現代アート

2017年01月28日

SPANNER-235「その部分はすべてのものが含まれている」

MA-18/SPANNER-235

磁場235






























「部分と全体 / 切り取られた断片」





2016年11月13日

二つの要素と反復「奇妙な記号として差異生成してくる」

PHLK-18


カマキリA2


































記号(カマキリ)の記号(カマキリの影)を見る。
この二つの要素と反復。カマキリを見ているのか
カマキリの影を見ているのか、それは分からない。
反復は奇妙な記号として差異生成してくる。

着地点が不在である。しかしそれが強度として
立ち顕れてくる。統一されたある感覚が生成してくる。
これをシュルレアリスムという。

サルバドール・ダリは:
最もリアルなものこそシュールであるという。
この意味において写真は常にシュールである
その要素を持っている。





2015年12月25日

都市考学「隠された者たち」

TKL-25:隠された者たち

隠された者たち


































「隠された者たち」

そこに在る「者たち」は
すでに隠された声
球体のまま沈黙。

地球の影を模倣する
人類の道は遠近法の
思考で躓く。

それは始まりと終わりのない
円環運動のエナジーを
White Lineで標す





2014年12月23日

分部と全体「無数の外部世界を表象する」

JK-06B2

JK-06B2
















                                                               




  分部と全体

  分部とは何か、
見える「もの」と見えない「もの」

  全体とは何か、

・・の間に起こるもの
「かたちつくられるもの」と、
「かたちつくるもの」

空間と時間は関係性の
秩序として現れる。

知覚の作用によって
無数の外部世界を表象する。

そこに留まることなく無限な移行、
すなわち時空の生成として
表現される現在、

それは過去を含むもの、
未来を孕むものの現在である。



2014年10月11日

追憶「その時間は天体と繋がっている」


デュシャンといえば「大ガラス 1915-1923年」と「遺作 1946-1966年」です。この2つの作品、特に遺作は20年もの長い間かけてつくっていた。こういう生き方もかなり魅力的だ。デュシャンのいう生活習慣病からうまく逃れ、空気のような生活をしていた。描くことの時間より思考することの時間を詩人的な方法で作品をつくっていた。「グリーン・ボックス」や「ホワイト・ボックス」の詩的なメモは作品行為と等価であった。見えないものの向こう側を詩的言語でメモしていた。

画家はなぜ病的な絵ばかり描くのか。これはなかなか難しい問題です。ヴァン・ゴッホはどのように考えていたのだろうか。あるいは詩人はどのように社会と対応して生きてきたのか。ボードレール、ランボー、マラルメなど。その時代の空気と反応し、生きた神話をつくろうとその運命に身を任せ、この宿命に生きた人々であった。前人未到のドアを開けてしまい、もう二度と帰ってこない。ニジンスキーの舞踏「牧神の午後」など、神話の世界に踏み込み、わたし達には到達することの出来ない世界を見せてくれる。



JI-30-追憶の扉



























JI-30 / The Door


この未知の扉を勇気をもって開け「独身者の機械」に参加する。あるいはトリスタン・ツァラの空のポケットをもって宇宙の法則に身体を委ねる。言語の光学をもって無秩序の帝王に反逆するロートレ・アモンのように。真夜中のドラマに、『母の禁止にもかかわらず墓にあそびに行く』イジュチュール、この扉の向こう側へと自らの手で開け進む。神の姿を多少とも、ちらっと見ることが出来るかも知れない。盲目となったとしても本望であるという勇気をもって行為する。それは神に選ばれたひとであろう。

あるいは晩年のクロソウスキーのように絵と戯れるのもひとつの方法かもしれない。マティスの「コリウールのフランス窓」は暗闇ではあるが、見えない光りがある。カオスに「からだ」は抗うことは出来ないけれども、この闇黒のなかにこそ星の誕生があり、消滅もあり、ドラマがある。わたし達の「からだ」も1秒たりともそこに留まってはいない。しかし懐かしい思いでは「からだ」が憶えている。その時間は天体と繋がっている。ドアを開けるのは、たった独りだけれども、見えないところで光っている星々と交信している。


2014年10月08日

Dante's Divine Comedy「神曲 ダンテ(挿絵ギュスターヴ・ドレの魅力)」

神曲 ダンテ」の挿絵を描いたギュスターヴ・ドレは魅力的である。神話を思考するのにドレの挿絵を見て描いて体感する。ドレダンテの思考をシンクロすればとおもい、わたしはこの本(訳:谷口江里也)を購入した。この名作を読む楽しみと、挿絵をみる両方の楽しみがあり、ドレの挿絵は木口木版でその技法に驚く。色はモノクロトーンなので、どうしても夜の感じか、明け方の印象をもってしまう。あるいは白が多い場合は真昼の感じがしてしまう。それでもイメージが広がるので、かえってモノクロの良さがよく出ている。わたしはギュスターヴ・ドレの挿絵に色をつけ、見えない光りの効果を出してみようと、色の素材としてパステルを選び描いた。水彩はいったん色を置くと、修正が出来ない難しさがある。透明水彩は特に重ねた色の効果を技法として駆使し、美しさを最大限にひきだす。あのギュスターヴ・モローの水彩のテクニックには感嘆する。実に美しい。ターナーの水彩画も素晴らしい。わたしはそのようなテクニックがないので、今回は断念した。テクニックとは才能のことです。


JJ-06A_神曲-地獄篇




































絵のスケッチは、ドレの「かたち」をそのまま模写するのではなく、アレンジして背景もより抽象化し、装飾的に描いた。ドレの別々の挿絵を二つの部に分け、上部は空間的に山岳の風景を、パオロフランチェスカの愛を永遠に、パオロフランチェスカの後ろから優しく抱き、フランチェスカはそれに応えるように彼の首に手を沿わせる。そして彼の眼をじっと見つめている。むしろダンテベアトリーチェの再会のように。

神曲ではフランチェスカ夫ジェンチオットに二人は胸を刺され殺されてしまう。『パオロとフランチェスカ、風に飛ばされていつまも、互いの愛に身を委ね、遂には死を招いた二人、吹きよせられる辺境(はて)も無く、だだ吹き飛ばされて、 風の中』とう内容です。互いに愛し合う故に悲劇となってしまう。ドレの挿絵は厳しい様相で描かれている。それとは違って、わたしは二人の穏やかな様相を描いた。ウィルギリウスは若くしてこの世を去ったベアトリーチェに頼まれ、ダンテを地獄、煉獄まで、迷わぬよう導く。ベアトリーチェとは「愛と美の女神」であでり、それを推めた至上の愛「母なるマリア」であり、「光りの聖女ルチア」である。 

                      

JJ-05A_神曲-地獄篇
































上部の絵は全体図の部分詳細です。明るい山岳の岩をオレンジ色に、遠景は少しブルーがかった空気遠近法で描き、左のグリーン、オレンジ、赤の色のアーチ型の帯は大地と空の雲を結ぶ象徴として描いた。このラインに多くの人物像を描くために下絵としてスケッチした。天まで上昇する人々と下降する人々の、天国から地獄への相反する様相を描き、動的な流動するものとして下絵としてスケッチしたが、いずれも旨くいかない。ウイリアム・ブレイクやドレの絵が浮かび、とてもわたしの技法不足では表現できなかった。それで抽象的で幾何学的な人物像を想定したが、構想スケッチで断念した。その構想は固定したものでありながら、イメージのなかで運動するものとして。しかし全体のバランスがとれず失敗作です。部分図も単調すぎた。しかし色彩の柔らかさはでているのでよしとする。

さて下部の部分詳細ですが、ドレの挿絵では争っている人々が沢山描かれています。この挿絵では特に各闘争している人物像は、相互の関係性は無関係に描かれている。ドレは争うパーツを個別にデッサンし、それをもとに配置したとおもわれる。この構成方法はニコラ・プッサンも個別に人物像を研究し、総合的に配置する。二重分節的構成法である。この方法も後のジョルジュ・スーラも個別に人物像のステュエーションを研究し、配置してる。一見相互に無関係のように見えて、冷たく感じるが、そのことによって全体像はイメージへと結びつき、知的な構造をもった絵画となる。「アニエールの水浴」や「グランド・ジャット島の午後の日曜日」など見事な配置構成となっている。

デュシャンスーラを高く評価している理由は、この知的な構造と神秘的な宇宙像である。さてわたしはこのドレの闘争している多くの人物像から画面中央の部分を抽出し、上部の絵と同様顔の表情は描かず、暗示にとどめた。背景は多くの人物像を描くのではなく、波のうねりを抽象化し描いた。ドレの挿絵は岩々で厳しい山岳風景である。この絵では5人を古典的な色彩調で描いた。ドレの挿絵をそのまま模写するのではなく、「」をつけ「かたち」を変え、無限という意味を「人間のかたち」を通してみることでっあった。これは古典的な見方で近代絵画以前の概念である。ようするに神という思考を通して観念的に見ることです。現代アートが観念的に見る行為とはとしてではなく、新たな観念を構築する。その概念を再構築したのが「デュシャン」ではないかと、新たな観念をつくった。その前にダダシュルレアリスムがありますが、これは20世紀の新たな神話です。観念の最高峰としては科学的な思考をもつレオナルド・ダ・ヴィンチです。「最後の晩餐」もいいですが、特に「聖アンナと聖母子」、「モナ・リザ」は最高です。永遠、無限という神秘があります。神の設計図のようで神話的です。

翻って現代アートを見ますと、この神話という部分が抜けてしまうと、たんなる言表行為諸記号に従属し、領土化された「身体-意識」のグロテスクインスタレーションとなってしまう。社会諸機械身体的諸記号と化した亡霊のような身体になってしまう。石田徹也のアートはその意味で非常に厳しい作品です。しかし彼は『聖者のような芸術家になりたい』と言っていた。これは神話を創りたいという意味にわたしは捉えます。現代アートは「パロディー」、「ユーモア」、消費経済係数の感覚化としての「フィギュア」、「ゆるキャラ」これ以外のアートをつくろうとすると難しい。諸記号に従属した擬似的身体化(シミュラークル)快楽を味わうゆとりを失うと、身体は乗っ取られる。あの「飛べなくなった人 1996年」、拘束された悲しみを見ると非常に厳しい時代だなと、おもいます。その意味でわたしはずいぶん昔に描いたこの絵を見て、神話とは何かということを再確認したい。そのために当時描いたこの絵の思考プロセスを忘れないうちに書きとめた。

補遺:
現代アート
経済身体-意識を深く思考する
社会諸機構のシステムを擬似的に装置としてつくりインスタレーションする。しかし経済至上主義資本主義のグローバル化のなかで作品をつくる行為は、そのシステムからブレイクスルーするはそうとうしんどいでしょう。むしろその帝国に応える。上述したように「パロディー」、「ユーモア」、「フィギュア」、「ゆるキャラ」で欲望する諸機械のシミュラークルをつくる。「ふなっしー」などは現代アートとしてわたしは見ている。消費経済と感覚を等価に見るその思考は、資本主義機械の諸記号に従属した身体化ともいえる。経済と現代アートの関係はいずれ論じたいとおもう。



2014年09月06日

人体の夜「社会諸機械と無意識の地層」

JG23-01/オスプレイ
オスプレイ(Osprey)とはタカ科の猛禽類(ミサゴ)、日本では絶滅危惧に指定されている。

オスプレイ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ドゥルーズ/ガタリ "千のプラトー”」から、
抽象機械と図表、二重分節、ミクロ政治、モル状、分子状、
ブラックホール、ファシズムと全体性、専制的なシニフィアン的体制、
器官なき身体、脱領土化、戦争機械、捕獲装置、国家など・・で、

 



2014年08月29日

人体の夜「The Wall」

JH-04


The Wall

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

























 

 

 



2014年08月28日

等価交換「拘束アートとしての原理」

JH-02/サーカス

等価交換orサーカス

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

サーカスとは:

内的拘束と外的拘束の鬩ぎあいである。



2014年06月07日

13個の石「名の無いもの/シニフィアンの純粋運動を探している」−1

FJ-04

13個の石

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

名の無いもの達

「もの」を見ているとき、無名でありながら何か分節化されたもの(言葉)が意味形成してくる。言語の地層というものがある。わたしは石に触れている。「石の大きさ」と「文字の大きさ」を、その比率を考え記入している。文字色も石の明暗に合わせ、それぞれ変えている。どのアルファベットにするか石の形状に従う。わたしの意識は文字と石に促される。どの文字にするか、そのサイズを決めているのはわたしであるが、決定している境界はわからない。

視覚的に思考し、アルファベットの配列で言葉の意味作用を持たしてはいない。一段目は:TLM2段目:YKC、3:段目IFB4段目:KNHVである。しかし世界の国のなかでは、この単語の意味に該当するところがあるかも知れない。わたしにとっては意味を持たない。とはいえ、このアルファベットの(TLMYKCIFBKNHV)はわたしにとってはあるシニフィアンとしてのイメージはある。しかしシニフィエをもたない。イメージはあるが、意味を持たない。意味を持たないイメージがあるのか。

それはいったい何であるのか

石に触れる 石の配列 石の大きさ 
文字の大きさ どのアルファベットがその石に
合うのか、文字色の明度は・・

わたしの意識はどのようにそれを決定しているのか知ることはできない。境界をもたないまま行為している。何を分節化しているのか不明である。しかも意志決定し、行為している。シニフィエをもたないものを、わたしはシニフィアンの純粋運動を探している。13個の石に促されて・・

 



2014年05月20日

名の無いもの

JE-19/Untitled

Untitled

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

名の無いもの わたしはそれを 探すために 黙る
沈黙は多くの言葉を用意する。言葉は無音の音符を
秩序ある音楽に変える。それをわたしは詩という。



2014年05月01日

痕跡「永遠に現前することの無いもの」

HB10-5B-1/痕跡

痕跡

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

痕跡

現前することのない、その痕跡でしかないとしたら、
わたし達は、いったい何を見ているのだろうか。



2014年04月23日

何処でもない非-存在から

JD-03/場所

場所_X

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

場所とは:

現れるということは、連続であるのか
非連続であるのか、わたしにはわからない、
ひとつの悲哀がある。
場所とはそういう感じがする。

 



2014年01月08日

ウィトゲンシュタインのこと

IE24-05 / Untitled

IE24-05Untitled

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

記号として:
『われわれは、自分たちの眼前にすでに
公然と横たわっているものを理解しようとする。
なぜなら、それをわれわれは何らかの意味で
理解していないように思われるからである。
(哲学探究、89)』



2014年01月07日

独身者の機械

IG29-03 / 独身者の機械

独身者の機械

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

独身者の機械の図像学

デュシャンの「The Large Glass 1915-1923年」は分離された上部花嫁、銀河)と下部の独身者9人の構成で出来ている。飛び散った分子を採集する。フラスコに収めれた独身者、分離された花嫁(オレンジ色の上部)その間にLes machines célibataires(独身者の機械)という言葉をいれ図像をつくった。

下部には、ご存知のように文学者9人、アートデュシャンウォーホル2人を入れた。独身者の名簿記入は、まだまだ足りないでしょう。マゾッホはどうだろうか・・独身者の機械とは不可能な宇宙的な交信、すなわちエロティシズム発生装置の機械、それは見果てぬ夢であるようなものの接合と離反の歯車、その残酷さが独身者の機械なのかも知れない。

 



2014年01月06日

砂漠の彼方へ

IJ25-01A /場所はあなたのなかにある

砂漠の彼方へ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

3つの層の砂漠

降り立つ場を見つけねばならない。
わたしは行為している。
しかも砂漠であるとしても
そこに降り立たねばならない。

わたしは描きはじめる。
黒い色で画面全体を覆う。
黒は宇宙の色、
そこには、名はない。
わたしは隠れた
雲を描く、多重な死、
下には、3つの層の砂漠。

 

「神の彼方の砂漠へと私は行かなければならない」この作品は
「デリダ:名を救う / 訳:小林康夫・西山雄二 P44」の言葉から
イメージが喚起され、その言葉を入れた。

 



2014年01月04日

比率「同時に二つのものを見ているのだが」

IE26-06 / 比率

IE26-06

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

わたし達はものを見ているとき固定されたものとして見ている。ところがシュルレアリスムルネ・マグリットの絵(白紙委任状)はそれをはぐらかす。そこでわたしは、原理としてその感覚をつくって見た。2つの色(a:グレイとb:レッド)を配置し、その間に白い曲線を入れた。するとこの2つの色は交互に入れ替わり反転してしまう。a:を凝視していると意識、無意識に係わらずb:が割り込んでくる。その逆も言える。

しかもa:b:を同時に均一に固定された”かたち”で見ることはできない。どちらかの強度が押し合うように交互にでてしまう。これはウィトゲンシュタインが『哲学探究』でジャストロウの「うさぎーあひる図」で論じいる。わたしは「絵画空間の視覚と言語ー12013525日)で論じているが、その応用編としてつくって見た。これはミニマルアート絵画の見方で描いてはいない。



2014年01月03日

空間の法則「秘密の秩序の上に成立っている」

JA2-02A / 空間の法則

JA2-02

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

秘密の秩序の上に成立っている
正方形の透明なガラスの上にステンレスの針金を置く。は紐で繋がれている。切断されれば、
落下してガラスは壊れるだろう。床に錘は倒れ、ステンレスの針金の下にある割れたガラスが残るだろう。しかしその状態はいまだ起きていない。予感として、あるいは気配のみ。それは名をもたずただ強度として感じる。

詩的言語が形成されてくる
針金は法則を受ける言葉を、重力(錘)は眼に見えないが、至るところに遍在している宇宙と身体の関係の扉を、わたしは掟のように感じる。それはフランシス・ベーコンパウル・クレーの「さえずる小鳥」、ウォーホルの「電気椅子」あるいはデュシャン的にいうと「独身者の縊死」などのイメージが喚起されてくる。どんなものでも美的側面は必ずある。物と物との関係性をポエジーまで高めること。

カオスと破れの気配
生命システムが物質と共に反応する。それは精神に送ってくる信号であり、世界と身体が共に共振すること

 



2013年05月25日

絵画空間の視覚と言語−1

IE25-02 / 5つの窓

IE25-02窓

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

5つの窓

わたしは、ウィトゲンシュタインが『哲学探究』でジャストロウの「うさぎーあひる図」を論じているのを読んで、反転とはかくも本質的な問題を含んでいるのに驚いた。わたしは反転を利用した作品をつくったことはあるのだが、そのときはまだウィトゲンシュタインのことは、気づいてはいなかった。しかし部分と全体のことの意味を問う作品の構想は、それほどウィトゲンシュタインの問いと違っているように思えない。部分は全体ではないでは部分だけで成立つのか一とは、全体ではないのか?そのことを問う作品であった。下の絵のことである。

 

面積比B

 

 

 

 

 

 

 

 

 

面積比a→bb→a

正方形a(ブルー)とその周りの空間b(ホワイト)との関係を見る。そこには反転が起こっている。わたしは原理としてのアートをつくった。これはミニマルアートとしてみていないし、その概念でつくってはいない。現れることの現象を、意味を問うている。日常的にわたし達は視覚をとおして見ている。しかし何を見ているのか、個人によって違う。ブルーという色もわたしが見ている(思考)ものと、他の人が見ている色では違うはずである。このことは、ウィトゲンシュタインが『色彩について』論じている。色の知覚と意識(言語)のことなど。

 

 

 



2013年04月02日

レオナルド・ダ・ヴィンチ「洗礼者ヨハネ」

IC31-2a-3

洗礼者ヨハネ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

IC31-2a-3:ダ・ヴィンチ 「洗礼者ヨハネ」
1513-1516年頃 板に油絵 69 x 57cm
パリ ルーヴル美術館

この絵は表現された「洗礼者ヨハネ」が何を意味しているのか不可解であり、謎のような構造をもっている。「聖アンナと聖母子」、「モナ・リザ」もそうだし、ダ・ヴィンチの絵にはそれがつきまとう。暗号のような絵画だ。特に「洗礼者ヨハネ」は、人物像としては非常にシンプルで、中性的な両性具有者のような描写である。しかも微笑がいっそう謎を描きたて、人差し指で天を示しているところは、確かに十字架を指しているが、闇のなかでよく見えない。まるで闇黒の星座を、ブラックホールを指しているようにも見える。とても宗教絵画にはおもえない。

ダ・ヴィンチの絵は見えないものの構造が明確にある。むしろこの眼に見えないものに対するダ・ヴィンチの構造化(表現)は、宗教画にも係わらず、どの画家より無宗教的にすら感じる。それは物理的な現象、生命の根源、あらゆるものの探究がその結果として絵画に顕現化されていることに由来する。たんなる絵画を遥かに超えている。当然「洗礼者ヨハネ」もたんなる宗教画として以上のものがある。最後まで取り掛かって、描き続けた3つの作品のうちの1つである。残る2つは、「モナ・リザ」、「聖アンナと聖母子」である。この3の作品はそれぞれ連関していると推測する。

洗礼者ヨハネ」は生命のエロティシズム(生と死)を、「モナ・リザ」は運動エネルギーの神の顕現化(微分)を、そして「聖アンナと聖母子」は運動エネルギーの神の幾何学を想起させる。そしてあとわたしは「聖ヒエロニムス」は手元においていなかったが、これを加えこの4つの作品がダ・ヴィンチの根源的な概念ではないかとおもわれる。とくに「聖ヒエロニムス」は東洋的な思想すら感じる。この絵もまた未完成であり、東洋的な苦悩の根源的要素でもある「」をどうしても感じてしまう。事実その背景をみると、山水画のようであり、またヒエロニムスの周辺をみると岩や、非常に厳しい環境で行為する修行僧のようにもおもわれる。

 

画像掲載(IC31-2a-3):
この画像は「洗礼者ヨハネ」のイメージから何故かニュートン力学が喚起され、さらに「周期表」のようにある法則的なものに仕立て上げようとその図像を考えた。自然界には規則的なものが隠されている。「この法則を見よ」とおもえてきたのである。ニュートンプリンピキア(自然哲学の数学的諸原理)」では、力学体系を書き、近代科学の基礎をつくった偉大なひとであった。いまでは力学単位となって工学では、あらゆるところで使用されている。ニュートンは、自然的原理神的原理が共存している世界を見ていた。『数学的な重力の法則を、幾何学と力学にきわめて長けた神によって書かれたものとニュートンは理解していた』とティーター・ドッブスはいう。

ダ・ヴィンチニュートンも物質の法則には隠された神の存在があると、その探究に生涯ささげたひとであった。またニュートン錬金術をも研究していた。神の法則とはいったい何であるのか、その数学的記述と、存在論的な形而上学をニュートンは思考し続けていた。一方神という概念がダ・ヴィンチでは、他の画家と違い特別にその相違を感じさせるものがある。流体力学や生命の本質を生涯探究し、血液循環のシステムに近い図を描いている。多くの解剖図デッサンを遺している。ダ・ヴィンチは画家というより生命のシステムを宇宙的なスケールで見ていた。宗教画でありながら壮大な宇宙を探究していた、比類のない画家であった。翻って現代アートを見ると、デュシャン後はトートロジーであるようにおもえてくる。

 

参照:錬金術師ニュートン
著者:B.J.T.ドッブス
訳:大谷隆昶/発行:みすず書房

 



2013年03月31日

ボードレール「髪のなかの半球」そしてマネの絵画など

D-105E1_30black1

記憶と時計

 

 

 

D-105E1
_30black1

「髪のなかの半球」

 

 

 

 

 

 

 

『・・おまえの髪の燃えるような炉のなかに、わたしはアヘンと砂糖に混じった煙草の匂いを嗅ぐ。おまえの髪の夜のなかに、私は熱帯の蒼空の無限が輝きわたるのを見る。おまえの髪のうぶ毛におおわれた岸辺で、私は瀝青と麝香と椰子油の混じり合った香りに陶酔する。おまえの重くて黒い編み毛をいつまでも私に噛ませてくれ。おまえの弾力的なくせ毛を軽く噛んでいると、私は思い出を食べているような気がする。』

この詩はボードレール、「パリの憂鬱」の散文詩、”髪のなかの半球”の詩篇の一部を抜粋したものである。わたしの最も好きな詩のひとつである。エロティックて刹那く望郷のおもいが、女性をとおして宇宙まで広がっている。埋め合わすことができないあの枯渇した愛ゆえに、愛はいっそう燃え、身を滅ぼす。この詩はボードレールの愛人ジャンヌ・デュヴァルといわれている。この愛人を描いたマネの「横たわるボードレールの愛人、1862年」があります。その絵は彼女が下半身不随となっている病のときに描いたものである。

白い大きなドレスを着てソファに脚をなげだして座っている。遠近法を無視した大胆な構図で驚かされる。顔の表情は非常に緊張した描写となっている。わたしはこの彼女を見て、なるほどボードレール好みの女性だとおもった。彼女の性的魅力は微かにまだ残っている。意識が身体に伝わっているのである。その厳しい表情がわたしを感動させた。マネ独特のその対象を見る視点がダイレクトに伝わってきます。わたしにとってマネとは<測り知れないほどの最も偉大な画家>のひとりなのである。そのことを当時のボードレールは見抜いていた。

 

D-105E1_30black1:画像掲載の作品はタイトルを
詩篇、パリの憂鬱の「髪のなかの半球」よりとったもの
この詩篇は「ボードレール、パリの憂鬱」のなかの
「17、髪のなかの半球」の一部を抜粋みすず書房
渡辺邦彦訳を参照した。



2013年03月18日

フランシス・ベーコンとゴッホのリアリティとは

IC-01/ベーコンの痕跡/重力と蒸発
IC-02/ゴッホ 耳を切った自画像

 

蒸発と重力

 

 

 

 

IC-01
ベーコンの痕跡
or 重力と蒸発 

 

 

 

 






 

 

 

ゴッホ「耳を切った自画像」

 

 

IC-02
ヴァン・ゴッホ
耳を切った自画像
51 x 45cm  1889年1月
ニアルコスコレクションと
されるか、所蔵は不明

 

 

 

 

 

IC-01/ベーコンの痕跡or 重力と蒸発

わたしは「フランシス・ベーコンとゴッホのリアリティ」を、そのイメージ現代アートふうに変換してつくった。その手がかりとなるベーコンの絵から感じるキーワードは、「拘束(ロープ=精神と神の関係) 解放(蒸発 ロープの周りの血=パイプの煙) 重力(吊り下げた円錐の錘=頭部前面の黒い帽子、精神のバランス) 円環運動の場(劇場、緑のマット=ゴッホの上着)」などである。そしてベーコンとゴッホの色彩の強度を背景につくった。ゴッホの背景は眼の位置と同じ位置にレッドとオレンジに明確に二分されて描いている。それはバタイユのいう太陽と向日葵のことかもしれない。そしてわたしは背景に数字アルファベットを記入した。ゴッホの手紙あるいはその思考を暗示させるために。ベーコンゴッホから受けたイメージを対話するようなかたちでわたしは、以下のように書き記した。

あなたがリアリティというとき「ゴッホの耳を切った自画像」を想起します。あるいは「戦艦ポチョムキン」の(叫ぶ乳母のショット)など大変な影響を受けたという。『いつか人間の叫んでいる最高の絵を描きたい』という。このリアリティとはいったい何処からやって来くるのでしょうか。あなたはそれに一切応えないでしょう。また応えることができないあるモノとしか言いようがない。このあるモノリアリティ、それは言葉には出来ない、絵画独特の表現形式だ。この形式を最初に表現したひとがゴッホであると、あなたは言うでしょう。そしてこのリアリティは人工的であり、創りだされた再創造であると。おそらくそうでしょう。

あなたは瞬間速度の物体の運動を精神に置き換え、視覚と直接脳に作用を及ぼすエネルギーを捉えた画家であると、わたしは想う。むしろ囚われの方でしょう。「・・の囚われ」拘束と解放(蒸発)、物体の消滅の瞬間、あの恐怖の叫びを『いつか人間の叫んでいる最高の絵を描きたい』このことでしょうか。重力の空間のなかでそのドラマを、幾何学的フレームのなかで演じさせる劇。遥か遠くに通じる闇黒の扉を開け、その中へと厳かな葬儀の儀式に黒い喪服を着た5人、カオスの黒と同じ色をしたこの5人、この人を観よとあなたは矢印(→)で指示する。そして闇黒の扉のまえに小さな幾何学的フレームのなかに頭部を消えさせ、小さな赤い色で円を描く。下半身はふくよかなルーベンスの肉を持ち、足元は運動しかかった楕円で描いている。

背中に小さな赤い矢印(→)を描き、大きなカンヴァスの空間はオレンジ色で塗り、この空間からそれを眺めよというこの矢印(→)、そして空間の全体を占めるオレンジ色に大きな幾何学的フレームを描いている。重力空間の広がり、このオレンジ色のなかに闇黒の、カオスの入り口を描く。その右上に一番大きな矢印(→)を描く。あたかも最後のエンディングがカオスへ往くのが定めであるかのように、その案内を示すこの矢印。決められた道路の上に、決められた静かな行進をする黒い色の5人。アンリ・ミショーの厳かな消え往く人のように。あなたの「通りの像と人物 1983年」は描いている。

わたしはこの絵をカオスに呑みこまれる儀式として見ればいいのでしようか。それとも死すべき生命の儀式が今もどこかで行為されている。あるいはわたし達の”からだ”は瞬時にこの儀式を行っている。生と死のドラマをあなたは、その叫びを人間の不可解な出来事を捉えようとする。この情熱をわたし達にメッセージをしているのでしょうか。あなたの絵は、あの消え往くミショーの絵「アクリリック/acrylique 1979年」を想い浮かべずにはいられない。静かに移行している空へと歩く足はミショーではないですか。あなたの描く「通りの像と人物」は。ゴッホ的なものを見ながら確りとミショーの眼差しをもっている。あなたは「遠回りして人間のイメージを作りかえる手段なのです」、あるいは「たいていは畑のうねのあいだをのろのろと歩く人間の姿なのです」という。

ミショーの絵は歩いたり転んだりしている人間の姿を描いている

という。ミショージャクソン・ポロックよりはるかに優れているとあなたはいう。一方ゴッホ(IC-02)は、遥か向こうを透視しているけれども、寂しげな眼差しと鋭い透明な空間へとすい込まれ往く眼差しとの境界を見せている。二分して描かれた背景のオレンジレッドの境がゴッホの眼を横切っているこの線。わたしはこの人口的な線に驚愕する。ここに真のリアリティがある。ベーコンにもある。この自画像は「青い空の下の麦畑 1890年」、この空間を見ていたのか。ゴッホの眼差しに無限の沈黙が押し寄せてくる。束の間のタバコをくゆらすゴッホがいる。この「耳を切った自画像」とはいったい何なのか。平面的に厚塗りされたレッドとオレンジ色の人工的な感触にわたしは捉えられた。ゴッホの思考と身体はどこかに掠とられいてる。

生れ落ちたときから掠め取られた身体を見届けると、ようやっと舞踏家の身体に馴染んでくる。そのような土方巽ですら最後には「神は怖い」といった。この神に身を寄せる思考は身体が蒸発する希望の星へと、ニジンスキーの「牧神の午後」へと向う。それとは反対に神の不在を、その身体の叫びを呼び寄せる。この身体の痙攣的瞬間ベーコン無神論的にやってのける。リアリティとは無神論であること。形而上的超越性を許さない。ミシェル・レリスはそうとう苦しんだに違いない。

 



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2013年03月07日

カオスの断面あるいはコスモロジー

IC-01_コスモロジー

コスモロジー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

カオスの断面 or コスモロジー

記号的な問いに応えたないあらゆる原理を失うこと。
その問いを導きだすこと。見える対象がその意味を
失うことによって、見える思考が発生してくる。

 



2013年01月18日

ジョエル=ピーター・ウィトキン「そこには目に見えない深い愛がある」

BF03-40A

ウィトキン1

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「Sander's Wife, New Mexico, 1981」
   Witkin 写真集よりスケッチ

 

「Sander's Wifeのスケッチ」

わたしはウィトキンの写真集を見る。
いったい何を表現しようとしているのか。
それは聖なるグロテスクか、かたわの聖者か、
その眼差しは形而上的な意志と形而下的な
身体を写し撮るウィトキンがいる。

わたしはSander's Wifeのウィトキンの
構想スケッチを見る。そこに描かれたものは
滑らかさと、柔らかいタッチを感じさせる。
そしてそこには光があり、愛がある。

わたしはそのウィトキンのSander's Wifeの
写真を描きはじめた。マスクに隠された
意志と豊満な女性のエロティックな身体を、
ウィトキンの意志を感じるためにわたしは
スケッチした。目に見えない愛を
感じるために、わたしはそれをなぞった。

 



2013年01月16日

Michel Foucaultの鏡「ラス・メニーナスのこと」−3

FA21-Mirror-X3

In the mirror

 

 

FA21-Mirror-X3
「鏡の中の焔」

 

 

 

 

 

 

鏡の中の焔

かってそうであった出来事が
鏡の中に入り、記憶の彼方へと
置き忘れる。身体の痛みがこの
場所に、微かに残っている。
忘却された回廊。

言葉の痛みが鏡に映しだされる。
そのときようやっと身体の模倣が
はじまる。ひとは、それを確かな
証拠として提出するのだが、
すでに遅れている。

差異・・こんな反復作業をする
記憶は、わたし達の消えた痕を探す
天文学の数字、何億光年の
事象を観ている。

わたし達は記憶を探すために探し、
消え、発見すると、たしかにともし火が
目の前に現れる。触れ逢うものは
すでに鏡の中に入っている。

この深い悲しみの不可能な記憶は
夜明けのまえに、入らねばならない。
すでに鏡の前に多くの言葉が、
散りばめられている。

そしてようやっと現前化する言葉は
「鏡のもの」が「出来事の発生」から分離し、
表象関係の純粋性が発生しはじめる。

 

FA21-Mirror-X3の画像について:
Michel Foucault
(フーコー)のことは「マネの絵画」で前に掲載しましたが、今回ベラスケスの「ラス・メニーナス(侍女たち)」のテーマはなんどろう。そうおもうと鏡がイメージされてきました。それはわたしにとってフーコーのとなのです。そこでわたしは、自然発生的に焔が出ているように微かに灯る焔を描いた。蝋燭の焔だと、何か宗教的なイメージが湧くのでやめたわけです。鏡に映し出された焔の位置は右側に少し移動して描いた。シンメトリーに描いてはいない。マネの「フォリー・ベルジュールのバー」を考えること。深く・・



2013年01月14日

人体の夜「希望の星」−2

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夜の人体

 

 

 

CF29-01_1C
人体の夜
「希望の星」

 

 

 

 

 

 

希望の星

前回はピカビアのことについて述べた。機械のメカニズムを描いた記号的な絵画の背後に巨大な虚無がある。姿を現すということにおいては物質化した虚無、機械のようにただ回転している。この何ともいえない消え往く姿が漂う感覚。その背後にそれを支える有機的な身体の宇宙がある。カオスと共振する波動の力がある。そこにシステムがあることに気づく。生成と崩壊の間で身体を見る。そのところを捉えようとするとかなり勇気がいる。美とか、芸術とかとは無関係に発生している波を捉える。そんな行為が、ある生命として立ち現れてくる。それにはまず身体を差しだして見る。カオスの風を感じはじめる。

物質の変化と精神性の深い闇は理解不能の場所へと導く。わたしは意識することなく、私自身の身体を描きはじめる。そこにでてきたものは、意味不明なものだった。なぜその絵のタイトルに「希望の星」とつけたのか。それは詩的な直感であった。この木炭デッサンの絵は今から14年位まえだ。まだ「自我」あるいは「自己」というものの本質が少しも分っていない。描くという行為以前に深い闇があることはうすうす気づいていたのだが、ともかく描いていた。描くという生活習慣病で、描かないと不安になる。ジョギングせずにはいられないスポーツ選手の身体に似ている。手と視覚の作用ばかりに囚われていた。表現ばかりに捉われ、その結果にたいして、「あれでもないし、これでもない」という美的トートロジーの思考しか想い浮かばない。これは美術病だ。

たんに思考する行為とは、うわべの美意識のみ。そんなものはいずれカオスに壊される。この思考とは、社会機械の配下に収まった機械、その反映を描き記すものでしかない。社会の反映であるから現代アートといえば、いえるけれども、思考の源流を探さなければどうにもならない。わたしは社会の影でしかない。思考しているけれども、思考していない、歩く夢遊病者の絵、そんな絵を描いてもしょうがない。当然、生きる行為が何であるのか身体がもとめはじめる。それが、このわたしのデッサン「希望の星」だ。出直してくださいと言っている。つまり相転移を光を出せと

ユングが『そう、よく見てごらん、あれが人喰ですよ』と、幼いころ見た夢だ。これは錬金術のプロセスの最初の段階として生じる「* calcination 」の象徴的図示であると、河合隼雄の「明恵 夢を生きる」を読んでなるほどと、おもうようになった。ここまでくるのに14年も過かって、やっと感覚が受けいれるようになったというこです。つまり無明ということに敏感になってきた。現代アートを思考すると、どうしても西洋的な思考方法を、あるいは方法論をとる。しかし身体がどこかギクシャクしてくる。また日本的な見方では、抽象的なものを見ようとすると曖昧な感性の美というやつに流されてしまう。厳密に抽象化できずに自然的な無の美意識が分子結合して、自然的な感性に納得してしまう。禅的な日本庭園茶の湯へと、結局そこに行き着く。カフカ的な変身を未然に防ぐ心のセキュリティとなっている。自然に抱きつかれた形式は、風景を背負わなければならない。それは偉大なシミュラークル

しかし、外では高層ビルが立ち並び、都市化された思考で生活している。人工的な思考の変身だ。ものをあらかじめ想定するという設計思想だ。カオスには想定外というなかで生きている。さてここで問題なのが日本的な思考方法だけではどうしても何かがたりない。概念化と体系だ。(道元の「正法眼蔵」があるが、これは言語化できない時空の現れ方を体験する行為を構造化したものとおもわれる。わたしには大いなるイメージを与えくれることは確か)

また西洋的な思考方法だけでも落ち着かない。そこでわたしは「はるかなる視線」というテーマで追っかけはじめた。思想としてではなく、また思考方法を記述するためのものでもない。見える”かたち”にしなければならない。ようやっとここでアートという行為が芽生えはじめる。

 



2013年01月13日

アンリ・マティスの絵画は無限の可能性を秘めている

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「星と裸婦」

マティスの「座るピンクの裸婦、1935年」を鉛筆スケッチし窓の外に星を描いた。
紫の単色でメタフィジックふうに制作してみた。繰り返す無限の宇宙へと繋がるイメージへ、
比率の違う同じを絵を3枚提示し、フラクタル感のでる空間とした。始まりが、どこからか
定まらない迷宮の夜へと踏み迷う感覚と、星の希望が同時にでてくればよいとおもった。
古風なポップアートふうに仕上げた。

・・結局マティス絵画はカオスから盗んできた凄さがあるので、如何ようにもアレンジできる
可能性があることがよく分ります。装飾ふうにもできるし、論理的で、哲学的な絵画ふうにもできる。
またグロテスクな絵にもなります。あらゆるエロティシズムがその絵のなかに含まれている。
トム・ウェッセルマンはその魅力に惹かれたのだろう。



2013年01月11日

記号と意識ー10「ネットワークの夜」

BB07-G/BB07-R

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 「ネットワークの夜」

この夜を彷徨い、
Under groundの光りに
照らされたからだが
影となり、動いている。

人々は歩いているのだが、
気化したからだは
空中浮遊する。

無数の線が絡みあい
ネットワークの娼婦が
夜の闇に消えてゆく。

そこには忘却された
墓はない。今も・・

 



2012年12月05日

文明とエントロピー「アートはそのひとつの記録である」

この3つの作品は(1・Neon Light, 2・DEVELOP A MINE, 3・A Beam of Light)物質に対する見方を提示したものです。それぞれ連関しています。1・Neon Lightでは日常的に接している人工的な光を抽象化しモノとして、2・Develope a mineではその最初の物質を抽出した鉱山の場景を、3・A Beam of Lightではその総体としての文明を、歴史的な時間性のなかに空間化かされた都市のイメージをつくった。の作品は、負のエントロピーを維持するたにつくり出されたものの乱雑さの状態を示した。人はこれを有用なモノという。言い換えるとエントロピー増大へと向う状態にあるモノの提示ともいえる。熱力学的平衡状態にあるプロセス、つまり死へのひとつのを示した作品です。しかし生命は絶えず負のエントロピーを取り入れ、いまも存続している。その地球生命の歴史38億年経った現在でも続いている。これは偶然とも言えるし、驚異的な出来事です。その出来事を記録しているのが偶々アートであった。そのように私は行為している。

 

容の言葉

 

 

1・NEON LIGHT

色彩(光)とはどのような感覚なのか。
見えるものの現象で、私には、
人工の光と自然の光とでは、どちらが
心地いいものかの判断はできない。単純に
そこにある光として見ているだけ。
たとえ人工的につくりだした光でも、
日常生活では、それにいちいち
反応はしない。しかし深層意識では、
その残像がどこかに堆積している。
松明や蝋燭の光とは別の言葉を
持っているに違いない。
私たちは多くの言葉を持ち過ぎる。


 

 


 

鉱山

2・DEVELOP A MINE

鉱山とは思考の物質化であり、
文明のかたちを見る最初のモノである。
自然と人工の分離が始まる。
原生林の生命エネルギーの秩序を破壊し、
エントロピー増大に加担する。
都市をアレゴリー的に見るとは、
廃墟を見ること。
アンゼルム・キーファーのアートは、
決して心地いいものではない。

 

 

都市工学

 

 

3・A BEAM OF LIGHT

生命は負のエントロピーを環境から
取り込んでいる。都市が増殖するとは、
廃墟も同時に進行している。
システムを構築するとはそういうことだ。
それは、つくりだすことによって、
絶えず乱雑さが増す。この法則は、
どんなものでも成り立つ。思考をモノに
変換してゆく度にエントロピーが
増大してゆく。都市化の思考とは、
巨大な闇黒の穴。
それはエントロピーの増大
眼には見えないブラックホール。
熱平衡状態へと進む宇宙へ
周りには無数の家々が、
高層ビルが立ち並んでいる。

 

 

 

こうして私達は何千年も前から古代エジプトをはじめ、
繰り返しピラミッドのようなものをつくり、
そのエントロピー増大の乱雑さを恐れ、
永遠の生命へと向かい、かくして神を望むようになる。
「人類の一本の電子ビーム」を外へと、
外へとコンタクトする希望の星を探している。
ついには大気圏を脱出し、
宇宙船の小さな機械の中で星を眺め、
見果てぬ星々の希望を抱いて生きている。
私はベンヤミンを憶い浮べる。



2012年11月21日

「記号と意識」ー3

AK0102-5
AK0106-4


記号と意識A

 

 

 

 

 

 

 

 

記号と意識B

 

 

 

 

 

 

 

 

AK0102-5:「コンポジションX
AK0106-4:「時刻表

 

AK0102-5:「コンポジションX
記号には、必ず意味が発生する。この5個のピースが(不定形な黒丸、斜め75度のバー、縦の赤いバー、クロスした黒いバー)何を意味するのかは、不明である。しかし見てもとおりである。無意味性という現象である。音声的記号作用の体系である言語に付着しないように注意して配置する。すると形態に意味を作用させる感覚が生まれてくる。これをわたしはシステムの形成作用として見る。

AK0102-4:「時刻表」
この作品は分解と生成を同時に見えるように描いた。システムを形成しようとする、これから現れようとするのか、形成した後に分解し消滅しようとするのか判断できないもの。この原理はマティスの「水浴をする人 1909年」を見ると分かる。いわば、物質の時刻表である。

 



2012年11月19日

「記号と意識」ー2

AJ0901

 

Blue Sky 975

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

AJ0901:「思考空間とからだ

わたしはある実体に対して志向性をもつことは危険であり、
またその志向性がどこからやって来るのかも知らずに追究している
ことである。しかもそれが論理的などという「理性の野心」に対して
いつも警戒する必要がある。あらゆる画家のなかで最も忠実な
イブ・クラインの宇宙。

2階から飛び降りた彼の思考は、その為にのみ存在する。
そのとき彼は既に身体が離脱している。空間自体になること。
となったイブ・クラインはどこへ往くのか。そこを探している
まに落下する。無限の瞬間を体感する-、即ち有限の置き
忘れ。誰がそれを拾いにいくか、”からだ”でしょう。



2012年11月17日

「記号と意識」ー1

AK0103-3A


面積比A

 

 

 

 

 

 

 

 

 

AK0104-4B


面積比B

 

 

 

 

 

 


 

 

AK0103-3A:「Permanent red deep B/A」
AK0104-4B:「Brilliant blue deep B/A」

わたしは「もの」が「もの」として存在するという物質至上主義絵画の思考をもっていない。3次元の空間にインスタレーションしたオブジェ(実物)が「もの」そのものを表現したなどとおもったことがない。実物における記号の配置に過ぎない。それはイメージの発生を促す”もの”の配置ということである。その構造として単純にその反転を見るだけの”もの”をつくってみた。これは絵画であるよりひとつの現象として見る。

わたしのこの作品は「AK0103-3A、AK0104-4B」アニメやコミックと同様たんなんる記号に過ぎない。記号が記号自身を現すよう、すべての面積をパステルで同色に塗り、その後消しゴムで空白を作り始める。わたしは消された空白と塗り残しのソリッド(部分)を正方形になるよう計測し、自立したソリッド(正方形)の記号として作り、空白の中に残した。その比率B/AA=空白面積、B=ソリッド面積)は、BAを、ABを示す以外のイメージが喚起しないようにした。視覚の現象を見るABのトートロジー、無-想像の絵画というわけである。



2012年10月29日

呼吸する重力

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Breathing Gravity A

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

呼吸する重力

わたしは生きている。
誰れでも無いわたしが此処に

そんなことは知らない。
言語の習いたて

瞬時に何かが分かる
此処と向こうに

寺の門は無知の扉
歩く、また歩く呼吸の音

空には鳥、足元には重力
雲の声がそれを訓える。

 



2012年10月28日

孤独とは有限の境界線のこと

HJ14-01

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孤独のかたち

孤独の”かたち”とは有限の境界線のこと。
それは無限のものへと向わせる接線の闇、
そこで留まり、分離されたものが無関係な
空虚なものとして見えてしまう。

一つのもの、分別された対象を言語で
埋め合わすこと。哲学の発生を促す合理性、
どこへ往こうとするのか、思考する。
二つで一つのもの、有限と無限のふらつく

トートロジー

無限の空間を掴むとは、意識内部の
出来事を外へと放り投げること。

すなわち孤独の深い感覚に耐え、
じっと観想すること。すると部分と全体が
等しいことに気づく。脱-合理性の変換が
起きる。

闇が光だし、円の中心は一点ではなく、
いたるところにある無限の円、その点である
有限の自己と同時に無限の非-自己が、
生成されてくる。

この運動をとおしてのみ無限の空間を、
直感することができる。しかしそれは
困難で漸近的に、その接線へと近づいて
往こうとする意志の運動にゆだねる。

この意志の運動こそ天体の法則に
従って生きていることに気づく。
地球の呼吸音をきくことができる。

銀河と身体の鼓動が一体となって
包まれる。孤独をいっきに取り去り
その喜びに満ち溢れる。



2012年10月20日

神話の世界「樹々の声がきこえてくる」−3

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ジャングルの木々

 

 

 

 

 

 

 

 

 

DC24-01Gre_2
「樹々の言葉」

沈黙から言葉が生まれる
裸形の言葉は瞬時に身を隠す。
この名のない言葉は樹々の
木霊となり、森に響き渡る。
沈黙の声が微かに心に宿る

「まだ名は無い。」

反響する言葉たちが、
無数に身体のなかを潤す。
自然の声が囁きかける

「それは言葉の誕生」

沈黙のなかで語らない
「言葉」の身ぶり。



2012年07月22日

人体の夜「消費のなかに物語をつくりたがっている」−5

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天空と炎A

 

 

 

CB07-10A
炎と男

 

 

 

 

 


 

感覚を”かたち”に変換する形式をつくること

どんなひとでも動かす方向性をもっている。それは意志したこととは無関係に作動している。機械を動かしている本源は分からない。どこから私なのか、そうでないのかその区分ができない。見えない系のなかで私たちは暮らしている。分節化することによって世界が見えはじめる。しかしそれが、どんな世界であるのか全体をつかむはできない。たえず溢れている。この溢れでたものをまたすくい上げる。そして分節化する。こんな繰り返しのなかで生活している。自然科学の発展をみるとよく分かる。物理学ではそれを数式として表現してゆく。数学対象をもたず、それ自体を対象として思考する。物質としての対象を思考すると、物理学となる。

さてとは、論理とは何でしょうか。思考することの喜びがなければ、ひとを動かせないし、感動もしない。知ることの喜びとは、学ぶこと。いったい何を学ぶのか? そこから物語をつくる。潜在的に数式のなかに、物質のなかにあることに気づく。かならず表現されたものには、その方向性がある。学ぶとは、はじまりであり自己を通じてその物語をつくってゆく。ついには個性的でありながら、普遍的なものへ、C・Gユングのいう集合的無意識から元型へとつながる。しかしどんなものでも宗教的であり、芸術が宗教的でないらなら、それは相当深刻なものを含んでいる。意図的に排除し商業主義的に物語をつくろうとすると、無関心な機械へと変身してゆく。

ウォーホルアートが20世紀後半の最大の危機的なアートである訳はそこにある。つまりアートが現代社会の深刻な状況を告白的に表現しようとおもうと、たちどころにその病を背負ってしまう。ひとりでは無理でしょう。身体をそこに溶け込ます。機械のようになりたい。自己放棄、成りすましが精一杯のアートだ。その社会的な状況から成りすましフィギュアアートをつくる。これは日常的な消費と深く関係していることはいうまでもない。つまり消費生活のなかに物語をつくり、ひとはそれで意識(無意識を含め)を、イメージを形成させる。自己ベクトルが”かたち”つくられる。集合的無意機械を、シミュラークルをつくる。その元型は不在だ。つまり不在であるがゆえに、いっそう消費する意識のエネルギー消耗をそれで補う。擬似的(シミュラークル)円環運動快楽放射が行なわれ、欲望を生産する。

そこからでてくる文化が純化され、偉大なシミュラークルをつくれば、『千利休』の茶の湯のようにバーチャル空間をつくる見果てぬ夢を現代に復活させる。このようなアートアートではなくなる。自己ベクトルをもたせるよう、形式がついには宇宙の体験となる。元型に行き着く場を設定する。この設定こそがアートになる。『建築する身体』というとんでもないを思考していたのが荒川修作ではないのか。「切り閉じ」を形式化すること。形式形式を破り、出来事をつくりだすこと。つまりランディング・サイト配置を設計すること。この設計はもの身体に反応するのか、身体ものに反応するのか、その間を思考する瞬時の身体であり、気づきの全感覚の参加を意味するようなもの。これは芸術ではないでしょう。むしろ舞踏に近い。行為する身体は限りなく神話に近づく。わたしの思考物語をつくりたがっている。パンドラの奥底に潜んだもの、希望の原理

画像掲載(CB07-10A:炎と男)は炎のイメージが自然に出てきたので描き進めてゆくうちに出来上がった。人体は白紙の色のまま残した。あらゆるところでエネルギー変化による変換が起きている。エネルギー全体の総量は変わらないとは限らない。人間の細部をどんどん分割すれば、量子論にいきつく。DNAの構造が分かったからといっても、思考するという行為は依然謎のままだ。その源泉がどこからやって来るのかということ。そこから物語がはじまる。

神話の世界とは天と地、そのエレメントが関係しているが、太陽は地球にとっての生命のエネルギー源であり、たしかにプロメテウスはそれを盗み追放されたが、人間に恩恵を与えた。しかしをもらったことがよかたのかは、いまだ結論がでていない。銀河から太陽へそして地球に火をもたらし贈与されたそのが。

ヒトはその恩恵を受けた分だけ、再び火を天体に帰さねばならない。この消えることの恐怖がヒトの心のなかに潜在的にある。希望の意志と喪失の恐怖がある。しかしこれは避けてとおれない。共存する道をつくってゆくこと。生と死の出来事のなかに。それが神話の一歩であり、供犠のなかにつくられる。喪失することの、消滅する生産を贈与のなかで行為される。それを達成するには、非-欲望の生産アートに組み込まねばならない。消費社会欲望する機械を生産するばかりだ。そのシミュラークルを生産するアート欲望する機械の下請け工場の歯車の一部となっている。それが現代アートだとしたら、わたしはそから遠く離れたい。しかしピエール・クロソフスキーは、ずいぶんと近いところにいる。欲動の記号源泉を求めてダイアグラム化した彼の描く絵は興味深い。

 

補足:
わたしの「人体の夜」の連載はまだ継続してゆくつもりだ。
土方巽-はるかなる視線」と連関しているので、合わせて
読むことをお薦めする。わたしの頭のなかでボートとしていた
イメージ何とか言語化してみたい。そのおもいで書き出した。
すでにわたしのなかである元型みたいなものがあり、それを
たどりながら書き記した。「人体の夜」とは言語化できず、
隠された星座の煌きをもった、太陽の光であるより遠い天体
追憶のような身体をもったもの。白日に晒されるものではない
元素、その集合体をもった秘密の空間を現出させるとき、
人体の夜」となってその元型をみせる。それは神話でしか
あり得ない。現すことができないシミュラークルとして再出現
させる。しかし肉体は掠め取られている。そのとき大いなる
消費が、神に抱かれる夢想を、希望の原理が出来上がる。
パンドラの奥底に潜んだもの。

 



2012年07月14日

人体の夜「エロティックなもの」−5

AK1501C-6


Love



 

AK1501C-6
錬金術師の
秘めたる意志

pencil on paper
29.7 x 21.0cm

 

 

 


 

隠されたもの

意志はエネルギーの物質的変化であり、
エロティシズムはその喚起弁である。
位置エネルギーは、大地の眠れる
胎児であり、銀河は大気を通して火を、
その欲望を送り込むポンプである。

情欲するものは、カオスの波
共鳴させ、内部のモナドをシステム化し、
系として作動するものへ。

このときシステムはすでにカオス
取り込み、崩壊の途へと向うエネルギーを
放出することとなる。その熱量を交換する
錬金術師の行為は、無窮の永久運動を
夢見る思考のファンタスムとなる。

 

わたしは「人体の夜」を何回かに分けて少しずつ述べるようにしている。上記に掲載している画像(AK1501C-6)は、わたしの人体デッサンのひとつであるが、描くという行為は表現以前に内部意識の深さを、世界との関係性の深さを見せるもので、表現された表面ではない。しかしデッサンは特に線が勝負なのでかなりの訓練を必要とする。一本の線を引くにも、その線の個性を見極める力を養しなわなければならない。職人の手と思考の深さがかみ合って、はじめて見える”かたち”になる。イメージはその案内人である。これが乏しいと、たんに綺麗に描かれた対象の再現化でしかないものになってしまう。イメージはどこからやって来るのか、数学的な原理を求める厳密な抽象性に似ている。

 



2012年07月10日

人体の夜「ポーとマラルメ: Le Tombeau d'Edgar Poe」−4

GH109-01

星よ再びA

 

 

 

 

 

 






  

 

「*1地上に落ちた静寂の塊よ

すべての思考の終着駅は天体の原理に
行き着く。ポーの「ユリイカ」は、地上の
あらゆる苦悩を叡智に仕立て上げる。

この創造の原理は、あらゆる人々から
見捨てられ、その苦悩の宝石を暗黒の
底からでてきた永遠のイデーに変換し、
思考の星座へ導く。

わたしは落下した隕石に落ち葉を
添え鏡に映した。

「*2敵意に満ちた土と雲の、
おお、苦悩をもって!
」美の塊を
あの星座へと再び帰したい。

 

参照:
マラルメ詩集/訳:加藤美雄
発行/昭森社 1974 8.30
「注*1:page196の第4節、
 注*2:第3節」を引用

わたしは身体のデッサンをすると、深い闇の世界が見えはじめるのに、躊躇していた。しかしある法則が影のように付き纏っていることに気づきはじめた。物理的な現象を、物理に表現するとこはできない。ものそのものという表現は妄想でしかない。すでに汚染された思考の、あの社会機械のなかで身体は動いている。奇怪な鏡の宇宙を覗いているに過ぎない。この絶望の果てに、形而上的な宇宙の法則を思考せざるを得ないポーの詩に驚嘆する。

それ以来わたしは厳密に人工的な言語の鏡を、視覚化できる方法論を求めはじめた。それはマラルメであり、デュシャンということになる。それは思考の錬金術となり、物語をつくる神話への道に通じる。ポップアートから、現代のアニメ的なフィギュアをつくる行為に至るまで、すべて物語だ。ひとは物語を必要としている。日常的な出来事のなかにも物語はある。物語は高尚である必要はない。生きる力を与えるリトルネロとして見る。神話や物語を特別な出来事として見るのは、その研究を専門にしている学者たちだ。ウォーホルアートですら、神話であり、ひとつの物語だ。

 



2012年07月02日

人体の夜「フランシス・ピカビアのこと」−1

HF1-01

moving force

 

 

HF1-01
「人体の夜」
地球生成装置

 

 

 

 

 

ラビリンス

意志なるものはつねに待つ
見出すことなく 欲望を。
クラッチは情交の不在を
激化させる。
夜に向う傷口は
反省を冒涜している。
あるものはただ疑わしい
無関心のみ。
僕は苦しむ
無関心を知っているために
絶えず自分自身に乗り出してゆく
凡庸さ それは
水平線が僕の感情の
視線を引きつけるということ。

参照:
母なしで生まれた娘の詩とデッサン
フランシス・ピカビア
訳:鈴村和成
「ユリイカ 1989/発行 青土社」

わたしは必ずピカビアの詩を見て、また絵をみてスタイルを持たない、同じ絵を描き続けない、技巧に走らないという3つのことを念頭において日常を暮す。静かにカオスと測りえる程に持ち続け、生活をしてゆくこと。絵画生活の習慣病をしない。これは結構しんどいけれど、生き方としてはわたしにあっている。いつでも放棄と無関心でいられる。描くということは思考すること。詩を描く行為であって、生そのもののなかに現れているけれども見えないもの、その波動を感知し、見える記号に変換してゆく。この仕事が結果的にアートとなる。それは、すなわち「人体の夜」のなかに光を感じ取るとることです。ピカビアの光は神秘に満ちている。宇宙の暗黒からやってくる見えない光と、太陽の光が反射され、その合成された化学変化の暗号を見せる。それは遺伝子の元素の光である。地球生成装置の機械をつくる。



2012年07月01日

流動的な空間「急速に落下するカオス」

DJ30-03a

流動的な空間の声

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

流動的なもの

わたしは流れる かまうものか
そんなものは直ぐに崩れる。
ほら見ろ、緑色のことだよ。
しかめ面した、情けないやつ。

誰かが支えねばならない。
水平線のちょつかい、
言語の失速、描きえぬものの、
見えないものを見る直感。

描く行為より予感の終わりに
急速に落下するカオスの滝
その下に空洞ができる。
官能のトンネル、柔らかい肌。

見えないものの白いカーテン、
極薄の膜、触れた瞬間に遠のく。



2012年06月26日

ドビュッシー「呼吸する地球の光と惑星」

HF27E-0S惑星

惑星X

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最も美しい地球

わたしは嘗て地球に棲んでいた。しかし氷河期を向え、
あれほど栄えていた地球もいまでは氷に蔽われ、
その下には1千メールをも超える鉄骨群が眠っている。

わたしは別の惑星から地球を見ていた。太古の地層を
見せる地球が美しく光っていた。人類の誕生は700万年
あるいは20万年前、46億年の地球の歴史から見ると
あまりに短い。

人生はそれから比べるとなきに等しい。
わたしは誕生していたのか、それとも眠りのなかで
夢をみていた、束の間の出来事なのか。ドビュッシー
月の光」とは、いまでは地球の光
氷の反射がこの惑星からキラキラ光っているのが見える。
地球の小さな生き物たちの声が微かにきこえる。

 



2012年06月25日

現代アートの非-人称的メッセージ

AK0107_4/多くの同じ人々

多くの同じ人々

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ビジネスといわれる物」をガジェットのなかにコンテンツとしてもぐりこませ、無数にコピーされ分散されて自動的にアグリゲーションされたものを見る。その収益をどのよなシステムにすればよいか思考しつづける。すべてが広告、私自身も広告の一部で、アートも広告。非-人称的なメッセージで人々が最も反応するものをつくること。それに反応し、五感を通して感覚器官に作用させたので、それはアートだ。もともと無いものだから、無いものに反応するから、そこにあるものとしてイメージが脳内でかたちつくられる。あるものに変換させてくれる。しかしもともと無いものだから物語をつくる。ひとは物語を必要としている。

芸能スキャンダルは物語だ。ひとは高尚な神話より身近な物語を感じて生活している。私はコンピューターのなかで生きている。コンピューターは私を分離する。私を分離したがってる。他者の声を多くの人が聞いている。他者の声と自分の声が分からない。領主が誰だか分からない。本当に偉い人を決められない。「お金が無ければ、誰が偉いのか分からない」このウォーホル的な言葉、ひとを判断するのはお金と権威。

ひとの心は分からない。それを分からそうとするのは、もっと大変だ。いちばん分からないのは悟っているのか、そうでないのか判断すること。だから判断できるよう沢山のコンテンツを頭の中に詰め込む。そうすると分かった気がする。哲学が終わらないのは分からないからだ。多読しているひとはそのコンテンツのなかのものを取り出して語る。それに対してなるほど、とおもう。そこに自己がすんでいないので分かりやすい。自己がすんでいない社会を取り出すアート。その動いている社会をコピーしてビジネスアートに仕立て上げたウォーホルがいる。

エルビスモンローは社会に写る表象の表面のパッケージ、その裏には不可視のコピーがある。映し出された社会の出来事や事故死したものの背後が見えない装置、乱反射の出来事の機械をつくる形而上的な死がある。死ぬことができない2重の反転がある。ついには類似物の不可視のブラックホールウォーホルの影となって現れる。そのときウォーホルの身体の仮死性の姿を見ることになる。肖像画を写し取る行為の神格化を消滅させ、社会に浮遊する言語のコピーと化する。裏の無い死

その出来事無-対象対象化であり、内部意識というべきものは、自動的にアグリゲーションされた散乱物を見るたんなる鏡の言語である。ウォーホル的にいうと「表面だけであり、裏はない」この意味こそフーコーの「表象は純粋な表象関係として示されることができるわけである」しかしである、ウォーホルはそれを更に反転させる。社会を投影したものの鏡は、社会を投影したものの反射でしかない。純粋な表象空虚なものへ絶えず投げ返される。恐ろしくブラックホールである。ウォーホルアート天体の星座へと近づく虚無の星座をもっている。死を貯金する生の消費の世界である。エントロピー増大の宇宙へと参加する。



2012年06月13日

情報伝達のForme「記号の場景」−1

HF13-01B

言葉の場景

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

出来事の発生
どんなものでも意味として捉えてしまう。「だから見てのとおり
無意味なものを描けない。本当に「無意味なもの」を描ければ、
どんなものでも対応できる。芸術はその反対のことをしている。



2012年04月26日

土方巽-はるかなる視線「デッサンとは内部意識を見る運動である」−5

はるかなる視線
デッサンとは内部意識を見る運動である

わたしのからだはどこから来ているのか、何がそうさせているのか、わたしの意識とはいったい何であるのか識りたい。わたしは何も描かれていない白紙の紙にわたしのからだを描きはじめる。かたちはまだ見えてこない。意識内部ではどのようなことがおきているのかわたしは見る。手の運動が線を引き、脳の動きが漸近的に探求しはじめる。わたしはその線を見る。意識が何かに反応しているようだ。それに惹かれて線を無数に引く。見えてくるものがある。わたしの予期せぬ出来事、舞踏のように時空を彷徨い線を引く、促がされて次々に隙間を埋めてゆくその線。恐ろしいことに死へ向かうからだの細胞が、わたしを描けという否定されている自己、消えてゆくものへ。わたしは勇気をだしてさらに線を引き続ける。芸術なんていう行為ではない。存在そのものの恐怖がおしよせて来る。わたしを支えているものとは誰なのか。外の大きな存在との関係からわたしは導き出される。

 

横たわる男A2

 

AL2104-1
「横たわる男」

死に往く者の
母の胎内の微かな
音を聴く

 

 

 

立像A1

座っている男M

 

AL2106A-1M(右)
座っている男
はるかなる時空

AL1907AM(左)
立っている男
形而上的な
彫刻の影

 

 

光りは光源からA


 

AJ1401M
光の毛布
バタイユの方へ
死を前にしての
歓喜の実践

 

 

 

 

 

わたしはこれが舞踏なのかなと。「衰弱体の採集」とはかくも恐ろしく、取りに往く行為が捕えられる、死を飼いならす行為が”ビューと吹いて来る風にからだを慣らすこと”そんな舞踏を見るにつけ、わたしのデッサンは、土方が「・・あなたの描いているプロセスを養成しているのが舞踏家だという」この言葉は真理だというおもいがある。けっして傲慢な言葉ではない。絵を描いていないとき、わたしも舞踏をしていたのだろう。ですからわたしがデッサンをしているとき、わたしは舞踏をやめる。舞踏家とは逆の時間を空間化しいる作業が画家ではないのか。だから絵画はものすごく自然科学に近い。わたしにとって絵画とは美しいとか、芸術的とかということとは無関係だ。


 

参照図書
土方巽全集
著者:土方巽
発行:河出書房新社



2012年03月07日

現代美術の回帰「表現された空間はどこへ移行するのか」−1

AI3003

Time Travel

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Time Travel

AI3003:Collage/「Time Travel」
Mixed media ,54cm x 74cm


イメージはどこにつれてゆくのか。対象が不在なだけに
もはや自然との接点がない。人工的だ、記号体系のなかで
姿を現すもの。内部意識の強度を引き出すために、わたしは
あれでもなく、これでもないという感覚にのる。漸近的に接近
してゆく。論理の向こう側を求めながら、幾何学的な思考を
視覚化しようとしている。この感じるものと論理の乖離が
ある変換へと導く。その構造をつくりだすこと。あのセザンヌ的な
矛盾を孕みつつ行為する。わたしはその行為から脱出するために、
ダ・ヴィンチの「聖アンナと聖母子を観る。そこからすべてが
はじまる。「感じるものの論理」とは動くこと。だれが動かすのか
それを捉えねばならない。しかしわたしはそれを知らない。

 



2012年02月11日

眼で思考する原理と詩「かたちとは別なものへの移行である」−3

GH16-01

山門

 

 

 

GH16-01
「言葉の放射」

 

 

 

 

 


 

言葉の放射

ホウキの下に、小さな窓が
あります。向こう側には山門が
見えてます。

ホウキの周りには、円を描いて
文字が書いてある。見えないものを
見える思考につくりだす”かたち

それは、眼で思考する原理と詩の
発生をうながす。厳密な抽象機械を
つくりだす。そんな機械をつくること。

 



2012年02月05日

夜のシミュラークル「理性の時計が瓦解してゆく」

DC20-04Ac

記憶と時計D

 

 

 

DC20-04Ac
「夜になるといっせいに
理性の時計が瓦解してゆく」

 

 

 

 

 

 


 

「理性は夜のなかへ」

夜になるといっせいに理性の時計が瓦解してゆく。
確かに下のほうでは滝の音がしているのだが、
見ることはできない。その近くの蛍光灯の薄暗い
ホテルにわたしはその夜泊まっていた。

書斎に残した未処理の書物は色彩となって
わたしの机の上につまれている。これもやがて
シュレッダーにかけられるのだろう。
死にゆく自我を観るとき、空白の言語が沈黙に
置き換わる。

押し出された言葉たちは黙ることによって
夜の身体をつくる。この恐怖にひとは
耐えられるのか。

「・・いまは無い」ということを、

この空白の一夜が理性の
狂気を呼覚ます。狂わないという決意は、
既知の認識を絶えず不在の言語に脅かされる。

 「神の言葉」とは・・

などと囁かれる恐怖。「非ー知」の彼方に虚無が
黒い影で、あの暗黒の星雲に投げ出される身体の
無能力を、機械の力で「器官なき身体」をつくり
だそうとする。

ウォーホルの電気椅子、
夜のシミュラークル、

「暗黒の画面に真珠の光る靴」

 

上記の言葉はわたしのイメージを断片的に書きとめたもの。詩ではありません。絵を描くための言葉のデッサンです。誘発するものをいったん言葉にメモし、それを展開するために行為します。(掲載してある言葉は、絵と直接関係ありませんが、覚書のようなものです。)*「暗黒の画面に真珠の光る靴」とはウォーホルのシルクスクリーン(カンヴァスにアクリルとダイヤモンド粉末)の作品を指しています。

 



2012年02月04日

シミュラークル「空の鏡と暗黒、主体の消滅のうちに<人体の夜>」−3

HB04-01/Untitled

dark matterA

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Untitled
or dark matter

・・主体の消滅のうちに、
黒いスクリーンが現出する。
人体の夜が映し出される
前に。

 



2012年02月03日

眼で思考する原理と詩「起き上がった意識」−3

BG26-Rd4/BG26-Gre5

物質と記憶B

物質と記憶A

 

 

 

 

 

 

 

 

 

起き上がった意識

細胞質の膜に映し出された民族学は、
リングの案内する2つの羽の防御を備え
ている。先端は槍、言葉をかわすために。

コンクリートの城塞で進むことはできなかった。武器はもっていのだ
が、(そこに書いてあったのは、なんであったのか、今ではおもいだ
せない)リングの言葉がわたしに投げかていた。そこには無いも
の、この刻印され胸に、鳥の羽がわたしを撫でる。飛ぶことではな
く、汚れた水を防ぐ浄化の羽根。リングの先端は鋭い槍・・



2012年02月01日

非-体系的に見る事への移行

GI02-01

遠隔j装置

 

 

 

 

 

 

 

 

 

”空”
強度の配分

何にものにも作用を与えない
流入するものと、流出するものでもない
それ自体というものでもない。

経験を揺さぶるもの、未体験のものの
領土、方向性をもたないことによる
限界-当のものが発生してくる。

感覚が強度の配分を決めるのか、
強度の配分が感覚を決めるのか、
比率の反射・・さらに共鳴

つまり現れてくるもの、延長量と
強度量(内包量)の不均衡、
例えば、GI02-01(図像)はどのように
知覚するのか?
空間(時空)物体/線分/意識など・・

物理的なものと、空間的な延長を
もたない量・・との関係、
ひとつの位置エネルギーを持つ、
電位の不均衡

経験的なのもがなくなり、感性、
美的な判断から離反し、与えられた
条件の地図作成法をつくること。


日本庭園の対象は、自然的人工の劇場の””自然化である。実在する自然の模倣を超えて、抽象化された自然。これは”もの”その”ものへ”ということではない。自然への類似を不在化するもの。そんな形体を追究すれば、白砂と石の組み合わせの表現へと行き着く。あるいは白砂を円錐のかたちに積み、サイズの違う円錐を配置する。同じ素材の白砂を敷地に詰め、その周りを波形のかたちや円形のかたちで表現する。それはミニマルアートとどこが違うのか。

という思想を体験しなければ、概念だけでは難しいでしょう。芸術にしたてあげれば、禅の思考から遠のくし、非-芸術にすれば、ただの”もの”。それも”存在そのもの”ということではない。”もの”はすこしもそこに留まってはいない。さてどうする。禅を芸術的に表現すればジョン・ケージか。多くの人がそれを見て楽しむことができる。日常にしたてあげなければならない。そんなことが可能というのは、現代芸術では困難がともなうケミニュケーションである。



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