2008年12月24日

アンリ・マティス「イカロスの墜落とカオス」−1

DL20-10C_3/DL20-10C_4

イカロスの墜落1イカロスの墜落2

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

イカロスの墜落
 (生贄)

『・・死すなわち虚無は目眩(めくるめ)きのかたちに
なぞらえるべき<私>の主権が----まさしくその衰退
を通して----無限に飛翔する領域にほかならないから
だ。この<私>と、そしてその主権は、自暴自棄的
性格の純粋性に到達し、かくして死に臨んだ<私>
の純粋な願望を実現する。考えうる一切の制限の
彼方へまで無想の領域を拡大する、酔いしれた人間
の願望・・』


 

上記の文の一節は
G・バタイユ:「生贄」
訳:生田耕作を参照
発行所:奢灞都館

わたしは「イカロスの墜落」がなぜ画家や詩人たちにとって、魅力的なテーマなのか不思議におもっていた。このデッサンシリーズでイカロスのイメージをわたしなりに描きはじめて観ると、バタイユへと到達してゆく思考の磁力に驚いた。思考の背後に消尽する生命の焔があるのだ。燃えさせるものへと無限に接近しようとす不思議な力があり、感覚がそのことを求める。暴力的な太陽の熱に身体を消滅させたいという不思議な力があるのだ。有機体でありながら自己毀損の志向性が、死の到来を待ち受けている。何という自己矛盾。あの無機的なものへと向かうエネルギーの変換のような燃焼を求めている。

この身体の消滅、それは死であり、カオスによる壊滅を防ぐてだてはない。しかしそれをなだめ死と生の瞬間があるのだ。むしろカオスへとむかう潜在性の形式を創ること、宗教を除いてそのような行為があるのだ。それは芸術いがいにない。マティスの「窓辺のヴァイオリニスト、1917」はカオスをなだめ、カオスをよびこむリトルネロとなり、内在平面をつくる線となり調和へと向かいます。「王の悲しみ、1952」は音楽を止めカオスの平面へと向かう悲しさとなったその瞬間を捉えている。音楽がもはやカオスの微粒子と化した消滅へ向かう、リズムの黄色い木の葉が空間に舞っている。カオスへと帰ること。消滅の美しさを効果的に暗示した黄色い木の葉と死にゆく生命、これを美として表現しているマティスの光を感じます

コリウールのフランス窓1914」はこちら側と向こう側をカオスの境目として窓を表現していると、わたしは感じます。窓は開いているけれど外は暗闇なのだ。これは部屋の外が夜であったというわけではない。ひとつの内在の世界、カオスの窓を暗示しているのだ。芸術行為とはかくも厳しく向こう側へと行く恐怖と勇気、ぞっとするほどの虚無が、あのブラックホールが待ち受けている。身体がそれに耐えられるかという深奥を感じます。精神を支えるのは何・・という問いが闇から聞こえて来ます。

そして最後に切り絵の「イカロス、1947」は人類がこの地球に棲み思考の翼でそこに新たな地層をつくる。この地層はたえずカオスの潜在性をもった現働化であり、そこに至りつく死へのダイアグラムである。上昇する思考の翼とは、カオスに限りなく接近しよとする死への落下であり、ついには翼を破壊され死を迎える。それは生命の営みを再び宇宙に還すカオスの殉教であるような美、脱領土化した限りなく美しい有機体としての人類を讃えた絵である。それがマティスの切り絵の「イカロス」である。賛美歌のように美しい。再領土化さた芸術の思考は、虚無とひきかえに「死」を死ななければならない。リトルネロとしての「窓辺のヴァイオリニスト」のように音楽を奏でることによってしかカオスの壊滅を防ぐてだてはない、ということである。これが「芸術の力」であるとおもう。

 

DL20-10C_3/DL20-10C_4:この画像掲載はひたすらカオスに向かって上昇する思考の翼を描いたものである。デッサンシリーズでは「イカロスの墜落」を何点か掲載しましたが、マティスの切り絵の「イカロス」についには到達します。わたしはその途上にある「イカロス」を描きました。絵は2点掲載し、暗い太陽と煌めく太陽のさらに銀河に到達しようとするその途を暗示的に描いた。そしてカオスとは多分バタイユの「生贄」のように自暴自棄的な毀損の行為なくして共存できないのだろう。唯一芸術だけがそのカオスをなだめる力があるということなのかも知れない。

これでデッサンとしての「イカロスの墜落」はひとまず終ります。なぜ惹かれるのだろうかとずーと考えてきました。いかに「イカロスの墜落」というテーマが神秘的で、生と死のドラマを神話というかたちで見せてくれます。そしてわたしは、マティスの「イカロス」にいきつくことをわたしなりに発見しました。

余談:
この画像掲載で特に左のイカロスから発光している青い色が、宮沢賢治の「よだかの星」を感じてしまいました。そのきっかけは朝おきたとき「よだかの星」という言葉がでてきたのです。わたしは、賢二の童話は殆ど読んでいない。子供のころの記憶が突然でてきたという感じです。さっそくネットで調べてみると「よだかの星」は最後に、

・・そして自分のからだがいま燐(リン)の火のような青い美しい光になって、しずかに燃えているのを見ました・・

というような描写があります。そして銀河の一部になって永遠に光ってる、このような物語です。ジョルジュ・ブラックにも深いブルーの色の大きな空間に(ルーブル美術館の天上画)鳥を描いている。天体の星座のようでもある。カオスと同一になるというテーマがあるのだろう。それはシミュラークルの世界なのだが、ピエール・クロソフスキーの永遠回帰にわたしはむしろ惹かれます。

賢二の世界でわたしが馴染めないのは生身のエロティシズムがデリートされているところがあるので、ついてゆけないのです。究極はたしかにそうなのではあるが、このデリートそれ自体がバタイユとは違った東洋的な禁欲的な反力としてのエロティシズムなのかも知れない。賢二の童話にも「イカロス」とは違った方法でアプローチしていたのは驚いた。上昇と落下これを対社会性の問題、そして生と死のテーマを深く追究した童話であることが、多くのひとに感動をあたえているのだとおもう。自己犠牲の深い哲学な問いが賢二の童話の根底にあるのでしょう。それは「愛」ということでしょうか。



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