2008年12月26日

内在とはカオスの風景である

DL05-10_4A/DL05-20_4A

walkerEwalkerD

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

遠い記憶

内在とは、わたしにとってはマティスなのです。それはジョルジュ・スーラでもあるわけです。外と内の区別のない内在・・そのようなものがあるとすれば、純粋内在、結晶化した時間の現働化、ひとつの幻想をつくりだすこと。スーラの描く人物は空間に反応している身体、いわゆる人物も周りの風景と一体となった内在としての風景なのです。身体のなかに外の風景を描かねばならず、しかも内の光と外の光を等価な風景として描いている。こんな画家はスーラいがいにいない。この背後に巨大な空間、微粒子の無限な集合、あの銀河にも届く宇宙を想起させるものをもっている。これはジュール・ラフォルグそしてマラルメにもある。それは空間性とカオスの問いであり、その内在性のドラマでしょう。そこに運動的なエロティシズムを加えればデュシャンに近づく。その概念を模型化すれば、空間を透明化したあの魅力的な「大ガラス絵」を想起します。

草に座る農夫、1883」の作品はどこかデュシャン的な感じもします。モネに対しては、デュシャンはをあまり評価していない気もします。スーラを高く評価しているのは、風景の背後にスケールの大きい宇宙があるからと想像する。スーラの技法と空間の処理方法はここでは述べません。ただわたしは、コンテで描いた習作はもの凄く空間を意識して描いていると感じる。その空気を捉えようとしているスーラの意識性(内在)が好きなのです。技法がパーフェクトです。空気の微粒子まで伝わって来ます。空気を確りとらえ描いています。この空間はたんなる人物の背景ではありません。それを一生懸命に掴もうとしています。これこそ宇宙そのものなのです。それがよく現れているのは、「アニエールの水浴、1883-1884」のための習作のコンテ画があります。これは広がりのある空間性を光と影でよく捉えて表現しています。このコンテを見ると、人物と等価にその空間表現がテーマであるかのように描いている。わたしはそれにしびれます。

DL05-10_4A/DL05-20_4A:この画像掲載は「内在、すなわちひとつの生・・とは」で掲載した絵をいつそう空間をテーマに普遍化しようと背景の色とその周りをアレンジして描いたものです。わたしにとってスーラとは内在性の原理なのです。此性であり、流動的空気(空間性)の調和を、その微粒子をとらえているのがスーラなのです。そしてマティスの内的な光が内在平面へと展開してゆく思考が、ついには運動そのものを捉えている、存在そのものの現働化を見事に表現した「水浴をする人、1909」へといきつくような気もします。この絵の空間はもはや現実の空気や水を捉えた表現ではなく、殆ど単色のブルーの色彩で抽象的な空間表現となっている。マティスの絵のなかでは最もシンプルで、存在そのものに向かわす美であり、そのダイアグラムである。そう感じさせるわしたしの好きな絵のひとつである。わたしの絵では空間をひつの記憶として描いている。内面としての要素、その空間性です。



トラックバックURL

コメントする

名前:
URL:
  情報を記憶: 評価:  顔   星
 
 
 
Recent Entries