舞踊・ダンス

2014年01月09日

土方巽-はるかなる視線「アルトーのスリッパをもって」−6


「詩が舞踏になります」

舞踏は、あらゆる言語を溶かし、そこには宇宙の
微粒子がある。「からだ」がすべてのものを受け運び・・
生成変化してゆく。田中泯にもありますが、言語を引き受け、
引き裂かれた「からだ」の残酷さ、アルトーのスリッパを
持っていない。場所に反応する「からだ」の記憶を持っている。

土方巽は、言語で埋め尽くされた「からだ」の
雪崩をもっている。
 ヴォルスの崩れかった幾つもの線、
ベーコンの顔貌性、ベルメールのイマージュの力学運動、
これらの「からだ」をもって命がけで立っていた。
「疱瘡譚」は祖先への星々の闇の光であり、
「静かな家」は、赤い神をもって土方巽は向こう側へ
逝ってしまった。それ以来二度と踊らなくなった。



2012年04月04日

土方巽-はるかなる視線「わたしは土方巽の光の模型をつくっている」−1

はるかなる視線
わたしは土方巽の光の模型をつくっている

風の又三郎とは異質の風をもって姉のとなりに静に座っている。すでに懐かしいあの星座を膝に抱えてもっているこの少年、*1「犬に打ち負かされる人間の裸体を、私は見ることができますこれはやはり、舞踏の必須科目で、舞踏家は一体何の祖先なのかということに、それはつながってゆくます」わたしはこの声を、とこの少年の真中にきょとんした四つの足で座ってるに尋ねてみたい。

何処から来たのか、 何処に棲んでいたのか、何処へ往ってしまったのか、」と、
すでにこの少年の背中に舞踏神がそっと触れている

わたしは土方巽の*2「少年時代の写真」をいま見ている。右脚を立てそれを右手でびっしと抑えている。左足はそのなかに入れ土の上においてる。軽く握っている四本の指は親指に宥められている。「あぁー舞踏家だな」と、わたしは深く感動している。そのとなりには大きな姉いる。そして真中に土方より少し小さい犬が座っている。この犬はきっとその状況を感じているのでしょう。意味が分からずにいる。しかし気配でしょう。そこにいる姉、少年九日男、犬、すでに舞台装置ができあがっている。樹はそのすべてを抱擁して見ている。大地と空気そして星座へと。それにしてもこの写真は偶然ではないでしょう。舞踏神が撮らせたなせる業、わたはこの写真をそんなふうに感じている。

わたしは衰弱したセザンヌの思考でいま探している。西洋の落下した地点でようやくわたしは土方の声を聴くことに、からだが許してくれるまでになってきました。「さぁーはじまるぞ」というところでうろうろしている。

参照図書
*1「美貌の青空(page8) 
著者:土方巽/発行筑摩書房」
*2「土方巽とともに(少年時代の写真page29)
 著者:元藤子/発行筑摩書房



2009年04月05日

内在とノイズ-カオスの鏡「ダブル・サイレンスー沈黙の分身」の感想ー3

ED04-02C1/-02A1/-02B1

内在とカオスCカオスの窓内在とカオスB

 

 

 

 

 

 

 

 

内在とノイズーカオスの鏡

わたしは勅使川原三郎の「ダブル・サイレンスー沈黙の分身」を観て、次回は更にバージョンアップしたものになるだろう。それはカオスと測りえるほどに投影された仮像の身体を、次元の移行、そのアンフラマンス(極薄)を顕現化させるその「からだ」の動きを、仕掛け、仕掛けられ、それに対応する「からだ」の変化率。・・純粋時間の結晶化をわたしは観たい。外と内の境界線へと接近した「からだ」の接線のようなものを・・それは強度が外在化し内の線が外の線となり、殆ど区別できない空気の層ができ相互の反応が異次元へ移行(アンフラマンス)する。差異によって生産される・・異なるものの同一性の反復、その平面を創る「からだの運動」、アイオーンの洗礼を受けながらつき進んだその「からだの結晶化」した時間(運動)を観たいとおもうのだ。それはある意味で強度の問題でもあり、シミュラークルの永遠回帰の身体化ともおもえるのだ。こんな姿の勅使川原三郎のダンスを観たい。



2009年03月30日

勅使川原三郎「ダブル・サイレンスー沈黙の分身」を観た感想−2

わたしにとって舞踊を観る行為は、わたしも舞踊をします。見えるものが、見えない身体の内部で呼吸し、新たな血液が流れ心臓が鼓動してきます。それまでとは違った何かが流入してきます。舞踊家によってわたしも踊り創めるのです。それは踊っている舞踊家の内在がわたしの中に侵入してきます。外の出来事が内部を形成し。外と内の混成された内在、相互の浸透、この振動がわたしを瓦解させます。

 

此性としての内在A此性としての内在B此性としての内在C

 

 

 

 

 

 


 

此性としての内在E
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

EC30-01B_1/-01C/-01C_2
EC30-03A
   
外と内の混成された内在

そんな体験をさせてくれた勅使川原三郎は、わたしになる。その感覚はわたしに絵を描かせてくれる。これはわたしであると同時にわたしではない他者、多分芸術はこの他者とは何者か・・という問いなのであろう。「ダブル・サイレンスー沈黙の分身」を観たわたしの感想です。前回はわたしの感じたことを概念的に書きましたけれども、わたしの脳裡に残像としてやきついたものをデッサンしそれに単色の色をつけてみた。触発されたものを見える形にして残しておきたいとおもった。コンセプトとして体内の群集というべきかそのノイズを前にしてそこに立ち、それに共振するかのように首と肩を振動させる仕草が、内在の強度量を感じ興味深い動きでした。最後に集団のなかに静に入って行くシーンが、ひとつの出来事が地層化される、そのような印象を受けました。とくにあの設定は面白く凄くよかった。



2009年03月22日

勅使川原三郎「ダブル・サイレンス-沈黙の分身」を観る

久しぶりにダンスの公演にいってみた。もう何年も観ていない。渋谷の「シアターコクーン」で勅使川原三郎の公演ダブル・サイレンスー沈黙の分身」を目撃してみたいので、わたしは宇宙の振動音と身体の関係をどのように身体が思考しているのか、その勅使川原三郎の身体を一度観てみたかった。彼が消える瞬間を、微分化された身体の空気を目撃したかったのだ。呼吸音のなかに身体の孤独な光を閉じ込め、ガス化した空気の層を見たかったのだ。だが彼は接近しその接線の身体を共有できなかった。内と外の身体をもったカオスの影を感じてはいるのだが、身体はおしもどされた。からだの運動が遠ざけてしまったのだろうか。見えているのだが移行しなかった。つまりシミュラークルの襞を、反転されたミラーの背後に、更に沈黙の身体を形成してくる化像の潜在性を、体内の絶対ノイズによって消されたのか・・そして最後に取り残された身体の悲しさをわたしは目撃してしまった。震えるからだの涙を見てしまったのだ。差異と反復、永遠回帰、シミュラークル・・そこには幾つもの残酷なアイオーンの洗礼を受けねばならない。沈黙は宿ると消える。

追記:
勅使川原三郎の公演「ダブル・サイレンスー沈黙の分身」を観た
その印象を記憶にとどめておきたいとおもいモノクロで描いて
感想文として下記に掲載しました。
画像掲載「ダブル・サイレンス」感想ー2 
画像掲載「ダブル・サイレンスーカオスの鏡」感想−3



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