2012年04月11日
土方巽-はるかなる視線「消えることと現れること」−2
はるかなる視線
(消えることと現れること)
セザンヌはこれだな、というところから絶えず遠のいてゆく現前化、その痕跡を遺す。分割すれば、つぎの隙間が絶えずでてくる。その隙間を置く行為は終らない。これだなというセザンヌが追っかけていった痕跡を見ている。わたしは終った後からセザンンヌの絵を見ているにすぎない。終らないセザンヌの行為がどこからやって来るのか知りたい。そうするとセザンヌの舞踏を見るわけです。
モネの絵は光の踊りを見るにつけ、そこには空虚というものの隙間がセザンヌよりいっそう見えてしまう。それどまりという虚しさだ。ひとが宇宙と交信するより、消える風景のように見えてしまう空気、そんな雰囲気でいったい人類はどこから来たのかという声がきこえない。
ゴーギャンは聞こうとしたのか、
ランボーはなぜ灼熱のアフリカへいったのか、
ゴッホはなぜ火を盗もうとしたのか、
ゼザンヌはなぜものの本質に自らの感覚を刻印しようとするのか、
(本質と感覚のずれは埋まらない)
ようやっとそこから自然科学の力をかりること。自然科学の到来を待ち受ける印象派の絵画が登場する、スーラが特に際立った存在でしょう。神話の喪失の神話がはじまる。「現代美術だな」というところからわたしは、見はじめる。しかしちっとまてという人をよこでちらちらと観るようになって、からだのことは置いといて、というわけにはいかない。クライマーは全体と部分の達人だなというおもい。空気の(時空)切りと閉じ、そんなものが絵画に入りこめばたちまち舞踏になる。ジャクソン・ポロックはどうですか、と言われても「衰弱体に呑みこまれるひとに聞いて下さい」としか言いようがない。