている

二十日鼠は死につつある

鼠はおいつめられているのだ

そしてわたしの手の中では世界が死んでいる
古びた蝋燭が吹き消される
私が床に着く前に

病 世界の死
私は病だ
私は世界の死だ。

心の中には静けさ
突然の強風を受ける私のこめかみは
死のため激しく脈打って 世界へ攻めゆく合図を打ち鳴らす
すると星が黒くなって落ちてくる
私の立ちつくした骸骨の中へ

黒い
静けさ 私は攻め入ってゆく
黒い空へ 私の口は
黒い筆
壁に
黒い炎で書き綴る
墓穴のむなしい風が
私の頭の中でうなりを立てて吹いている

足音の途方もない静けさ
しゃっくりの静けさ
地面はどこのあるんだ 空はどこなんだ

そうして空が惑乱し
私は狂い出す

私は世界を惑乱させる 私は死につつあるのだ
私は世界を忘れ 世界を埋葬する
私の骨の墓穴の中へ

ああ不在者の しゃれこうべの
私の目

希望
ああ私の木馬よ
暗闇の中の巨人よ
一頭の木馬にまたがった
あの巨人
あれは私なのだ。

夜空
私の妹
呪われた者たち
星よ おまえは死だ
冷えきった光だ

雷の孤独
ついには人間の不在
私は記憶がなくなる
荒涼とした太陽が
名前を消す

星 私は星を見る
その静けさがこごえあがらせ
狼のような叫びをあげる
私は仰向けに地面に倒れる
星は私を殺し 私は星を見抜く。

ああ賽は投げられえた
墓穴の底から
妙なる夜の指の中へ

太陽の鳥たちの賽
酔った雲雀の跳躍
夜のなかから放たれた
矢のような私

ああ骨たちの透明さ
太陽に酔いしれる私の心は
夜の旗竿。

 

無神学大全/ニーチェについて:G・バタイユ
訳:酒井健(第三部日記よりその詩篇 )参照
発行所:現代思潮新社

 

わたしはバタイユの書物を無防備に読む。思考の無能力を身体の笑いで喜悦するわたしの過剰な反応を観る死。おもえば、あの死の不安神経症に陥った出来事を、喜ばしい出来事として今では死体のなかで飼いならされた生を見る。ぶんぶん飛び回る理性の気体を記述する哲学者たちの書物から離れ、このバタイユの残した「生贄の書物」をわたしは交感する。失速しそうになるわたしの心を支えてくれたのは癒しではなく、身体の傷跡を観る狂気に似た理性の背後に、あの過剰があるのだ。この見えない存在にわたしは啓示され、生かされているという何とも云えない死の力(フォース)に霊感を受けたのだ。癒しは分散させるだけで決して能動的ではない。

画像掲載(DA21-03_1/DA21-03_1a)は「死を前にしての歓喜の実践」に喚起され、わたしが黒インクでデッサンしたものであるが、今回バタイユの「無神学大全、第三部日記」よりその詩篇のためにあらためて描き直したもの。不安、恐怖はみな虚無からやってくる贈り物として、生の供犠として考えると、すべてがあの過剰なものへ、消尽する身体、天体の運動に参加する星座へと向かう。



Recent Entries
「最新トラックバック」は提供を終了しました。