美術全般

2014年09月02日

人体の夜「建築家はそれを知らない」

JH-02

JH-03予期せぬ出来事

 

 

 

 

 

 

 

 





 

 

 

建築家の予期せぬ出来事

 



2013年04月12日

フランシス・ゴヤ「わら人形遊び」

CC19-10Bac1/CC19-10Oran1/CC19-Gre1

わら人形遊び3わら人形遊び2わら人形遊び1

 

 

 

 

 

 

 



「月夜の晩に」

哀れな男は四人の女性にもて遊ばされ、今にも落下しそうな男を布で救っては放り投げている。世の男性諸君はくれぐれも女性には注意したまえ。遊んでいるつもりが、遊ばれていることに気付かないバカな男性にならぬよう。最後には救いの布を外される。地面に叩き落とされぬよう。放蕩生活の成れの果てに、それが女の企みであったなぞと気付いた時には手遅れです。タイムトンネルの中に吸い込まれないように注意!

この絵はゴヤの「わら人形遊び、1791-1792年」からヒントを得てわたしが遊び心で3つのバリエーションで配色し描いたものである。ゴヤの絵は風刺があり、原画では、空中に浮いている男(人形ではあるが)は虚ろでそれを楽しんでいるかのようである。この遊びは、カーニバルの風習で女性たちは男を空中に舞い上げ、その感覚を楽しんでいる。真ん中の女性は微笑んでいるが、少し不気味だ。ゴヤらしい描写である。タイトルは「わら人形遊び」から”月夜の晩に”した。原画は昼でありながら、夜のイメージにおもえてくる。ゴヤはどこか夜のイメージなのである。

ゴヤに関しては別ページにも画像掲載しています。
「ゴヤを理解しはじめたとき・・」



2013年04月10日

ゴヤを理解しはじめたとき・・

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暗闇の鳥男

 

 

 

 

 

 

 


 


ゴヤの方へ(暗闇を飛ぶ男)

「・・闇の中を飛び回り彷徨しているわたしは、無重力状態に陥る虚脱感からは免れていた。暗黒が呪力となり、ついにはその空間を飛ぶことができるようになった。」光りが神の影なら、太陽の光りも恐らく暗黒の影に違いない。宇宙は広大無辺の暗黒であり、太陽は核融合によってできた鼓動する波であり、粒子でもある。地球にとっての原子心母である。その光りで生きている私たちは小さな生き物。精神は無限大の宇宙と繋がっており、光りと暗黒の虚空をもっている。

・・そして夜は光りの休息であり、永遠の時間の神である。暗黒を怖がってはいけない。全ての源はブラックホールからはじまる。暗黒は生命を宿す養分であり、光りはその成長の魂である。わたしはこの暗黒の空間を飛び、宇宙の分子たちと戯れる夢をみる。地球上では光りの世界しか理解できす、神の光りを浴びる暗い影を宿している。光りそれ自体が輝くのではなく、暗い影が愛の変形によって光りはじめるのだ。その内部の魂によって。ひとは光りをもらうのではく、光りを発する分子の本性によって輝く。

孤独は養分を吸収する土壌であり、暗黒の空間は盲目の光りをつくり、第3の目を育てる。それゆえゴヤの目には空虚な眼差しの背後に暗い神の光りが近かずいている。その光りは犬の孤独を見ていると同時に、犬もその光りを遠く、遠く首を上げて見ている。これがゴヤ最後の絵である。やがてその光りは内部から光りはじめ、魂の輝きを用意する。



2013年04月09日

レオナルド・ダ・ヴィンチ「聖ヒエロニムス」

ID3-01
ID3-02

聖ヒエロニムス-1

 

 

 

ID3-01
「聖ヒエロニムス」
1480-1482年頃
板に油絵 103 x 75cm
(ヴァティカン絵画館)

 




 

 

 

 

聖ヒエロニムス部分-2

 

 

 

 

ID3-02
「聖ヒエロニムス」の
背景左上の部分

 

 

 

 








聖ヒエロニムス

この絵「聖ヒエロニムス」は西洋的な思考で見るより東洋的な視点で見ると、非常に興味深いものがあります。ヒエロニムスの人物像の背景に描かれた景色は、空気遠近法の技法(筆のタッチ、ぼかし、色調)と日本の水墨画に使用される毛筆のタッチ、技法が似ていることに驚かされる。全体の絵を見ないで、ID3-02の部分詳細を見てください。モノクロにすると、素晴らしい山水画として見てしまう。ダ・ヴィンチだと言わなければ、だれでも東洋の山水画のように感じるとおもう。

ヒエロニムスの人物像が、なぜか禅の修行僧のように感じ、この岩場と背景の景色と非常にマッチしている。わたし自身「聖アンナと聖母子 幼子聖ヨハネ(ロンドン ナショナル・ギャラリー)」をその場に行って見たとき、もの凄く感動したことを今でも忘れない。言葉で表現すると”神の設計図”という強いイメージが瞬時に喚起されてきたました。この感覚がでてきたことに驚嘆している。それだけダ・ヴィンチには特別なおもいがあります。後に、この神秘的な感覚がわたしの礎となった。ダ・ヴィンチ体験とは、このように多くの人々に感動を与え続けているのだろう。

 



2013年01月10日

コラージュの技法とその哲学

コラージュの技法とその思考ー1:概要
 
私にとってコラージュの作品とは、形態と色彩の訓練である。
無駄があれば形として意味をもたず、美しすぎれば装飾になる。
それは視覚快楽の誘惑に感覚が追従した結果でもある。

画面全体のバランスが悪ければトータルとして構成の失敗である。
すべての機能がよければポエジーとして音楽がきこえる。

またすべてうまくいったとしても、世界の(精神的)深さがなければ、
たんなる装飾絵画の完成度にすぎない。さまざまなオブジェの構成を
楽しみながら、自分の精神的状況を観察できる素材でもある。



2013年01月09日

夢と生「ブッダか、あるいは仮面のピエロなのか」

BG30-20LightGr/BG30-20lightYell

暗い光B暗い光A











 

夢と生

『わたしはそれが現れたとき、はじめは冗談だとおもった。暗がりからくちを半開きにし、微かに笑つている顔が見えた。あのサーカスで見たピエロによく似ていた。ところがよく見ると、上から見下ろしている仮面を被ったブッダのようにも見え、ベットの上からずっとわたしを見ている。それは、わたしが生まれるまえから知っているようで、またわたしがどこに往こうとしているのか、わかっているようだった。誰かに見られているという視線はあまり心地いいものではなかった。それを追い求めるのも不自然で、わたしはそれ以来あまり気にしないようにしている。』

このこととは直接関係はないが、マティスが幽体離脱や霊魂に興味をもっていたということは聞いている。「花と陶器、1911年」という作品はどうみても奇妙な作品である。この作品は陶器が空中に浮いているように見え、またその陶器の回りに新聞紙のようなものも浮いている。こんな奇妙な絵を見たことがない。

霊魂が大気の分子状の集積であるかのよに見えるのはマティスにとって普通のできごとなのかも知れない。わたしはそういうマティスの絵が好きなのです。それも宇宙的な分子の一部であるかのように表現し、無限空間をイメージさせるエネルギーは凄い。このように感じさせる暗黒の絵が結構あります。光りの裏側を見せるマティス絵画に魅かれます。そのことを機会があれば書きたい。「コリウールのフランス窓、1914年」の暗黒を覗いて見たい。



2012年11月03日

ランボーという詩人については語れない

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Rimbaud


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ランボーにつては
何一つわたしは語れない


逃走線の向こう側に到達した沈黙、このランボーをわたしは語れない。あらゆる文学、芸術とは無縁な到達地点。ではいったい何者なのか、こんな疑問が生じてくる何かがある。ランボーポートレートジャコメッティコクトーピカソ、レジェなどが素描している。ランボーの顔を見れば、誰だって描きたくなる。凝視している眼は向こう側へと、遥か向こう側へと到達するその眼差し、それを支える強靭な意志とからだをもった、この位置エネルギー。1871年、ランボー17歳のときのポートレートにわたしは驚嘆する。すでに完成された沈黙、宇宙の一点の現れ、これがそのポートレートだ。あとは逃走するのみ。生まれながらにして詩人だった。

画家たちはこのランボーのポートレートを見て直感的に描きたくなる。写実的に正確に描くのではなく、すばやく描くこと。感じたことを逃さないために素描する。わたしはジャコメッティの素描が好きだ。顔全体を右上がりの斜線で覆い、黒で塗りつぶしたしような線描写である。あの晩年のランボーを予期するような描写である。眼は明かに沈黙を凝視した視線であり、あの到達した地点を見ている。いったい何を見ているのか、わたしたちには分からない。眼はランボーのポートレートよりはるかに大きめにデフォルメして描いている。見開いたまま、そして沈黙。しかも眼を描いてはいない。ただ暗示しているだけの描写。

髪の毛は原始人天体を、そして脳と一体となった線、ところどころにがある。口元の線は、それらすべてを支え、耐え、大地に踏みとどまろうとする意志の力を。耳は生まれながらにして、何かを聞取ろうとするあの文明の音を受信していた。胸像は空虚と融けこんだ線で描写、一瞬のうちに見事にランボーの空間を捉えている。ジャコメッティ素描の的確さに驚愕せざるをえない。

ピカソの素描はすばやくランボーの全体像を掴み、ポートレートの楕円の外に、いきなりぐしゃぐしゃな線を走らる。ランボーの全体像を無秩序なものへと走らせる線で表現している。もう分からないとでも言うような直感で描いたもの、この無秩序なものこそランボー逃走線である。ランボーのことは語ることはできない。ランボー痕跡をいくら分析しても、この逃走線はわからない。

そんなランボーの詩を見て共時的に体験できることなど出来やしない。凡人には永遠など体験できなのだ。いちばんいい方法はともかくポートレートを描いて見る。髪の毛は野蛮人、眼は一点を凝視し、あの恐るべき光景を見ている眼差し。そして口元はそれに耐える意志の力を。あのジャコメッティ素描イメージし描きはじめた。素描とはかくも力量を問われるもので、わたしは普段あまりデッサンをしないので手が動かない。イメージが手に伝わらない。訓練しなければならない。しかし線をひとつ、ひとつ置いて丁寧に描けば、その輪郭は捉えることは出きる。それが画像掲載した絵だ。鉛筆デッサンというわけです。ポートレートを眺めランボーをよく見ること。1871年のポートレートそして18831888年のポートレートなど。この逃走線の様相をよく見ること。あとは語らないほうがよい。



2012年10月25日

神話の世界「パパゲーノ」−8

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       AK2601-1


独身者

独身者A



 

 

独身者パパゲーノ




 

 

 

 

 




 

 

AK2601-1
「パパゲーノ」


自由に生きるパパゲーノは
宇宙のリズムをつくる。
媒質としの役割を演じ、
飛び回る。そして子孫を
ふやすこと。音楽と
ありのままの生き方



2012年10月22日

神話の世界「大地」−5

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大地1

 

人間のからだは天体の星と
同じ元素からできている。
人間はそこから生まれた。
何億光年の記憶を持って、
大地はその母である。

 

 

 

 

 

 


 



2012年10月21日

神話の世界「水の力」−4

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水と空

 

 

AK3006A-6AB
「水の力をもらう男」

 

 

 

 

 

山頂の澄みきった
大気と白い雪
麓の水の精霊に
からだを浴す。






 



2012年10月19日

神話の世界「大地と樹そして動物」−2

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大地と樹そして動物O

 

 

 

 

 

 

 


 


ほとんどなにも考えない。分離される以前はそうだ。
ところがいまは思考するということが、思考することが
できない地平へと運びさるある器官を考えなければ
ならない。乳をのむこどものように、意志と身体が一体
となることを発明していかねばならない。
いまではこの行為を芸術といっている。



2012年10月18日

神話の世界「おおいぬ座」−1

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「冥府の番犬ケルベロス」


気絶した犬

 

 

 

 







 

     おおいぬ座

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「おおいぬ座」


冥府の番犬

『ケルベロスは甘いものが好きで
呼ぶとすぐ来ます。けれども冥府から
でようとする死者や生者には、
その牙でぼろぼろにしてしまう。
音楽には弱く、詩人オルフェウスは
竪琴の音でケルベロスを
眠らせてしまう』

 

わたしは、神話とは何であるのかよくわからない。けれどもわたしが描く絵が
神話的であればよいとおもったりする。無意識がなせる業というものがあります。
日常から遠く離れて星座へと到達する何かがあります。それはすでにできあがった
神話のことではありません。
いま生活している社会圏から脱出する身体と思考性の何ものかです。

そして再び日常に戻ったとき、生き々としたものへと変化してゆきます。
それは同じことの反復を遠ざける生成変化へと進みます。ときとして、生そのものを
否定される虚無の星座へと向かうデモニシュなものと戦う強い意志が要求されることが
あります。そんなとき信じることいがいありません。わたしが絵を描くこととは信じる
ことなのです。ただそれだけです。



2012年06月18日

カオスの窓「アンリ・マティスのリトルネロ」

FH19-01

カオスの窓

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 






アンリ・マティスのリトルネロ

カオスメロディーに。窓とは取り入れ口であると同時に出口でもある。呼吸するリズムをつくり、無化する時間を有機体化する生命の切と閉じである。膜をつくり内部のかたちを保つ。無を無化するためのアートではない。カオスを取り込みリトルネロが生まれ、暗黒から生きる喜びへ解放してくれるアートはマティスだ。マティスにはリトルネロがある。ピカソは意図的にそれを排除している。ところが落としどころがないサーカス的なアートだ。ひとはそのサーカスを観て圧倒される。自我あるいは自己というものの無明の表現の達人である。宗教的な要素がなくてもアートが可能である。いまでも美術を志すひとの教科書になっている。男女関係ノイズストレートに表現されている。そうするとどうしてもというからだの表現になる。よりどころのないからだの表現から、それを見てカオスへと接続されるその凄さかなと。

それはリトルネロとしてのカオスが不在であるがゆえに、またしてもというカオスの淵に落ち込む。そのトートロジーをやり続けたひとがピカソではないか。そしてピカソはその淵を見せることがアートだと断言している。わたしはピカソの絵を見るにつけそんなふうに感じる。わたしはこのトートロジーから開放する方法をマティスから学んだ。あれほどカオスを見ていたひとが、なぜ装飾的な絵画へと移行したのか疑問に感じているひともいる。しかし最も装飾的といわれている切り絵のなかで、「イカロス1947年 ジャズの挿絵」は、最も美しいカオスの淵だ。そこには宇宙と生命がある。

しかしマティスピカソカオスの淵を見ているというおもいは共通している。そこからお互いに認めあっていたのだろう。わたしは初心にかえってマティスの断片を収集しイメージ化してスケッチした。これを平面と立体のミックスしたボックスアートふうに仕立て上げようと構想している。そのスケッチHF19-01)をお見せする。プロセスを公開するのは、かたの決まっていないダンサーの振り付けをみせるようで気が引けるが、その思考状態アートのうちというこでスケッチを掲載した。



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2012年05月29日

印象派の絵画「シスレーの絵画とは空間(風景)が心のなかに溶け込んでいる」−1

HE27-01
HE27-02

春のちいさな草地

 

 

HE27-01
春の小さな草地
1881年頃
油彩 カンヴァス
54 x 73cmロンドン
テートギャラリー

 

 

 


レッスン

 


 

HE27-02
レッスン
1874年頃
油彩 カンヴァス
 41.3 x47cm個人蔵

 

 

 

 

 

シスレーの絵画はモネよりずと
自然を感じる”からだ”をもっている

シスレーとは印象派の画家というより近代科学の思考方法を感じさせない生の自然を見せる。自我(エゴ)あるいは自己(セルフ)の追求のない無-自己のものがある。わたしはそこを見ている。しかも風景のなかに出てくる人物はモネほど空虚さがない。またセザンヌほど自己の感覚を確認しようとする原理を追求してもいない。マネの絵画は沈黙の画家といわれるほと不思議な視点をもっている。空-無の身体、これに注目したのがバタイユであるが、モネの空虚さは哲学的な視点のないオブジェとして風景のなかに配置している。この空虚さもシスレーにはない。むしろ風景のなかに労働している人々を意識して描いている。静かな風景と日常的なささやかな出来事を描いてる。まさにもっとも地味で目立たない印象派であり、ゴーギャンゴッホのように西欧的な自我や自己を形成させる社会機械の作用を描いてはいない。それゆえ印象派では過小評価されていた。シスレー自身モネのように野心はなく、控え目な性質で経済的にも豊かではなかった。

近代合理主義と自然科学の発展とは無縁な風景のなかに心を溶け込ましていた。パリから離れ自然の風景を求め、晩年は20年近くモレ・シュル・ロワンなどセーヌ湖畔の小さな村を転々として描いていた。翻って現代美術を見ると、都市化された思考とその本質を見ようと自己を形成している無意識機械をやっきになって探している。異常に変形された”からだ”の崩壊寸前の顔貌性を描く、フランシス・ベーコンがいる。そして方や都市化さた思考のシミュラークルとしてのビジネスアートの帝王ウォーホルがいる。現代美術の教祖デュシャンは職業画家になったことは一度もないとも言っている。描くことより何かを身体化させたい、晩年のデュシャンは禅のような生き方さえ感じる。印象派の画家でデュシャンが最も評価している画家はスーラでしょう。「アニエールの水浴」の神秘的な深さは凄い。

さて驚くことに印象派のなかで過小評価されていたシスレーを認めていたのはフランシス・ピカビアではないのか。初期の作品を見るとそんな風に感じる。事実彼はモレを訪れ、その風景画(Sunlight on the Bank of the Loing River, Moret 1905年)を描いている。ピカビアテーマは空でしょう。シスレーのテーマも空。そこから展開してピカビア人工的な機械に変換してゆく思考は見事としかいいようがない。原点は””である。最後は宇宙圏まで飛んでゆく(La Terre est ronde 1951

このシスレーリアルには描いていない。あくまでも感じるままにその印象として描いている。からだと空が溶け込んだものとして現れる。この自然的な”からだ”は近代科学が置き去りにしてきたものだ。方法論として現代アートもこの科学的な見方を受けつでもいる。セザンヌ的な見方から現代に至るまでその”からだ”の見方は極端なほどバランスがわるい。都市化された思考とからだは、もはやシミュラークルの世界で踊る言表行為の視覚化が現代美術の世界になっている。ルイス・キャロルの戯画化でさえある。それにとどめを刺そうとしたアルトーがいる。あの「残酷劇」というやつだ。「器官なき身体」という概念でエゴとセルフをデリートしようとしている。そこに生成してくるものは何・・? どんなアートがあるのか。

ピカソのアート自我自己無明のように描いているし、無宗教的に感じる。マティスはそれを避けようともの凄く哲学的だ。西欧絵画の概念とはいったいなんだろう。マルセル・プルーストは、シスレーが描いたなかで教会は最も美しいとも言っている。存在感というものがそこにはある。シスレー晩年の作品「ラングランド湾、ストールの岩---朝」は存在感のある作品だ。しかしその存在感とは、消え往くものの時間的な現れとして感じる。まさに存在するとは印象なのだ。印象とは:実体がないからこそ存在するもので、その存在は実体がないからこそ物質的現象としてありえるのである。遠く離れた東洋の視線に結びつくものがある。その意味でシスレーは印象派そのもので、少しも過小評価すべきものではなく、むしろ人間としての原風景をもっている。また超越的でもない。

 

HE27-01:春の小さな草地---ビイ
風景の中央に立っている少女はシスレーの娘でジャンヌ・シスレー
であるとおもわれる。静かに祈っているようなポーズは胸を打つ
ものがある。

HE27-02:レッスン
ルヴジェンヌの近くにあるボォワザンの自宅で勉強してるシスレー
の2人の子供たちで、ピエールジャンヌです。静かな空間です。



2011年10月24日

レオナルド・ダ・ヴィンチ(「聖アンナと聖母子」についてのメモ)−1

GG20-01

聖アンナと聖母子

 

 

 

GG20-01
聖アンナと聖母子
1502-1516年頃
板に油絵 168 x 130 cm
パリ ルーブル美術館

 

 

 

 

 

 

 

聖アンナと聖母子についてのメモ

わたしはロンドンナショナル・ギャラリーで「聖アンナと聖母子」のデッサンを観たとき、それは宇宙の構造を観ているのではないか、という深い感動だった。まるで「神の設計図」を描いているようなデッサンだった。鑑賞する行為を遥かに超え、シンクロニシティの体験だった。後で考えると、その絵を観る為のみこの美術館に訪れた、そんな感じだった。はじめからその絵を観る為に入ったのではなかった。なんの知識もなかった。美術に興味を失っていたじきだったし、具体的な対象やものに現代社会の状況を、その歪みを観せるアートには、わたしは拒絶反応を示していた。その歪が、人間性のあるべき姿を見せるためだという行為に、たとえ赤裸々に描いたとしても、それを観ても生きいきしなかった。そういう状況から遠ざかりたかった。そんなおもいを持ちつつロンドンの街中を彷徨っていたとき、なんとなくナショナル・ギャラリーに向かっていった。

そのとき、巡りあったのがダ・ヴィンチの「聖アンナと聖母子」のデッサンであった。わたしはそのデッサンを観たとき、今までにない体験を、神が存在しているのでないかと思わせるほどのものだった。遥か彼方からやって来る””この顕現化こそが、その作品だった。そこには光をとおして、大地、生命、宇宙の全てが含まれていた。ダ・ヴィンチは生涯この”宇宙のメカニズム”を追及していたのではないか。アートとは生命エネルギーのかたちを観せるもの、その時代の文化を十二分に捉え、生きいきとした活動の源となるようなもの、そんな考えがよぎった。至極当たりまえの考えではあるが、なかなかそれが出来ない。それ以来わたしは、この体験がわたしを勇気づけた。その体験が後のすべを測る尺度のもととなった。デュシャンの作品を観るとき、いつもダ・ヴィンチの宇宙像がある。ダ・ヴィンチは流体力学を、デュシャンからは熱力学を感じる。そして両者とも宇宙のメカニズムを追究していたひとだ。美しい数式ではなく、美しいものの顕現化を表現していたひとだ。わたしは美しいものが好きだ。どの生命にもそれはある。たとえそれが非-生命的なものでさえ、それを生命的に観る人間の思考は美しい。

 

画像掲載(GG20-01)はフランスにあるものです。
ロンドンにあるデッサンでは、全体の宇宙が画像
掲載では分かりにくい。色彩をほどこしてある
パリのものは、空気遠近法がこの画像からも多少
分かるとおもう。そこから全体のニュアンスが感じる
とおもい、掲載した。



2011年06月20日

水浴をする人「空間についてスケッチ」−1

GF20-05B

GF20-05B

 

 

 

GF20-05B
「水浴をする人」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

水浴をする人

この画像(GF20-05B)は「水浴をする人1909
New York, The Museum of Modern Art 」にある
マティスの作品をわたしがスケッチしたものです。10点ほど
スケッチしている。そのうちのひとつです。マティスの作品の
なかで最も論理的で哲学的な深い内容をもっています。
わたしの好きな絵のひとつです。

マティスの描いている人物像は、非常にシンプルで背景はブルー
一色で宇宙のすべてを描いてる。水と空の境がなく、イメージが
無限に広がって素晴らしい作品です。わたしはそのイメージを
つかみたいとおもい、スケッチしました。すると、どんどんセザンヌ
になり、ついにはジャコメッティに接近してくる。もともとマティス
水浴をする人」のポーズが、あのジャコメッティ
類似しているのです。存在論として当然といえる帰結です。

マティスでは、頭部が完全に球体で描かれています。全体が眼に
見えない幾何学的構成、--それが生成してくるのです。
その結果ダイレクトに脳髄を刺激する強度をもって現れてきます。
わたしはその存在に刺激されてスケッチしてみた、というわけです。

マティスの「水浴をする人」の作品を存在論として詳細に
カテゴリの「マティス」で論じています。知りたい方はそちらを
御覧になってくだざい。またジャコメッティについても、この
水浴をする人」と、どこかテーマが類似しいるところがあります。
これについても論じていますので御覧になってください。

マティスはわたしにとって非常に重要なアーティストです。
デュシャンが「ゼザンヌよりむしろマティスを発見したことだった」
と、対談でピエール・カバンヌに語っている。
これは興味深い出来事です。

 



2010年12月08日

ポール・セザンヌ「知覚の構成」

FG22-03

赤いチョッキの少年

 


FG22-03
「赤いチョッキの少年」
1894~1895年
カンヴァスに油彩
75.9 x 64cm / チューリッヒ、
E.G ビュルレ・コレクション

 

 

 


庭師ヴァリエ

 

 

FH01-01
「ヴァリエの肖像」
1906年
カンヴァスに油彩
65 x 54cm
個人蔵

 


 


水浴する女たち

 

FH01-02
「大いなる水浴する女たち」
1906年
カンヴァスに油彩
208.3 x 251.5cm
フィラデルフィア美術館蔵

 


 

知覚の構成

セザンヌの絵画は晩年になるほど透明感がでてきて非常に美しい。対象から断面の総体、再構築された線、色彩、それらの対象はオブジェクトの再現であるより知覚したものの世界へと、新たな線を確立しようとする知覚の線である。構成という平面(プラン)の最高傑作は「大いなる水浴する女たち、1906年」である。セザンヌが到達した世界は完成しているのか、未完成なのかは、いまだ生成途上にあるものとして存在している。現前(見えるもの)にあるものと、知覚との差異、そこから導きだされるものは構造である。ものの本質へと接近する方法があの技法に到達したわけである。塗り残し、不確定な形、遠近法の無視(比率)・・それらの断面をカンヴァスに再構成すること。特に「サント・ヴィクトワール山、1902-1906年頃」の作品は、セザンヌ自身が認識したもの、それらの像を確立することであった。対象から(現前する目に見えるものから)離反し、カンヴァスの平面に描かれたものは次元の再構築であり、セザンヌ自身が知覚(感覚器官)したものの確立、それらを構成することであった。

現前化するものとの差異、たえずこれと格闘しながら構成し続ける無謀な試み、その痕跡をみる意識の生成がある。この痕跡(知覚の構成)とは印しであり、表象であり、対象の類似性を観るものではない。その痕跡が思考を作用させそれを超え、新たな絵画を創ろうとする格闘がある。神話の誕生である。それは「大いなる水浴する女たち」の作品である。20世紀最初(1906年)の金字塔であり、セザンヌによって、はじめてタブローが独立し、それ自身による生き生きとした姿が観えはじめる。知覚の生成とでもいえる。多次元の構成が機械的に脳内で形成しはじめるのである。この感覚はフランシス・ベーコンにも受け継がれている。

赤いチョッキの少年」は:
右腕が少年の思考の印しであり、最初のスタート地点へのベクトルである。腕の長さの比率の違いはそのためのものであり、別次元の感覚を喚起させる方法なのである。まさにセザンヌが少年を観る眼差しは、セザンヌ自身による知覚の構成、厳密に計算されたものなのである。それによっていっそう少年の像へと向かわせる。また左腕は憂愁に充ちた顔に手を当て支え、弧をした背中の描き方がいっそう少年の内面を引きだしている。さらに左腕の肘の近くに白く描かれた手紙らしきものが置かれている。沈思する少年とこの対比も実によく計算された構成である。しかしこれらの構成は具体的なものを正確に描写することとは違う。抽象的に描かれ、どれも厳密に計算されたこの構成は、セザンヌが知覚した認識の印し(イデーの記号化、現実に存在しないものの実在化)ともいえる。また少年の背景に描かれているものも具体的に描いてはいない。

そして色彩は少年の赤いチョッキによって画面は密度をまし、その周り(Back Ground)は空間の再配分(断面)によって像(少年)はひとつの生命を、沈思するかたち、憂愁に充ちた少年を見事に描きだしている。ゼザンヌの作品のなかで論理的な構造など気にしなくてすんなりと意識のなかに溶け込んでくる作品である。わたしの好きな作品である。他の作品はセザンヌの理念がかたちとして観えるので、けっこうしんどいところがある。絵画としての視覚の快楽より、精神的で脳の機能を直接作用させるものがある。それはジャコメッティへと接続され、存在と不在(空虚さ、無ではない)の曖昧な不安定さがある。それは境界の接線である。マティスの絵画にもこの不安定さがある。運動という定点のない存在の漸近的で、微分された断面の再統合を試みるひとつの冒険であった。

庭師ヴァリエの肖像(側面),1906年」は:
最晩年の作品で体力の衰えがあるはずだが、本質に接近しようとするセザンヌの真摯な態度が観える。「存在」という重厚さ、密度がこの肖像画にはある。背景は「赤いチョッキの少年」のように具体的なかたちは描かず抽象的で、ヴァリエの像をいっそう存在させるための重い空気の層を独特のタッチで描いている。これほど重力の中心(像の)が観えるこの作品は凄い。少し離れて観ると彫刻的な次元をもっている。それは彫刻的になるということではない。そうではなくて次元の問題がこのタブローそれ自体から生成してくる意識の発生が構成されてくるのである。多次元的(数学では高次元から無限次元まで扱う)な内部意識が対象を離反し知覚の構成というカンヴァスに独立性をもたらすのである。このセザンヌの理念は幾何学的なトポロジーの概念と連関するように思える。現代アートの思考はセザンヌの理念をまさに受け継がれている。デュシャンセザンヌからマティスへと向かい、その思考は確り影響を受けている。

今回、はじめてセザンヌ論めいたものを書きましたが、そのさわり程度は何回か書いている。セザンヌについて語るのは本当に難しい。曖昧に書くと、輪郭がぼけてくるし、存在論的に書くと哲学の方向性にはまり込む。美的に書こうとするとセザンヌから拒絶されるような感じになる。一般論的に書こうとすると、多くの専門家が論じたセザンヌ論に、その言説にとらわれてしまう。結局わたしが感じた偏見的な見方で書くこと以外にない。しかも断定的に観ること。というのも定点を設定しないと、いつまでたっても接近できない。そんな難しさがある。その難しさこそセザンヌの本質ではないか。カンヴァスの中に多次元的な空間がある。それは完成された・・未完成(時空を形成する内部時間)である。



2010年07月13日

ギュスターヴ・クールベを「現代美術の視点から観る」−3

FG-08A/FG-08B
FG-05A

FG-08_AFG-08_B



 


FG-05nudeA

FG-08A:Gustave Courbet
The Origin of the world,
1866
Musée d'Orsay

FG-08B:Gustave Courbet
Le Sommeil,1866
Musée d'Orsay

 

 

 

 

FG-08A:Gustave Courbet/The Origin of the world世界の起源)」の画像はオルセー美術館”にリンクしておきました。部分的な詳細画像も掲載してあります。参照して下さい。絵画を観るという行為は、驚きをもって未知なるものと遭遇する喜びと、好奇心です。この絵はそれがあります。FG-08B:Gustave Courbet/Le SommeilSleepまどろみ)」は、愛の行為のあとの安らぎ、永遠でしょうか。FG-05NudeA」は、わたしが描いた作品です。現代の視点で観るとクールベはどのような経緯で受け継がれているのでしょうかリアリズムとはいったい何なんでしょうかそんなところからクールベは今でも再発見させてくれる概念をもっています近代絵画の出発点はクールベからマネに向かいますマネは写実派でもあり印象派の画家でもありましたカンヴァスにおもいきり塗った筆跡があり、その速度と色彩を観る凄さがあります。いわゆる印象派の筆触分割の方法とは違います。後にこの塗り残しと筆跡を論理的な方法論までたかめたマティスがいます。そのことについての詳細はこのブログのカテゴリマネ、マティスを参照して下さい


さてクールベとはいったいどのようなリアリズムなのでしょうか。美術史的には写実主義ということですが、「世界の起源」は特別な作品であるとおもいます。意味するものと意味されるものとが見事に一致しています。疑問の余地がないほどです。そこで終わり(文字作用とその空虚さ)という記号論のことをいってのではありません。物質性の無限のイメージが湧いてくるのです。現代美アートでいえば、フランク・ステラでしょうか。彼のことばでいえば、「What you see  is what you see 」ということでしょう。つまり、「見てのとおり」だと、物質性そのものを見せるアートです。クールベは観念的な、寓意画の伝統を避けつつ、新たな神話「オルナンの埋葬に関する歴史画 1849年」をつくっています。これは画期的な出来事です。ボードレールの「悪の華」や「パリの憂鬱(散文詩)」などもそうですが、あの第二帝政時代の社会的背景をぬきにしては考えられません。また現代の寓意画ともいえるアンゼルム・キーファーがいます。彼の絵もクールベと類似した点があり、絵画の物質性と歴史画、現代を素材にしながら神話を蘇らせようとしていることです。

その対極にいるのがアンディ・ウォーホルでしょう。キーファー自身は、「ウォーホルは私と同じものを目指しているのだと思う」と言っています。社会機械、欲望する諸機械を念頭において語ったことだとおもうのだが。しかしウォーホルの方が自由度、強度の問題に関してはよりインパクトがある気がします。ウォーホルは社会の制度に対して倫理的な価値判断、こうあるべきだという方向性を見せない。キーファーの作品は詩的だともいえる。キーファーはとてもよく社会の制度をモル的にインスタレーションし、その状況を見せてくれます。それに対してウォーホルはすでに制度化されたものの物質性を蒸発させ、非物体的な自由な平面を見せます。運動の平面を見せてくれます。時間に還元する差異性です。モル的なものを蒸発させ分子的なその微粒子を見せる、「エンパイアステートビル」の作品がそうです。社会体である構造物の蒸発を見る平面です。これがウォーホルの凄さです。

キーファーモル的なものを抽象化する時間の操作が、詩としての構造となっています。書物にこだわる理由はそこにあるのでしょう。リアリズムとはモル的な多様体を分解させ、再領土化する弁証法的な微粒子をつくらねばならない。反転させる時間を芸術にする。クールベの「オルナンの埋葬」などそのように感じます。キーファーの作品も物質性を前面にだしながら、それとは正反対の非物質性、弁証法的な手法をもちいて(詩的なもの)へと転化させることに成功している。


FG-05ANudeA」:このわたしの作品は、エコールド・パリ時代の柔らかな質感をだすため、モノクロで淡いトーンの変化をつけたものです。クールベの画像もそれに合せてモノクロにしてあります。小さい画像であまりよく観えませんが、オルセー美術館のクールベを御覧なってくださいリアリズムということが何となくわかってきます。当時としては画期的な出来事だとおもいます。「世界の起源」はいまでも驚嘆すべき作品です。現代でもその作品は発展途上にある概念を含んでいます。いろんな経緯をへて精神分析学者”ジャック・ラカン”が所有していた時期もありました。医者でしたら、解剖学的な知的好奇心を駆られるエロティックさがあのかも知れません。

わたしはポップアートふうに仕上げたい気もしましたが、触感を誘発するもの、裸婦ではキスリングが好きなので、そのイメージで描きました。クールベの裸婦では眠りのイメージが好きです。クールベは絵画のもっている物質性から大衆を惹き付けオーバーな感じではあるけれども、そこからトム・ウェッセルマンの「グレイト・アメリカン・ヌード」シリーズに結びついゆきます。物質性の平面から観ると、もちろんマネの「オランピア」もあるでしょうし、抽象表現主義のポロックとの関係もあとおもいます。そこからアンドレ・マッソンへと辿ることもできます。マッソンはクールベの「世界の起源」をベースにして描いています。デュシャンの絵では、遺作のプランとしてストックホルム美術館にある両脚を開いたレリーフ状の裸婦の作品”着色した皮と石膏浮彫り、50 x 31cm”があります。かなりエロティックな作品です。タイトルは「1)落ちる水、2)照明用ガスが与えられたとせよ」です。

上述しましたように近代絵画の出発点はクールベとマネになります。詩ではボードレールとなるでしょう。現代の座標から観ますと、(もっともどのような古典絵画であっても現在点からしか観ることができませんが)その時代の文献や系譜を見てセグメントが横断的に作用し、現在へと時間が繋がり、ついにはわたしのなかで現代の社会体がブリコラージュされてくる、構造が観えてくる分けです。これらのものを整理して書くのはたいへん手間がかかる仕事なので、断片的なことを書いているに過ぎません。わたしのこのメモは絵画の概念を発見してゆく行為になります。そしてその概念を解体し、詩的発生の源になるものをつくりだすことなのです。

クールベを観るということは19世紀の社会体を21世紀の座標で感じ、アレゴリー的思考のパースペクティブをみるということにもなります。そして現在の言表行為の枠から飛び出し、新たな主観性をつくりだす21世紀のアート(時代)を身体に感じること。それは最も現代的なアーチストの作品を観るという行為ではないのです。そうではなくて既存の意味作用から解き放たれ、自らがアートの身体をもつということなのです。荒川修作氏の「養老天命反転地」や彼の設計した建築に住まなくても反転可能な身体をもつことなのですもともとつくられたもののなかで、つくられる身体という社会機械を追究した、石田徹也の深い悲しみからどう逃走できるのかデュシャン的な天体のエロスに逃走するのもひとつの方法かもしれない。しかし彼は社会体のなかに確りくみこまれた言表行為の逃走線を考え続けていたひとでもありました。あの「レディ・メイド」は隠された身体であるようなもの。言表行為の影の、そのまた向こう側の「アンフラマンス」・・・



2010年02月14日

絵画とは「視覚を通し、視覚を分離し純粋表象の出来事を創る」

FB12-01/秘めたるもの

空間に立つ人体D

 

劇場としての哲学

---深層への拡がりを持つ物体の
限界点で、出来事は非物体的で
ある。(形而上学的表層)物と言葉
の表層では、非物体的な出来事は

 

 


命題の意味となる(論理学的領域)ディスクールの連なりにあっては
非物体的な意味=出来事は動詞によって留められている
(現在の不定法的な点)----

---出来事の系列と幻影の系列とを共振させねばならない。非物体
的なるものの系列と、触知不可能なるものの系列とを共振させねば
ならないのだ。どこまでも生きのびおのれを顕示する闘いと死の系
列と、飛翔する到達すべき偶像の系列とを共振させること。

それはほかでもない、武器と武器とが触れあう衝撃の向こう側で、
人間たちの心の内面ではなくその頭上に、運命と欲望とを共振させ
ることである。運命と欲望とが両者に共通のある一点といったとこ
ろ、なんらかの幻影的な出来事とか模像の原初的根源といった
場所で収斂するというこてではいささかもない。出来事とは、幻影の
系列には決って欠如したものなのだ。

---それは、起源なき出来事の反復が、およそあらゆる模倣の外部
で、また類似の束縛から自由な姿でおのれをそれと示すという欠如
である。したがって反復の仮想であり、何ものをも隠してはいないど
んな場合も個別的な仮面であり、隠蔽を意図せぬ模像であり、
いかなる裸像を蔽ってはいないみじめに不調和な衣裳なのであっ
て、つまりは純粋な差異なのである。

 

著者ミシェル・フーコー
「言説・表象」劇場としての哲学、
訳:蓮實重彦より抜粋


 フーコーの「劇場としての哲学」はそのまま絵画論でもある。ベラスケスの「ラスメニーナス、侍女たち」やマグリットの「これはパイプではない」は絵画空間ではあるが、ひとつの思考空間を、純粋表象を発生させる言語の力をもっている。デュシャンは言葉の力を、というより詩の力を最大限にデッサンとして駆使したひとである。不可視のものを見えるものとして言語の力を巧みに絵画へと連関させる力、その相互のベクトルの作用によってわたし達を神秘の世界へと導いてくれるのである。最終的には分からないものの感じる世界を生成させ、純粋表象の出来事を創り続けたひと達なのかも知れない。宇宙的神秘。

結局「沈黙の絵画マネへと接続させるバタイユやフーコーの「マネの絵画」に対して異常な関心を抱いているものは”鏡とその視点(場所、位置)”--表象の背後にある何ものかを感じ取ろうとする、一つの逃走線なのかもしれない。けっして捉えることはできない不可能な出来事を可能とする、ある出来事を生成させること。つまりそれを「劇場としの哲学」というのかもしれない。それは絵画とて同じことである。わたしにとっての「劇場としての絵画」は、マネの「フォリー・ベルジェールのバー、1881-1882年」であり、ジャスパー・ジョーンズの「Summer,1985 Fall,1986 Winter,1986 Spring,1986」や「Face with Watch、1996」などである。

わたしの描いた(画像FB12-01/秘めたるもの)ものは、人体らしき影だけで、背景も何も表現していない。ただ色彩の強度(彩度、明度、色相)などの変化をつけただけである。視覚と言語の相乗効果を観たいとおもい作品化したものである。「秘めたるもの」というタイトルにした。何も語っていない絵画、純粋強度の視覚化といえるもの、そんな感じです。フーコーの「劇場としての哲学」は、わたしにとって哲学というより絵画論になるのです。あるいはピエール・クロソウスキーであったりもします。



2009年12月23日

ジョエル=ピーター・ウィトキン「神秘とグロテスクそして聖者なのか」−1

EK22-01

ウィトンキン5

 


EK22-01
「ウィトキンの写真集
より鉛筆スケッチ」

 

 

 

 

Ref:[Sanitarium, New Mexico1983
       photo:Joel-peter Witkin]

このタイトルの写真にでてくる被写体の「太った女性」は、ロープで首吊りにされた猿の死体から2本の管で、彼女の口と接続されているのだ。あらゆる生命体の血を吸って生きている奇妙な吸血鬼にさえおもえる。なんというグロテスクさなのだろうか。わたしはその彼女(被写体)がサトゥルヌスのように感じたのだ。その印象をわたしは急いでスケッチしてみた。いったい彼女はサナトリウム「(Sanitarium)=療養所」で何を療養しているのだろうか・・、わたしには彼女が「サターンの女王」にさえ観えてくるのだ。そこでわたしはソファーに横たわっている、この威容に太った女性を「サターンの女王」として描いた。

わたしはこのサナトリウム(Sanitarium)というタイトルが、何を意味しているのか分からない。しかしこの言葉によって誘発される、ある存在が被写体と巧妙に絡み合って、わたしの感覚に訴えてくる「何ものか」がある。それにしても、ウィトキンの写真はグロテスクなのかエロティックなのか、あるいはゴヤの絵に出てくるサトゥルヌスなのか、理解不能の彼方からイメージがやってくる。その感覚はわたしを刺激するのだ。

2009年11月29日

パウル・クレーについて「カオスと思考、そして顔貌性」

EK27-05red2

哲学者のよわみ

 

 

EK27-05red2
「言葉を持ち歩く男」

 

 

 

 

 

・・結局わたしは法則の一部を
辛うじて盗み、いかにも弱く頼りない
三角形の思考を持ち歩いている。

造形思考とはそんなふうに感じ、
カオスから身を守る「リトルネロ」を
創りだすひとつのダイアグラム、
これをアート行為というのかも
知れない。

パウル・クレーの絵を観ると
ただ人間の「かたち」が
ある一点として、その宇宙像が
観えてくるのです。

わたしはパウル・クレーの
イメージを、その造形思考を
点と線、そしてシンプルな
三角形の幾何学図形を持たせた
”思考する男”を抽象的に描いた。



2009年10月02日

エロティシズム「透視する思考」

EI30-01

エロスの思考

 

 

EI30-01
「透視する思考」

 

 

 


 

この作品は未完成で、フォルムが決まっていません。色彩と線と、それに透明感を与えて、思考のエロティシズムを追究していた時期の作品です。習作で完成していません。放置したままです。まだ体調不良のため、整理は出来ない状態です。とりあえず昔の作品を掲載しました。21世紀に向けた、新しい絵画の内在性(内在平面)を19世紀から掘り起こして論じたいとおもっています。第1回目は「ジョルジュ・スーラ」をとり上げました。19世紀は画期的な概念が多くふくまれています。第二回目も用意していたのですが、体調がおもわしくなく、途中です。回復しだい継続してゆきます。



2009年03月17日

Georges Seurat/スーラ「情動と社会機械」−7

スーラについて第6回は「グランド・ジャット島の日曜日」をとりあげました。第2回と第3回は「アニエールの水浴」の構図について論じました。その装置はどのようなものであるのか、Diagramを作成し、遠近法による視線の方向性が、不可視の構造を生成させカオスの平面をタブローのなかに見事に結晶化させた。この新しい概念を論じました。それはデュシャン的な装置の見方で観ることによって、スーラの絵画は「アンフラマンス=inframince」となる。これはデュシャンの造語で何を意味しているのか各自が体験してみる以外ない。もしそのことを説明しようとすると、トートロジーに陥るか、一冊の書物を書き上げなければならない。詩的に表現するか、実際にそれを創ったデュシャンの「便器=泉モノと言表行為とのアンフラマスでもある)」、「大ガラス」、「遺作」などを観て感じる以外ないというとこです。あるいは自分でその装置を創ればよい。しかしこういう体験は誰でもしているとおもうのだが、再-現前化させその装置を創るとなると、別問題です。デュシャンは「大ガラス」の制作に8年もかかっている。メモを入れると十数年はかかっているはずだ。しかも途中放棄している。デュシャンのことで少々脱線してしまいましたね。もとに戻りましょう。

 

シャユ踊りAサーカスB

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

シャユ踊り、1889-90」/「サーカス、1890-1891

スーラは網膜的な絵画から離反し、理念の幾何学的な感覚の形成を観るタブローとなって現前化してくる。つまり構成された点描の背後に、描かれえぬものの、極薄性の見えないものの観えるものが現前化してくることとなる。この見えないものの、見える視点は空気の層である。空気の微粒子がイデアの内部で結晶化し波動化する。それが「アニエールの水浴」であり、特にこの「ポール=アン=ベッサン、橋と波止場」では小さな女の子の体からオーラがでており、事実スーラは彼女の左側に点描でその空気の層を描いている。実際には在りえない出来事である。不可視の構造としてスーラのどのタブローにもたえず微粒子の影が結晶化した純粋時間のカオスがある。それは現すことも見ることも出来ない極薄性のカオスの平面である。とはいえ理念の内在として形成してくる何にものかを感じるのである。それに向かわすベクトルがあるということです。


情動と社会機械
さて今回テーマの「シャユ踊り」と「サーカス」は、一方は音と身体であり、サーカスは運動と身体である。この両者ともリズムが共通なテーマとなっています。それはひとつの波動をつくること。波動とは作用するものと、作用させられるものとの共振関係ということです。情動という動きを作用させるメカニズムを見せる装置をつくったということです。ここでわたしがいう情動とはスピノザのエチカ第3部定義3のことで『情動とは、私たちの身体の活動力を増大し、あるいは減少し、促進し、あるいは阻害する身体の変様の観念である』と、このような意味の情動のことです。最初にスーラは「アニエールの水浴」で5人の独身者と大地、水、空、そして欲望する諸機械を生産する表象としの工場の煙を描き、まだ社会機械の方へ視点はいっていない。空間と内在に重点を置いている。渡りボートがグランド・ジャット島に向かっているのでそれを暗示はしている。次にそのジャット島という地層のなかで人々の様相を配置する構想にスーラは着手する。「アニエールの水浴」が外と内の内在の構造に感心がいっているのに対しして、「グランド・ジャット島の日曜日」は、社会の反映としての内在に感心が向いている。この時点ではまだ人間の様相が社会機械の表現としての形を、その特異点を形象化しているに過ぎない。当時のファッションを外面的に描いた社会的な係数としての形象である。社会のベクトルは見えるけれど、心の動きはまだ描いてはいない。しかし近代資本主義の波がおしよせて来る、その反映としての心の状態に、その変様のメカニズムをすでにグランド・ジャット島でスーラは観ていたのである。欲望する諸機械の社会的な生産過程を敏感に感じていたというわけである。「アニエールの水浴」では工場の煙突の煙で表象していたのが見てとれる。

さて今回の「シャユ踊り」と「サーカス」ですが、これは明らかに外との反応であるより、内部の情動のメカニズムの方にスーラは感心がいっている。前述したようにこの情動のことをスピノザが的確に述べていることを踏まえて、更に精神のことは次のように述べている。『精神とは身体の観念のことである』と、そこでスーラは身体の様態のシステムに興味がいっている。このときでもスーラは外の時空を観察はしている。海の風景画を同じ時期に描いてもいる。たえず外と内の関係性を、その内在を観ている視点がスーラには必ずある。それはイデアの世界(多様体として)の具現化の確認作業でもある。そこで「シャユ踊り」や「サーカス」では何を表現したかったのだろうか。あるひとはシャユ踊りはあまりに図式的であるというし、サーカスでは何を表現したいのだろうかと、おもえるほど形式的な表現方法をとっている。ある意味では、わたしにとってはDiagramである。その機能を作用させるために意図して図式的な描き方をしている。では一体その機能とは・・そこからスーラの理念が観えてきます。「サーカス」も「シャユ踊」も顔の表情がほとんど記号的であり、何かを表現していることには違いないが個性を表現しているわけではない。顔貌性のそのシニフィアンなのである。事実スーラは顔の形態と情動の関係を記号的に追究していた。

社会とは欲望する諸機械の生産の総体であるということです。社会とはひとつの機械であり、その機械の表現が顔に刻印された、シニフィアンとして形相された表象なのである。名なしの顔、個性というより印(しるし)であり、無数に連接する機械の音、振動などの集合体である一つの係数なのである。それが顔として表現されるときポスターとなる。スーラがポスター画家ジュール・シェレに興味をもった理由はその意味で、一般大衆の欲望する諸機械を記号として表現するそのイラスト的なDiargamとして観る装置のことなのである。初期のスーラは「アニエールの水浴」や「グランド・ジャット島の日曜日」のように身体の配置にとどめ、個体としての内部運動は隠されたまま外部のひとつの表象として表現しているだけであった。静的な配置に徹している。ところが「シャユ踊り」や「サーカス」では内部の運動が外部へ形態として表出するその表情を表現するようになる。顔貌性の追究に、様々な形態による情動の表現をスケッチするようになる。そのメカニズムに興味がいくようになる。これは一体何を意味するのか、スーラは最後にこの課題を残して「サーカス、1890-91」の作品が遺作となり、未完成のまま1891年死去する、享年31歳。

シャユ踊り」と「サーカス」のことに関してそのメカニズムと情動、そして社会機械のいたるところにある欲望する諸機械について論じる予定でしたが、そこまでいきませんでした。それから構図が非常に面白く、その理論的な構成を分析し「アニエールの水浴」で画いたようにベクトル的な見方をするといっそう明確になってきます。「シャユ踊り」は各パーツを分解し再構成する方法はキュビスムの概念です。切断された各パーツを理念によって構成させるイメージの運動が、新たなタブローを生成させる、これは描かれえぬ、n次元のタブローを脳内で形成させる、ひとつの純粋時間の生成でもある。このようにスーラは「シャユ踊りで実験的な装置を創っていたのである。ただ当時の人々はそれを理解していなかった。図式的な表情描写が機械的であり、生気のないものとして感じていたのである。表象の背後にある、欲望する諸機械をスーラはDiagram的に表現していたのである。対象を類似として正確に表現することではなく、記号的な情動表現によってイメージを喚起させるメカニズムを追究していた。この思考は何と現代美術そのものではないのか。

 

補遺:
ジョルジュ・スーラの絵画論
は第1〜第7回まで連載となりました。わたしはスーラの点描の技法につては殆ど論じていません。それを論じると視覚のメカニズムの問題になるからです。あえていえば、脱個性的な普遍性がその空間表現とピタリとあって、スーラの個性と感性をいっそう豊にし、静寂な空間表現に成功しています。機械的なドットの描写表現が印象派の筆触分割技法とはちがって感情を抑えた理念として表現している。したがってスーラを観る視点は点描の背後にある、見えないものを観る理念として思考のうちに形成してくるある実体を感じるというアートなのです。そのことを強く意識していたのがデュシャンなのです。『いく本かの絵の具のチューブが一点のスーラになる可能性はアンフラマンスとしての可能なものの具体的説明となる』とデュシャンは語っている。スーラの絵画は今もシャニックがいうように本当に理解されているとはおもえない。あの点描の美しさの評価で人は満足している。もっと研究されていい画家だ。ゴッホセザンヌと同様、偉大な画家だとわたしは感じている。機会があれば、次回はそのことを現代美術の視点で論じようとおもいます。



2009年02月18日

スーラ「アニエールの水浴とは厳密な幾何学的構成による宇宙像である」−2

緒言
今回の掲載は、幾何学的な構成図を下図”fig3:EB03-01Y0”のとおり追加しました。わたしにとっては「デュシャン」と同じくらいこの「アニエールの水浴は神話的なのですこの作品は画期的な概念があります厳密に構成された装置なのですこの壮大なスケールをもったアニエールの水浴」に、その宇宙像にどこまで接近できるかわかりませんが、スーラの軌跡を追い求めていきます。そのきっかけは何回見てもある法則の基に触発させられ、未知なるものへとそのベクトルが作動するのです。こんな絵画を今までに見たことがない、あえて言えばデュシャンの大ガラス、1915-1923」でしょう。そこには何か原理があるに違いないとおもえようになったのです。またこの絵はたんに視覚からくる要素ばかりではなく、脳に直接振動を与えるカオスの平面が現前化してくるのです。この体験は神秘的で静寂な空間のなかに突然あらわれる原子の運動、あの宇宙の永遠性のようなもの・・それほどスケールの大きい作品なのです。後述そのことを論じますが、これはほんのさわりに過ぎません。その前にはじめてこのスーラ論を読む方は‘09・01・26付掲載をお読み下さい。スーラ絵画の代表作品を掲載しています。またその概念を要約して論じています概要を掴んだあと'09・02・27付掲載「アニエールの水浴その構造図ー3」を読むことをお奨めすます。詳細に論じています

 

アニエールの構図Y2

 

左fig3:EB03-01Y0
アニエールの水浴
幾何学的構造図

下左fig2:EB04_01
「5人の男たち、
1883」クロクトン
装置の構想と内在平面





5人の男たち

アニエールの水浴


下右fig1:EA22_3
「アニエールの水浴

1883−1884」

 

 



2008年12月26日

内在とはカオスの風景である

DL05-10_4A/DL05-20_4A

walkerEwalkerD

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

遠い記憶

内在とは、わたしにとってはマティスなのです。それはジョルジュ・スーラでもあるわけです。外と内の区別のない内在・・そのようなものがあるとすれば、純粋内在、結晶化した時間の現働化、ひとつの幻想をつくりだすこと。スーラの描く人物は空間に反応している身体、いわゆる人物も周りの風景と一体となった内在としての風景なのです。身体のなかに外の風景を描かねばならず、しかも内の光と外の光を等価な風景として描いている。こんな画家はスーラいがいにいない。この背後に巨大な空間、微粒子の無限な集合、あの銀河にも届く宇宙を想起させるものをもっている。これはジュール・ラフォルグそしてマラルメにもある。それは空間性とカオスの問いであり、その内在性のドラマでしょう。そこに運動的なエロティシズムを加えればデュシャンに近づく。その概念を模型化すれば、空間を透明化したあの魅力的な「大ガラス絵」を想起します。

草に座る農夫、1883」の作品はどこかデュシャン的な感じもします。モネに対しては、デュシャンはをあまり評価していない気もします。スーラを高く評価しているのは、風景の背後にスケールの大きい宇宙があるからと想像する。スーラの技法と空間の処理方法はここでは述べません。ただわたしは、コンテで描いた習作はもの凄く空間を意識して描いていると感じる。その空気を捉えようとしているスーラの意識性(内在)が好きなのです。技法がパーフェクトです。空気の微粒子まで伝わって来ます。空気を確りとらえ描いています。この空間はたんなる人物の背景ではありません。それを一生懸命に掴もうとしています。これこそ宇宙そのものなのです。それがよく現れているのは、「アニエールの水浴、1883-1884」のための習作のコンテ画があります。これは広がりのある空間性を光と影でよく捉えて表現しています。このコンテを見ると、人物と等価にその空間表現がテーマであるかのように描いている。わたしはそれにしびれます。

DL05-10_4A/DL05-20_4A:この画像掲載は「内在、すなわちひとつの生・・とは」で掲載した絵をいつそう空間をテーマに普遍化しようと背景の色とその周りをアレンジして描いたものです。わたしにとってスーラとは内在性の原理なのです。此性であり、流動的空気(空間性)の調和を、その微粒子をとらえているのがスーラなのです。そしてマティスの内的な光が内在平面へと展開してゆく思考が、ついには運動そのものを捉えている、存在そのものの現働化を見事に表現した「水浴をする人、1909」へといきつくような気もします。この絵の空間はもはや現実の空気や水を捉えた表現ではなく、殆ど単色のブルーの色彩で抽象的な空間表現となっている。マティスの絵のなかでは最もシンプルで、存在そのものに向かわす美であり、そのダイアグラムである。そう感じさせるわしたしの好きな絵のひとつである。わたしの絵では空間をひつの記憶として描いている。内面としての要素、その空間性です。



2008年11月30日

デッサンシリーズ「イカロスの墜落」ー7

DL30-30A

イカルスの墜落A1

 

 

DL30-30A
「イカロスの墜落」

 

 

 

 

 

 

 

イカロスの死とは

神に接近し過ぎると、
なぜ二度ともどってこれないのか、
ニジンスキーは「牧神の午後」を踊った。
その後、彼は何処へいってしまったのか。

同一性の喪失とは、アイオーンの
永遠回帰、こんな誘惑をなぜするのか。

ディアーナの水浴を、その輝く裸体を
偶然目撃しただけで、なぜアクタイオーンは
鹿に変身させられ、自らひき連れてきた猟犬に
食い殺されねばならないのか。

 

このデッサンシリーズでは既知の神話を描き、それを現代の中にどう対応してゆけばいいのか見るために描いています。またイカロスを分子的なカオスへと想起させる線、その空間性をみるための、わたしのデッサンメモです。それにしても失う(死と主体性の喪失が)ということがなぜエロティックなベクトルをもつのか。

・・欲望するとは、消費社会の装置のなかで消耗させる機械なのか。それはウォーホル的な欠如を生産する欲望の機械、反転された主体性の喪失、同一性の反復行為のなかで反神話をつくりだすことなのか。・・シミュラークルの、そしてシミュラークルの機械をつくりだすこと。強度を機械化し麻痺させ主体性の喪失と同時にシミュラークルの同一性をくつること。フラクタルな精神構造を量産するアートであること。こんなふうに思わすウォーホルのアートは、定点もなければ、数直線上にもない。それから外れた、複素数のアートなのか。

K30-30:「イカロスの墜落」の画像は『”イカロスの哀悼”、ハーバート・ドラッパー、1863〜1920』の絵を参考にスケッチしたものである。ドラッパーの絵ではイカロスの翼が異常にでかく絵画空間としての魅力を追究している。わたしはラフスケッチで翼を小さく描き、天と地上の中間にいる状態になるよう描いている。このスケッチは描くことが目的ではなく、その思考を読み取ることが重要なのです。そのため女性は省略して描いてはいない。ドラッパーの絵は周りに3人の女性を描いて、一人の女性は墜落したイカロスの遺体を背後からいたわるように支えた構図になっている。それはピエタ的であるより、ずっと現実的な女性に感じます。他2人はそれを見守るような情景で描いている。



2008年11月27日

人体の夜「portraitX(顔貌性機械の平面)−4

DK26-40RED/DK26-40BLACK/DK26-40BLUE

portraitAportraitBportraitC

 

 

 

 

 

 

 

PortraitX
人体の夜

夜はなく昼もない、光はたえずある。
それが人工的なもであるのか
自然的なものであるのか、
そこには区別はない。

ただ光があるということだけで人は群がる。
夜行性の光のなかで飛びかう群れ、
それが何の光であるかは知るよしもない。

人体の夜、それは夜という意味ではない。
白昼の太陽の光は影をつくる。この影は夜
となり、昼の夜という作用をとおしてカオスの
顔を見せる。

・・ただし不在の影、--言語はそのためにある。
誰かを演じさせるために、--自らを現す顔貌性の機械・・
本質を覆い隠すために主体性の機械が作動し始める
相互に、すでに浸透しあっている。

 



2008年11月07日

デッサンシリーズ「イカロスの上昇と落下」−6

DK06-10A
DD06-10B

上昇するイカルス

 

 


 



 

 

 

 

 

 


DK06-10A
上昇するイカロス

太陽の光の向こう側へと
逝かねばならない。燃え
尽きた後に、暗黒の死の
光が待ち受けている。
そこを徹りぬけると、
わたしは死ぬ。

 

イカルスの落下

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



DK06-10B
落下するイカロス

わたしは死に、黄泉の国に
どんとん落下してゆく。
もどるてだてはない。不在の
影で死に、言葉だけが生きる。
そのときわたしは2ど死ぬ。

 

「イカロスのイメージ」

イカロスのデッサンは初めに落下するイメージがでてきた。上昇のイメージではなかった。この落下はカオスの海への落下を、死としてメタモルフォーゼさせる身体の旅立ちのように感じた。翼を崩壊させ、メルトダウンさせる変容の熱を誰が与えているのかという問いを感じたのです。むしろ融けて落下することをはじめっからイカロスは望んでいたのではないか。そのイメージがわたしの無意識のなかにあったのだろう。それは当然上昇の結果なのである。上昇も下降も同じ位相の無限大の深淵であり、バロック的な上昇と下降なのである。落下する暗黒の重い重力は無重力の思考のトポロジーというわけである。

わたしにとってイカロスは、危険を省みず無謀な冒険をしてはいけない、というたんなる教訓では決してない。脱領土化へのアンチ・オイディプスなのであり、詩作行為するものの登竜門だ。カオスの微粒子を感じる詩がそこになければ、たんなるメジャーな作品にすぎない。パウル・クレーの偉大さはカオスの風がいかなるときでもそこにある。領土化された父の警告を無視した深い病はあるのだが、あの暗黒というやつだ。痛みをともなわないアートはないというわけである。前回は別々に掲載しましたが、上昇と下降するイカロスの両方を観てこそ、ある本質が観えてくる。それは:

クレーの「さえずる機械」を観るとカオスとは何か、アートとはどのような行為なのか分かってきます。

またマティスは芸術について次のように語っています。

芸術という名に値する芸術はすべて宗教的です。線や色彩でつくられた創作物があるとしても、もしこの創作物が宗教的でないなら、それは存在していないということです。もしこの創作が宗教的でないとすれば、そこに問題となっているのは記録の芸術、逸話的芸術にすぎない・・・もはやそれは芸術ではないのです・・』

ということでマティスの言葉で、この「上昇するイカロス」と「落下するイカロス」のデッサンを終ります。この言葉は以前書いたマティス論に詳しく書いています。



2008年11月06日

デッサンシリーズ「上昇するイカロス」−5

DK06-10A

上昇するイカルス

 

 

 

DK06-10A
上昇するイカロス

 

 

 

 

 

 

 

 

ヘルダーリンのように
あまりに神に接近するでない
身体は燃えている。

 

 

わたしは前回イカロスをカオスの暗黒へと突き落とした。それは死へメタモルフォーゼさせるためにブラックホールをつくった。消えることではなく、復活させる死を天体の暗黒なかに閉じ込めた。ゼロ次元の時間をもたない点として時空のない虚空間の胎児へ、再び受胎告知を受けるあの壮大なビックバンを、宇宙の始まりへと落下してゆくイカロスをイメージした。しかしそのまえに思考の燃え尽きる、あの天上にひたすら接近したいという至高性があるのだ。殉教の身体によって「無」ないし、消滅を願う死への接近があるのだ。ひたすら美しいこと、純粋な至高性へと。しかしながら、それはブラックホールであり、カオスの罠を自らの意志によって望む神秘、黄泉の国へいくオルフェではないのか。

 



2008年11月04日

デッサンシリーズ「イカロスの落下」−4

DK06-10B

イカルスの落下

 

 

 

DK06-10B
イカロスの落下

 

 

 

 

 

 

 

 

暗黒の海へ

それは大地に落下するのではない。
あのブラックホールの暗黒の海へと
落下する。カオスは至るところにある

 

天体の永遠回帰

太陽の向こう側にも、
黒い光が待ちかまえている。
虚無のさらに虚無を遮るゼロ点の
原初の黒点がある。

始まりの終わへと回帰する
虚時間の終点に向けて落下する

それは誕生の塞がれた子宮に、
冷やされた円環運動へと回帰する
胎児を身ごもる。

天体の永遠回帰、
その扉をあけるのは誰・・
熱するのは誰・・

銀河の雲が花嫁を
それに交接させるまで、
まだ眠っている。

 



2008年11月02日

デッサンシリーズ「隕石の落下は炎となって・・」−1

DK03-02A/DK03-02B/DK03-02C

人体の夜A人体の夜B人体の夜C

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人体の夜

隕石の落下は炎となって身体を燃やす。
わたしは元素化する身体の微粒子に
立ち向かうというよりは、静観し
その炎の痛さに耐えている。

混合した地層の、その人工的な元素と
化学反応を起こし燃えている。
純粋な標的を狙い隕石は落下するのだが、
地層はすでに大地を汚している。

 

 



2008年05月11日

ボードレールとマネ「裸体の蒼空・・あの素敵な雲」−2

FA21-04A/FA21-04A

雲と空A雲と空B

 

 

 

 

 

「裸体の蒼空-供
あの素敵な雲

前回、ボードレールとマネのことに関して書きました。ボードレールの散文詩(パリの憂鬱、17・髪のなかの半球と)「1・異邦人」の最後のフレーズが気になって、何とか表現ができないものかとおもい、暗示的な方法で左上の部分のみ顔をとり込み、背後から光りを感じるよう、微かに色を付けてみた。前回のデッサンでは、内面性としての情動を表現し、外との連関は内部のひとつの接線として関係性をもつのみで、具体的には表現していませんでした。今回は外の光りを顔に射れ、その関係性を最小限にとどめ、抽象的な方法で表現してみた。内部から外へではなく、外から内部の線へと向かう、外が主体となる様相にした。上記のFA21-04A/FA21-04Aはマネの「燕、1873年」作品の空の部分のみ掲載したものです。いずれこの「燕」という作品に「かくされた沈黙」を論じたい。当初わたしの作品を掲載していたが、あまりに駄作なので削除しました。上述だけの文をのこしました。

マネのモデルでは「煙草を吸うジプシー女、1862年」馬の背中にジプシー女が肘をかけ煙草を吸っているポーズです。この背後に前回も書きましたが、マネは蒼空の空間を画面の3分の1にとどめ、無限を暗示させる描写となっています。そのことが、かえってイメージが無窮に広がり、素晴らしい表現となっています。舞台装置として馬を2頭配置し、その背後に蒼空を描きジプシー女との対比が見事です。それは外と内部(ジプシー女の表現)の連関が驚くほど構造的で、タブローそのものを見させるマネの様相は、現代美術そのものです。近代詩の始まりが、ボードレールからランボー、マラルメへと接続されてゆくのもよく分かります。そのことと関連して、マネを見ますと現代美術の始まりを強く感じます。話しは現代にいってしまいましたが、ボードレールにもどりましよう、そこからわたしがイメージするのはボードレールの散文詩「1 異邦人」の詩篇の

『----僕が愛するのは、雲です・・・流れて行く雲・・・ほら、あそこ・・・ほら、あそこを・・・あの素敵な雲!』

という最後のフレーズです。わたしは、この詩篇からイメージが無限にでてきます。ジュール・ラフォルグもそうですが、わたしにとって絵画とはイメージそのもので、視覚的要素であるより、不可視の構造を可視的に表現する方法が、たまたまわたしにとって絵画という感じです。視覚の快楽は脳髄からやってくるより、外の表面から浸透する心地よさです。デュシャン的にいえば、網膜の快楽ということでしょうか、強度的には脳髄の刺激より多少弱い気もします。詩のインパクトは、まさにその辺の刺激です。この刺激を可視的にしたいわたしの欲求が絶えずあります。

 

ボードレール:パリの憂鬱
「1 異邦人」渡辺邦彦訳、
発行所:みすず書房、参照



2008年05月10日

ボードレール「裸体の蒼空(パリの憂鬱)とマネなど・・」−1

DD25-02_1

裸婦A

 

 

 

DD25-02_1
「裸体の蒼空-機

 

 

 

 

 

 

わたしはボードレールの散文詩「パリの憂鬱」のなかで<髪のなかの半球>がもの凄く好きで、そしてたまらなく辛い感じが伝わってきます。とくに最後の詩句『・・私は思い出を食べているような気がする。』というこのフレーズ、心にジーンと響きます。そしてこのあとに「1 異邦人」の散文詩の言葉へと続き、天上的なフレーズとなって現れてきます。『・・僕が愛するのは、雲です・・流れてゆく雲・・ほら、あそこ・・あの素敵な雲!』という情景です。

ボードレールの散文詩に「30・縄 ”エドゥアール・マネに”」という画家に対する想いを書いた散文詩があります。これはマネのアトリエで働いていた少年のことを詩っています。その少年の名前はアレクサンドルといい、15歳のときに自殺してしまいます。マネはその少年をモデルに描いています。「さくらんぼうをもつ少年、1859年」この絵は、マネの絵にしてはめずらしく少年の顔を生き生きと描いています。とてもこの少年が自殺するようには思えない。そのギャップが胸を打つ。

マネがどのようにその少年を観ていたか、まさにボードレールの散文詩「30・縄 ”エドゥアール・マネに”」でてくる少年の像がこの詩篇のとおりなので驚く。マネは観たものを観たもののとおりに描く、最初の近代画家であることがよく分かります。ボードレールの恋人を描いた「横たわるボードレールの恋人、1862年」のマネの絵は迫力があり、圧倒されてしまいます。

ミシェル・フーコーやジョルジュ・バタイユがマネ論を書いているのは、身体としての存在論であり、表象の彼方にある、その現れ方が、マネのタブローの意味作用が、非ー意味作用として返ってくるその特異性なのである。観てのとおりという絵画の自立を確立したことである。これは現代絵画の先駆けです。わたしはマネの絵を何回観ても神秘的だ。<人間とはいったい何だろう>という問いです。もしかして消尽する虚無ではないのか。

DD25-02_1:「裸体の蒼空」はコンテで描いたようにセピア色にして自由な線の走りと、余白の塗り残しが効果を生むようそのイメージを描いたもの。素材はマネの「煙草を吸うジプシー女、1862年」の印象を柔らかい情動がでるようひとつのかたちを断片化して描いたものである。結果としてマティスふうになったのが面白い。”煙草を吸うジプシー女”では馬の背中に右肘をつて煙草を吸っている。その後ろの背景は雲と空である。この絵と散文詩「1 異邦人」の最後の詩句をみるとわたしはマネの描いた空がそれを表象しているように感じるのだ。わたしのデッサンでは上部背景を黒く擦り雲の陰のようにし、空を描いてはいないけれど無数の線のタッチの隙間から微かなイメージとして空が見えればいい。

 

この詩篇は「ボードレール、パリの憂鬱」のなかの
「1 異邦人」「30 縄 ”エドゥアール・マネに」
「17 髪のなかの半球」を参照 みすず書房:渡辺邦彦訳



2008年03月29日

ジュール・ラフォルグ「ステファーヌのオマージュ」−5

DC06-02Brown_3b3

覗く少女

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


DC06-02Brown_3b3
「大木の節穴から覗く少女」

 

「少女がこちら側を気にしながらちらちと見る
あの好奇心旺盛な年頃の少女たちを懐かしく
おもうのだ。

天使の顔と、秘めたるエロティシズムを
すでに隠しもっている。誘惑の顔を、そして残酷さも
備わった気質を、あの弱々しいおとこの子を
からかっている優しい少女をおもいうかべる。

やがてペルセウスに殺されることになる
従順な怪物にわがままをいうアンドロメダと、
この少女の相貌をおもいだすのだ。

未熟なステファーヌは、怪物の力はないけれど、
無垢な心をもっているのは同じ。

「本当は優しい少女で、
ステファーヌ・ヴァシリューが好きなのだ。」

その日は生徒監が転校生をつれて入ってきました。
彼はたったひとりでリセにこの6月に転入してきた
ステファーヌ、少女はひと目見たときから少年が
この寂しいリセの医務室で死ぬであろうことを
予感していました。

ステファーヌの愛は、幼児キリストの優しい母としての
マリアを望んでいたのだ。」

 

不可能な愛を希求すれば、そこに残るのは意志としての愛、形而上的なあの宿命的な生涯となってしまうでしょう。孤独と絶望そして絶対的な安らぎを拒否される残酷な生活。そこから広大無辺の宇宙的神秘像へと昇華してゆくポエジーが生まれてきます。官能と狂乱の乱舞する銀河系の無窮の世界にむかう。ノスタルジーが「地球のすすり泣き」となり、それを超え、無限の孤独が神への愛に変容する美しさは喩えようもなく輝いている。それは一つの煌めく星座が無数の輝く星々へと伝わりついには銀河となる。この比類ない美しさにわたしは惹かれる。そして「ペルセウスとアンドロメダ」のなかの怪物がメタモルフォーゼする光景をおもいうかべる。

愛を知らずに、また愛されもせず、見捨てられた孤独なこの美しい少年を、「ステファーヌ」をわたしは残酷な姿から救い出すため、聖母マリアを少女に変え、大木の節孔から覗かせたのだ。ステファーヌを見守る神として、”フランチア、フランチェスコ”の「聖母子、1649年」の顔を、大木のなかから覗く少女の顔としてコラージュしたのだ。この優しく描かれた母としてのマリヤ像がイメージとしてピッタリなのである。フランチェスコの描く明るい生命的な相貌が凄くいい。

このラフォルグの書いた小説「ステファーヌ」の結末は、神に己の身体を抱かれたいという、ラフォルグの願望が見えます。それはシスターの柔らかさ、温もりを感じたいという絶望のうちに死んでゆきます。そのドラマのなかで外の情景との対比も大変暗示的です。エンディングは次のようになっています。

『・・ひとりシスターだけが、蒼白の死せる少年の傍らにとどまっていた。二本の蝋燭の光りをともして、大きな尼頭巾(コルネット)をかぶった顔をうつむき、小声で祈りをつぶやきつづけていた。

可愛そうに、ステファーヌ・・・』

 

訳したひとの文が情緒的にならず、けっこう読みやすかった。これは難しい訳だとおもう。童話的にもならず、神話ふうでもない訳し方なので、わたしはすぐ入りこめた。この「ステファーヌ」の小説はラフォルグが21歳のときに書いたものです。

最初に書いた上記の文は、この小説を読んだわたしの感想文として妄想したものです。クラスのなかには必ず「ステファーヌ」を見守ってる少女がいるはずだ、という想定で書いたのです。ラフォルグの小説ではシスターが見抜いていましたね。しかし彼女は現実の女性ではなく、おそらく神なのでしょう。

本当に美しいものは目には見えない”姿”をしています。それを見破るひとがいる限りポエジーは存続します。あの「ペルセウスとアンドロメダ」にでてくる”怪物”が最も幸福になる資格があると、ラフォルグはいっています。しかしそれは最も自己犠牲を強いることでもある。愛とは、自らを失う生贄の意志なのでしょう。その意味でラフォルグは「伝説的な道徳劇」を書いたのでしょう。吉田健一の訳も素晴らしい。

 

ステファーヌ・ヴァシリューとは、ジュール・ラフォルグの小説
「ステファーヌ」という題の主人公の名前です。1881年作、
訳:志村信英、<発行所:森開社、1976年発行、>を参照

「ラフォルグ抄」の”伝説的な道徳劇”のなかの
「ぺルセウスとアンドロメダ」を指します。
訳:吉田健一、<発行所:小澤書店、発行1975年、>

「地球のすすり泣き」は「ラフォルグ全集機
訳:広田正敏、<発行所:創土社、発行1981年>

以上の三冊は限定本なので入手は難しいかも知れません。ラフォルグの好きな人は熱烈な愛好家なのですでにもっているとおもいますが、あえて参考に上げときました。わしはラフォグルが好きで挿絵を3点ほど描いています。デュシャンも挿絵を描いています。なぜ好きなのか、それは宇宙的なスケールをもっているからでしょう。

下記に掲載しています。
神話の構造−2「ジュール・ラフォルグ」
神話の構造−3「ジュール・ラフォルグ」
神話の構造−4「ジュール・ラフォルグ」



2008年03月22日

無窮を鏡に映し、二つの石に変容する

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二つの石

 

 

 

 

 

 

 

 

 

BI23-20Blue3_5
「現出した二つの石」

水の空間は自らを固体化することで
無窮を鏡に映し、二つの石に変容する。

 



2008年03月17日

エロスとタナトス「横たわる裸婦」−1

 AL2301-3Y

横たわる裸婦B

 

 

 


 

 

 

 

「横たわる裸婦」

生命の内部には「エロスとタナトス」がある。
その秘めたる時間は、突然やってくることもある。
意識するとき、エロティシズムは形而上的な
ものではあるが、それは性へのイメージの
物質化でもあり、性のメタファーでもある。



2007年10月15日

エロティシズム「他者の彼方へ」

AK1501C_6

Love

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

すべてのものが無音となるように

・・そこでわたしは舐め続けなければならなかった。
彼女の喜びは一段と増し、その秘めたる音が無音
となるよう、わたしは行為の彼方へと行かねば
ならなかった。



2007年04月27日

生と死 「夜の鳥”静かに聞こえてくる”」

CD14-50Bro1/CD14-50BlaA

暗黒の鳥2

暗黒の鳥1

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「夜の鳥」

こうしてわたしは夜になると鳥に変身し、
小さな木に停まり、
それを待ち受けねばならなかった。



2007年04月06日

ルイス・キャロル「”アンドロメダ”ケイト・テリーのイマージュ」

CD06-02

ANDROMEDA

 

 

Miss Kate Terry as
"ANDROMEDA"
(pencil on paper)




 

 

 

 


「アンドロメダ」

前回ルイス・キャロルのことに関して書きました。多くの研究者によって論じられています。わたしは楽しみのために書きます。また描きもします。どのような評論をみてもアルトーの毒を呑み込んだ言葉の錬金術の前に退散せざるをえないでしょう。なにしろ深層の世界を、身体と言語の両者のせめぎ合いを一秒たりもと許さないあの「器官なき身体」の極限に接近するアルトーの意見はもっともであると、想う分裂病者のわたしがいる。その後からすぐ無意味の体験を拒否する身体の変調に悩まされる。置き去りにされた身体の回収に右往左往するというわけです。詩人でないわたしにはこの変調を言葉に現すことは到底無理というものです。

画像掲載(CD06-02)はアンドロメダに扮した少女(ケイト・テリー)をチャールズ・ドジソンが撮った写真である。わたしの好きな写真である。ドジソンの写真では、少女の意識の喪失感と身体の恍惚感のような感じがあり、柔らかさのでているとてもよい写真です。そこから光りがでています。わたしの鉛筆スケッチでは、その感じであるよりはリアルな緊張感となっています。描いてみて分ったのだが、顔と眼の表情がものすごくデリケートです。写真のよさでしょう。それを描くのは別な方法が必要です。ただ長い髪の毛は写真のとおり描いてはよさがでないので、柔らかさと金髪のイメージがでるよう描いた。結構ドジソンの少女の写真にしては珍しくエロティックです。



2007年04月05日

不思議の国のアリス「”少女の写真”アリス・リデルのイマージュ」

CD05-01B

リデルのイマージュ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「アリス・リデルのイマージュ」

わたしはルイス・キャロルがなぜ少女の写真を撮るのか、その理由は分らない。精神分析家の言葉はもっと分らない。ドジソンはアリス・リデルに物乞いの娘に扮装させ写真を撮っている。興味ある被写体であり、”物乞いの娘”というところが惹かれる。「アリス・リデルのイマージュ」と直接関係があるか分らないけれど、少女に翼があり天使らしいのだが、そうではない。見えざる時間の翼をドジソンはそこに夢想していたのではないか。少女のエロスを隠すこと。秘めたる音を聞き取っている。

つまり何かが起きている。少女の身体に、その思考に、そこで止まり、時間が停止している永遠の少女は、エロスと死というところから隔離された何かがある。ドジソンは言語空間の虚無を存在という生成変化の空間をかたちつくる。そこには無いあるもの”空虚の実体”をかたちつくる。その倒錯を少女の被写体に感じとっている。それが悲劇的であるのか、ワンダーランドであるのか、わたしには分らない。ただ「アリス・リデルのイマージュ」という極めて深い何かを感じさせるのだ。ドジソンにとっては身体を言語の中に封じ込め、逆転させること。倒錯こそが見えるものから、見えないものへの移行であり、言葉に呑み込まれること。それは奥深く落下するアリスである。

少女写真の関連記事はルイス・キャロル「アンドロメダ”ケイト・テリーのイマージュ」で画像掲載しています。

CD05-01B:
画像掲載はコラージュの技法にボカシをいれ色彩したものです。この絵が何故ルイス・キャロルの少女のモデルへとイメージが喚起してくるのか不思議です。もちろんそれ以外のイメージもあります。愛する人を失った悲しく辛い想い。神が彼女にその辛さの代償に翼をあたえたのだろう。それは成就されえぬ愛が天国まで続いているかのような印象など・・。物語とはたぶんそういうものです。何かが顕になる出来事とは、神というイメージが付き纏うのも確か。

画像掲載の絵(CD05-01B)は「不思議の国のアリス」とは直接関係はないが、エロスと死という深層の世界で起きている出来事の恐怖とは、見えないものの身体の変調、空間の変位のことなのでしょう。あり得ないことのありえる物語が「不思議の国のアリス」なのです。それは倒錯の世界であり、苦難の身体化でもあります。言語が身体を呑みこむ恐ろしい世界です。わたしはそのように感じるときがあります。



2007年03月13日

マネの絵画「その不可視の構造とは・・」−3

CC12-20

鉄道

 

CC12-20
「鉄道」
サン・ラザール駅
1872-1873年
画集より鉛筆スケッチ
(原画はカンヴァスに油彩)




CC13-10a

キリストと天使

 

 

CC13-10a
「死せるキリストと天使たち」
1864年
画集より鉛筆スケッチ
(原画はガンヴァスに油彩)









 



前回、『マネの絵画』についてミシェル・フーコーのテクストがどのようなものであるのかわたしなりに感じたその印象を書きました。驚いたことに、ジョルジュ・バタイユも論じていたのです。わたしはそのことを知らなかった。フーコーのマネ論を読んで分かりました。バタイユについてはこのブログでも「死を前にしての歓喜の実践」からイメージを受け、わたしの”ドローイングを掲載”しています。またバタイユの書物を何冊か読んでいるので感ずるところはあります。それにしてもバタイユは、なぜマネに興味をもったのだろうか、不思議だ。その接点はどのようなものなのか興味があります。
 

多分宗教とは何の関わりもなく「空虚と死」というテーマが日常的な出来事のなかに表象されている。このマネのタブローに興味を惹かれたのだろう。勿論マネの絵に宗教画をモチーフにしたタブローはある。『キリストの嘲弄』、『死せるキリストと天使たち』などである。特に“死せるキリストと天使たち”はキリストがたんに死体としての「もの」として描かれている。かなりショキングな描写である。この視点はキリストをどのように観たらよいか、戸惑いと思考の停止を伴うでしょう。古典的な見方に慣らされている人々にとってはブーイングでしょう。というのも古典的なタブローはその視点に方向性をもたせ、表象を固定した場所へともってゆく、その方向性によってタブローを観る。ところがマネは、方向性はもたせるが、その場所が不在なのである。マグリットの“これはパイプではない”という言表と描かれたパイプとの乖離は「その落としどころ」が不在なのである。この不在の中に内在するベクトルが思考に作用し見させるのです。このタブロー(パースペクティヴあるいは装置)は完全に現代芸術の視点です。思考を作用させる装置なのです。つまりわたしが言いたいのは次のことです。

 

『思考は快感や苦痛とまったく同じく眼に見えません。しかし絵画は一個の困難を介入させます。つまりものを見る思考、眼に見える形で叙述し得る思考というものがあるのです。「侍女たち」はベラスケスの眼に見えない思考の眼に見える像です。眼に見えないものは、それではときとして眼にみえるのか?それにはその思考がもっぱら眼に見える形象だけから成っていることが条件です。』

 

この言葉はルネ・マグリットがフーコーに宛てた2通の手紙うちの一つですが、隠された“もの”が見える形にするタブロー(装置)が思考のうちに顕わになる、ということを意味しています。しかしここで“顕わになる”ということが何を意味しているか、説明はできないでしょう。それが迷宮というものです。この不在の中に内在する“もの”、思考の作用によるイメージのベクトルが発生し、速度と大きさと方向性をもつことによって感覚を隆起させる。つまり描かれていはいない描かれる絵を感じることになる。鑑賞者は自らタブローを創らねばならない。マネの絵画は古典絵画のように表象されたのもがある場所へ移行させ、類似的な意見を拒否する。鑑賞者の視点をコントロールはしない。それは宗教画でもなければ、風景画でもない。それはある“もの”の物質性を提示するための宗教画であり、風景画であり、人物画でもある。そのある“もの”とはバタイユのいう、非物質性からなる物質性の「空虚と死」を現前化させるタブローである。この感覚とは神秘的にバタイユ的にいうなら、

 

『神々が出現する前の時間のない時間についてであり、神々が死滅した後の歴史のない歴史についてである。』

 

ということである。このことの意味を後に「死せるキリストと天使たち」で述べます。まずは「鉄道」のタブローから観てゆきます。わたしにとってはマネの絵画はどれをとっても思考を刺激する、眼にはみえない見える思考を作用さるタブローなのです。ではその作品の代表のひとつである「鉄道」を鑑賞したいとおもいます。思考をはたらかせて下さい。そしてモネのタブローよりはるかに凌駕し、現代芸術的であることが理解できます。それゆえ敬遠される要素をもっている。当時もそであるが、今日でもそうでしょう。

 

さて眼に見えないものとはどういう装置か、この不可視の構造をもっているマネのタブローが形ちとしてよく現れているのが「鉄道、1872年(サン・ラザール駅)」という作品です。この絵はタイトルがなければ何を表現しているのか不思議な絵で、しかもタイトルが「鉄道」であっても、汽車は描かれていず、そこにはレールがあるのか、ないのか判別さえできない。というよりむしろ積極的に描いてはいない。かすかに暗示程度にとどめている。それに比べて汽車の吐き出す白い煙は水平線の鉄柵上部に殆どのスペースを割いて描かれている。そしてザブタイトルが”サン・ラザール駅”でその建物すら殆ど見えない。見えない”もの”をタイトルにするのは、それ自体をタブローとして組み込ませる。そこでフーコーのいう「これはパイプではない」へと接続させる要素があります。というより如何に現代美術的な「言葉と物」の関係をフーコーがマネの絵画にも観ていたか理解できます。しかもこの書物の第一章が「侍女たち(ラス・メニーナス)」のベラスケス論からはじめているのです。--こんな画家はマネ以外にいない。もっと飛躍すれば、デュシャンの「便器」を”泉”と名づけた原理的な構造へと発展することさえ想像できます。

 

・・この白い煙は、まるでデュシャンの「大ガラス」上部の雲の形状のようですらある。見えないものへ、不可視の構造を機能させるために作られた装置、この雲(汽車の煙)が全ての謎のように覆いかぶさっている。それを見つめる少女(モデルは画家アルフォンス・イルシュの娘)、いったいそこに何があるのか。機関車だとはいえ、鑑賞者には見えない。少女の後ろ姿だけがそれを暗示しているのみである。そして左画面にはベンチに座っている女性(モデルはヴィクトリーヌ)がいる。この女性は汽車を見ている少女の母親なのか、あるいは姉なのかも知れないし、他人かも知れない。その関係は定かではない。しかしその眼差しは明確に鑑賞者を見ている。デュシャンの「大ガラス」にある眼科医の証人のようでもあり、タブローを見ている鑑賞者を見ている。女性の膝の上に寝ている小さな子犬だけがその永遠性からくる刹那さ、空虚さから解放されている。結局のところマネは何を描いているのか、依然として謎である。そこにあるのはその仕掛けであり、装置としての強固な物質性である。そしてこの物質性とは雲のかなに隠されている非存在の鏡である。

 

しかし「死せるキリストと天使たち」はもっと巧妙で何が隠されているのかタブローを見る限りどこにもてがかりはない。鑑賞者が見るものはただの死体となって白い布の上に座っているキリストの像である。あえていえばこの白い布の物質性が、「鉄道」を見る少女の後ろ姿がそれを見ていることを暗示しているのと同様キリストに視線を向かわせ、こんどは「鉄道」のように汽車の吐き出す白い煙を描写することによって、隠された“もの”を暗示させてはいない。より具体的に磔後の死んだキリストの身体を描写している。この描写はリアルでたんなる死体としてしか描写していない。鑑賞者はこのキリストを見て困惑するはずです。なにも語っていない。宗教画でありならそれを超え、復活する身体でありながらそれを放棄し、キリスト像なるものを何にひとつ暗示してはいない。身体自身が不在なのだ。つまりそこに“もの”がありながら、空虚という器を見るだけなのである。何かが隠されている。

 

「鉄道」では眼に見えない(白い煙のかなに)“もの”の観える思考であり、「死せるキリストと天使たち」は、それとは逆に、眼に見える(キリストという身体)“もの”の観えない思考が発生してきます。そこで鑑賞者は観えない思考を見える思考の不在にぶつかります。ジャック・デリダ的にいうと、“名を除いて”という否定神学的な要素を感じます。これこそが、神々が出現する前の時間のない時間であり、スピノザのいう実態としての情動を誘発する。しかしながら殆どの鑑賞者はその前に不在の陰に挫折する。死体という不快な情動しか喚起されない。それは当然のことであるとも言える。つまり、「鉄道」の白い煙の向こう側は、鑑賞者の視点に委ねると同様、キリストの身体はあなたの心を映す鏡として反射してくるばかりなのである。  

 

今回、マネの絵画に接して観て「鉄道」と「死せるキリストと天使たち」を取り上げました。わたしの感じたその概要を書きましが、他にも「バルコニー」、「オランピア」、「草上の食卓」、「フォリー・ベルジェールのバー」など多数の作品からわたしはインスピレーションをもらい、語り尽くせない程のイメージが湧いてきました。そしてマネの心を感じたいとおもい、わたしはその構図を辿り「鉄道」と「死せるキリストと天使たち」を鉛筆でスケッチしました。やはり素晴らしいパースペクティブをもっており感動しました。あらためてマネは、あらゆる意味において現代美術の始まりであり、タブローに対する思考方法は描くものにとって大変参考になるという発見がありました。機会があれば引き続きわたしのマネ論を語りたい気もします。

 

現代絵画としての装置:
ジャスパー・ジョーンズの絵画についての画像掲載は別ページに掲載しています。
ポップアートの旗手たち「ジャスパー・ジョーンズとマネの絵画そしてフーコーなど」−8

 

 

『』部は「(これはパイプではない:ミシェル・フーコー著)

訳=豊崎光一、清水正」、「(現代芸術の出発:ユセフ・イシャグプール著)

訳=川俣晃自」を参照



2007年02月23日

マネの絵画「結局フーコーは何も語っていない」−1

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川辺の風景

 

 

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川辺の風景

 

 

 



 

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海辺の岩

 

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夕日の海辺の岩

 

 

 

 

 

 

CB23-A2

校内の林

 

 

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校内の林

 

 

 

 

 

 

最近、ミシェル・フーコーが論じた『マネの絵画』というタイトルのついた本を偶然見っけたので購入してみました。多分フーコーの著作でなければ購入はしなかったとおもう。すぐにマネの画集を2冊購入し何日も何日も見続けました。そしてフーコーの論じているテクストがどのようなものであるかわたしなりに思考し、感じたことは、何も語ってはいない。それはフォーマリズム的な批評で、とりたてて驚くようなことは書いていなかった。

しかし、それは表面的なことでフーコーの思考体系がマネという絵画のなかに生きたかたちでその地層が存在している。そのことについては堆積した形と地層の形式しか語らない。なぜそのようなテクストになるのか、その意味はフーコーしか分らない。このわたしですらこれは大変なことになる、一生涯付き纏う問いがそこにはあると直感する。

「知の考古学」、「言葉と物」、「系譜学」、「臨床医学の誕生」e.t.c・・このように、自らが確立したこの厖大な知的体系に匹敵すること以上の何かを、そのエクリチュールをこの「マネの絵画」に注ぎこまねばならい。・・という暗黙の感じをもっていたに違いないと推測する。書くことより沈黙を選び、マネの絵画にあるものを密かに想い続け死んでいった。という気がするのです。このことを考えるとマネ論は表層的でフォーマリズム的なスタイルをとったのだろう。

解説は静かで、「・・私はほんの少々疲れています。」という出だしで、そして控えめに「私は門外漢ですから・・」という謙虚な気持ちで、はじめに19世紀の絵画史的な概要から語っている。この概要はすでに現代絵画の概念を的確に指摘しているのには驚かされる。それは、ただ技法とその視点だけなのですが、描く者にとって大変暗示的なのです。

・・“キャンバスという空間”「タブロー」が、マネはどのように空間を表象したか、という点です。これこそすべてという出だしなのです。そしてスライドを映して解説してゆきます。わたしは読み終わって深い問いが次から次へと頭の中によぎり、ひとつの現代美術の成立に立ち会うような、奇妙な体験に近い感動を覚えました。この感動を追い求めると、マティス絵画の旅へといった、わたしの思考過程を書いたことと同じようになると感じました。フランク・ステラやミニマリストたちのタブローであるより、むしろジャスパー・ジョーンズなのです。不可視の構造という意味でそうなのです。物質性へということであるならステラのいう。

『 What you see is what you see 』

なのですが、フーコーの思考している対象は物質性へと移行するイメージの構造をつくり出す諸々の装置の背後、表象が問題なのです。そうするとわたしにとってジャスパー・ジョーンズへと接続されるのです。このことを論じてみようとおもうのだが、実際に作品(装置)をつくって見たい気もしてきます。そんなふうにおもわしてしまうフーコーのマネ論は刺激的です。

 

画像掲載の解説
CB24-10Aは、まだそれほど印象派を意識して描いてはいませんが、油彩をはじめるとは、わたしにとって印象派からです。このときはシスレーが好きでよく画集を見ていました。この絵は、どこかの雑誌かポストカードに掲載されていた絵をわたしが模写したものです。だれの絵か、あるいは写真なのか、今は覚えていない。18歳のときに描いた絵です。

CB23-A1は、わたしが絵画を学び初めた20才頃の作品です。まさに印象派から学んでいるのがよく分ります。当時はピサロやシスレーが好でした。モネに学んでいたのは筆のタッチや色の配分でした。マネの良さは、まだわたしはよく理解していませんでした。文明というもののある言説を、エピステーメーを感じ、それを思考する能力がなければマネを理解することは難しいでしょう。もちろんそんなことなど、どうでもよく、絵からストレートに感じることはできます。しかし絵画は思考です。描く者にとってはそうはいきません。視覚と思考の戦いがあります。

CB23-A2は、後期印象派へと進んでいることがわかります。22歳の時に描いた絵です。これから様々な方向性に発展する要素がすでにこの絵画に見えています。キュビスムや構成主義、モンドリヤン、アンフォルメルなど、もうすでに現代美術の思考方法が直感で理解できているときでした。わたしは早く美術史からぬけでたかった。その後何枚か描いて、すぐにデュシャンの絵に惹きつけられた。そのときもデュシャンを分っていた訳ではなかった。ただもの凄く美しかった。そこでわたしは「大ガラス」の模写をおもいついた。このブログに掲載しているものがそうです。
またこの絵をよく見るとピカビア的な、分子状になった物質的(「泉」1912年)なメカニズムへ発展する要素もすでに含まれています。ピカビアは、これから機械的なメカニズムの作品へ移行しています。デュシャンも後に「大ガラス」の作品をつくっています。このように「校内の林」は様々な方向性をもった作品です。しかし、この作品には抽象表現主義の方へいく要素もありますが、当時のわたしは絶えず具体的なかたちを求めていたきもします。抽象的な表現は感情のイメージへと接続され易い要素があるので要注意です。現在でも抽象的な表現は避けています。具体的な物質を表現に使うことを心がけています。但し、その物質が何を意味するかは、無意味の発生装置を考案しなければならない。

 

上記画像はわたしの絵画歴の一部を掲載しましたが、マネを理解するにはある程度描いている人にとっては思考を作用させる絵画であることが分ってきます。マネ自身は自作についてあまり語っていないようです。もっともわたしがそれほど「マネの絵画」について知識があるわけではありません。今回、印象派に多大な影響を与えたマネということで、わたしの印象派ふうの初期の油彩画を掲載しました。描くという行為とその対象との関係を意識しはじめた時期です。

わたしにとって絵画は描くことではなく、思考し表象の彼方を発見してゆく視覚化なのです。その意味で「マネの絵画」は驚くべき表現をタブローのなかにもっています。後になってそのことが段々分ってきます。「マネの絵画」は描く者にとってひとつの神秘です。その意味でモネよりはるかに重要です。

現代絵画としての装置:
マネの絵画とジャスパー・ジョンズの絵画としての装置は別ページに画像掲載しています。
ポップアートの旗手たち「ジャスパー・ジョーンズとマネの絵画そしてフーコーなど」−8













2006年12月18日

Joel-Peter Witkin [ DISCIPLE & MASTER ]

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磔のキリスト

 

 

 




「磔のキリスト」

ジョエル・ピーター・ウィトキンの「DISCIPLE & MASTER」の写真集を見ていると、この絵「磔のキリスト」をエンディングのページに置きたい気がします。ウィトキンの写真は、わたしにとって宗教画なのです。ウィトキンの写真にはなぜか「神」というイメージが付きまとう。あんなにも残酷でグロテスクなのに。このようにどうして宗教的に感じるのか不思議だ。

この絵の描写元は、キリストの肉体から血を流しているもので、あまりにリアルに描いてあった。その画集を見てわたしは強い印象を受けショックを感じました。それを逃さぬよう、いっきに流れるように鉛筆でドローイングしました。素晴らしいできばえであった。しかし今ではどの画家の絵か覚えてはいない。デッサンだけがのこっている。

放置したままの、このデッサン画の線のタッチが生き生きしていたので、中世の宗教画を想起させたいとおもいつき、再現してみようと考えた。そこで画像処理し、本物の金粉で色を付けたようにしてみると、線のタッチとピッタリ合い、金のプレートで作ったレリーフのようになり、緊張感と光りを感じる聖像となってイコンのように仕上がった。

わたしは無宗教でキリスト信者ではない。しかしながらウィトキンの写真集を見ると、宗教的な精神性の深い何かを感じるのです。今日では、「神」という概念がどのようなものであるのか、全く想像できない。中世のような宗教画でもないし、仏教では「神」という概念はない。

かろうじてイヴ・クラインやデュシャンの絵をみて「神」ということの意味が別な方向から見え隠れしている。それと同じようにウィトキンの作品を見ると感じるのだ。わたしは中世の人々がどのように「神」を感じているのか知らない。

デカルトやスピノザが論じていたところの「神」の存在から、「神」の不在へといく声が、微かに聞こえるのを感じます。それに変わるものは何か、という問いが芸術なのではないか、こんなふうにウィトキンの作品は提起しているのかも知れない。それにしてもなぜあのようなグロテスクな作品をつくるのだろうか。



2006年11月23日

時空のはじまり「Space-time forms」・4

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「Space-time Forms 4」
ソネット----沈黙

ある種の質---ある種の合成質が存在する。
それは二重の生をもち、その故にそれは
物質と光とから発生し固体と影とにおいて
具現化されるあの双子のような本質の典型を
なしている。二つの面を持った沈黙がある
---海と浜辺--- 肉体と霊魂。

草の新たに生い茂った淋しい場所に
棲んでいるものがある。神の恵みと 人の記憶と
涙に満ちた知識の力は それを恐ろしいものでは
なくしているのだが、その名前は「もはやない」
それは沈黙の化身だ こわがることはない!
その身に 邪悪な力をそなえていないのだから。

だが 何かさし迫った運命(時ならぬ因縁!)に
導かれてその影に(人跡未踏の荒涼の地をうろつ
きまわる名なしの精に)出くわすことになった場合は
神に 自らをゆだねるがよい!

 

ポー詩集「訳=入沢康夫」参照



2006年11月21日

時空のはじまり「Space-time forms」・2

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「Space-time Forms 2」
ユリイカ

『・・もうおわかりかと存じますが、私が「無限の空間」なる語句を用いても、不可能とわかり切った、絶対の無限なる観念を持って、と読者に御願いいたすのではございません。私の意味したのはたんに空間の「考え得る限りの最大の広がり」--動揺常なき想像力につれて、伸び縮みする、影のごとく揺れ動く領域、であります。・・』

 

ポオ全集3巻
エドガー・アラン・ポー:「ユリイカ、訳=牧野信一、小川和夫」参照



2006年11月20日

時空のはじまり「Space-time forms」・1

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「Space-time Forms 1」
ユリイカ

『・・さて、私の一般命題とはこうであります。---最初のものの根源的な単一状態には、次代のすべてのものの続発すべき原因が潜んでいる、と共にそれらのものの必然的な破滅の萌芽も潜んでいる、ということ。この観念を例証するために私の提案したいのは、精神が独自の印象を真に受け入れ知覚し得るような宇宙を通観するということです。』


上記の言葉はエドガ・アラン・ポーの『ユリイカ、物質的ならびに精神的宇宙についての論文』の一部を抜粋して掲載したものです。わたしはポーから得たイメージを挿絵として描きたいとおもった。前回掲載したこともポーに関してでした。作品は習作で、何通りか描いたもののひとつです。

運動という概念は外部観測の物理的事象を記述しているひとつの形式に過ぎないのです。それは普遍的要素ではありますが、決定的ではありません。しかし文学でそれを捉える時、内部観測となり、その妄想と想像で天体の運行に参加するのです。

時空のはじまりとは、妄想であり、平行線が交わり非ユークリッドの無限の世界へと思考が羽ばたく感覚的実在となるのです。絶望の果てに、そういう世界にいかざるをえないポーをわたしは畏敬の念で尊敬するものであります。その気持ちで挿絵らしきものを描いてみようとおもいました。暗黒の空間と、その大地に四次元の痕跡の影としてその星々の運動の軌跡を標したい。

 

ポオ全集3巻
エドガー・アラン・ポー:「ユリイカ、訳=牧野信一、小川和夫」参照



2006年11月17日

エドガー・アラン・ポーとゴーギャンそしてマラルメなど

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時計

 

 

 

 

 

 

 


 

「Never More」

『・・鴉は答えた、もはやない
そして鴉は決して羽ばたかず、
尚もうずくまる、尚もうずくまる、
わたしの部屋の戸の真上の、
色蒼ざめたパラスの像のその上に。
そしてその両眼は夢みつつある
魔神の姿をさながらに、
そしてランプの灯は流れるように
床の上にこの鳥の影を落とす。
そして床の上に漂いつつ横たわる
その影から、私の魂の遂に
逃れることは---もはやない!』

 

上記の詩はポーの「大鴉」より最後の部分を抜粋(訳:福沢武彦)したものです。この「もはやない=Never more」という言葉は不思議な呪文のような言葉です。わたしはこの言葉が・・何処から聞こえてくるのか、知りたくはありません。もし暗い闇からやってくる死者の声だとしたら。しかしこの言葉は何人も避けることができないある不思議な力をもっている。

・・これは星雲の誕生と消滅を暗示するひとつのドラマであり、天体の彼方からやって来る振動音であるようにも感じる。その宿命の声を訊いてしまったポー、そういう言葉であると感じる。絶望と挫折の暗い運命におかされた人のみがなしえる、あの宇宙の星座を記述することが可能となる。それは「神の声」を書く資格がポーにはあるということです。

あまりにも過酷な暗い闇の世界に踏込み、孤独と妄想の果てに到達する厳密な思考を確立せずにはいられない。そういう絶望の世界をポーは希望の形而上学に変える。この星々の光りを、ついには精神に宿らす神の魂をもつに至る。それゆえポーの「ユリイカ」には深くわたしを励ましてくれる。それはポーから天体の光りをもらい、生きる力を授ことなのです。

ゴーギャンもなぜポーに惹かれたのだろうか。マラルメがポーの詩を訳して挿絵をマネが描いています。このマネのリトグラフをゴーギャンは気に入っていた。すでにマラルメの訳以前に、ボードレールの訳を読んでポーを知っていた。しかし何故ゴーギャンはこのポーという詩人に興味をもったのか、一つのミステリーだ。しかも「Never nore=もはやない」という運命的な言葉に捕らわれたのだろうか。横たわる裸婦が描かれているキャンヴァスの左上に”NEVER MORE"(ネヴァーモア、1897年)と文字で書きしるしてあり、その右側にセザンヌ風のタッチで鴉を描いている不思議な絵だ。運命を予感しているのだろうか?誰の・・というより人類の。

・・そしてマラルメもどうよう虚無に到達したあの壮絶な詩「イジチュールまたはエルベノンの狂気」とはどこかでポーの詩と通じている。このようにポーにおける「ユリイカ」の精神的宇宙論とマラルメの詩とは同じ星座に属している。この2人ゴーギャン、マラルメはポーの詩を通して大鴉の「もはやない」というその運命に、天体の運行に身をゆだねた人種だ。

この同じ迷宮に属する言葉、『・・我れが、あなたがたをふたたび無に沈めようとしているなどとおもわないように、・・』というマラルメのフレーズと『・・床の上にこの鳥の影を落とす・・逃れることは
—もはやない・・』というポーの言葉の意味は、謎の問いであり、返答はない。そしてゴーギャンの言葉へと接続される。

『我々は何処から来たのか、
我々は何者か、我々は何処へ行くのか』

この深い問いへ。
いったい誰が解答をみいだすというのであろうか。
問い続けることが生きることであり、信じる以外にない。

「何を・・

『・・もはやない』という問いの彼方を、砂漠を歩きながら神の向こう側へと行かねばならない。



2006年09月23日

マゾッホ「忍び寄る青い手」官能の誘惑

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「忍び寄る青い手」

鏡に映た青い手が、忘れ去れた霊媒の官能の誘惑とは知らずに人は恐怖心の快楽を貪る。なにやらエロティックな誘惑を死の影と引き換えに身の危険を晒す。快楽の接近術は、自由の呼吸法をみにつまされて窒息死させるSMの行為を演じる。この背後に見ているという形而上学の精神を楽しむ思考が存在する。

恋する男女の結合法則のまえに、闘争と終焉の掟があることを忘れている。歓喜の後に、忘却された回廊が待ち受けている。生存の美を死者たちが白日の夢に魅される罠に陥れる。それゆえレオポルト・フォン・ザッハー=マゾッホの「ドラゴミラ」や、聖母「マルドナ」という美しい女にはきよつけたほうがいい。

現実的にはいないのだが、思考が存立平面に向かわせる力を感じ、あの霊力が作用したとき、それは生理まで高まった極致、生贄の公理が思考を黙らせる。思考はその為にのみ存在する。ドラゴミラが言う、私に恋をしないでねと。

『・・私の進む道は、苦悩と苦痛を経て、言葉にならない懊悩、恐怖にみちた闇を経て、やがて光明にいたる道なの。その道を行きたいなんて言わないでね。』

もうお分かりでしょう。この後はなにも語るまい。

 

 

注)「ドラゴミラ(魂を漁る女)、同学社:訳、藤川芳朗」を参照。他にマゾッホの作品で「聖母」も出版されています。残酷ではあるけれど大変美しい作品です。画像掲載してあるものとマゾッホにでてくる美しい女性、「ドラゴミラ」や「マルドナ」をイメージしてください。誘惑という恐ろしくも美しい何かを感じるかも知れません。

マティス論は後、2回で終了予定です。 「有人彗星」管理人



2006年09月19日

マゾッホの「ドラゴミラ(魂を漁る女)」など

この記載は別ページに移りました。
下記のタイトルをクリックして下さい。

マゾッホ「ドラゴミラ(魂を漁る女)」官能の誘惑



2006年09月16日

マティスから現代へ「物資と記憶」−6

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TheJungle

 

 

 

 

 

 

 







前回の風景と人物「ポートレートA(池の辺)」では内在平面を試みました。まだ明確に方向性がさだまってはいない。最終的には記号を生み出す記号であるような作品の方向性を考えてます。そのプロセスを掲載しました。今回はそのモチーフを使って現代の社会性を無意識機械をストレートにだしました。このタイトルは「The law of the Jungle, ジャングルの掟」とつけました。言葉がある喚起力をもち、絵に力をもたらす効果を考えねばならない。わたしはこのタイトルの言葉が気に入っている。

このように一つのモチーフでわたしは劇的に方向転換をします。わたしにはスタイルはありません。抽象的な思考を質料の構成によってスタイルを決めるのです。その意味でピカビアのスタイルは、わたしにとって理想でもあります。同じことの繰り返しのない、それでいて少しも抽象的エッセンスが変わらない思想の持主である。わたしもそうありたいものである。



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