2007年07月08日

アンリ・ミショー「普遍的アルファベット」−2

CG10-07Oran/CG10-07Gray1

アンリミショーAアンリミショーB

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「普遍的アルファベット」−2

・・身体性の問題は、出来事が精神となり、それが身体観念をかたちつくり、文化の係数として地層化される。その地層がデジタル化されたシミュラークルの世界では、主体化の問題は複雑に絡みあい、何だかさっぱり解らない。コピーするという行為がオリジナルなのか、オリジナルがコピーなのか区別さえできない。こんな空虚な身体でできあがった精神が、本質はどこにといっても、明晰な思考の持主で無い限り主体化の本質など解らない。いつそのことそれ自体をアートにした方がはるかに世界を表現できる。表層の世界を徹底することである。

このウォーホル的世界は、アンリ・ミショーの深層の世界とは逆である。しかし深いところでは、その根源は同一のところからやって来る。ウォーホルを評価するには、ミショーの世界を感じていなければならず、ミショーの世界を評価するにはウォーホルの世界を理解していなければならない。この表層と深層の襞は、ライプニッツの世界へと接続されてゆくイメージに、わたしを導く。

・・このような時代に、ミショーは身体的な変位を、その変化率を描き記録する。思考の秩序を、運動の方程式を発見するのではなく、自らの身体を運動させ、そのものへと行為する。この行為はすでに歩いている。より早く、より遅く。あるいは消えること。それらを放置し、この無能力を呼吸しているミショーは、何処にいるのか、探しても無駄である。運動していること。無限機械である神経細胞のモナドへ、シナプスの無限の接続、この様態をミショーは描く。

・・そこに畳こまれた襞の拡張された軌跡を見せるミショーの絵は、いったいどこから来たのかと、問うてはいけない。死を微分してはいけない。分子状のあのカオスへと身体を微粒子化する行為は自殺を意味する。それゆえただ放置すること。秩序と混沌は同一平面上にあることを身体に感じるだけでよい。それはムーヴマン(運動)という行為が神の呼吸であることに気づく。それは出現と消滅の運動に身体が参加すること。

CG10-07Oran/CG10-07Gray1
前回掲載した画像は(CG09-02Black1c)ダイアグラム的な図表でアンリ・ミショーのポートレートを制作した。わたしには表面的な世界の方があっている。内在性を追究するにはあまりに多くのものが在り過ぎる。堆積された地層を掘り返しても、どれが本質か分からない。思考それ自体がすでに分離して表象の世界にどっぷり浸かっている。しかも何を表象しているのかそれが見つからない。ただ情動だけが何かを感じ、わたしを突き動かしている。そこでこんどは前回の平面プランに色彩をいれ感情を作用させよとおもった。それにはシンプルな平面的な絵画がよい。表面的ものを追究すれば、するほど反転された身体が出始める。鏡の国のアリスということか。



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