2008年01月30日

バタイユ「無神学大全”内的体験” 過剰なもの」−2

DA21-01_1/DA21-01

死を前にしての歓喜C死を前にしての歓喜D

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「*イト高キニオイテ我に栄光アレ

天の一番の高みで、
天使たちがわたしたちの栄光をたたえる。
その声がわたしに聞こえる。
太陽のもと、わたしは一匹のさまよえる蟻、
小さな黒い蟻。石がひとつころがってきて、
わたしに当り、
わたしを押しつぶす。

わたしは死ぬ。
天空に
太陽は狂い輝き、
眼を灼きつぶす。
わたしは叫ぶ、
「太陽はまさか断行すまい」と。
太陽は断行する。

わたしとは誰か
「わたし」ではない ちがうちがう
だが砂漠 夜 無辺際
わたしとは何か
それは何
砂漠 無辺際 夜 獣
そして何も知らずに
「死」 太陽の夢のしたたる海綿
わたしを深く沈めよ
どうかわたしがもはや
この涙しかし知ることのないように

わたしは星だ
おお 死
雷電の星
わたしの死を告げる狂った鐘

雄々しくない
かずかずの詩篇
だが優しさ
至楽の耳
牝羊の声が泣きたてる
その向こうまでゆけその向うまで
消えた松明


勝ちっぱなしの賭け
わたしは死ぬ君は死ぬ
彼はどこ
笑いもせず
わたしは死んだ
墨をながしたような夜の中
彼に向って
放たれた矢

 

無神学大全”内的体験”:G・バタイユ
出口裕弘訳:(第5部、イト高キニオイテ我に栄光アレ、神)
<発行所:現代思潮社>参照
*ミサで歌われる賛歌(イト高キニオイテに栄光アレ)
をもじったもの。

 

前回わたしは、無神学大全”ニーチェについて”を書いた。というよりも、言葉で表現できないので描いた。この書物の生贄のような恐怖を味わい、わたしの高揚する感情を視覚的に投影して描いたのだ・・その身体を供犠として--のように置き去りにした。死体遺棄の犯罪者としてわたしは交感する内的体験。それはバタイユの”罪とは供犠だ”また”交感は罪だ”ということを体験する恐怖。その不安神経症・・死への過剰な防衛としての病。彼方へとゆかねばならない精神の未完了の病・・

わたしはそれでも希望はある。わたしには確信があるのだ。あのムンクの絵を観て遠い遠いことろからやって来る光りがあるのだ。キャンバスに描かれた数々の傷あとの背後に、見えない光が微かにある。太陽の光りは神の影であることを、バタイユは見抜いているはずだ。眼球をナイフで突き刺し、太陽の煌めを隠す内在性の光りがあるのだ。やがて暗黒星雲の無辺際の空間と化する。消尽するもの・・・ついには星々の微粒子、ガス状星雲の暗黒の彼方へと溶け込む身体こそ、それは「放たれた矢・・」だ。

DA21-01_1/DA21-01:この画像は前回掲載した画像の続きで、身体を内部燃焼させ、消尽する背後のエネルギーを暗示する。暗黒の空間はその目撃者・・



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