文学・詩

2014年10月15日

トリスタン・ツァラ「ダダは何も語っていない」−4

JJ-15 / manifeste dada 1918

JJ-15A_トリスタン・ツァラ



























「無意味な模写」

・・ではdadaとは何か。
わたしは語ることが出来ない。

そんなことをしても無-dada
芸術的行為を非-芸術的行為だといっても

無-dada

だからわたしはトリスタン・ツァラの
「ダダ宣言」ページ73に掲載してある
数字をスケッチした。

これはわたしのタダの模写。




掲載画像(JJ-15)は以前鉛筆スケッチした数字に色をつけたものです。
上述した文はその記事の抜粋した部分です。ツァラはなぜか惹き付けるものがある。

『・・理性や約束事によって満たしえなかった全空間のなかに、空気の
要請によって導きいれられる純潔な一微生物なのだ、と』

この文は、「ダダ宣言」のなかの最後の章で「ダダについての講演」です。
これが終わりの文です。すべてを語っているようで、詩的イメージが喚起されてくる、
非常に魅力的な言葉だ。「空気の要請」というイメージからわたしは後に、
作品化している。「忘却の雲の下に隠されたもの」という作品です。



「ダダ宣言」著:トリスタン・ツァラ
訳:小海永二・鈴村和成
発行所:竹内書店(1970年)」参照




2013年01月12日

「他者の声が舞い降りて」のためのデッサン

BJ20-30Yel1

舞い降りる他者

 

 

 

 

 

 

 


 

 

他者の声が舞い降りて

わたしは表現したものが何であるのか
自覚しているわけではない。
理由は後からついてくる。認識したとき、
それはすでに遅れている。
遅れないために感覚をすばやく捉えます。
デッサンは「--の空気」を掴む形象化でもあります。
ようするに絵画はある種のファンタスムと
シミュラークルの関係であるとも言える。 



2013年01月11日

記号と意識ー10「ネットワークの夜」

BB07-G/BB07-R

shadowAshadowB

 

 

 



 


 「ネットワークの夜」

この夜を彷徨い、
Under groundの光りに
照らされたからだが
影となり、動いている。

人々は歩いているのだが、
気化したからだは
空中浮遊する。

無数の線が絡みあい
ネットワークの娼婦が
夜の闇に消えてゆく。

そこには忘却された
墓はない。今も・・

 



2012年11月03日

ランボーという詩人については語れない

HI02-01/Biumbaud

Rimbaud


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ランボーにつては
何一つわたしは語れない


逃走線の向こう側に到達した沈黙、このランボーをわたしは語れない。あらゆる文学、芸術とは無縁な到達地点。ではいったい何者なのか、こんな疑問が生じてくる何かがある。ランボーポートレートジャコメッティコクトーピカソ、レジェなどが素描している。ランボーの顔を見れば、誰だって描きたくなる。凝視している眼は向こう側へと、遥か向こう側へと到達するその眼差し、それを支える強靭な意志とからだをもった、この位置エネルギー。1871年、ランボー17歳のときのポートレートにわたしは驚嘆する。すでに完成された沈黙、宇宙の一点の現れ、これがそのポートレートだ。あとは逃走するのみ。生まれながらにして詩人だった。

画家たちはこのランボーのポートレートを見て直感的に描きたくなる。写実的に正確に描くのではなく、すばやく描くこと。感じたことを逃さないために素描する。わたしはジャコメッティの素描が好きだ。顔全体を右上がりの斜線で覆い、黒で塗りつぶしたしような線描写である。あの晩年のランボーを予期するような描写である。眼は明かに沈黙を凝視した視線であり、あの到達した地点を見ている。いったい何を見ているのか、わたしたちには分からない。眼はランボーのポートレートよりはるかに大きめにデフォルメして描いている。見開いたまま、そして沈黙。しかも眼を描いてはいない。ただ暗示しているだけの描写。

髪の毛は原始人天体を、そして脳と一体となった線、ところどころにがある。口元の線は、それらすべてを支え、耐え、大地に踏みとどまろうとする意志の力を。耳は生まれながらにして、何かを聞取ろうとするあの文明の音を受信していた。胸像は空虚と融けこんだ線で描写、一瞬のうちに見事にランボーの空間を捉えている。ジャコメッティ素描の的確さに驚愕せざるをえない。

ピカソの素描はすばやくランボーの全体像を掴み、ポートレートの楕円の外に、いきなりぐしゃぐしゃな線を走らる。ランボーの全体像を無秩序なものへと走らせる線で表現している。もう分からないとでも言うような直感で描いたもの、この無秩序なものこそランボー逃走線である。ランボーのことは語ることはできない。ランボー痕跡をいくら分析しても、この逃走線はわからない。

そんなランボーの詩を見て共時的に体験できることなど出来やしない。凡人には永遠など体験できなのだ。いちばんいい方法はともかくポートレートを描いて見る。髪の毛は野蛮人、眼は一点を凝視し、あの恐るべき光景を見ている眼差し。そして口元はそれに耐える意志の力を。あのジャコメッティ素描イメージし描きはじめた。素描とはかくも力量を問われるもので、わたしは普段あまりデッサンをしないので手が動かない。イメージが手に伝わらない。訓練しなければならない。しかし線をひとつ、ひとつ置いて丁寧に描けば、その輪郭は捉えることは出きる。それが画像掲載した絵だ。鉛筆デッサンというわけです。ポートレートを眺めランボーをよく見ること。1871年のポートレートそして18831888年のポートレートなど。この逃走線の様相をよく見ること。あとは語らないほうがよい。



2012年10月29日

呼吸する重力

HJ29-01blue2

Breathing Gravity A

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

呼吸する重力

わたしは生きている。
誰れでも無いわたしが此処に

そんなことは知らない。
言語の習いたて

瞬時に何かが分かる
此処と向こうに

寺の門は無知の扉
歩く、また歩く呼吸の音

空には鳥、足元には重力
雲の声がそれを訓える。

 



2012年10月24日

神話の世界「メタモルフォーセス」ー7

AK1605-4B/Metamorphosis
 飛翔A

 

 

 

 

 

 

 

 



 

わたしは鳥となった

わたしは嘗て海の魚だった
死が訪れたとき、
天空から声が聞えた

「逝きなさい」

するとメタモルフォーセスがはじまり
徐々に鳥となっていった

尾はまだ魚の形で

光りのある方向へ近づくに遵って
完全な鳥となった

 



2012年07月14日

人体の夜「エロティックなもの」−5

AK1501C-6


Love



 

AK1501C-6
錬金術師の
秘めたる意志

pencil on paper
29.7 x 21.0cm

 

 

 


 

隠されたもの

意志はエネルギーの物質的変化であり、
エロティシズムはその喚起弁である。
位置エネルギーは、大地の眠れる
胎児であり、銀河は大気を通して火を、
その欲望を送り込むポンプである。

情欲するものは、カオスの波
共鳴させ、内部のモナドをシステム化し、
系として作動するものへ。

このときシステムはすでにカオス
取り込み、崩壊の途へと向うエネルギーを
放出することとなる。その熱量を交換する
錬金術師の行為は、無窮の永久運動を
夢見る思考のファンタスムとなる。

 

わたしは「人体の夜」を何回かに分けて少しずつ述べるようにしている。上記に掲載している画像(AK1501C-6)は、わたしの人体デッサンのひとつであるが、描くという行為は表現以前に内部意識の深さを、世界との関係性の深さを見せるもので、表現された表面ではない。しかしデッサンは特に線が勝負なのでかなりの訓練を必要とする。一本の線を引くにも、その線の個性を見極める力を養しなわなければならない。職人の手と思考の深さがかみ合って、はじめて見える”かたち”になる。イメージはその案内人である。これが乏しいと、たんに綺麗に描かれた対象の再現化でしかないものになってしまう。イメージはどこからやって来るのか、数学的な原理を求める厳密な抽象性に似ている。

 



2012年07月01日

流動的な空間「急速に落下するカオス」

DJ30-03a

流動的な空間の声

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

流動的なもの

わたしは流れる かまうものか
そんなものは直ぐに崩れる。
ほら見ろ、緑色のことだよ。
しかめ面した、情けないやつ。

誰かが支えねばならない。
水平線のちょつかい、
言語の失速、描きえぬものの、
見えないものを見る直感。

描く行為より予感の終わりに
急速に落下するカオスの滝
その下に空洞ができる。
官能のトンネル、柔らかい肌。

見えないものの白いカーテン、
極薄の膜、触れた瞬間に遠のく。



2012年02月11日

眼で思考する原理と詩「かたちとは別なものへの移行である」−3

GH16-01

山門

 

 

 

GH16-01
「言葉の放射」

 

 

 

 

 


 

言葉の放射

ホウキの下に、小さな窓が
あります。向こう側には山門が
見えてます。

ホウキの周りには、円を描いて
文字が書いてある。見えないものを
見える思考につくりだす”かたち

それは、眼で思考する原理と詩の
発生をうながす。厳密な抽象機械を
つくりだす。そんな機械をつくること。

 



2012年02月05日

夜のシミュラークル「理性の時計が瓦解してゆく」

DC20-04Ac

記憶と時計D

 

 

 

DC20-04Ac
「夜になるといっせいに
理性の時計が瓦解してゆく」

 

 

 

 

 

 


 

「理性は夜のなかへ」

夜になるといっせいに理性の時計が瓦解してゆく。
確かに下のほうでは滝の音がしているのだが、
見ることはできない。その近くの蛍光灯の薄暗い
ホテルにわたしはその夜泊まっていた。

書斎に残した未処理の書物は色彩となって
わたしの机の上につまれている。これもやがて
シュレッダーにかけられるのだろう。
死にゆく自我を観るとき、空白の言語が沈黙に
置き換わる。

押し出された言葉たちは黙ることによって
夜の身体をつくる。この恐怖にひとは
耐えられるのか。

「・・いまは無い」ということを、

この空白の一夜が理性の
狂気を呼覚ます。狂わないという決意は、
既知の認識を絶えず不在の言語に脅かされる。

 「神の言葉」とは・・

などと囁かれる恐怖。「非ー知」の彼方に虚無が
黒い影で、あの暗黒の星雲に投げ出される身体の
無能力を、機械の力で「器官なき身体」をつくり
だそうとする。

ウォーホルの電気椅子、
夜のシミュラークル、

「暗黒の画面に真珠の光る靴」

 

上記の言葉はわたしのイメージを断片的に書きとめたもの。詩ではありません。絵を描くための言葉のデッサンです。誘発するものをいったん言葉にメモし、それを展開するために行為します。(掲載してある言葉は、絵と直接関係ありませんが、覚書のようなものです。)*「暗黒の画面に真珠の光る靴」とはウォーホルのシルクスクリーン(カンヴァスにアクリルとダイヤモンド粉末)の作品を指しています。

 



2012年02月03日

眼で思考する原理と詩「起き上がった意識」−3

BG26-Rd4/BG26-Gre5

物質と記憶B

物質と記憶A

 

 

 

 

 

 

 

 

 

起き上がった意識

細胞質の膜に映し出された民族学は、
リングの案内する2つの羽の防御を備え
ている。先端は槍、言葉をかわすために。

コンクリートの城塞で進むことはできなかった。武器はもっていのだ
が、(そこに書いてあったのは、なんであったのか、今ではおもいだ
せない)リングの言葉がわたしに投げかていた。そこには無いも
の、この刻印され胸に、鳥の羽がわたしを撫でる。飛ぶことではな
く、汚れた水を防ぐ浄化の羽根。リングの先端は鋭い槍・・



2012年01月26日

出来事「イコンとシミュラークルの間で」−3

HA26_1

窓の顔C

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

イコンとシミュラークルの間で

さて、わたしは語ることができないので、この
出来事を中止しょう。自然を観るということが、
じつは無数の内部の自然的人工の劇場がすでに
ある。「反転する鏡」は己を見せないことによって
己を見せる劇場の自然化である。光の部分は数の
隙間から見せるカオスの関数として知覚される
ひとつのマトリックスである。

わたしは出来事の瞬時の時空を、かたちのない
姿を、数に0987325670・・1483975813
48657など、暗黒の画像に数値を入力する。
その記号に非-実体をもたせる。無-意味・・
そのことによってある感覚が形成されてくる。内部では
何が起きているのか知らない。

しかし形成が形成を作用させる。ひとつが動き、全てが
動く、更にその全てがあるかたちをつくる。ひとつの動き
へと・・シミュラークルの円環運動、この非対象の対象、
つくられたものは振動し続けている。それは擬似的運動
ですらなく、イコンでもない。大きなものの力、ついには
質量エネルギーをもつに至る。



2012年01月22日

出来事「自然は言語化によって反転する鏡である」−1

HA27_02

窓の顔D

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ゼロを食べたがっている身体

わたしは見る、何を・・そんなことは分からない。
自然を模倣する非-自然を見る。言語の芽生え、
強度の代理物を、諸衝動の身体化を
内部では何事かと、言葉が騒ぐシミュラークル。

おそらく反転は起きている。(出来事)とは、
無数の言語による合成された身体化の形象
それは帰還すべき叫びを、ゼロへと向かう
呼吸する身体化をすでに用意している。



2011年10月17日

ボードレールあるいは病める花の終わりに

GG015-02Hole_04

不滅の焔

 

 

 

GG015-02Hole_04
Lonely fire
「病める花の終わりに」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

病めるの花の終わりに

覗かれた裸体は、ボードルールの宮殿の排水口
愛液の溜りが奥から滲みでる。それは気化し、
蒸発された手の先を通じて、灯を掴む独身者の焔
永遠の前に儀式をする恥骨の恥じらい。海の向こう側で
扁桃腺の開花。病めるの花の終わりに。

 

そんな風景を立体化する装置、作品ではなくものであること。無関心な焔、意識すること無く、すでにもっている。それを感じた瞬間、孤独となる。辺りが観える景色、広がり(波動)がその棒を水面から押し上げる。何かの作動が身体をかたちつくる。非-芸術的な影、胎内の奥から見える思考を観る。ルネ・マグリットの焔、反転が起こっている。手にもっている一つの音、拾い上げる水平線、・・が棒に点火する。それは孤独な焔であると同時に、離脱した無関心な焔であるようなもの、点火されたひとつの永遠、無限のなかで起こる孤独、滅することと、現れることの浮き上がった線分、それは水平線の上で起こる。



2011年10月15日

トリスタン・ツァラ「空無の真の力」−1

GG10-01_Dada

Dada_Tristan Tzara

 

 

 

GG10-01_Dada
いかにして僕は
魅力的で感じよく 
かつ優美となったか

(鉛筆スケッチ)

 

 

 

 

 

 

 

トリスタン・ツァラ

空無の真の力:わたしはそれに惹かれ、描くことを遠ざける思考のデッサンをするようになった。時空の同時性こんな想念を、アンフラマンスを提示すること。それを観た瞬間ある変換が起こる現象を提示すること。そんなことを想いはじめた。これはDada的な思考のダイアグラム(図表化)を作成化する。それはどんなものでもよい。トポロジー的変位の様態ではなく空無の変位、発ちあがる時空の接線であるようなもの。Dada的真空

・・ではDadaとは何か。わたしは語ることが出来ない。そんなことをしても無-Dadaし、芸術行為非-芸術行為だといっても無-Dada 、だからわたしはトリスタン・ツァラの「ダダ宣言」ページ73に掲載してある数字をスケッチした。これはわたしのダダの模写。すなわち、それをスケッチしたわけ。しかしこれは無-意味な写経のように感じ、Dada的でおもしろかった。

・・それにDadaは何もいっていないし、すぐに真空を感じたら逃れること、滅する前に。 つまり -のことで誘発するエネルギーを身体に感じたら、おもいっきり吸い込み、吐き出すこと。

・・さて次はどうする。仏教徒にでもなりますか。レヴィ・ストロースは「自分は仏教徒だ」と告白しているし、デュシャンですら中国や日本のことを、「」のことを相当勉強していた。まるで禅画Courant d'air sur le pommier du Japon, 1911年)のようなものもある。

・・わたしのお喋りはこのくらいにして「ダダについての講演、p137」の最後の言葉を掲載しておきます。それぞれが呼吸をし、宇宙の遺伝子を受けついている、この悠久の呼吸法を身につけるために。

『-ダダはあたかも人生におけるいっさいのもののようにむなしい。ダダは、人生はかくあらねばならぬといったような、どんな主張も持ってはいない。おそらくこう言えばもっともよく理解してくれるだろう。すなわちダダは、理性が言葉や約束事によって満たしえなかった全空間のなかに、空気の要請によって導きいれられる純潔な一微生物なのだ、と

更に、わたしは次の言葉を追記する。

-ダダはいささかも現代的ではない。むしろ、ほとんど仏教的な無関心の宗教への回帰である

では、いささかも現代的ではないとは
過去のこと、瞬時の今のこと、未来のこと、
無関心の宗教への回帰とはどんな宇宙・・

 

「ダダ宣言」著:トリスタン・ツァラ
訳:小海永二・鈴村和成
発行所:竹内書店(1970年)」参照



2011年09月28日

生と死「エロティシズム」−4

GF26-03Flower

Flower

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

誘惑するものと、されるもの
それは対立するものではなく、
融合する熱。

胎内の母

誘惑の色、それはエロスの罠、
思考するペニスはそれを知らない。
糜爛の液状化を時空化する
エロティシズムは、消滅をめざす
思考の放蕩を用意する。

柔らかい軌跡は「髪のなかの半球」を、
ジャンヌ・デュヴァルの半球の深淵を泳ぐ。
それは「異邦人」の空を、途方もない
変わり者の受粉を夢見て。

「・・私は思い出を
食べているような気がする

というボードレールアレゴリーを、
その断片的に現れるエロス
魅惑の花よ

その光の影を受粉するために
わたしは深淵の罠に落ち込む。
夜と昼が同じミューズの姿であることを
わたしは知ってる。

同性愛者のミューズよ、同じ影の
光よ、胎内の母より生まれ出る
柔らかい穂先のミューズよ、
わたしはそれを愛しく思う。

 

「ボードレール パリの憂鬱
訳:渡辺邦彦
発行所:みすず書房」参照

わたしは「パリの憂鬱」の渡辺邦彦の訳が分かり易かったので購入しました。他の訳も見たけれど、どうもしっくり来なかった。そんな経緯があります。そのなかので、特に「17-髪のなかの半球」が好きでそのイメージを描いたものがあります。上記の(胎内の母)は詩的に書きましたが、描くためのデッサンとしての言葉です。余談ですがジョージア・オキーフはわたしにとって胎蔵界曼荼羅のような気もします。それにわたしは形而上的なイデー(理念)を加え、思考の到達地点が金剛界曼荼羅であると感じている。ところがそこから両性具有というイメージが出てくるのです。男性であると同時に、女性でもある。わたしは変身してミューズのなかに入り込む男性、あるいは男性のなかに入り込むミューズ、自在な変身を、同性愛と仮定して胎内の母のなかに書いたのです。円周のどこにも無い中心(胎内の母)。この無いが、空というところに往き付きます。そんな無窮(無限な時空)の世界を瞬時に顕現化させるためにダイアグラム化したのが曼荼羅のように感じます。その意味では、全てのアートは曼荼羅だともいえます。



2011年06月18日

共有する空間「母なしで生まれたデュシャンの顔」

GF18-02E

Man and Woman

 

 

 

GF18-02E
Man and Woman
「共有する空間」

 

 

 

 

 

 

 

共有する空間

それとは知らず、背後には
いつも透視されている。
男女間の愛、 結合された
心はカオスの色が分割する。

区分の出来上がり、
出来そこないの有機体。
そんなこととは知らずに
男女間の愛は無頓着。

ネクタイを締めた男は
ハンガーに吊るされ、
女装する。出来そこないの
男、それこそ
「母なしで生まれた」
デュシャンの顔

ピカビアのように・・

 



2011年03月31日

福島原発事故「何やってんだー、偉そうに」

「Radioactive Contamination」
BB01-DarkWhite2/Blue/White1

電離放射線A電離放射線B電離放射線C

 

 

 

 

 

 

 


 

何やってんだー、偉そうに

何も語ることができない。
沈黙の遺伝子は見えない。
かたちが現れるとき、
それは死の時計の刻む音

そんな暗い夜空に
清志郎の歌がきこえてくる。
何やってんだー 偉そうに

あの「Love me tender」の忠告を
きいとけばよかった。
ミルクを飲みたい

放射能・・シーベルトのカウントが
何だかわからない、でもからだの
どこかがおかしい、まだ夜明けは
遠い。早く逃げたい、忘れたい。

未来は子供たちのため、
大人はもういい。
欲望の道は限りない。
それは人類の崩壊熱。

いつかは消える。
こんな夜空に
清志郎の歌が聞こえてくる。
エルビス・プレスリー
甘い調べのメロディーが
Love me tender

こんなにも悲しく、涙がとまらい。
でも今は現実。

清志郎の歌が聞こえてくる。
Love me tender

 



2011年01月18日

生と死「模像する死の反転」-2

GA18-01Cicada_4

Cicada

 

 

 

 

 

 

 

 

 

生と死
(模像する死の反転)

生とは・・そんなことは語れない。
死とは・・そんなことも語れない。

では何が語れるのか、
現れるとき、もうそこにはいない。

強度 そのまた影の生き物
残像・・の再現でなはない。

あの器官に住み込んでいる
言葉の彼岸の声・・言霊、
祖先の光と影の1回きりの摸像。

神の影に怯える、反転された生の死。
いまここに聞こえる光の空間に
錬る思考の脚は動く。

 



2010年08月29日

カオスの関数「人体の夜、比率」−3

FH20-02black and red

black and red

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人体の夜、比率

精神は観えないものを必要とする。窓に描かれた赤い思考。
それは遠のいた星々を黒いカーテンで蔽う。消える記憶。

沈黙の言葉が目を覚ます。赤い傷跡の印しは無秩序を模倣する。
ジャン・コクトーの詩には:

立派な精神の持ち主の無秩序は、その人に、自分を
秩序立てたいという必死の思いを抱かせる。生来の
秩序には私は心を打たれない。それはアカデミズムだ

これこそ、アカデミズムとクラシシズムの差である。』

と書いてある。”鳥刺しジャンの神秘”観えない光と暗黒の恐怖
は同じものからやってくる星々の顔、それはジャン・コクトー

 

参照、「鳥刺しジャンの神秘」
著者:ジャン・コクトー
訳:山上昌子/発行:求龍堂



2010年06月15日

人体の夜「外の線と内在」−3

DH02-03_bC

DH02-03_1c 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

Untitled

 

人体の夜

外の線は内在の接線をつくり、
ただ一度という、偶然を投擲する。
その運動は生成の夜を
可逆的に昇華させる。

それは夜を昼に変えることではない
明け方を待つ夜である。

そこには窓がない、それは内在の線が
外の線を取り込むということではない。

光りはそこに在るというより
既にそこにある。モナドがその
光りを遮断することによって、
外部のカオスの振動を身体の
和音に変え、外と内の場を融合する。

いわゆる内部の内部が、
無限に関係するX1の連続が
非連続のなかに形成される。

・・この変数をもつ自律化されたX1が
モナドの影として、外の波動を
関数化する。外の内として襞を・・
あるいは畳まれた内の外へ、・・のように、

「非連続のなかに、瞬時に観える
ことがある。偶然は破棄されて、
・・思考の外へ、Y1の全体として」

こうして身体の出来事は光りの夜を
とり込み、夜のなかに
ひとつの光りを持つに至る。 

それは精神自らの作用が
世界の無限の関係性をもち、
かくして宇宙の要素をモナドとして
精神のなかに、唯一、n^a個の
ファクターをもつXn^aとなる。

 

上記の言葉はわたしのデッサンノートより抜粋したものです。「人体の夜」とはあるイメージがあって、ライプニッツの「窓がない」という意味になることなのかと。それは孤立と全体が矛盾しているようでどこかで繋がっている。この空間は可視的にはならず、思考が空間化する(イメージを誘発する)ある「虚-体」という不思議なベクトルなのです。分かったようで、分からない。しかしこのイメージは「人体の夜」なのです。それは外の線と内在性の関係性がバロックへと連関します。ここではその光を描いてはいない。思考空間のなかで、その欠如を形成させたい。それが何であるかは、分からない。



2010年04月28日

ネットワークの夜に「cloud computing」

FD27-01

トカゲとサボテン

 

 

 

FD27-01
Lizard & Cactusor
Cloud Computing

 

 

 

 

 

ネットワークの夜に

王者は球体のCactusの上で姿を現す。
無数の棘にも痛はもたず、
無限()の尻尾をもったアルゴリズム。
暗黒の雲はCactusとなり人々を惑わす。

その王者は仮象のLizard
支配するものと、支配されるもの、
この両者はたえずローリングする。
受送信の波は空間を形成し、
非-知のなかでCactusが現れる。

それは仮象の王者Lizardを用意する。
数学的言語の4次元、5次元、次元へ、
無限大()の次元をもった数列・・・
その王者は仮象のLizard

 

わたしはこの写真から次のイメージがでてきました。エッシャーがシメントリーに繰り返し描いたワニ「爬虫類リトグラフ1943年」を想起させた。それは2次元から3次元へ、そして再び2次元へもどってゆく何とも不思議な絵です。次にCloud Computingというイメージが浮かんできた。それが仮象のLizardということです。それをリアルに現実の物に成立たせるものがアルゴリズムWizardでもあり、Lizardでもある。まさにWizard of Escher )というわけです。厳密に計算された幾何学が円環運動を発生させ、最後は「曼荼羅」へと発展してゆくイメージなのです。ようするに「宇宙の構造」との出会いとは、一つのシミュラークルをつくること。そんなふうに考えると、「美術」というジャンルなどどうでもいいことのようにおもえてくる。エッシャーとはそのような世界なのです。



2010年04月08日

Midnight 「官能的な無」

FD07-02C/-02B/02A

地層C地層B地層A

 

 

 

 

 

 

Midnight

彩られた思考の石は
模倣することによって、
暗闇の身体を輝かせる。

それは無の身体化する秤が
分銅を動かせ、官能の夜が
光となる。
3つの神秘をとおして・・



2010年04月05日

裸体の大気「デュシャンの余熱」−2

FD05-01

窓の外

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

FD05-01:
裸体の大気

運動は熱を帯びる。交わる移動の余熱、
そんなこととは知らず、機械のように動く
余白のエロティシズム。仮死状態の男女
裸体の真空、アンフラマンスの余熱を観る
思考とは、「階段を下りる裸体」を観ること。

覗かれた原基。それは「3つの停止原基」を
つくらねばならない。身体の言語を探す窓と
覗く思考の余白を探すエロティシズム、
すなわち「大ガラス」の向こう側へと・・透す
「遺作」の覗き穴とは、静止した無限の
3つの停止原基」を持つこと。
それは三次元ではなく、別次元のものへ・・



2010年03月18日

青い手「無感心の掟」

FC17-01/青い手

青い手

 

青い手
結ばれたネクタイは消され
無関心な青い手がそれを
管理する。描かれない絵は
思考の記述を可視的にする。

 

 

 

それは詩的ことばの闇に無音の音を訊かせるノイズ。
絵画の詩は見えない言葉、パウル・クレーのように。

塞がれた口のおしゃべり、見えない目を持つ絵画の鑑賞を
葬る、見えるもののおしゃべり。「無関心」は心の痛手ではない。
感情の波を水平にする深い海底の星。

ぼくはかき消されようとする無窮の空間におし黙る。
皆が楽しんだ劇の終わりに、ピエロの悲しみを観た
あの姿だ。



2010年03月15日

黒い裸婦供崙盧瀛震漫考えないものへの形態」

FC15-01black

黒い裸婦

 

 

 

 

FC15-01black
「黒い裸婦供内在平面」
考えないものへの形態

 

 

 

 

 

 

 

 

*叫び   cri

『マットレスは恐らく一言語である
たぶん簡単に信じるに足りぬものである
死亡も     鳥もちも    訪問者も
次の間で捕獲されて
睡眠の上に雑誌をのせる
演出ということだ-----
弱点が体をやつれさせる
希望はない------ 』

 

*叫び cri
「フランシス・ピカビア、
母なしで生まれた娘の
詩とデッサン」参照
訳:鈴村和成



2010年03月14日

オブジェの言表「詩の思考が発生する見えない絵画」−1

FC13-02

blue hole

 

FC13-02
steel plate
and 
A leg

 


 

鉄板と脚
トーチで切られた雲状の痕にも
生きる価値はある。扉を蹴った脚が、
飛びだしてしまったとしても。

*空虚
『あらゆる言語に反する二つの方向だ
というのも幻想は抽象を生み
その完璧な形態のうちに
驚異を発展させるから
人も知るように 貝殻がかたちづくる
完全なものは 人間の言葉である

それ自身の法の中
生の現実的支配下にあって
外部から生じる
心の内部の消耗は
連続する運動だ
それが身を隠す神を分離する

人間の意志に従い
三条の光線は想定させる
腐敗する不動の大気が
この地上に君臨することを
それは霊的な自然に苦しむ
人も知るように。』

 

*空虚
「フランシス・ピカビア、
母なしで生まれた娘の
詩とデッサン」
訳:鈴村和成



2010年02月23日

シュルレアリスムとは「”自分を見つけたときに迷う”もの」

FB21-03/赤い鳥の木霊

巣立ちの痕1

 

 

 

 

 

 

 

 

 

赤い鳥の木霊

羽音は巣立ちの記憶をもっている
それは想い出すからではない。

からだの一部にすでにもっている
マックス・エルンストの葉は、
フロッタージュされた)をもっている。

擦れた紙の上に浮き上がる”かたち”

ものと別のものとが出合う同時性
分離されたものの純粋差異

いわゆる孵化をすでに懐かしんでいる
裸形の卵は*自分を見つけたときに迷う

 

上述の*自分を見つけたときに迷う*とは、補足すると「画家は自分を見つけたときに迷う」と
エルンストのいった言葉だとおもいますが、それは謎を見出すこと、「神秘」とは宇宙の踏み迷い
をもった感覚なのだろう。たえず発見してゆくこと。いったい何を・・それは誰にも分からない。



2010年02月18日

バタイユ「死を前にしての歓喜の実践」そのデッサン−7

AJ1401M

光りは光源からA

 

 

AJ1401M
「バタイユの方へ」

 

 

 

 

 

死を前にしての歓喜の実践
          
        1.
消滅の状態へ到達するまで私は静謐に身を委ねる。
河が海に、星の輝きが夜空に消え去るように争いの
ひびきは死のなかへ消え去る。

戦いのちからは一切の行動が静まることによって
完遂される。暗い未知なるもののなかへ踏み込むような
かたちで私は静謐のなかに入る。

その暗い未知なるもののなかに私は落ち込む。
その暗い未知なるものに私自身が変わる。

        2.
私は死を前にしての歓喜である。

死を前にしての歓喜が私を運び去る。
死を前にしての歓喜が私を突き墜す。
死を前にしての歓喜が私を消滅させる。

私はその消滅のうちに留まる、するとそれから先は
複雑な絶え間ない断末魔のかたちで表明される諸々の
ちからが集まった一つの作用のように森羅万象は私の
脳裡に映じる。

こうして私は理解できない底なしの空間のなかへ徐々に
のめり込む。

私は諸世界の底に達する
私は死に蝕まれる
私は熱に蝕まれる
私は暗い空間のなかに吸い込まれる
死を前にしての歓喜のなかで無に帰し。

 

ジョルジュ・バタイユ
「死を前にしての歓喜の実践」
訳:生田耕作/発行:奢灞都館


上記の文は『アセファル』誌、1939年バタイユ著作、生田耕作訳の1、2を引用したものです。わたしのデッサンでは「アセファル」とは逆で、頭と胴はあるが下半身を描写せず暗示に留めた。この(「バタイユの方へ)は、最初に(’05・12・29)わたしのスケッチ(AJ1401M)を掲載したものです。わたしの思考を述べたりもしていましたが、’10・02・17付けですべて削除した。言葉が沈黙に、無に到達する喚起力がなければ、ただのバタイユ論。わたしは書くことを放棄。それより直接詩を、「死を前にしての歓喜の実践」を名訳されている生田耕作氏の訳文を掲載しておきます。参照してください。わたしのデッサンがバタイユのイメージなのですから。

以後これをもとに、バタイユに喚起され様々なバリエーションで描いています。バタイユを思考すると、どうしても「からだ」の問題が強烈に自然発生的にでてきます。それと同時にヘーゲル的な思考が「からだ」を痛めつけます。それは神経症をわずらうほど強烈です。たんなる考察ではとうてい到達し得ない、神秘的な実体というようなものが現れてきます。それまでのロゴスの帝王が瓦解してきます。そのときに、いったい何が起きているのか。その問いがわたしのデッサン(AJ1401M)です。ようするに各自が「無神学大全=内的体験」のような宗教的なエクスタシーを体感する以外にないということです。わたしのデッサンをカテゴリに「バタイユ」を設けましたので、そちらを参照して下さい。バタイユに関しては機会がありましたら別のかたちで表現しようとおもう。



2010年02月15日

2重の構造「鏡のSelf Portrait or 賭け軸」

FB15-02A/FB15-02B
「鏡のSelf Portrait or 賭け軸」


掛け軸1掛け軸2

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

賭け軸

吊るされたひとはわたしだ。
わたしは壁に「掛け軸」を描ける

棒に摑まっているわたしは、
わたしを吊るしている。

そこには、わたしはいない。
鏡でもて遊ぶ。離したらおしまい。
からだの中心から出てきたわたし。

救いを求めているのか、
遊んでいるのかわからない。
縮んだ言語はぶら下っている。

振れば落ちるのだが、わたしは
それが出来ない。そんなことを
すれば、わたしは鏡から押し出され
てしまう。

賭け軸」でなくなってしまう。



2010年01月25日

空と線「"Pierrot Le Fou" 分断と瞬間そして永遠など・・」

FA22-01A/空と線

雲のイマージュ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

また見つかった
何が?-永遠が、

このランボーの詩で終るゴダールの映画、
気狂いピエロ」はいったい何処に行くのだろうか?
狂気に充ちた行為、あのフェルディナンは・・・

やがてアラビア半島の最南端アデンに到着する
ランボー。この地アデンは灼熱の太陽、すでに
詩は放棄している。前人未到の世界に到達した
財産とは何・・

・・ボードレールからランボー、マラルメなどに受け
継がれるのだが、ランボーのような詩人はいない。
どのようなランボー論であろうが、ランボーはそこにはいない。
詩のなかにもいない。自分の中にランボーを見つけた、
中原中也がいる。

ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」この”山羊の歌”の
サーカス」の奇妙な響き、逃走線を行くフェルディナン
ピエロが必要な「サーカス」、ピエロは破壊であるより、
再生だ。なぜ自爆しなければならないのか、フェルディナン

また見つかった
何が?-永遠が、

このランボーの詩で終らす、ゴダールは
なぜピエロの破滅を望んだのか・・・

ブルーの空と水平線、そこにはもう逃走線はない。
生きるとは、逃走し続けることではないのか。
ランボーは、なぜ灼熱の地アデンに逃走したのか・・

そんな疑問に答えるてだてはない。もしあなたが
詩人であるなら、ランボーから逃走することだ。
ボードレールからも、マラルメからも逃走することだ。
逃走線を発見することだ。芸術とは逃走線の痕跡
にすぎない。「Miserable miracle, みじめな奇蹟」

むしろ詩の外にある,芸術になる前の
Henri Michaux,アンリ・ミショー」の踏破の線、
「ムーヴマン」歩き続けること。向こう側に行かないこと、
死ぬことなくして死ぬこと、それがピエロではないのか。
ではなぜゴダールはフェルディナンを自爆させたのか・・
「半ピエロ」はすべてを破壊しなければならない
自爆は終わりではなく、それは始まりだつた。
・・フェルディナンは、ゴダールは永遠を発見しなければ
ならない。だから最後に、ランボーのあの詩、

また見つかった
何が?-永遠が、

逃走線の延長のそのまた延長に、永遠回帰の
差異と反復、前人未踏の己を、アンリ・ミショーの
すべてはムーヴマンだ」と語る、この逃走線を
身体に沿って運動し続けなければならない。
それは自爆と再生の「みじめな奇蹟」となろう。
それがピエロではないのか・・

ジョルジュ・ルオーは「ピエロは私なのだ」と言った、
この言葉をおもいだす。

 

FA22-01A:この画像は「空と線」というタイトルですが、ゴダールの「狂気いピエロ」のエンディングの印象を描いたわけではありません。けれども無意識にその平面(プラン)にむかっていったのかも知れません。そこから神秘を発見してゆかなければなりません。空を見たから無限が見える分けではありませんし、海を見たから無限を感じる分けでもありません。外と内の接線の様なもので、内在の問題でもあるわけです。逃走線を追究してゆくプロセスから、突然現れるのかも知れません。向こうからやって来るのかも知れません。そのことについて、わたしには分からない。

この画像は空を撮ったものです。そこにただわたしの敬愛するジョルジュ・スーラの線をいれたのです。「アニエールの水浴」の空、そして水面に映る雲と空。このタイトルを「ジョルジュ・スーラと無限の空、あるいは宇宙」でもよかったのです。それではわからないので「空と線、ゴダールと”狂気いピエロ”のイマージュ」としたのです。スーラとどう結びつくのかは、わたしにも分かりません。ゴッホの作品「青い空の麦畑、1890年」の空を想起もさせます。無限と有限の狭間で・・・創造とは形式を破壊してゆくこと、スーラにはそれを特に感じます。その点はどの芸術家もおなじだとおもう。無限とは永遠のテーマなのだと申し上げとおきます。マラルメ偶然というテーマで瞬間を捉えようとした、あの無限性を追究していたのです。デュシャンもそうでしょう。彼は、それを「infra-mince=アンフラマンス」極薄という特別な造語で詩的に表現している。しかしそれは再現することもできず、見ることもできない極薄ということか。初期の知覚の現象を感知する前の極薄・・それはいったい何? 二次元であるのに三次元を観ること。3次元であるのに4次元を観ること・・・



2010年01月18日

Duchamp/デュシャン「・・それは沈黙と透る鏡を用意する」

FA-02pBlue3

星々の手

 

 

FA-02pBlue3
Hands:
星々の手

 

 

 

 


・・それは沈黙と透る鏡を用意する 

----はじめに用意されたわけではない。
想わぬところからやって来る。それは
突然でもなく、継続でもない。閉じられた
口の渇きからでてくる。沈黙は色彩のない
色彩というように夢に似ている。

取り出そうとすれば、空虚のなかに言葉を
埋め、身体に色をつけねばならない。
生きた言語、「強度の永遠回帰」を創りだそうと
する。それは腫れ物にさわる痛さと快楽の言語を
とり出す。この予測される生成を待ち受けるものに、
こわばった身体へ餌を与えねばならない。

ひとは「アー・・」とか「ウ・・」とか分からぬ
意味不明の身体言語に遭遇する。
痙攣と言語の中間でひとは、ようやっと
舞踊をする。そうやって創りだした「もの」を
見せびらかす行為を観るのは、なんだか
はずかしい。絵画は、はじめっから裸になって
どうぞという、図々しさがある。言葉を追いやる
という、あの視覚をよりどころにする快楽に
落ち込む図々さというやつだ。

言語で埋め尽くされたメモ「グリーンボックス」は
この図々しさを脳みそにしまいこんで、
絵画の脳みそを創り続けたデュシャンがいる。
そこからでてきたものは、意味不明の神秘と
言語の乖離からくる「Infra-mince=アンフラマンス
であった。しかしそれは、ある接近を意味する。
乖離でありながら言語がそれを接近させるのである。

何を・・」それが「アンフラマンス」を接近させる
これは再現でもないし、経験でもない。
言葉はすでに「アンフラマンス」を含んでいる
未生成の脳内の視覚化、「仮想のもの」という
ように、あるシミュラークルが不可視の構造を
言語の彼方に創っている。これは語ることが
出来ず、未視覚の「実体」とでもいえる、神秘の
領域に、脱領土化の「ミステリーゾーン」に
入ってゆく。

こんな領域を開拓し続けていたデュシャンは、
絵画の見るという網膜の快楽から解放した。
思考の詩的絵画「”グリーンボックス”など」で、
言語と視覚の融合をやってのけたのである。
それは「アンフラマンス」を再領土化する作業
だったのである。それも何年もかけて創り続けて
いた、あの「大ガラス」と「遺作」となった
作品などである。

 

上記の文と画像掲載(FA-02pBlue3)とはあまり関係がありません。全然ないことはないが、関連付けて見ない方がいいでしょう。当初は身体と言語、それと視覚化の思考を書こうとおもっていたら、いつのまにかデュシャンのことになってしまった。書いているうちに自分のなかで変化していくのもおもしろい。わたしはおもいついたらどんどん過去の記事を追記したり、削除して更新していきます。訪れたかたは多少途惑うかもしれませんが、これからも流動的に記事を変化させながら掲載していきますので、あしからず。



2009年12月13日

物をデッサンすることとは、「見える物の再現ではない」

EK11-01

吊るされた物と瓶

 

 

 

EK11-01
吊るされた
物と4つの瓶

 

 

 

 

 

 

 

デッサンとフォルムについて

わたしは物をデッサンするとき、その物を
再現(類似)することではなく、イメージをデッサンします。
・・線を描き、色を着け、見えてくる方向性を探る
作業がデッサンするという行為なのです。
それは脳内で構成されてゆく「何ものか」です。
わたし自身、理解して描いている分けではありません。
新しいフォルムを発見してゆく作業なのです。

世界が訪れてくるその線を、色を配置すること
によって、観えてくる「かたち」があるのです。これは
「かたち」を描くのではなく、「かたち」が世界のうちに
現出してくるのです。これをフォルム「かたち}と、
わたしはよびます。

エドガー・ドガEdgar Degas)は「デッサンとは
フォルムではない。フォルムの見方だ
」と、語っていますが、
この意味することは何か、ひとつの内在の現れ方
を線が、色が自らのうちにフォルムを生成してくる
という意味で、わたしは理解します。秩序と調和を
フォルムが形式化してくるのです。

印象派の時代では、具象から多少離反してくる傾向
が見えますが、まだリアルなかたちが見えます。
セザンヌですら、もとの対象が分かります。ところが
今日ではその対象が判別できないところまで来ています。
その先駆者がアーシル・ゴーキーArshile Gorky)です。
わたしにとってデッサンというイメージは、もはやドガではなく、
ゴーキーなのです。

そして20世紀後半に入りますと、
デ・クーニングWillem de Kooning)やジム・ダイン
Jim Dine)など完成された作品なのか、デッサンなのか
殆ど区別がつかない、そういう時代になってきています。

わたしにとってデッサン(Dessin)とは作品のことです。
あまり区別はありません。デュシャンDuchamp)のメモも
言葉のデッサンということになります。ドガの言葉だと
おもいますが、「一枚の絵とは一連の計算の結果だと・・・
言っています。まさにそのとおりだとおもいます。
では「計算とは何か」アートでは解のない問いであり、
ある感覚器官の反応だとしか言えません。

人工的なものを含め、この反応とは宇宙の広大無辺の
ひとつの切片を微かに呼吸している、人間という
生物の営みを生命ある「かたち」に感じる、という形式を
創りだすことなのです。この形式は共通言語を通して
(視覚化されたフォルム)見いだし、反応を惹きだす表現の
ことです。したがって反応とは表現と同義語のことです。
画家はそれを探究し、鑑賞者はその記号を読み取り感覚の
反応を喜びをもって感じることができるのです。

 

EK11-01吊るされた物と4つの瓶」:この絵はわたしにとってデッサンともいえるし、作品ともいえるもので、習作とはいえません。わたしにとってある概念のもとになるものなのです。ひとつの公理系を自然から、あるいは人工的なものから創り出す記号化なのです。



2009年12月03日

エロティシズムの内部

EK3-FL01brow

生命システム

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

エロティシズムの内部

すでに朽果てた生命の欲望は始っている。
終わりから始まり、繰り返すことなく、繰り返す
始まり。この円環の欲望する機械は、あらゆる
ものを振動させ、ひとつの「かたち」を創る。
生命体とはこの無限集合のシステム、すなわち
有機体の「ゼロ」と「一」の分割され得ぬ、
無限個の集合体ともこいえる宇宙を形成している。
その運動をエロティシズムという。



2009年11月19日

それは芸術ではない「こうして形成されてゆくあるもの。」

EK19-01闇の声

dark-side

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

闇の声闇

闇の声は自覚できず身体の内在として
溶け込んでいる。それは自我ではない。
何ものかの浸透、外と内の区別なく、
時間の無時間とも言える、
名のない言葉の堆積でわたしを創ってゆく。
ゴヤの闇、レンブラントの光、さまざまな
光、見えない光はこうして言語と不可視の、
ものの混成のなかで身体観念を形成している。
見える「かたち」にしたとき、
これを芸術といってはいけない。
おそらく、それはライプニッツの「モナド」、
マラルメの襞、詩以前の詩とも云うべき
ある実体なのであろう。そこには、
「名」のない無名な光、闇がある。
わたし達は芸術について、語りすぎる。



2009年04月19日

デッサン「散文詩、ボードレール<寡婦たち>」−1

DD25-14black3

裸婦_ED18

 

 

 

 

DD25-14black3
寡婦たち

 

 

 

 

 

 

 

 

寡婦たち

このタイトルの絵は”パリの憂鬱”から取ったものです。ボードレールの詩はわたしを無価値にしてくる、”蕩尽”。そこから感じはじめないと、どうにもならない。現世の価値観を超えたところからやってくる光と影、官能と退廃、メランコリーとアレゴリー、こんなイメージが想起されてくる、それがわたしにとってのボードレールです。わたしのデッサンは視覚化でおわらず、言語(思考)が更にフォルムを加速させ、あるイメージを誘発してくれればいい。そんなふうにドローイングします。・・悲しさと苦労を背負った孤独な女性をときとして、その影が光となり無限に向かう、こんな姿をデッサンして観ると、「寡婦たち」というあのボードレールの散文詩”をおもいうかべます。



2008年12月24日

アンリ・マティス「イカロスの墜落とカオス」−1

DL20-10C_3/DL20-10C_4

イカロスの墜落1イカロスの墜落2

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

イカロスの墜落
 (生贄)

『・・死すなわち虚無は目眩(めくるめ)きのかたちに
なぞらえるべき<私>の主権が----まさしくその衰退
を通して----無限に飛翔する領域にほかならないから
だ。この<私>と、そしてその主権は、自暴自棄的
性格の純粋性に到達し、かくして死に臨んだ<私>
の純粋な願望を実現する。考えうる一切の制限の
彼方へまで無想の領域を拡大する、酔いしれた人間
の願望・・』


 

上記の文の一節は
G・バタイユ:「生贄」
訳:生田耕作を参照
発行所:奢灞都館

わたしは「イカロスの墜落」がなぜ画家や詩人たちにとって、魅力的なテーマなのか不思議におもっていた。このデッサンシリーズでイカロスのイメージをわたしなりに描きはじめて観ると、バタイユへと到達してゆく思考の磁力に驚いた。思考の背後に消尽する生命の焔があるのだ。燃えさせるものへと無限に接近しようとす不思議な力があり、感覚がそのことを求める。暴力的な太陽の熱に身体を消滅させたいという不思議な力があるのだ。有機体でありながら自己毀損の志向性が、死の到来を待ち受けている。何という自己矛盾。あの無機的なものへと向かうエネルギーの変換のような燃焼を求めている。

この身体の消滅、それは死であり、カオスによる壊滅を防ぐてだてはない。しかしそれをなだめ死と生の瞬間があるのだ。むしろカオスへとむかう潜在性の形式を創ること、宗教を除いてそのような行為があるのだ。それは芸術いがいにない。マティスの「窓辺のヴァイオリニスト、1917」はカオスをなだめ、カオスをよびこむリトルネロとなり、内在平面をつくる線となり調和へと向かいます。「王の悲しみ、1952」は音楽を止めカオスの平面へと向かう悲しさとなったその瞬間を捉えている。音楽がもはやカオスの微粒子と化した消滅へ向かう、リズムの黄色い木の葉が空間に舞っている。カオスへと帰ること。消滅の美しさを効果的に暗示した黄色い木の葉と死にゆく生命、これを美として表現しているマティスの光を感じます

コリウールのフランス窓1914」はこちら側と向こう側をカオスの境目として窓を表現していると、わたしは感じます。窓は開いているけれど外は暗闇なのだ。これは部屋の外が夜であったというわけではない。ひとつの内在の世界、カオスの窓を暗示しているのだ。芸術行為とはかくも厳しく向こう側へと行く恐怖と勇気、ぞっとするほどの虚無が、あのブラックホールが待ち受けている。身体がそれに耐えられるかという深奥を感じます。精神を支えるのは何・・という問いが闇から聞こえて来ます。

そして最後に切り絵の「イカロス、1947」は人類がこの地球に棲み思考の翼でそこに新たな地層をつくる。この地層はたえずカオスの潜在性をもった現働化であり、そこに至りつく死へのダイアグラムである。上昇する思考の翼とは、カオスに限りなく接近しよとする死への落下であり、ついには翼を破壊され死を迎える。それは生命の営みを再び宇宙に還すカオスの殉教であるような美、脱領土化した限りなく美しい有機体としての人類を讃えた絵である。それがマティスの切り絵の「イカロス」である。賛美歌のように美しい。再領土化さた芸術の思考は、虚無とひきかえに「死」を死ななければならない。リトルネロとしての「窓辺のヴァイオリニスト」のように音楽を奏でることによってしかカオスの壊滅を防ぐてだてはない、ということである。これが「芸術の力」であるとおもう。

 

DL20-10C_3/DL20-10C_4:この画像掲載はひたすらカオスに向かって上昇する思考の翼を描いたものである。デッサンシリーズでは「イカロスの墜落」を何点か掲載しましたが、マティスの切り絵の「イカロス」についには到達します。わたしはその途上にある「イカロス」を描きました。絵は2点掲載し、暗い太陽と煌めく太陽のさらに銀河に到達しようとするその途を暗示的に描いた。そしてカオスとは多分バタイユの「生贄」のように自暴自棄的な毀損の行為なくして共存できないのだろう。唯一芸術だけがそのカオスをなだめる力があるということなのかも知れない。

これでデッサンとしての「イカロスの墜落」はひとまず終ります。なぜ惹かれるのだろうかとずーと考えてきました。いかに「イカロスの墜落」というテーマが神秘的で、生と死のドラマを神話というかたちで見せてくれます。そしてわたしは、マティスの「イカロス」にいきつくことをわたしなりに発見しました。

余談:
この画像掲載で特に左のイカロスから発光している青い色が、宮沢賢治の「よだかの星」を感じてしまいました。そのきっかけは朝おきたとき「よだかの星」という言葉がでてきたのです。わたしは、賢二の童話は殆ど読んでいない。子供のころの記憶が突然でてきたという感じです。さっそくネットで調べてみると「よだかの星」は最後に、

・・そして自分のからだがいま燐(リン)の火のような青い美しい光になって、しずかに燃えているのを見ました・・

というような描写があります。そして銀河の一部になって永遠に光ってる、このような物語です。ジョルジュ・ブラックにも深いブルーの色の大きな空間に(ルーブル美術館の天上画)鳥を描いている。天体の星座のようでもある。カオスと同一になるというテーマがあるのだろう。それはシミュラークルの世界なのだが、ピエール・クロソフスキーの永遠回帰にわたしはむしろ惹かれます。

賢二の世界でわたしが馴染めないのは生身のエロティシズムがデリートされているところがあるので、ついてゆけないのです。究極はたしかにそうなのではあるが、このデリートそれ自体がバタイユとは違った東洋的な禁欲的な反力としてのエロティシズムなのかも知れない。賢二の童話にも「イカロス」とは違った方法でアプローチしていたのは驚いた。上昇と落下これを対社会性の問題、そして生と死のテーマを深く追究した童話であることが、多くのひとに感動をあたえているのだとおもう。自己犠牲の深い哲学な問いが賢二の童話の根底にあるのでしょう。それは「愛」ということでしょうか。



2008年12月17日

内在とは「思考と溶け合った身体の焔のこと」−2

DL17-10B

lonely fireA

 

 

DL17-10B
Lonely fire
(融ける氷と焔)

 

 

 

 

 

 

物質と記憶

溶け合っている
対立するものではない。

ひとつの静寂な空間をつくる。
現れるとき、それは孤独となり
無限をひき連れている。

これは矛盾ではない。

無窮の身体とは、
拘束から離反する
メタモルフォーゼ

それは原因のそのまた原因を観る
記憶の連鎖のなかで
消滅した焔を蘇らせる。

 



2008年12月06日

内在、すなわちひとつの生・・とは

DL05-walker_3

walkerB

 

 

 

DL05-walker_3
「冬の風景と内在」

 

 

 

 

 

 

 

 

内在、
すなわちひとつの生・・とは

一人の哲学者の言葉を、この最後の章を・・
失速しそうになるシナプスの彼方を追い求める
メスカリン素描のアンリ・ミショーを、
わたしは思いうかべる。

微粒子のざわめき、この「内在、
すなわちひとつの生」であるような
あの「みじめな奇跡」を思いうかべる。

ただ、ぼーとした無窮の空間に
光と影、水面の波、霧、ゆらぎうつろう身体、
わたしは、ジョルジュ・スーラを思いうかべる。

それは風景と人が分離してはいない。
けれどもどこかで、一人でたたねばならない。
それは、現れることが消えることのように寂しい。

・・すなわち一つの生が、産まれる透明性の影、
この影が内の光をつくり、外の光りと同化する
一つの孤独をつくる。

外を観るための内部の暗い光は、
カオスの微粒子を体内に送り込む。
そのために、たえず夜でなければならない。
それはミショーの「メードザンたち」の
夜の光をもった身体として現れる。

 

わたしは風景(空間)と内部の心が一体になることが、望ましいのかは分からない。夜が必要なこともわかる。ジョルジュ・スーラの絵を観ると、「内在、すなわちひとつの生とは・・」何かということを問いかけてくる絵なのです。それは人物の内在性の風景画なのです。その内在とは無限大の宇宙の反映、その微粒子でしかないある種の虚無感が漂ってくるのも確かです。意識とは空間の変数によって変化してしまう、うつろい易い現象なのか。



2008年11月30日

デッサンシリーズ「イカロスの墜落」ー7

DL30-30A

イカルスの墜落A1

 

 

DL30-30A
「イカロスの墜落」

 

 

 

 

 

 

 

イカロスの死とは

神に接近し過ぎると、
なぜ二度ともどってこれないのか、
ニジンスキーは「牧神の午後」を踊った。
その後、彼は何処へいってしまったのか。

同一性の喪失とは、アイオーンの
永遠回帰、こんな誘惑をなぜするのか。

ディアーナの水浴を、その輝く裸体を
偶然目撃しただけで、なぜアクタイオーンは
鹿に変身させられ、自らひき連れてきた猟犬に
食い殺されねばならないのか。

 

このデッサンシリーズでは既知の神話を描き、それを現代の中にどう対応してゆけばいいのか見るために描いています。またイカロスを分子的なカオスへと想起させる線、その空間性をみるための、わたしのデッサンメモです。それにしても失う(死と主体性の喪失が)ということがなぜエロティックなベクトルをもつのか。

・・欲望するとは、消費社会の装置のなかで消耗させる機械なのか。それはウォーホル的な欠如を生産する欲望の機械、反転された主体性の喪失、同一性の反復行為のなかで反神話をつくりだすことなのか。・・シミュラークルの、そしてシミュラークルの機械をつくりだすこと。強度を機械化し麻痺させ主体性の喪失と同時にシミュラークルの同一性をくつること。フラクタルな精神構造を量産するアートであること。こんなふうに思わすウォーホルのアートは、定点もなければ、数直線上にもない。それから外れた、複素数のアートなのか。

K30-30:「イカロスの墜落」の画像は『”イカロスの哀悼”、ハーバート・ドラッパー、1863〜1920』の絵を参考にスケッチしたものである。ドラッパーの絵ではイカロスの翼が異常にでかく絵画空間としての魅力を追究している。わたしはラフスケッチで翼を小さく描き、天と地上の中間にいる状態になるよう描いている。このスケッチは描くことが目的ではなく、その思考を読み取ることが重要なのです。そのため女性は省略して描いてはいない。ドラッパーの絵は周りに3人の女性を描いて、一人の女性は墜落したイカロスの遺体を背後からいたわるように支えた構図になっている。それはピエタ的であるより、ずっと現実的な女性に感じます。他2人はそれを見守るような情景で描いている。



2008年11月07日

デッサンシリーズ「イカロスの上昇と落下」−6

DK06-10A
DD06-10B

上昇するイカルス

 

 


 



 

 

 

 

 

 


DK06-10A
上昇するイカロス

太陽の光の向こう側へと
逝かねばならない。燃え
尽きた後に、暗黒の死の
光が待ち受けている。
そこを徹りぬけると、
わたしは死ぬ。

 

イカルスの落下

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



DK06-10B
落下するイカロス

わたしは死に、黄泉の国に
どんとん落下してゆく。
もどるてだてはない。不在の
影で死に、言葉だけが生きる。
そのときわたしは2ど死ぬ。

 

「イカロスのイメージ」

イカロスのデッサンは初めに落下するイメージがでてきた。上昇のイメージではなかった。この落下はカオスの海への落下を、死としてメタモルフォーゼさせる身体の旅立ちのように感じた。翼を崩壊させ、メルトダウンさせる変容の熱を誰が与えているのかという問いを感じたのです。むしろ融けて落下することをはじめっからイカロスは望んでいたのではないか。そのイメージがわたしの無意識のなかにあったのだろう。それは当然上昇の結果なのである。上昇も下降も同じ位相の無限大の深淵であり、バロック的な上昇と下降なのである。落下する暗黒の重い重力は無重力の思考のトポロジーというわけである。

わたしにとってイカロスは、危険を省みず無謀な冒険をしてはいけない、というたんなる教訓では決してない。脱領土化へのアンチ・オイディプスなのであり、詩作行為するものの登竜門だ。カオスの微粒子を感じる詩がそこになければ、たんなるメジャーな作品にすぎない。パウル・クレーの偉大さはカオスの風がいかなるときでもそこにある。領土化された父の警告を無視した深い病はあるのだが、あの暗黒というやつだ。痛みをともなわないアートはないというわけである。前回は別々に掲載しましたが、上昇と下降するイカロスの両方を観てこそ、ある本質が観えてくる。それは:

クレーの「さえずる機械」を観るとカオスとは何か、アートとはどのような行為なのか分かってきます。

またマティスは芸術について次のように語っています。

芸術という名に値する芸術はすべて宗教的です。線や色彩でつくられた創作物があるとしても、もしこの創作物が宗教的でないなら、それは存在していないということです。もしこの創作が宗教的でないとすれば、そこに問題となっているのは記録の芸術、逸話的芸術にすぎない・・・もはやそれは芸術ではないのです・・』

ということでマティスの言葉で、この「上昇するイカロス」と「落下するイカロス」のデッサンを終ります。この言葉は以前書いたマティス論に詳しく書いています。



2008年09月20日

「芸術とは何だろう」−1

DD11-05_2

都市の郷愁

 

 

 

DD11-05_2
都市の郷愁

 

 

 

 

 

 

 

都市の郷愁

ほら そこに見えている
詰まった記憶、都市の顔の外に
カオスが覗いている。

ボードレールの衰弱。
雲を突き抜け、無数の伝播、

夜の光はいつもオレンジ色の外の線、
内在は明るくて暗い襞。

出来事はカオスを模倣する
それはリトルネロ、消えそうになると
オレンジ色を模倣する。

遺伝子の奥には銀河を模倣する
意志がある。これは変容しようとする
微粒子のカオスの意志に従うリトルネロ。


「暗い夜道と明るい声のささやかな光」

すべての人工的なものは、
この遺伝子をコピーしようとする
人工的な自然の回帰、だから人工も自然も
そこには区別はない。

パウル・クレーが都市を描くとき
暗い夜道と微かな命の都市を創る

暗黒は無窮の道に通じている
あの銀河があることを教えてくれる

わたしはクレーの光を記号に写して見る。
ジョルジュ・ルオーにもそれがある
多分それが芸術というものなのだろう。

 

上記の言葉は思いついたことを断片的に記述したわたしのデッサンノートの一部です。いつもわたしはイメージを言葉にいったん置いてみます。詩としてのかたちにはしていない。ある種のオブジェです。ピジョンを書き記し、絵を描くための無意識のベクトルになるようその地層化です。

このDD11-05_2の画像掲載はまだフォルムを決めていない状態です。どの方向性にいくのか、明確に追い詰めていない。生命を描こうとしているのか、あるいはカオスをストレートに現出させたいのか判断していない。まだ途中の絵です。しかし何かを待ちうている未決定の生成変化を、その有機的生命体の光が微かに覗いているので、観てみようとおもい載せた。この作品の方向性を頭の中で完成させる絵画でもある。わたしは思考のうちにこの作品を創りあげている。完成度のない絵画ではあるが、絵画の詩作品ともいえる。それを完璧にしている画家がいる。それはパウル・クレーだ。

 



2008年07月13日

反アレゴリーの円「重層する表象の彼方へ・・」−2

DG13-06black4a

ネコの表象A

 

 

DG13-06black4a
Laughing cat

 

 

 

 

 


 

Laughing cat

「いったい誰なのか」

重層する顔貌性はネコではない。
ましてや赤子にネコのぬいぐるみを
被せたものでもない。
確かに口元は赤子ではある。
しかしよく観ると大人の女性にも見える。

ネコは空虚な笑いをする
分子状の身体性のない
笑いガスを吸っている。

あの銀河の元素をもった
渦巻き星雲に通じている

無限大の速度で運動する
物質を微分した笑いである。

もともとそこに存在していない
無限の集合を見せた
仮の姿Xのネコ的な赤子、
ネコ的な女性、生成変化の
奇形児Yから産出した
ある人X」なのである。

ウィトキンの写真に出てくる
奇形児の表象Xである。
そのぬいぐるみを着た
強度Wである。

それは言語Zが
シミュラークルをつくる

平行線の縞シャツは、
何かを隠す手品師の
ハンカチであると
想って下さい。

あなたがそれをとり上げたとき、
ブラックホールに入り
不思議の国のアリス」となる。
ただしそれは危険な冒険となり、
言語の逆襲に遇わないように。

この実体というものから電離された
言語は絶えず空虚な微粒子
発生させ、出来事をつくる。

そのとき実体は消えるのではなく、
負の電荷をもち時間軸から
一時的に消去された---のような
振る舞いをしている。
この振る舞いが出来事に置換される。
いわゆるシミュラークルの発生となる。

 

上記の言葉は、わたしのデッサンノートをコピーしたものです。何とかして「永遠回帰」というテーマを視覚的にできないものかと、あらゆる「表現の形」を変えて試みている。わたしは表現するスタイルをもたない。思考がわたしのスタイルです。



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2008年07月12日

反アレゴリーの円「この平面を思考する表層の世界」−1

DG12-01/「不自然な書斎」

反アレゴリーの円

できるだけ不自然になりたい
自然が美しいという不自然を
感じるわたし、人工の二枚舌

死に至る病は死ぬことが出来ない
あの病である。こんな事をいうのも
芸術的であれば、あるほどそこから
遠のきたい

人工的であればウォーホルの機械に
なれる、人工死、シミュラークルの世界に
強度を求める。

するとボードレールの幽霊がでてくる
アレゴリー、時間の切断、パサージュ論の
ベンヤミン、グノーシス的狂気、現世の呼吸
困難病が身体を蝕むアルトー・・

何かをしたいとおもう瞬間呼吸が苦しい。
酸素なんぞいつも無視して生きているのに
たちどころに器官がそれを知らせる。

神経の秤というやつだ。時間軸をデリートした
複素数の概念でいきたい。アリスとアルトーの
さらにその表面で生きてゆきたい。

それは鏡の鏡、さらにそのまた鏡で
自分がどこにいるのか不在の方がいい。
人工的に、さらに人工的な純粋の表象装置を
つくりたい。死体置き場にいながら、
ステンレスの寝台を用意するその対比を
観るのではなく、それを反射させること。

両者の影をつくり虚数の値を導きだしたい。
二つのものを一つの平面(プラン)で観ること
それは電流と電圧が一つの円で構成できるように。

この平面を思考する表層の世界を感じる記号を
見つけること。人工的な平面が不可視の内包を、
そのリアルな世界のパサージュであるもの。
反アレゴリーの円をみいだしたいのだが・・

 

わたしは絵画的な世界から脱したい。けれども詩を書くことが出来ない。詩は言葉の錬金術のような技法が必要だ。ボードレールからはじまり、ランボー、マラルメへと進み言葉の秘法を授かりたい。デュシャンはいつも言葉の喚起力を誰よりも鋭く感じていた人だ。ランボー、マラルメ、ジュール・ラフォルグ、レーモン・ルーセルなど愛読していた。ピカビアも詩を書いている。わたしは詩人が好きだ。言葉と身体の関係を、その狂気を身に滲みて感じているがゆえに、逝ってしまう。

古典ではヘルダーリンがいる。舞踏ではニジンスキーがいる。絵画ではイヴ・クラインがいる。わたしは世界に接近するのではなく、そこから離れたい。どうすれば離反できるのか分からない。今流行のアニメをパクリ、シミュラークルの世界をつくるものでもない、かといってフランシス・ベーコンやキーファーは、わたしには重すぎる。ウォーホルはもっと重くて、資本主義のシステムまで見せてしまう。表層の限りなく重い世界だ。(この反重力の世界は深層の世界と等しい量を持っている表層のベクトルだ。落下が無重力をつくるように、言葉は重力と無重力をつくりだしながら、自らそれを離反させる。)

またその逆バージョンで身体の重さ、死、腐敗、廃墟を表現すれば、それだけ反自然となって返ってくる。生の重さが見返りとなるが、その瞬間人工的な思考の逆襲にあう。そこで登場してくるのがバタイユであるが、非-知の彼方を各自が探す以外ない・・ということで、わたしはこれから街路の写真を出来るだけ人工的に撮りまくろう。まずはわたしのアトリエ兼書斎を撮ってみた。ようするに反アレゴリーの円を撮りたいのだ。



2008年05月02日

シミュラークル「意味の論理学<人体の夜>」−2

ED02-20A/ED-20E/ED02-20B

鏡A黒い人物鏡C

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ED02-20A/ED-20E/ED02-20B
「鏡のなかの夜と昼」

 

昼のなかに夜を・・その光りは外からやって来る
内部の光りは、たえず暗黒で二重映しになっている
その窓はなく、・・鏡に映る姿が己の像として
認識するとき、差異はすでに出来損ないの部品して
回転する。虚無そして・・虚無の持続が媒質として
つくるもの、微粒子の組み立て工具を持ち歩く言葉たち。

言語の無限反復はシーニュの意味作用を破壊せねばならぬ。
夜をつくるために。墓の彼方へ、その沈黙が回帰させる
でもどりの花嫁を祝福するために。つまり不在でなければい
られない言語の宿命を背負う独身者たち。モナドの影に
孤独のトポロジーをつくるシミュラークル・・

主体の消滅のうちに、外の思考を取りこみ、強い力として
感じる沈黙の・・余白を、この言語の虚体から人体の夜を
かくしてつくりだし、鏡の反射が内部空間の闇をかたちつくる、

「何者か・・・」を可視的に映し出すシミュラークル。



2008年04月26日

シミュラークル「それは思考するアリス」

DD25-04Black1b_1

Hand MirorA

 

 

DD25-04
Black1b_1
「Hand Mirror」

 

 

 

 


「鏡のなかの人物」

・・そこに襞を生成させ接線を画く。
シミュラークルの線は内在平面の投影では
なく、接線なのである。出来事をそこに見せる
平面の再現では決してない。観えざる時間の
生成をHand Mirrorの意識で思考するアリスで
ある。身体は3次元であるより、2次元に近い
という錯覚をする。



2008年04月04日

絵画と身体性「基底材とは誰か、アルトーとは・・」−2

DE02-02B_Red2a

神経の秤



 

DE02-02B
_Red2a
「神経の秤」

 

 

 

 

 

 

 

わたしはアルトーが如何なるひとであるのか知らない。デリダが書いた『基底材を猛り狂わせる』というアルトー論を読んでみる。よく分からない。わたしはアルトー論の書物はまったく読んでいない。デリダが書いた、このアルトー論がはじめてなのである。なぜなら読んだとしても、もっと分からなくなるからだ。余白の周りをサーカスのように接近しては猛り狂わせる怪物に、「基底材とは誰か・・?」という問いにわたしはお手上だったのである。難しいということより、言葉の壁にぶっかったのだ。

それよりアルトーのデッサン集を見ることで、視覚をとおして思考を読まされる、あのアルトーの声がじかに迫ってくる緊張感、そして残酷なこの形態に、わたしは堪らなく傷ついているアルトーを読みとる。残酷さの背後に衰弱したミケランジェロの「ロンダニーニのピエタ」の美しさを感じるのだ。 怪物にやられている身体が透明感をおびはじめるというあの美なのだ。

『私は2千年前にゴルゴダの丘で十字架にかけられたのだが、それと同様に、全生涯にわたって毒を盛られてきたのだ・・』というアルトーのくだりは、彼のデッサン集を観ると、これは告白であり、真実を語っているということが分かってくる。わたしはアルトーを思考し、身体の衰弱体がキリストの受難と同等の価値が、異様に透明感を増してくる、あの空虚と取引したアルトーの思考の涙をおもいうかべるのだ。

わたしはアルトーのデッサンが、何かに対する反応を描いている、ということは気づいていた。<・・この何かが問題なのである。>しかしである・・アルトーのデッサンで驚くべき透明性をおびたものがある。それは自画像の木炭デッサンである。『自画像1919年』、この作品を見ると、まるで無防備なアルトーなのである。この自画像を見ると恐ろしく何かに傷つけられるであろうという、美しさを秘めている。美しい事物の生まれたての存在を感じるのだ。ただこちらを凝視している眼差しが、何か非常に傷つきやすい星として、遠いとこらからやって来た一つの星座のような気がするのだ。社会の残酷さを告白せずにはいられないキリスト像なのです。生贄の前のこの透明な美しさにわたしは感動するのです。そこにはすでに一つの身体を、透明な大気を呼吸しているアルトーがいる。

「神経の秤」が、今は暗黒の静謐な空間となり、永遠にそこに存在している目に見えない光を湛えている星として、わたしはアルトーのイマージュを十字架で、そしてその光りをダークブラウンと深いクリムソン・レーキ色で描いた。

 

「基底材を猛り狂わせる」:ジャック・デリダ
訳:松浦寿輝、<発行:みすず書房 >参照



2008年03月31日

アルトーの残酷絵画とは「技法の彼方にある、あの怪物を・・」

DE02-01A/DE02-01B

水の出現3水の出現4

 

 

 

 

 

 

 

 

 

DE02-01A/DE02-01B
       「Untitled


ブルーの中から現れてくるものが何であるのか、ひとは理解しようとする。わたし自身理解していないのに。ひとは類似を求めて安心する。それらの集積が既知の認識であるとおもう瞬間、解らないということを目差すこの思考運動が、それ自体から現れてくる怪物を探し始める哲学者たち。あのアントナン・アルトーの「残酷な絵画」を誰が解るというのか・・技法の彼方にあるあの怪物を。

つまり理性の力は狂気を止められるのだろうか。狂気が理性となる場合は。多分人は、それを理性と言わないだろう。ジャック・デリダなら『基底材を猛り狂わせる』というだろう。かれは言語のパフォーマーであり、サーカスだ。そこで演じているアルトーは、ピエロか綱渡りの曲芸師だ。思考の狂気を綱渡りしている。落ちたらおしまい。しかし彼、アルトーは思考の綱ですでに非-思考に落とされてる、ということを知ってる。

 

「哲学者たち」ということを考えていたら、とんでもない方向にいってしまった。あのアルトーに頭がスイッチしてしまった。しかしおもいついたらそのまま書くのがわたしの慣しである。というのもイメージが後にアートの覚書になるからである。



2008年03月26日

アンリ・ミショー「襞をつくること」−4

CG11-01_4/CG11-01Aa1

ミショーの空間A

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

「ミショーの身体」

そこに身体がない、”みじめな奇跡”とは気化した
身体の襞である。だがどこへ、微粒子の拡散した
痕跡が、”みじめな奇跡”となるのではない。
無限に拡げられた襞がそこに観えたとき、

「さらに無限へと高まらねばならない・・」

という無窮の意志が発生することである。
そのとき同時に孤独も発生する。
この”みじめな奇跡”・・

「それはモナドである。」

「出入り口もなければ窓もない」内部の空間が、
暗い闇から光りを呼び寄せ礼拝堂をつくる。
折り畳まれた襞、世界の秩序が形成される。

この人工的な建物は、人工的ですらなく、
世界圏へ導く非知覚の「内側の空間」で
襞は拡げられ、それが身体を折り畳み襞となる。
そして外の線が内在性の時間をかたちつくる。



2008年03月15日

カオスの窓口「暗闇のなかに消えていった・・」

DC15_01

Mail Box A1

 

 

DC15_01
Mail Box A1
orChaos

 

 

 

 



カオス

・・それが破棄されていたとは気づかず、返信を待ち受けている。
つまり誰が破棄したのか知らないのだ。確かに逢うために接近し、
話したのだが、その人はもう見えない。暗闇のなかに消えていった。
「A1様へ」とMail Box に投函したのだが・・



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