2012年06月18日
カオスの窓「アンリ・マティスのリトルネロ」
FH19-01
アンリ・マティスのリトルネロ
カオスをメロディーに。窓とは取り入れ口であると同時に出口でもある。呼吸するリズムをつくり、無化する時間を有機体化する生命の切と閉じである。膜をつくり内部のかたちを保つ。無を無化するためのアートではない。カオスを取り込みリトルネロが生まれ、暗黒から生きる喜びへ解放してくれるアートはマティスだ。マティスにはリトルネロがある。ピカソは意図的にそれを排除している。ところが落としどころがないサーカス的なアートだ。ひとはそのサーカスを観て圧倒される。自我あるいは自己というものの無明の表現の達人である。宗教的な要素がなくてもアートが可能である。いまでも美術を志すひとの教科書になっている。男女関係のノイズがストレートに表現されている。そうするとどうしても無というからだの表現になる。よりどころのないからだの表現から、それを見てカオスへと接続されるその凄さかなと。
それはリトルネロとしてのカオスが不在であるがゆえに、またしても無というカオスの淵に落ち込む。そのトートロジーをやり続けたひとがピカソではないか。そしてピカソはその淵を見せることがアートだと断言している。わたしはピカソの絵を見るにつけそんなふうに感じる。わたしはこのトートロジーから開放する方法をマティスから学んだ。あれほどカオスを見ていたひとが、なぜ装飾的な絵画へと移行したのか疑問に感じているひともいる。しかし最も装飾的といわれている切り絵のなかで、「イカロス、1947年 ジャズの挿絵」は、最も美しいカオスの淵だ。そこには宇宙と生命がある。
しかしマティスもピカソもカオスの淵を見ているというおもいは共通している。そこからお互いに認めあっていたのだろう。わたしは初心にかえってマティスの断片を収集しイメージ化してスケッチした。これを平面と立体のミックスしたボックスアートふうに仕立て上げようと構想している。そのスケッチ(HF19-01)をお見せする。プロセスを公開するのは、かたの決まっていないダンサーの振り付けをみせるようで気が引けるが、その思考状態もアートのうちというこでスケッチを掲載した。