2011年10月15日
トリスタン・ツァラ「空無の真の力」−1
GG10-01_Dada
GG10-01_Dada
「いかにして僕は
魅力的で感じよく
かつ優美となったか」
(鉛筆スケッチ)
トリスタン・ツァラ
空無の真の力:わたしはそれに惹かれ、描くことを遠ざける思考のデッサンをするようになった。時空の同時性こんな想念を、アンフラマンスを提示すること。それを観た瞬間ある変換が起こる現象を提示すること。そんなことを想いはじめた。これはDada的な思考のダイアグラム(図表化)を作成化する。それはどんなものでもよい。トポロジー的変位の様態ではなく空無の変位、発ちあがる時空の接線であるようなもの。Dada的真空
・・ではDadaとは何か。わたしは語ることが出来ない。そんなことをしても無-Dadaし、芸術行為を非-芸術行為だといっても無-Dada 、だからわたしはトリスタン・ツァラの「ダダ宣言」ページ73に掲載してある数字をスケッチした。これはわたしのダダの模写。すなわち、それをスケッチしたわけ。しかしこれは無-意味な写経のように感じ、Dada的でおもしろかった。
・・それにDadaは何もいっていないし、すぐに真空を感じたら逃れること、滅する前に。 つまり -のことで誘発するエネルギーを身体に感じたら、おもいっきり吸い込み、吐き出すこと。
・・さて次はどうする。仏教徒にでもなりますか。レヴィ・ストロースは「自分は仏教徒だ」と告白しているし、デュシャンですら中国や日本のことを、「禅」のことを相当勉強していた。まるで禅画(Courant d'air sur le pommier du Japon, 1911年)のようなものもある。
・・わたしのお喋りはこのくらいにして「ダダについての講演、p137」の最後の言葉を掲載しておきます。それぞれが呼吸をし、宇宙の遺伝子を受けついている、この悠久の呼吸法を身につけるために。
『-ダダはあたかも人生におけるいっさいのもののようにむなしい。ダダは、人生はかくあらねばならぬといったような、どんな主張も持ってはいない。おそらくこう言えばもっともよく理解してくれるだろう。すなわちダダは、理性が言葉や約束事によって満たしえなかった全空間のなかに、空気の要請によって導きいれられる純潔な一微生物なのだ、と』
更に、わたしは次の言葉を追記する。
『-ダダはいささかも現代的ではない。むしろ、ほとんど仏教的な無関心の宗教への回帰である』
では、いささかも現代的ではないとは
過去のこと、瞬時の今のこと、未来のこと、
無関心の宗教への回帰とはどんな宇宙・・
「ダダ宣言」著:トリスタン・ツァラ
訳:小海永二・鈴村和成
発行所:竹内書店(1970年)」参照