2010年02月26日

時間の部屋とは「見えないものを見える想念となるようなもの・・」

FB25-01/赤い時間の部屋

赤い部屋

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

赤い時間の部屋

・・発掘されたこの円環運動の軌跡は、思考の前に座っている。
わたしがみいだしたものは一点の無数の永遠性、時間の微粒子
だった。嘗て遇ったものが、存在と非存在の間ですべてが消え、
堆積された地層は不定形な浮遊した思考の島(身体)をつくる。

凝固したものは時間の昇華を発生し続ける。
それは忘れ去られた大気の時空となり、解明されぬままに
わたし達は呼吸している。その大気の書物を視覚空間として
捉えねばならない。わたしはそれを”見えないものの
思考絵画と呼ぶ。

絵画が思考となるとき書物となり、思考が絵画になるとき
見える思考の絵画となる。対象が見えないことによって絵画となり、
その連関作用が時空の微粒子をとらえる。詩は言語によって
現すことができない言語をとりあつかう。見えないものへ語らす
沈黙、マネの絵画のように。その意味においてわたしにとって
絵画も詩も同じところからでてくる、別の視覚言語にすぎない。

思考の無限性を”見えるかたち”にするには、どのような
ものでも”現前化しているものとは違った”見えないものの
見えるかたちにしなければならない。

デペイズマンとはシュルレアリスムの手法とは限らない。
わたしは地層化された内部から永遠の時間性を、その目録を
見る身体の言語へと、「赤い部屋の時間」をつくらねばならない。

強度の永遠回帰を、昇華している気体の言語を、その粒子を
感じるとるために凝固させるのである。昇華を見えないものの、
見える思考にかえねばならない。視覚作用を十全に活用する
絵画の技法とは、その彼岸に横たわっている神秘を発見
してゆく作業なのである。



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