2008年03月14日

非-言語の声「ジャスパー・ジョーンズとマネの絵画」−1

DC13_Black/BB15_White_3

黒い数字A白い数字A

 

 

 

 

 

 

 

Black and White
非-言語の声


見えるもの、そして可視的に記述される”もの”とは思考にほかならない

わたしはマグリットのこの言葉が好きで、何のひねりもなしに「黒い数字」と「白い数字」を描(書)いた。
『 What you see is what you see 』といった、フランク・ステラの言葉は、ストレートにタブローを見せる視覚的な強度をもっている。タブローそのものを見させ、物質的な平面を見せる装置ともいえる。しかしそこで終っている。つまり逆にいうと、そこで終っているがゆえに、眼差しはタブローの方向に収束する。この絵画の特異性を、自立性を確立させたことは確かではある。わたしはこのステラの構造より、『・・可視的に記述される”もの”とは思考にほかならない』といった、マグリットの考え方に魅力を感じます。その言葉は絵画を思考の世界に、表象の背後に、思考の見えるタブロー化の作用へと向かうベクトルが感覚をときに惑わせ、迷宮へと進む構造が好きなのです。

それはイマージュの世界へと導きます。わたしがフランク・ステラの絵画から離反する理由は、思考の生成を停滞させる装置、そこに留まる視覚性にあります。「見てのとおり・・」というのは、一見存在そのものに向かわせるが、生成変化のない、定点として観る存在論にはあまり興味がなし、「存在の本質」というテーマにもまったく興味がない。それに比べてジャスパー・ジョーンズの絵画はずっとマグリットに近い構造をしています。キャンバスを裏側に貼りつけ、思考の作用を促すタブローがあります。わたしはそういうジョーンズの絵に魅力を感じます。それと、わたしは表象の背後にある「マネの絵画」の沈黙が何を表現しているのか、どこへいこうとしているのか気なってしょうがない。

マネの描いた「フォリー・ベルジェールのバー」とジョーンズの、その鏡のように反転カしたカオスの構造と、どこかで繋がっているのである。ジョーンズの素材は現代的な日常品をもちい、マネとの時代の相違はありますが、ジョーンズの「春、夏、秋、冬 1986年」では人物像をシルエットで描写しています。このシルエットはジョーンズ自身であるが、このシルエットとマネの「フォリー・ベルジェールのバー」の絵にでてくる鏡に映た男女の構図が、その表象作用とジョーンズの絵の構造が気になるのです。わたしのいう構造とは、一般的に美術評論で論じられているジョーンズ論ではない。最後は思考を不在にさせる、何者かのことである。

この構造の類似性とは、観ている世界が、その感覚が似ているとか、空間を観る視点が同じように感じる、ということではない。マネの絵画が沈黙に向かうのに対して、むしろそれとは反対にジョーンズの視点は沈黙をうち破り現出させる装置をつくる。しかしながら、再びその沈黙に呑み込まれカオスへと向かうシミュラークルとなる。この2重の作動を見事に作用させ、この機能が存在の彼方へと導く神秘なのである。

両者の共通しているところはタブローそのものを凝視させ、絵画の自立性と、その表象作用が物質そのものへと向かう構造のことである。そしてその物質性とは「存在そのもの」という意味でもなければ、対象を見えるものにするということでもない。思考の彼方を見えるものにするあるもの・・という意味である。マネのこの構造は、まぎれもなく現代美術の始まりである。

たとえば、「フォリー・ベルジェールのバー」の絵の描写で、若い女性が正面中央に立ってカウンターを前にしてこちら側を見ている。カウンターの後ろの鏡には、彼女の後ろ姿が映ている。(遠近法的には彼女の位置はずれているのだが、この重要性はここでは書かないけれども)、そして鏡に映ているもうひとりの男が、彼女と話している。この男はカウンターの前に後ろ姿で立っているはずなのだが、描かれてはいない。鏡に映ている男の姿は、やや横向きの顔で右端に小さく静に描かれている。

「いつたい彼女と何を話しているのだろうか・・」沈黙ばかりが響いてくる。この表象の背後に、いったい何がおこっているのだろうか。絵画とはこの表象の彼方に・・バタイユのいう『非ー知の空虚』へと向かう、あの虚無なのだろか。ジョーンズの、「春、夏、秋、冬 1986年」はそれを感じてしまうところがある。しかし森羅万象の優しさとしての囁きは感じる。

マネの晩年に描かれた「リュエルの家、1882年」の絵も大気の揺れと葉音の囁き、ベンチに座っている二人の夫人が話し合っている声が微かに聞こてくる。葉の影で二人の顔は見えないけれど、イーゼルを置いて、マネが描いているところより少し遠いところに二人は座っている。そこから人間の営みを観続けたマネの視線を感じます。この二人の夫人を通して、エンディングの遠い声が、マネの絵から伝わってきます。翌年の1883年、大変な苦しみの後に死去する。

わたしにとってマネはとてつもなく偉大な画家だ。」

以上、感じたままに書きましたが、わたし自身「マネの絵画」を理解している分けではない。ただ驚くべき沈黙とその向こう側にいったい何が起きているのだろうか。人間の意識とは何処に向かっているのだろうか。全てが神秘だ。それとジョーンズの「春、夏、秋、冬 1986年」の作品を複製ではなく、本物を観たい。ジョーンズは何かを表現しているけれども、深い沈黙へ向かう、非人称的なブラックホールを感じるのである。

DC13_Black/BB15_White_3:
Black and white
の「非-言語の声」は数字を描(書)いた作品である。全ての数字は読み取れない。対象が不在であり、これを見て思考がどのように作用するのか、そのことによって空中に数字が浮遊し微粒子となり、シミュラークルが生成される。それを呼吸し他者性が触発される。可視的に記述されたものが、意味の形成ではなく、無-意味の形成であること。沈黙の言語が闇から発生する声であるような・・



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