2009年12月08日

Andy・Warhol/「ウォーホルのアートは”器官なき身体”である」

EK04-FL03red/EK03-FL03blue

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ウォーホルの”器官なき身体”とは

アンディ・ウォーホルのアートは「器官なき身体」である。
・・こんな事を述べるのも「生とは、死にそこないの出来事」である、
というためではない。強度を限りなく繰り返す生の死であり、
シミュラークルの変形された身体である。これを「器官なき身体」と
いう意味においてだ。

まさに死をたえず素材にするウォーホルの
アートは、宙吊りにされた生の出来事を内在性の無反応
として引きずり出す装置である。それは時間現象の無限性、
エンドレスな「もの」の反復である。そこから表面を蒸留し
シミュラークルを形成させ、内在平面の不在化が純粋な
時間を身体にに与える。・・永遠回帰、反転されたアルトー
であり、あるいは終ることのないルイス・キャロルの
不思議の国のアリス」である。どこまでも表面・・・
裏が不在化する身体である。

しかしである・・その背後には、巨大な暗黒の宇宙へと突き
進むウォーホルの眼に見えない不可視のアートがある。
意識内部に無反応化のベクトルが作用し、反感覚の強度が
発生してくる。その真髄がウォーホルの映画「食べる」、
エンパイア」などである。その「抽象機械」の作動原理を
観せるウォーホルのアートは見事である。その醍醐味は凄い。

それとキャンヴァスにシルクスクリーンで制作された
「キャンベルスープ缶」なども同じ原理である。
この反復されたものとは、そのダイアグラムである。
コピーのオリジナルの代表が刷られた「お札」というわけである。
生きるということが、すべてがコピーするためだという
のが面白い。内在平面に対してこれほど、反アルトー的で
ありながらどこかで繋がっている。

もちろんあのフランシス・ベーコンとも関係していることは
言うまでもない。生と死についての平面を考えればよい。
ではデュシャンとの共通点はと、問われれば、それは当然
あるでしょう。「問いがなければ、解がない。」という「物質」の
詩的言語の平面を考えればよい。その賭けが神秘の裸体へと
導き、(詩的言語の結晶化でもある)「大ガラス」、や「遺作、
1・落ちる水、2・照明用ガス、が与えられたとせよ」という
神秘的な装置をデュシャンは創った。生と死のドラマから
エロティシズムを見事に蒸留することに成功している。

 

前回'09/11/10に第3回目としてウォーホル論を書きたいとおもっていました。第2回目の<ウォーホルなど「現代美術の世界」その場所は2>ではわたしの体験を通して書きました。これはきわめて個人的な論評です。それをより普遍的に書きたい希がありましたが、どうしても書くことがでませんでした。かなりしんどいという事と、詩的表現にならなければウォーホルに接近できない。というのも「出来事の無反応」という感覚を、その意味を論理的に述べざるを得ない、深い哲学的な思考になってしまうのです。わたしには到底無理で、ウォーホルのいう「Nothing」の哲学が生を仮死状態にする、シミュラークルの強度の問題であることに気付いたからです。ウォーホルについてはもう沈黙した方がよいとおもい、論じないことにします。ただ上記に書いたように「器官なき身体」の、あのアルトーの逆鏡であるような強度をもっている、とだけ申し上げて終わりにします。

上記画像は”EK04-FL03red/EK03-FL03blue”わたしなりにウォーホルの暗黒のイメージを視覚化して表現したものです。ウォーホル論は以前に書いたのでそれを参照にしてください。



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