2008年04月04日
絵画と身体性「基底材とは誰か、アルトーとは・・」−2
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「神経の秤」
わたしはアルトーが如何なるひとであるのか知らない。デリダが書いた『基底材を猛り狂わせる』というアルトー論を読んでみる。よく分からない。わたしはアルトー論の書物はまったく読んでいない。デリダが書いた、このアルトー論がはじめてなのである。なぜなら読んだとしても、もっと分からなくなるからだ。余白の周りをサーカスのように接近しては猛り狂わせる怪物に、「基底材とは誰か・・?」という問いにわたしはお手上だったのである。それよりアルトーのデッサン集を見ることで、視覚をとおして思考を読まされる、あのアルトーの声がじかに迫ってくる緊張感、そして残酷なこの形態に、わたしは堪らなく傷ついているアルトーを読みとる。残酷さの背後に衰弱したミケランジェロの「ロンダニーニのピエタ」の美しさを感じるのだ。 怪物にやられている身体が透明感をおびはじめるというあの美なのだ。
『私は2千年前にゴルゴダの丘で十字架にかけられたのだが、それと同様に、全生涯にわたって毒を盛られてきたのだ・・』というアルトーのくだりは、彼のデッサン集を観ると、これは告白であり、真実を語っているということが分かってくる。わたしはアルトーを思考し、身体の衰弱体がキリストの受難と同等の価値が、異様に透明感を増してくる、あの空虚と取引したアルトーの思考の涙をおもいうかべるのだ。
わたしはアルトーのデッサンが、何かに対する反応を描いている、ということは気づいていた。<・・この何かが問題なのである。>しかしである・・アルトーのデッサンで驚くべき透明性をおびたものがある。それは自画像の木炭デッサンである。『自画像 、1919年』、この作品を見ると、まるで無防備なアルトーなのである。この自画像を見ると恐ろしく何かに傷つけられるであろうという、美しさを秘めている。美しい事物の生まれたての存在を感じるのだ。ただこちらを凝視している眼差しが、何か非常に傷つきやすい星として、遠いとこらからやって来た一つの星座のような気がするのだ。社会の残酷さを告白せずにはいられないキリスト像なのです。生贄の前のこの透明な美しさにわたしは感動するのです。そこにはすでに一つの身体を、透明な大気を呼吸しているアルトーがいる。
「神経の秤」が、今は暗黒の静謐な空間となり、永遠にそこに存在している目に見えない光を湛えている星として、わたしはアルトーのイマージュを十字架で、そしてその光りをダークブラウンと深いクリムソン・レーキ色で描いた。
「基底材を猛り狂わせる」:ジャック・デリダ
訳:松浦寿輝、<発行:みすず書房 >参照