2010年02月14日

絵画とは「視覚を通し、視覚を分離し純粋表象の出来事を創る」

FB12-01/秘めたるもの

空間に立つ人体D

 

劇場としての哲学

---深層への拡がりを持つ物体の
限界点で、出来事は非物体的で
ある。(形而上学的表層)物と言葉
の表層では、非物体的な出来事は

 

 


命題の意味となる(論理学的領域)ディスクールの連なりにあっては
非物体的な意味=出来事は動詞によって留められている
(現在の不定法的な点)----

---出来事の系列と幻影の系列とを共振させねばならない。非物体
的なるものの系列と、触知不可能なるものの系列とを共振させねば
ならないのだ。どこまでも生きのびおのれを顕示する闘いと死の系
列と、飛翔する到達すべき偶像の系列とを共振させること。

それはほかでもない、武器と武器とが触れあう衝撃の向こう側で、
人間たちの心の内面ではなくその頭上に、運命と欲望とを共振させ
ることである。運命と欲望とが両者に共通のある一点といったとこ
ろ、なんらかの幻影的な出来事とか模像の原初的根源といった
場所で収斂するというこてではいささかもない。出来事とは、幻影の
系列には決って欠如したものなのだ。

---それは、起源なき出来事の反復が、およそあらゆる模倣の外部
で、また類似の束縛から自由な姿でおのれをそれと示すという欠如
である。したがって反復の仮想であり、何ものをも隠してはいないど
んな場合も個別的な仮面であり、隠蔽を意図せぬ模像であり、
いかなる裸像を蔽ってはいないみじめに不調和な衣裳なのであっ
て、つまりは純粋な差異なのである。

 

著者ミシェル・フーコー
「言説・表象」劇場としての哲学、
訳:蓮實重彦より抜粋


 フーコーの「劇場としての哲学」はそのまま絵画論でもある。ベラスケスの「ラスメニーナス、侍女たち」やマグリットの「これはパイプではない」は絵画空間ではあるが、ひとつの思考空間を、純粋表象を発生させる言語の力をもっている。デュシャンは言葉の力を、というより詩の力を最大限にデッサンとして駆使したひとである。不可視のものを見えるものとして言語の力を巧みに絵画へと連関させる力、その相互のベクトルの作用によってわたし達を神秘の世界へと導いてくれるのである。最終的には分からないものの感じる世界を生成させ、純粋表象の出来事を創り続けたひと達なのかも知れない。宇宙的神秘。

結局「沈黙の絵画マネへと接続させるバタイユやフーコーの「マネの絵画」に対して異常な関心を抱いているものは”鏡とその視点(場所、位置)”--表象の背後にある何ものかを感じ取ろうとする、一つの逃走線なのかもしれない。けっして捉えることはできない不可能な出来事を可能とする、ある出来事を生成させること。つまりそれを「劇場としの哲学」というのかもしれない。それは絵画とて同じことである。わたしにとっての「劇場としての絵画」は、マネの「フォリー・ベルジェールのバー、1881-1882年」であり、ジャスパー・ジョーンズの「Summer,1985 Fall,1986 Winter,1986 Spring,1986」や「Face with Watch、1996」などである。

わたしの描いた(画像FB12-01/秘めたるもの)ものは、人体らしき影だけで、背景も何も表現していない。ただ色彩の強度(彩度、明度、色相)などの変化をつけただけである。視覚と言語の相乗効果を観たいとおもい作品化したものである。「秘めたるもの」というタイトルにした。何も語っていない絵画、純粋強度の視覚化といえるもの、そんな感じです。フーコーの「劇場としての哲学」は、わたしにとって哲学というより絵画論になるのです。あるいはピエール・クロソウスキーであったりもします。



トラックバックURL

コメントする

名前:
URL:
  情報を記憶: 評価:  顔   星
 
 
 
Recent Entries