2012年11月11日

ジャコメッティとフランシス・ベイコンの思考方法

HI10-01

水浴をする人

 

 

 

 

HI10-01
水浴をする人

 

 

 

 

 

 

 

 

周辺の線から

ジャコメッティの時間的な捉え方はセザンヌを受け継いでいる。これはフランシス・ベイコンもそうである。マティスセザンヌ的な時間論と存在の顕現化が不安定であるという、動的な決定的な要素がある。これはピカソのように確信に満ちた断言でもない。有機的なもの、あるいは非-有機的なものを含め、”かたち”という概念は、ジャコメッティについては断言できるものがない。たえずその周辺を触りはじめる。正確さというものは別な意味をもつ。時間によって解体させられる。

絶えず初期化される線、その何本もの線が線によって否定されてゆく、そのドラマを見る”かたち”である。これは極めてセザンヌ的だ。どこで止めるかという問題が絶えずつきまとう。この究極の選択を迫られる”かたち”はどこからくるのか・・フランシス・ベイコンの絵はこの時間的な格闘の結果、導き出された”もの”である。このグロテスクさはウィトキンと同様、部屋に飾るべき絵ではない。最後の西洋的思考の絵画というべきものである。

ジャコメッティは東洋的な要素に近づきはじめている。存在への接近法は、無か有かという問題ではなく、そこに在るという感覚の確認をどこで気づくかという戦いでもある。これは極めてセザンヌ的だ。厳密な絵画を構成する。あの普遍性に到達しようとする格闘である。つまり絶えず周辺を描く中心の無い無限の中心点を探してる。

フランシス・ベイコンエントロピーの増大以外思考しない。その入力エネルギー(秩序)が自己であり、システムを維持する装置として思考する。またそれを破壊するのが他者だと言っている。しかしこの入力エネルギーをどこから取り入れるのか。これを彼は「欲が深いんだ」という。このとは「快楽」か。つまり無と有を往ったり来たりする情動の装置を描いている。このメカニズムは自由という分けでもない。むしろ拘束されたある意味を提示する。しかしこの意味無-意味である。「床の上の血 1986年」の絵は蒸発(相転移)した物体の痕跡(血)とそれを見ている吊さがった2本の電球、そして右側にあるそのスイッチ自己のオン-オフを、背景のオレンジ色は尚もエントロピーが増大し続ける無窮の宇宙を暗示している。そんな見方もできる。

増殖と崩壊のエンドレスな時空を見る絵である。ベイコンの絵は部屋に飾れない。唯一飾れる絵は「アングルのデッサンにもとづく人体の習作 1982年」である。わたしの好きな絵である。危ういバランスの上に座っている裸婦である。頭がなく、大きな乳房が心の安心感を与えている。ユーモアがあり、生命感に満ちている2つの卵というところか。

ベイコン部分と全体を等しく見ている。全体の方は見えない力が作用し、むしろこの作用が非常に大きな要素となっている。部分は絶えず崩壊してゆくその作用点をみる。そのことによってすこしもとどまってはいないものの出来事を見る。不安定でありながら、どこか安定している、そのシステムをみる動的平衡な絵画である。しかし絶えずカタフトロフィーがある。ベイコンは意図的にその漸近線を探している。厳密な具象であると同時に抽象である。その驚異的な絵である。

 

画像掲載「HI10-01」は:
マティスの『*水浴をする人、1909年』の作品を鉛筆デッサンしたもの。チャイニーズレッド系の単色で画像処理したものです。マティスのこの作品は不思議な絵で、過去であるのか、現在であるのか定まらず、極めて不安定な状態で顕現化した奇妙な絵です。マティスの原理としての絵画(マティスのなかで最も哲学的な絵です)だと感じている。この現れ方はジャコメッティにもあり、セザンヌの存在論と深く関係しているとおもう。マティスの『水浴をする人』を細身に描けばジャコメッティへと接近してゆくことが分かる。その父はゼザンヌであろう。

*『水浴をする人』の詳細は
カテゴリのマティスを参照して下さい。



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