2010年02月18日

バタイユ「死を前にしての歓喜の実践」そのデッサン−7

AJ1401M

光りは光源からA

 

 

AJ1401M
「バタイユの方へ」

 

 

 

 

 

死を前にしての歓喜の実践
          
        1.
消滅の状態へ到達するまで私は静謐に身を委ねる。
河が海に、星の輝きが夜空に消え去るように争いの
ひびきは死のなかへ消え去る。

戦いのちからは一切の行動が静まることによって
完遂される。暗い未知なるもののなかへ踏み込むような
かたちで私は静謐のなかに入る。

その暗い未知なるもののなかに私は落ち込む。
その暗い未知なるものに私自身が変わる。

        2.
私は死を前にしての歓喜である。

死を前にしての歓喜が私を運び去る。
死を前にしての歓喜が私を突き墜す。
死を前にしての歓喜が私を消滅させる。

私はその消滅のうちに留まる、するとそれから先は
複雑な絶え間ない断末魔のかたちで表明される諸々の
ちからが集まった一つの作用のように森羅万象は私の
脳裡に映じる。

こうして私は理解できない底なしの空間のなかへ徐々に
のめり込む。

私は諸世界の底に達する
私は死に蝕まれる
私は熱に蝕まれる
私は暗い空間のなかに吸い込まれる
死を前にしての歓喜のなかで無に帰し。

 

ジョルジュ・バタイユ
「死を前にしての歓喜の実践」
訳:生田耕作/発行:奢灞都館


上記の文は『アセファル』誌、1939年バタイユ著作、生田耕作訳の1、2を引用したものです。わたしのデッサンでは「アセファル」とは逆で、頭と胴はあるが下半身を描写せず暗示に留めた。この(「バタイユの方へ)は、最初に(’05・12・29)わたしのスケッチ(AJ1401M)を掲載したものです。わたしの思考を述べたりもしていましたが、’10・02・17付けですべて削除した。言葉が沈黙に、無に到達する喚起力がなければ、ただのバタイユ論。わたしは書くことを放棄。それより直接詩を、「死を前にしての歓喜の実践」を名訳されている生田耕作氏の訳文を掲載しておきます。参照してください。わたしのデッサンがバタイユのイメージなのですから。

以後これをもとに、バタイユに喚起され様々なバリエーションで描いています。バタイユを思考すると、どうしても「からだ」の問題が強烈に自然発生的にでてきます。それと同時にヘーゲル的な思考が「からだ」を痛めつけます。それは神経症をわずらうほど強烈です。たんなる考察ではとうてい到達し得ない、神秘的な実体というようなものが現れてきます。それまでのロゴスの帝王が瓦解してきます。そのときに、いったい何が起きているのか。その問いがわたしのデッサン(AJ1401M)です。ようするに各自が「無神学大全=内的体験」のような宗教的なエクスタシーを体感する以外にないということです。わたしのデッサンをカテゴリに「バタイユ」を設けましたので、そちらを参照して下さい。バタイユに関しては機会がありましたら別のかたちで表現しようとおもう。



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