文化・社会

2012年12月05日

文明とエントロピー「アートはそのひとつの記録である」

この3つの作品は(1・Neon Light, 2・DEVELOP A MINE, 3・A Beam of Light)物質に対する見方を提示したものです。それぞれ連関しています。1・Neon Lightでは日常的に接している人工的な光を抽象化しモノとして、2・Develope a mineではその最初の物質を抽出した鉱山の場景を、3・A Beam of Lightではその総体としての文明を、歴史的な時間性のなかに空間化かされた都市のイメージをつくった。の作品は、負のエントロピーを維持するたにつくり出されたものの乱雑さの状態を示した。人はこれを有用なモノという。言い換えるとエントロピー増大へと向う状態にあるモノの提示ともいえる。熱力学的平衡状態にあるプロセス、つまり死へのひとつのを示した作品です。しかし生命は絶えず負のエントロピーを取り入れ、いまも存続している。その地球生命の歴史38億年経った現在でも続いている。これは偶然とも言えるし、驚異的な出来事です。その出来事を記録しているのが偶々アートであった。そのように私は行為している。

 

容の言葉

 

 

1・NEON LIGHT

色彩(光)とはどのような感覚なのか。
見えるものの現象で、私には、
人工の光と自然の光とでは、どちらが
心地いいものかの判断はできない。単純に
そこにある光として見ているだけ。
たとえ人工的につくりだした光でも、
日常生活では、それにいちいち
反応はしない。しかし深層意識では、
その残像がどこかに堆積している。
松明や蝋燭の光とは別の言葉を
持っているに違いない。
私たちは多くの言葉を持ち過ぎる。


 

 


 

鉱山

2・DEVELOP A MINE

鉱山とは思考の物質化であり、
文明のかたちを見る最初のモノである。
自然と人工の分離が始まる。
原生林の生命エネルギーの秩序を破壊し、
エントロピー増大に加担する。
都市をアレゴリー的に見るとは、
廃墟を見ること。
アンゼルム・キーファーのアートは、
決して心地いいものではない。

 

 

都市工学

 

 

3・A BEAM OF LIGHT

生命は負のエントロピーを環境から
取り込んでいる。都市が増殖するとは、
廃墟も同時に進行している。
システムを構築するとはそういうことだ。
それは、つくりだすことによって、
絶えず乱雑さが増す。この法則は、
どんなものでも成り立つ。思考をモノに
変換してゆく度にエントロピーが
増大してゆく。都市化の思考とは、
巨大な闇黒の穴。
それはエントロピーの増大
眼には見えないブラックホール。
熱平衡状態へと進む宇宙へ
周りには無数の家々が、
高層ビルが立ち並んでいる。

 

 

 

こうして私達は何千年も前から古代エジプトをはじめ、
繰り返しピラミッドのようなものをつくり、
そのエントロピー増大の乱雑さを恐れ、
永遠の生命へと向かい、かくして神を望むようになる。
「人類の一本の電子ビーム」を外へと、
外へとコンタクトする希望の星を探している。
ついには大気圏を脱出し、
宇宙船の小さな機械の中で星を眺め、
見果てぬ星々の希望を抱いて生きている。
私はベンヤミンを憶い浮べる。



2012年10月12日

KLAUS NOMI のために「わたしは、ひとつの星座をつくった」−5

HJ10-01B

KLAUS NOMI

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

わたしはKLAUS NOMI と三色の文字を書き印た

クラウス・ノミの背後に十字架を描き終わった後に、その遠く遥か
彼方に煌く星座をわたしは描いた。人々は彼の一瞬の閃きと永遠の
時間を共に過ごした、あの狂乱と熱の眩いばかりのライトの
点滅とノイズ、闇黒と一瞬の光をそのクエーサーの活発な遠い昔の
銀河を呼び寄せるノミの姿を

それは革新的なコスチュームで登場したSamson and Delilahだった。
古典的なオペラでアリアを「あなたの声に我が心は開く」を歌った
ノミ。低俗な姿なのか、高貴なお姿なのか、はたまた聖なる姿なのか、
あの官能と性の狂乱に死を携えて遣ってきた。同性愛者ノミ 

美しく刹那い声、無限のなかの有限 愛と死を、消え往く身体の星を
歌い上げていた。右上にネオンの人工的な夜の光として、わたしは三色の
文字を重ねKLAUS NOMIと書き印た。上の文字は赤を、そして透明な
マントにも赤を入れ、命がけで立っていたノミの傷跡の印として入れた。
その下の黄色と緑色はそれを支えるものとして記入した。

私たちの銀河は眠りのなかで太陽系に属した地球という小さな
生き物。さらに小さく小さく呼吸している人類、ノミは物質となり、
ひとつのクエーサーとなって輝かせた。官能と死を賭け、
一瞬のうちに駆け抜けて往ってしまったNOMI
決して忘れ去られることのないNOMI、わたしはこの星座を
永遠の印しとして描いた。

 

わたしはクラウス・ノミのことをいつか書こうとおもっていた。西洋キリスト教の思考と古典的なオペラが、ニューウェーヴ系の音楽とうまく融合していたそのセンスに驚愕していた。ノミの音楽はいつでも生の身体の官能性愛と死を歌い上げていた。ウォーホル的な死の形而上学であるより、形而下的な身体として愛と死)を歌い上げていた。しかも限られた身体の有限のなかに無限の精神を密かにもっていた。キリスト教的な回帰を、原罪と救済というテーマが「Keys of life」のなかに見られる。

ここでいっきにフーコーにいこう。パレーシアのこと「死を賭して真実をいうこと」とは、どのような方法で・・、プラトン的な「魂の形而上学」から反プラトン的な身体と官能のデカダンス・・引き裂かれた身体を受け持つこと。しかし誰がこの身体を受け持つのか・・?主体か外へか、あれでもなく、これでもない、それか(自己と他者の統合)、そこから「「無分別の分別」という言葉がでてきたとたんに西洋的な思考からいっきに離反し、東洋へと向う。フーコーを語ることは仏教的な思考を擱いといて、つまり仏教以外のことを語るすべて。

そんな西洋的な思考を教育され身につけてしまうと、立ち上がれなくなった身体を、どうすれば歩けるようになるのか。落下するたびに跳びあがらねばならないバレーの幾何学的な方法を身につけ始める。しかしそこから近代芸術はその方向性と同時に、デカダンスを背負うこととなる。さてどうするというところで、いまも現代アートはうろうろしている。

第1回目が「西洋的思考のクラウス・ノミ」からはじまり第5回目の今回で終わりにする。わたしは西洋的思考東洋的思考相違をボート眺めてたいただけでアート行為をしていた。しかしどうも何か息苦しい、この窒息状態をパンクロックの人々は叫び、身体の開放をストレートに表現していた。しかし生成してくる身体の法則を再び無化してしまう。機械のような身体であった。

そのような行為は芸術的な表現に参加している人々からはあまりそれを感じることはなく、むしろニューウェーヴ系の音楽から多くを感じていた。そのなかの一人がクラウス・ノミであった。わたしは彼の音楽から受ける感覚を言葉にしてみようとおもった。

そこに大きな問いが、社会と身体(キリスト教的な歴史認識)愛と死、性と官能、あらゆる問いがフーコーと重なりあってくる。西洋による西洋の思考とは何か・・・という問いであった。それは東洋人にとっての西洋的思考とは、という問いでもあった。わたしは西洋的思考と激突することなしに、うまく融合する表現を探し続けている。その延長線上にどんなアーティストがいるのか。たぶんトリスタン・ツァラをわたしはおもいうかべるだろう。トリスタン・ツァラは何かを終焉させたかったのだろう。
ボードレールランボーマラルメ、絵画ではマネがいる。彼は何も描いてはいない。何も・・・



2012年10月06日

クラウス・ノミ「KLAUS NOMIを偲んで」−4

HJ10-01A

KLAUS NOMI_THE COLD SONG

 

 

 

 

HJ10-01A
Drawing in

The cold song

 

 

 

 

 

 

わたしは遠い天体の方へ往ってしまったクラウス・ノミを偲んで「The cold song 」の詩をイラストのなかに書き記した。想えばクラスス・ノミの音楽を最初に聴いたのは「Keys of life 」だった。異様な美しさを感じた。何かが終わったような静寂があり、非常に神秘的な音楽だった。どこかもの悲しい響きがあり、中世ゴシック建築の教会のなかで聴いたら、もっと感動するだろう。この音楽に込めたメッセージはキリスト教的な原罪と救済というイメージが喚起されてくる。

Keys of lifeの詩のなかにある、--From ancient worlds I come. To see what man has done--、太古の世界からというフレーズは原初的な人類の、Keys of lifeはどこに、この深い疑問と歎きを感じる。都市化された思考の果てに---何処へ。ノミは救いをもとめている。人間は何処から来て、人間は何処へ往くのだろうか。最後の音は空間に反響して融けていくように静かに散って往く。終末をむかえた都市に何かがはじまる。そこにあるのはただ静寂と、地下に消えてしまった人類の痕跡。
--The future has begun--

The cold song 」の歌は、ノミの意志のすべてがあり、暗黒の身体のなかに、幾何学的な骨組で支えられた透明なマントは、すでに光と化するノミの身体の化身のようにおもえ、消え往く恒星の最後の光をおもいだす。太陽の光より遠い暗黒の空間に光る恒星の光りだった。一瞬の光のなかに永遠がある。ノミはそのような光をもっていた。そのときノミの姿は、すでに向こう側に往ってしまた。私達の手の届かないところへ
---Let me freeze again to death--
官能と冷たい狂気を一生懸命歌っている。この歌を終わったあとに手を合わせて、お礼の仕草をしていた。感動せずにはいられない。

Wasting my time 」では消費していく身体と意識がどんどん無化してしまう。その無常を切々と歌えあげている。そしてそれを支えるのは、きみなしでは生きて行けない。という響きさえ聞こえてくる。

 

上記掲載画像は「The cold song 」を歌っている姿を急いでスケッチし、
その詩を添えたもの。そして性と死、無限の愛を希んでいたクラウス・ノミ
姿の後ろに十字架を描き、それが遥か彼方からやって来る恒星の光の
便りであるよう描いた。同性愛者クラウス・ノミ 1983AIDSにて死去
享年39歳  合掌 

 



2012年10月01日

クラウス・ノミ/KLAUS NOMI 「デカダンスその愛と死 」−3

クラウス・ノミの「The cold song 」を聴くとワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」をおもいだします。マリア・カラスより特にA・ヴァルナイの「イゾルデの愛の死」を聴くと感じます。

ノミを語るとはどのようなことか、古典と現代のあらゆる芸術の形式をそこから読みとれる。ではそれが芸術かというと、そんなものにも収まらない。また大衆音楽かというと、そうでもない。彼の伝記はまだ書かれていない。あるいはわたしが知らないだけかも知れない。ウォーホルメイプルソープ、キース・ヘリングなどはすでに多くの伝記が出まわっている。ノミはごく一部の熱狂的なフアンの人たちに広まっていった。

1983年彼がAIDSで死去してからしばらく忘れ去られていた。しかし2005年に彼の伝記映画「The Nomi Song 」が制作されている。その感動は決して忘れ去られるようなものではない。わたしはノミが音楽ばかりでなく、ひとつの物語を視覚的に一瞬のうちに見せるパフォーマンスアートとして見ると、最高峰の表現を持っていると見ている。しかも芸術とはいえないあるもの。そんなふうに見ている。

つまり欲望する機械の視覚と音楽の言表行為、--社会の係数がそこにはある。たった独りの現代の楽劇、まさにこのことが主体内部のノミのものであると同時に、それらは無限に離反した情報の波、一つの記号体である。この記号体(身体)は欲望する機械破損することのデカダンスである。歯車自身が回りながら、歯車を破壊する。集団的アレンジメントノミを形成すると同時に、それらの外にでてゆくこと。離脱、恐らくこの行為は狂乱となった、ひとつの身体を提供する。それこそが芸術とはいえないあるもの、わたしはそこに注目する。

4年前の2008に現代美術の作品が集結した「横浜トリエンナーレ」は、集団的アレンジメントパレードを見るおもいはするが、外にでてゆくこと感動と狂気を秘めた非人称行為人体の傷ノミほど感じなかった。ノミの音楽は、良いものか、あるいはそうでないのか、区別さえつかない。これは芸術でさえない。まさにひとつの機械だ。しかもそれがわたしを深く感動させた。音楽だからという理由だけではない。芸術とは、という理由よりもっと別なところにある。



2012年09月27日

クラウス・ノミとフーコー「西洋的思考としての生と死」−2

束の間のお祭りであったヒッピーカルチャー終焉後の1980年初頭は、ニューヨークの街を見るとすでに金融に向って動いていた。拝金主義の市場原理主義たちが、かつてのヒッピーたちを馬鹿にしていた。ウォール街のビルから見下した人々がいる。いまでも地球規模でマネーゲームが行なわれてる。ヒッピーカルチャー2012年から見ると、目に見えない哲学を提示していたことがわかる。それはきわめて古典的な問いであることに気づく。制度とは、競争とは何か、利益とは何かという問いだ。嘗て人類史上ないほどの規模で数パーセントの人々が投機目的で全地球の資源を食い荒らしている。人それ自身もたんなる投機で人間の誇りを取り上げている。人間は人間自身を滅ぼす機械が作動している。この機械は止めることができない。機械自身の破損によってしか止まらない。つまり人間をやめること以外に道はない。もともと地球上に人類は存在しなかったのだし、また再び地球上から消滅していくだろう。「地球のすすり泣き」に耳をかたむける。そういう人々がどこかにいる。神話にすがりつく人類学者たちの「悲しき熱帯」をわたしは思いうかべる。

しかしこの機械に自らの命を賭けて破損しようとする人がいる。それを狂気というのなら、投機目的で人間の尊厳を破壊する人々は暴走機械と化した人類消滅の機械ではないのか。これは狂気を超えた恐ろしい機械だ。そんな機械をまえにしてアンダーグランドでは身体の自由を求めて官能エクスタシーの狂乱がはじまっていた。そのなかにひとりの哲学者がいる。それはフーコーではなかったのか。思考と身体のこと、その真理を、制度と歴史を追い求めえていた。通事的なものと共時的なものの言語と身体。しかしこの厳密な思考としの身体とは何か・・あくまでも西洋的思考であり、西洋的思考のなかで生の出来事を見ようとしていた。あのマネの絵画ね・・・という沈黙の声がフーコーから聞こえてくる。ギリシャへと飛んでいったフーコーパレーシアのことだ。マネの絵画本質とは何であるのか、どこに真理があるのか。分割不可能な沈黙、こう言ってよければ、ではないのか。これこそ真理の沈黙と言えるような何かがある。フーコーチュニジアで講義して以来マネについてはなにも語っていない。沈黙のままこの世から去ってしまった。

わたしは東洋人なので分割という概念はいっきに「無分別の分別」という日本的霊性に身体が動く。宗教ではない宗教、
Buddhismのことだ。トリスタン・ツァラdada宣言からわしはそれを読み取る。ボードレール死後51年後に書き記された1918年のダダ宣言だ。無宗教の空無の真の力、「ほとんど仏教的な無関心の宗教への回帰」というやつだ。キリスト教的時空から遠のいた東洋へ手を差し伸べている。そこまできていた。

それにしてもボードレールの晩年の眼は哀愁と憂鬱、無限の愛から遠のいてゆく深い悲しみがある。キリスト教的霊性の愛と憎しみの入り混じったボードレールの顔を見ると「そうとうしんどいなー」というところから近代の思考がはじまった。そんな顔貌性をしている。デカダンスの美学社会機械を止めること。身体を張って歯車の一部であることを止めること。「悪の華」や「パリの憂鬱」はいまも別の形で生きている。クラウス・ノミも死を抵当に身体を賭けていた。キリスト教的霊性を望んでいたのではないのか。

まさにノミ1980年初頭の性と時代の表現であった。翻って考えて見るとクラウス・ノミ20世紀後半の新たな病に、最初にAIDSで亡くなったアーティストであった。いまならフーコークイア理論で論じられることも可能であろう。キリスト教の歴史は性の真実に多くの禁止と、それを悪と考えていた。しかしバタイユを見ると、帰ってカトリックマリア像が浮かんでくる。「眼球譚」では非常に美しい描写がある。超越的な母性的な逃げ場を、内在的にもっているとさえおもえる。ジュール・ラフォルグは明に聖母マリアだ。やがて宇宙的な官能的世界へと昇華してゆく「地球のすすり泣き」とはクラウス・ノミの「Keys of life 」、「Cold song 」そしてに帰する「Wasting my time 」この3つを感じてしまう壮大な詩だ。

クラウス・ノミはこの「地球のすすり泣き」をたった独りで現代の楽劇を演じていたのだった。ニューヨークの人々は彼が21世紀への来るべき時代の予告を演じていたのに気づかなかった。1979年彼はマッドクラブに出入りする人々に、この狂乱の姿を見せていたのだ。一方フーコーは渡米するたびにサンフランシスコのゲイのパーティーに出入りしていた。アメリカに移住しよとさえ考えていた。芸術とはいつもこの性の問題に直面し、社会現象とこの性と身体の問題を関数の上で賭けしていた人種だ。19世紀中頃からはすでに宗教絵画はなくなり、近代資本主義の思考が台頭してくる。ボードレールはあらゆる意味で近代の思考を身体で受け止めていた最初の詩人であり、後にはランボーマラルメポール・ヴァレリーが、アメリカではすでにエドガー・アラン・ポーがいる。自然科学の発展と資本主義の関係は、そのまま上述のようにポーからボードレールマラルメ、ヴァレリーへと受け継いでいる。

当然社会、文化、あらゆるところでその矛盾と原理が身体を痛めつけている。ウォーホルアートを見れば、欲望する諸機械の身体を見ることができる。これはジョルジュ・スーラの「グランドジャット島の日曜日の午後」を見ても、すでに資本主義の足音が聞こえてくるのが読みとれる。クラウス・ノミキリスト教的な原罪を背負っている、アダムとイヴの追放以前の太古の世界からやって来た「Keys of life 」か、わたしはそんなふうに感じている。

 

補足:
クラウス・ノミ
について書き足りなかったので次回も続けようとおもう。
ボードレールの散文詩ワーグナーの無限旋律などその関連性を述べようとおもう。上記の記事は通時的にみると同時に共時的にみるためのサマリーとして書いた。すべてがマトリックスのように作動する原理としのアートを、そのダイアグラムディスクリプション的な意味で書いた。視覚的なものに変換するためのものです。

最後にノミカウンターテナーの声を「Wasting my time 」、「The cold song 」を聴いて見て下さい。youtubeで聴けます。ノミはあらゆる要素をとりいれて表現しています。オペラ、テクノ、ニューウェイヴ、デスコ、ダンスなど。ひとを感動させる官能と欲望する機械、それにをもって応えていました。いまでもその感動は少しも変わらない。またカウンターテナーに興味のあるかたは、ジャルースキーJaroussky )がヘンデルの名曲アリアLascia Ch'io Pianga 」をものすごく美しい声で歌っています。



2012年07月22日

人体の夜「消費のなかに物語をつくりたがっている」−5

CB07-10A

天空と炎A

 

 

 

CB07-10A
炎と男

 

 

 

 

 


 

感覚を”かたち”に変換する形式をつくること

どんなひとでも動かす方向性をもっている。それは意志したこととは無関係に作動している。機械を動かしている本源は分からない。どこから私なのか、そうでないのかその区分ができない。見えない系のなかで私たちは暮らしている。分節化することによって世界が見えはじめる。しかしそれが、どんな世界であるのか全体をつかむはできない。たえず溢れている。この溢れでたものをまたすくい上げる。そして分節化する。こんな繰り返しのなかで生活している。自然科学の発展をみるとよく分かる。物理学ではそれを数式として表現してゆく。数学対象をもたず、それ自体を対象として思考する。物質としての対象を思考すると、物理学となる。

さてとは、論理とは何でしょうか。思考することの喜びがなければ、ひとを動かせないし、感動もしない。知ることの喜びとは、学ぶこと。いったい何を学ぶのか? そこから物語をつくる。潜在的に数式のなかに、物質のなかにあることに気づく。かならず表現されたものには、その方向性がある。学ぶとは、はじまりであり自己を通じてその物語をつくってゆく。ついには個性的でありながら、普遍的なものへ、C・Gユングのいう集合的無意識から元型へとつながる。しかしどんなものでも宗教的であり、芸術が宗教的でないらなら、それは相当深刻なものを含んでいる。意図的に排除し商業主義的に物語をつくろうとすると、無関心な機械へと変身してゆく。

ウォーホルアートが20世紀後半の最大の危機的なアートである訳はそこにある。つまりアートが現代社会の深刻な状況を告白的に表現しようとおもうと、たちどころにその病を背負ってしまう。ひとりでは無理でしょう。身体をそこに溶け込ます。機械のようになりたい。自己放棄、成りすましが精一杯のアートだ。その社会的な状況から成りすましフィギュアアートをつくる。これは日常的な消費と深く関係していることはいうまでもない。つまり消費生活のなかに物語をつくり、ひとはそれで意識(無意識を含め)を、イメージを形成させる。自己ベクトルが”かたち”つくられる。集合的無意機械を、シミュラークルをつくる。その元型は不在だ。つまり不在であるがゆえに、いっそう消費する意識のエネルギー消耗をそれで補う。擬似的(シミュラークル)円環運動快楽放射が行なわれ、欲望を生産する。

そこからでてくる文化が純化され、偉大なシミュラークルをつくれば、『千利休』の茶の湯のようにバーチャル空間をつくる見果てぬ夢を現代に復活させる。このようなアートアートではなくなる。自己ベクトルをもたせるよう、形式がついには宇宙の体験となる。元型に行き着く場を設定する。この設定こそがアートになる。『建築する身体』というとんでもないを思考していたのが荒川修作ではないのか。「切り閉じ」を形式化すること。形式形式を破り、出来事をつくりだすこと。つまりランディング・サイト配置を設計すること。この設計はもの身体に反応するのか、身体ものに反応するのか、その間を思考する瞬時の身体であり、気づきの全感覚の参加を意味するようなもの。これは芸術ではないでしょう。むしろ舞踏に近い。行為する身体は限りなく神話に近づく。わたしの思考物語をつくりたがっている。パンドラの奥底に潜んだもの、希望の原理

画像掲載(CB07-10A:炎と男)は炎のイメージが自然に出てきたので描き進めてゆくうちに出来上がった。人体は白紙の色のまま残した。あらゆるところでエネルギー変化による変換が起きている。エネルギー全体の総量は変わらないとは限らない。人間の細部をどんどん分割すれば、量子論にいきつく。DNAの構造が分かったからといっても、思考するという行為は依然謎のままだ。その源泉がどこからやって来るのかということ。そこから物語がはじまる。

神話の世界とは天と地、そのエレメントが関係しているが、太陽は地球にとっての生命のエネルギー源であり、たしかにプロメテウスはそれを盗み追放されたが、人間に恩恵を与えた。しかしをもらったことがよかたのかは、いまだ結論がでていない。銀河から太陽へそして地球に火をもたらし贈与されたそのが。

ヒトはその恩恵を受けた分だけ、再び火を天体に帰さねばならない。この消えることの恐怖がヒトの心のなかに潜在的にある。希望の意志と喪失の恐怖がある。しかしこれは避けてとおれない。共存する道をつくってゆくこと。生と死の出来事のなかに。それが神話の一歩であり、供犠のなかにつくられる。喪失することの、消滅する生産を贈与のなかで行為される。それを達成するには、非-欲望の生産アートに組み込まねばならない。消費社会欲望する機械を生産するばかりだ。そのシミュラークルを生産するアート欲望する機械の下請け工場の歯車の一部となっている。それが現代アートだとしたら、わたしはそから遠く離れたい。しかしピエール・クロソフスキーは、ずいぶんと近いところにいる。欲動の記号源泉を求めてダイアグラム化した彼の描く絵は興味深い。

 

補足:
わたしの「人体の夜」の連載はまだ継続してゆくつもりだ。
土方巽-はるかなる視線」と連関しているので、合わせて
読むことをお薦めする。わたしの頭のなかでボートとしていた
イメージ何とか言語化してみたい。そのおもいで書き出した。
すでにわたしのなかである元型みたいなものがあり、それを
たどりながら書き記した。「人体の夜」とは言語化できず、
隠された星座の煌きをもった、太陽の光であるより遠い天体
追憶のような身体をもったもの。白日に晒されるものではない
元素、その集合体をもった秘密の空間を現出させるとき、
人体の夜」となってその元型をみせる。それは神話でしか
あり得ない。現すことができないシミュラークルとして再出現
させる。しかし肉体は掠め取られている。そのとき大いなる
消費が、神に抱かれる夢想を、希望の原理が出来上がる。
パンドラの奥底に潜んだもの。

 



2011年08月31日

ルネ・マグリットのイメージ「諸法空相」−2

GH22-01

石と水

 

 

 

GH22-01

石と水

 

 

 

 

 

諸法空相

実体はである、あるいは空は実体であるという東洋的な神秘から離れて、言葉のメカニズムからやって来る、個々の事物の特異性を概念化し抽象化する。あの西洋的思考のニ元性、分割する思考の操作、これを巧みに利用し絵画の領域までたかめた装置。こんな出来事を思考絵画にしたてあげたマグリットは、ベラスケスの「ラス・メニーナス」と同様、無限分割、鏡の迷路におちこむカオスである。

では、東洋的な(禅的な)思考とはどのようなものなのか、分割する以前の未分割ということろにとどまること。それは””ということなのか?マグリットの「ゴルコンダGolconde)、1953」など多くの作品は”空の中”に出来事が起きている。大気の層、”空中無色”の劇場を用意する。見えない””が孕んだとき、実体のない何かが現れてくる。未分割の瞬間が現れる。それは新たな体験ということか。それゆえ次の言葉にわたしは注目する。

人間の意識は経験そのものを離れて経験を見ることができるから、出てくるのである。すなわち見るものと見られるものが二つになるからである・・

動物はずべて二つにならぬ・・人間はそれとはちがって、二つに分ける意識のゆえに、現実以外に出て、いろいろと夢を描いたり、いま無いものを希求したりする・・

上記の言葉は、「東洋的な見方」、”時間と永遠”について語った、鈴木大拙の言葉を抜粋したものです。それとルネマグリットとの連関はどう感覚的に繋がるのか、””ということ、あるいは瞬間と永遠のことについて思考すると、生と死の転変が深く係わっている。それは何か言葉に表すことはできない。描かれたものにもでてこない。

そんな出来事を迷宮化するマグリットに驚くばかりである。しかも言語の文節化をたくみに作用させ、描かれたものとの混乱、この2重、三重もの仕掛のなかで何かが観えている。それはとしか言いようがない。



2011年07月08日

現代美術「芸術に先端も過去もない」−1

GF27-01A/GF27-01B

赤い空間の嘔吐A

赤い空間の嘔吐B

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

声が届かない

東日本大震災以後では、何だか現代美術が、
何にをやっても虚ろで、感覚には入ってこない。

今を表現することは、もはや東日本大震災、
原発事故を受け止めること無しに行為できない。

途轍もなく大きな出来事に遭遇して
途方にくれている。

逃げ場をどこにすればよいのだろうか、
」とは何だろうか。
落としどころが見つからない。

声が届かない

芸術がそれに見合うだけの力を持たねば、
美の」があるとはいえない。
音楽の力は強い。人を元気付ける。
場所をえらばない。

どうしても美術はそれに劣る。
美術館で、画廊で、限定された場所でしか
観れないことが多い。
インスティテューションを壊せない。

声が届かない

どのようなコンセプトがあっても、
そんななかで行為している。

声が届かない

 



2011年05月21日

見えない線「Radioactivity」-1

GC01−G/GC02-R

見えない線A見えない線B

 

 

 

 

 

見えない線

有用なものの抽出が、無用な物質たちの
隠れた脅威が現れる。「Radioactivity
人間はコントロールされて生きている。
だれにコントロールされているのか分からずに
生きている、欲望する機械。それは社会的な
諸機械の集合、気化された見えないシステムの
煙、それが見えるとき身体の影が不安をつくる。
無用な物質たちの隠れた脅威が現れる。

生成物、無数の連鎖反応。制御不可能な自然現象、
恩恵と破壊、両者の線は外へ向かうことによって
社会的な機械の中に組み込まれ欲望を生産する。
アレンジメントの作動は身体の奥深く入り込み、諸価値を
規制したり、ときとして抑圧することさえする。
それは支配する者、支配される者とも無関係に作用し、
たえず新たな関係性をつくりだす、欲望する気化熱である。
この熱が身体に入り込み、社会的な機構を回転させる。

それはあくまでも機械であり、一つの反応が無数の
反応をひき起こす。個の中性子235Uに衝突し、
核分裂する。さらに x n個が235Uを連鎖的に
核分裂させるように。この流れを止めることができないとき、
破壊という。人工的な破壊を原子爆弾といい、これを
制御する装置を原子力発電所という。しかし秩序と破壊は
いつも同時に起きている。その地層は人工的な強度、
思考の地層で出来あがった孤島にすぎない。

無用な物質たちが人類の崩壊熱を、自然化へと
生成物をつくりだす、死、 一瞬たりとも留まりはしない。
思考をエネルギーに変換し、死への時計をもつ
科学者たちの欲望する機械を、文化の応用であり
文明の進歩とはいわせない。ラスコー洞窟の壁画が
未熟な文化ともおもえない。わたし達の文化が
高度な科学技術を駆使してなしえた、成熟した文化だと
錯覚し、忘却する。そこには狂気を秘めている。

人間自身が何時の日にか消えるために、人間自身を
崩壊させるカウントダウンのボタンを押し続けている
見えない力、それは神の・・・



2011年02月08日

文明とは「自然と人工物(思考)の変身」-1

GB04-01_A

鉱山

 

 

GB04-01_A
文明の痕
「原生林と鉱山」

 

 

 

 

文明の痕
「自然と人工物」or
(思考の変身)

取り出されたもの、
都市とは、思考の総体
自然から人工的なものへ・・

鉱山は物質的思考の
最初の文明、
原生林を伐採し、
有用なものを取り出す。

無用なものの減少
思考のうちに、
容つくられる身体
アルゴリズムの褶曲

思考の廃棄物、それ自体が
やがてエネルギー体と化し、
遍在する情報量の地層が
出来上がる。
クラウドコンピューティング

厖大なビットの地層が
無意識機械を形成し
身体化する。
サイバネティックス全体主義

さてどうする・・

 



2008年10月21日

社会地層は暗闇のなかで・・こうして化石化されてゆく・・

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植物の標本A植物の標本B植物の標本C

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

社会地層は暗闇のなかで
・・こうして化石化されてゆく。

わたしはすでに化石化されている。
同じ信号の中で同じことをしゃべり、
同じ行為をしている。

反復と差異というより、
差異が見つからない反復。
限りなく死んでいる生
それは化石の時間をつくる

文明とは化石化の時間を稼ぐ
消耗品か、 であるなら・・
脱コード化された未知数Xを
消尽すること。
その微分の身体化か・・


バタイユの夢

ラスコー洞窟の絵を現存在として
反資本主義のアートをつくること
供犠の行為、運動と身体、
「アートとアクティヴィズム」の原始的な
祝祭の復活。


・・こうして化石化されてゆく

わたしの部屋は化石化されてゆく
外へでると巨大な化石が
生きたかたちで動いている。
数千年の歴史は
一瞬にして化石化する。

アートはすでに化石化された地層を
白い壁に貼りつけその堆積を見る
標本に過ぎない。コンクリートのなかの
ショービジネス。出来事はその外で
起きている。どのようなものでも
それを表現したとき、すでに遅れている。



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