美術全般

2006年06月07日

マティスのエロスと「ジョエル・ピーター・ウィトキン」の方へ3

BF06-3

ウィトキン4

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


La Serpentine, Marseilles, 1992
「ウィトキンの写真集よりスケッチ」

わたしはウィトキンの写真集のなかで、この裸婦のポートレートを見て驚いた。とびきり官能的なのだ。マティスの絵もこれと同じくらい官能的であり、わたしを虜にする。それは抽象的で思考の彼方へと運び去る知的官能が、宗教的な要素へと置換する。この変位のイメージが官能的だとおもえるのです。また厳密な論理的構成がセザンヌ的でもあり、わたしを惹きつける。 

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2006年04月25日

アンリ・マティス「物質と記憶」−2

BD25-01

マティス窓の方へ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 

アンリ・マティスの方へ:「窓辺の植物」


『・・わたしはマティスによって表現することを学んだのではなく、表現しないことによって、あのキャンバスに塗りのこされたブロックが生成変化させる装置としてのイマージュを学びました。それは内在平面をコントロールさせているアイオーン(時間の神)に近い何かをマティスの絵画から感じます。カオスから侵入してくる微粒子を共鳴させることによって、色彩にハーモニーをもたせる、それがマティスの色彩の美となって表現されています。

それとは反対に暗黒の世界があり、この光りの裏側を見せるマティスのカオスとしての微粒子を表現したものがあります。「コリウールのフランス窓、1914年」や「泉のほとりの女、1917年」にある暗黒色に塗られた空間です。目に見えない闇からやって来る不思議な世界にわたしは捉えられた。何かを表現しようとしているより、何かを表現できない、宇宙の根源的な暗黒の振動音のようにわたしは感じます。それは共鳴できえぬ、ある実体としての虚無のようにもおもえた。カオスの侵入を防ぐてだてはない。その刹那さを「窓辺のヴァイオリニスト、1917年」に感じます。

・・この闇の世界を、あのルドンが暗黒の色彩とでもいえる、モノトーンで世界を表現していたように、わたしはマティスが色彩の形態をもたせる前の物質の呼吸を支配している、無音の世界、無彩色のいわば「マティスの抽象機械」を表現しようと考えた。従ってこの作品は絵画ではなく、絵画の作動原理ともいえる。この空間(絵画)に、この物質にどのような色を与えたらよいか判断できないように単色にした。ブラックの明度で物質を暗示することであった。しかしこれはモノクロ写真のようにリアル空間を表現するようなもではなく、架空の世界であような空間を設定(表現)した。写真の世界から遠ざけねばならない。空間をセレクトし表現の問題に移行する写真の方法論を避けることである。ここでは表現することが目的ではなく、表現が形成されてゆく時間現象を問題とするもの。

従って、色彩豊なリアル空間から剥奪された色彩の退行現象のような時間・・内在平面の思考の反転現象を観ること。・・・のような出来事を見ること。それはジャスパー・ジョーンズの反転現象のようにではなく・・別次元へ、内在平面の発生装置を、「マティスの抽象機械」をつくろうと考えた。それは強度をもたせない絵画、結晶化が進む前のイメージの結晶を現出させるダイアグラムのようなもの。マティスの塗り残しによって脳内に化学反応を起こさせ、絵画を完成させる方法を応用しようとおもいつた。

それは表現しえないものが、脳内の化学反応によって表現させ、現働化させる。2重作動させることによって物質と非物質を共存させる。つまり「物質と記憶」を、時間変位を瞬時に起こさせる臨界点を創ることを試験的に作品化してみようと考えた。それは、表現はしているけれど、それ自体に留まってはいない。かといって別の世界を表現しているわけではない。現存在としての潜勢力をもたせることにある。画面(絵画)に2重作動をもたせることなのです。

画面には色彩がないことによってある種の不安定(生成変化)さを与えます。それは画面を見て色彩を与えようとする意識現象(時間)がおきます。この現象は、リアル空間では絶えず色彩を感じ日常生活をしている恒常的な事象からくる。その記憶が作品を見るとモノクロであるため、リアル空間にない画面(色彩の無い世界)を見ることによってその作品に拘束(時間)される。しかし無限ともいえる色彩の世界を記憶は潜在的に内部にもっており、この色彩をそこに再現しようとする意識現象(時間)の発生をともないます。この両者の力学関係の現象の効果によって「機械」が発生(この差異の発生によって処理できない現象が現れます)します。この余剰の生成こそが「抽象機械」なのです。この「機械」を次のステップでは「宇宙圏」に飛ばす作品を創ることへと接続されます。神秘の誕生のない作品はまだ卵です。

 

今回は、マティスのマイナーな空間のみ抽出して作品化したものを掲載しました。マティスの凄みはこのマイナー空間であると作者はみています。「マティス自身はあまりこの空間に対して語ってはいない。この空間を感じればマティスのよさがいっそう広がる」との、こと。次回はもとにもどって『アンリ・マティスの「(ダンス)、その構造と場所」−5』を掲載予定です。これも予定ですので変更することがあります。  「有人彗星」管理人



2005年12月25日

人体デッサン「空間をデッサンする」−5

AL2104-1

横たわる男A2

 

 

 

 

 

 

AL2104-1:「横たわる男」
「・・それらは同じ時空のなかでなされる。」


『時空のさざ波は無限の風をおくり、
體という物質を風化させる。
ヘンリー・ムーアの彫刻のように
永遠の光りが體を抱擁し、
母の胎内の微かな音を聴きく。
それは死にゆくものの誕生の音』

 

この「人体デッサン−1.〜5」シリーズは第6回で終わります。最後は第1回目から第5回目までの全てのデッサンを掲載します。その方向性はそれぞれ違うベクトルで表現されています。デッサンとはいえ作者は「人間の存在」そのものの構造を見せてくれました。そのテーマを作者に次回語ってもらいます。
                      「有人彗星」管理人



2005年12月21日

人体デッサン「空間をデッサンする」−3

AL2016A-1

座っている男

 

 

 

 

 

 

AL2016A-1:「I'm sitting on the ground」

私は大気の粒子や大気圏外星雲からやってくるエナジーを感じるあの感覚をデッサンしたい。この目に見えない「不思議な力」を無数の線の集合で自然にできあがる形態であるような「もの」を描きたい。それはおそらく描くことではなく、描かせられる軌跡に等しい行為であるようにおもう。不可能に近いけれど私はそれを望んだ。この何ともいえない「不可視の構造」をデッサンしたい。私はできないことしか望まない。できなくてもいい。その線の軌跡を感じることができればいい、舞踏家のようでありたい。

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2005年12月19日

人体デッサン「空間をデッサンする」−2

AL1907/AL1907

立像A1立像A1

 

 

 

 

 

 


AL1907:「I'm standing on the ground」

人体デッサンー1」では天体と身体が空間として一体化する存在としてのデッサンを心がけた。「人体デッサンー2」では意識が孤立した系として、ジョルジュ・デ・キリコのあの不安と孤独を描きたかった。一枚ではなく同じ画像を2枚並べることによって形而上的な不安感をだすことにした。

それはいっそう記号的となり、身体の不在が存在の予感を死というかたちで意識する「生の死」、いわばこの宙ぶらりんの白日をデッサンしたかった。わたしはこのデッサンシリーズでは、けっしてものの形は描かない。暗示にとどめる。対象の見える形を描くことではなく、「見えない意識」をデッサンすることに心掛けている。その顕われたものが何であるのか私自身理解してはいない。



2005年12月17日

人体デッサン「空間をデッサンする」−1

AL1702-1

天体と身体A1

 

 

 

 

 

 

 

 

AL1702-1:「人体の夜

 『すべてが見え、すべてが聞こえる
 そんなこととは誰も思わない。』


デッサンとは:
空間をデッサンすることとは、
人体
のものをデッサンすること
ではない。従って人体も空間として
とらえねばならない。

目にみえない空気をデッサンする
ことである。それはそこで呼吸し
ている人体をデッサンしなければ
ならない。

わたしはこの外部との交換で存在と
一体となる人体をデッサンする。
これはものの輪郭を正確に描写する
こではなく、
その微粒子を
とらえることである。

デッサンとは紙と鉛筆と、手の運動と
精神の呼吸法でもある。

天体と呼吸しているときは、天体の人体を
夜と呼吸しているときは、夜の人体を
それが手の動きとなって伝達される
何者かを捉えるものでなけばならない。

そうでなければ、デッサンは死んだ
容を写す、たんなる”もの”にすぎない。
 


『わたしはジャン・コクトーの「鳥刺しジャンの神秘」の”人体の夜”という最初の言葉に深いインスピレーションを感じた。死と天体の光りはよく通じあう。どちらも空虚で見知らぬ訪問者のようで、他者の命と死を運ぶ。微かにこの光りの音を聞かずに生きるということは不可能であり、天体の元素でてきている人類の宿命を感じるのだ。コクトーのこの美しくも「死」の影がいっぱいある光りは私を慰めと絶望のパパゲーノにする。わたしの身体の空虚な明るさは、天体の光りを浴びた栄養物質からできている。』


「絵の下側にある詩は「鳥刺しジャンの神秘」の中にある「訳:山上昌子/出版:求龍堂」を参照にした。はじめ『人体の夜』というシリーズで作品を何点か創ろうと考えていたが、やがてそれがマラルメの詩を作品化しようと発展してゆく。」



2005年12月10日

ドナルド・ジャッドのことなど

ドナルド・ジャッドに関する記載内容は「アート、芸術全般」に記載しましたので下記の通りです。ご参照下さい:..

「ドナルド・ジャッド」1・1...
「ドナルド・ジャッド」1・3...
「ドナルド・ジャッドとアンゼルム・キーファー」−1                         



tneyou4595 at 09:35 この記事をクリップ!

ドナルド・ジャッド 「現代美術」

「ドナルド・ジャッド」の記載は下記の通りです、変更内容が記載されるようになりました。タイトル名を選んでご参照下さい。

タイトル名:..
現代美術の考え方ー1「ドナルド・ジャッド」1・1...
現代美術の考え方ー1「ドナルド・ジャッドとシメントリー」1・3
現代美術「ドナルド・ジャッドとアンゼルム・キーファー」ー1...



2005年12月07日

現代美術の考え方−1「ドナルド・ジャッドとシメントリー」1・3

AB2310-1A/AB2310-3A
AB2310-2A/AB2310-2B

建築A建築B

 

 


 

 

建築C

建築D

 

 

 

 

 

上記画像は表参道にある新築された「安藤忠雄」設計による建物です

ジャッドの作品にはシメントリーの機能があります。建築とシメントリー(非メントリーも含む)の関係は設計上重要な要素です。そこで都市計画の建築で感じられるところはないかと考え、表参道に新しい建物ができたことを思い出し観て来ました。そのときの新築された建築物の画像です。Specific Objectsという矩形のシメントリーを想像させるジャッドのテーマが感じられるところがあります。一部古い建物を保存し、時間が切断された新築としての建物ではなく、その時間的継続性を感じます。モダンでもなければ、古くもない静かな雰囲気はあります。周りの樹との調和は冬なので判断できませんが、建物の高さはあまり高くなく調和していました。

安藤忠雄氏が、もともとシメントリーに対する動物的直感がある人なのかも知れません。シメントリーという概念は深く、単純な図形から「エッシャー」のような複雑な図形をした絵もあります。また目に見えない数学的に抽象化された「量子力学」のモデルから現代の先端物理学の「ひも理論」まで行き着きます。

安藤忠雄氏設計の「光りの教会」を見学した人が、コンクリートの壁を十字架で貫通したその空間から光が射しこみ、『秩序正しく配列された木製の長椅子(=Specific Objectsのようでさえある)や、床にあたる光りが神秘的な光景を感じさせる』と言い、ジャッドを想像しましたと聞いている。それはあながち嘘ではないと思います。目に見えないシメントリーによって精神の安定を感じるのかも知れません。「美の定量化」なのでしょう。

表参道の新しい建物を見てその「シメントリーの美」を感じる。他の建物の多くが無秩序で商業的用途と経済性以外感じない建築物となっている。もしそこにけやきの樹々が並んでいなければ、索漠としたコンクリート群と車の密集した騒々しい街並みとなっていたことでしょう。建物の高さを調整し、そういう経済性追究の建物に安藤忠雄氏はしなかった。

「美」の見方は個人によってさまざまですが、Specific Objectsのもっているシメントリーの実感を少しは表参道の建築をみて感じることはできる。もちろん全然感じなくても「美」は個人によって違いますから、またその面白さでもあります。ミニマルアート(ジャッド自身ミニマルアートという範疇の見方を否定している)などというスケールの小さい見方などせず、美術館を離れて是非散歩がてら観るのも気分転換になることでしょう。 

 

関連記事は:
現代美術の考え方ー1「ドナルド・ジャッド」1・1



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