2017年09月

2017年09月27日

回帰と起源「事後性と写真の表現」−1

P013

部分と全体
























回帰と起源

視覚とは不思議なもので、いったい何を見ているのだろうか。写真に撮ればその空間の断片を写しとることは出来る。しかし夢のように何の脈絡もなく撮れた写真があるとしたら、判断できるだろうか。フロイトの夢判断のように、それを意味付けするためには言語化(分節化)しなければらない。つまり後から判断すること、ラカンはそこからフロイトの概念「事後性」の問題を見いだす。この「事後性」をラカン的に見るとすべての物事は「シニフィアンの優位」であると。つまり「シニフィアン」が「シニフィエ」を作るという事らしいが、そこで問題となるのは「シニフィエ」とは何であるのか、そのシニフィエを言語化しなければ意識の「かたち」として認識できないのではないか。すなわちこれを事後性という。そのように見るとシニフィエは無意味で解釈できない何ものか。これを解釈するのが「シニフィアン」であると、

これを記号に変換し意味作用の働きで意識に浮かび上がってくる。つまり分節化する。だとしてもその「根源-起源」は分からない。過去も未知であるし、未来も未知なるものである。これを言語化することの不可能性、それを観取する感覚の根源は何処からやって来るのか。起源は確かにあるはすだ。過去の時間的持続は無-時間の時間であるようにおもわれる。現在の視点は過去でもなく、未来でもない瞬時のあるもの。このように感じる。それを永遠という言葉で言っている。ベルクソン的には純粋持続なのであろう。デリダを学んでいる人はそれを差延として哲学的に感じとるかも知れない。しかしP-013の写真を撮ったわたしはこの写された意味するものを理解しているわけではない。

記憶とは感覚の強度としてしか言いようのない「もの」を言語化することである。しかしその強度とはかつて体験した「もの」の再現ではない。反復は確かに再現ではあるが、同一のものの再現はあり得ない。反復とは新たな強度を作るエクリチュール(クリエイティブ)なものなのである。クロソウスキー的にはファンタスムとシミュラークルの関係とも言える。シミュラークルは偽装、交換の媒体である言語によって反復を可能にし欲動を誘発する。

この考え方を写真に置き換えて、その被写体が何を語っているか、写された「もの」の起源は無限に理解不能な彼方からやって来る。微かな声を、その木霊をきいているがその姿は見えない。現実を確かに写し撮ってはいるが、見えるものの断片化された、たんなる空間の平面的複製である。しかし方向性を持つには、そこに何かを見いだす無意識の地層にあるもの(非-言語の歴史的地層)との出会いのうちに空間を感じとり、その一瞬を写し撮る。考えるより先に空間と心とが触れ合う。これも既に無意識の地層にあるものがその投影として空間を撮っているのかも知れない。鏡としての空間である。

またはその逆に空間が無意識の地層を気づかせる。両者は密接な関係にあるので撮ったものが、この内と外を明確に判断出きるわけではない。きわめて曖昧な希薄な膜を写し撮る。これは中平卓馬の「ブレやボケ」の「かたち」として身体表現の一部として、ついに写真の世界に現象学的なノエシス、ノエマを、その根源を追究していたのではないか。意識の生成のゾーンに踏み込む。こんな写真家は中平卓馬以外に考えられない。しかも最もカオスな社会の文化的テクストのなかで追究していた。

現実を写し撮る行為は詩的感性を必要としているので芸術とも言える。写されたものは現実にある「もの」ではあるが、別の意味に移行しシニフィアンの連鎖によって顕現化してくる。写真は現実の姿を見せるが、それとは別の物語を形成するメタファーでもあるわけです。見えないものをバルト的にいうとプンクトゥムの点を発見し、言語の媒介によって見えるものにする。しかしこの見えるものとは現実に写し撮られた「もの」のことではない。言語の介入により詩的となり、その起源を物語る。これをわたしは写真の「事後性」という。つまり物語りを作る。

現実的なストゥディウム的写真は社会的効果を狙ったプロバガンダとして利用される。個人的にはそれとは別のプンクトゥム的な見方もできるが、その見方ただと新聞の記事の写真は成立たなくなってしまう。国家としての政治的な方向付けをする写真である。フォトジャーナリストはそれを超え文明ー文化の係数をひたすら追い求めるひともいる。きわめて危険な場所に、戦場に行き写真をとる行為など。

写真はあまりに身近すぎるので風景の延長のように通りすぎてしまう。朝夕配達された新聞を見、そこに写真掲載されたものを見ても通り過ぎてしまう。辛い出来事の写真を見てもすぐ馴染んで麻痺してしまう。これはテレビも同じであるが、3・11の途轍もない巨大地震の出来事を何回か見ていると麻痺してくる。当事者はこの辛い出来事を一生忘れない記憶、あるいは現実空間として今も傷ついている。

写真家は方向性を明確にして、見る人に委ねる。この方向性を作品という。しかしこの方向性が無く、何の脈絡もない写真がもしあるとすると、人は果たしてその作品を見ることが出来るだろうか・・?という問いがある。しかし写真の方向性は誰が撮ろうとも必ずある。それは「もの」を写し出すからである。「もの」とは(人も含め)そこには歴史がある。歴史物、遺跡を撮るから過去と言うわけではない。「もの」とは現在を通してすでに歴史なのである。その意味で遺跡物も現在である。ベンヤミン的にいうとすでにそこにはアレゴリー的形象があり、煌く星座を一瞬のうちにして観取できるのである。

写真を見るとは「歴史-時間」を空間化する何ものかであり、しかもその起源は永遠に到達することない無-時間の過去である。彼方からやって来る過去であり、過去とは未来の出来事を写しだす現在でもあり、今も生成途上にあるフニィシアンの連鎖である。事後性とは後の意味付けであるが、これは起源の不可能性、到達することの無い過去、何処まで行っても消失点のない透視図法である。したがって思考において地図を作る。その形象はアレゴリー的な地図作成法である。ベンヤミンはアジェのパリの写真に何を見いだしたのか。その問いはアジェの写真を見ると伝わってくる。

わたしは写真に「もの」の「回帰と起源」を見ている。それは空間の断片を写真という機械で平面に定着させ、過去の無-時間性(迷路、不可能性)を固定化させる。しかし何をどのように固定化しているかは、説明することは出来ない。非常にシュールで街の移ろいやすい「もの」の変化率を、時間を空間化させた。永遠の時空の点を見せる物質的恍惚感があるとしか言いようが無い。写真をオントロジーとして見る場合「存在と時間」のような迷路に落ち込み、見える「もの」の見えない「もの」の形而上的な問いに必然的に向う。

写真は現在では多様な目的で使用されあらゆるメディアに、人文科学、自然科学、社会科学など総合的な科学の表現活動の一部としてきわめて重要な地位を占めている。写真論は人文科学的あるいは社会科学的な面をテーマとする言説が殆どですが、自然科学的な面では専門的な方法論を持っていないと論じることは難しい。しかし自然科学の写真を見ても美を感じることは出来る。電子顕微鏡の写真や天文写真など専門外でもその美しさを感じる。このように写真はあらゆる分野で利用されメディアとしての必需品である。

その意味でもし写真論を書こうとおもえば、多様性とボリウムがあり過ぎてとても難しいだろう。「写真とは何にか」などとても語り尽くせない。「回帰と起源」について少し論じることぐらいしか出来ない。過去とは何かその不思議な出来事、起源を感じているわたしにとってまさに事後性に過ぎない。どのような写真論でもターゲットを絞って論じることになるだろう。ある断片の情景をセレクトして言及する。一枚の写真あるいは数枚の写真を見てその意味作用を論じることになる。写真集ではその写真家の言葉が直接のることもあるが、その写された写真を論じているとは限らない。もっとずっと詩的な言葉で書かれていることもある。あるいは撮った状況のみで何の解説もしない。見ての通りと言うわけである。

中平卓馬のようにほとんど存在論的な、自己と他者の関係を探究するとアイデンティティとは何かその差異は何処からやってくるのか、風景と自己の生成とは一体何ものかというきわめて危険な接近を試みる。自己崩壊と風景の差異が無限大に接近する。この微分的要素は亀裂をピンボケに、最早情景を的確に写し撮ることでなく別の次元に移行している。植物図鑑であって動物図鑑、鉱物図鑑ではないもの。つまり空気を伝達する生命とは植物図鑑以外に考えられない。

静に生成する植物、この有機体生命は心を沈静化する精神に作用するアニミズムとしてではなく、中平卓馬は結局日本人は芭蕉に落ち着くということではなく、存在論的な「もの」と視覚の言語化への道を探究して行ったきわめて哲学的な写真家であると思える。対象と己との調和ではなく、その差異を無限に接近していく方法論をとった。このような写真家であるとわたしは思う。

束の間の一生を生きる微分的写真とは、その刹那を捉え己の生成は何処からやって来て、何処へ行こうとするのかその瞬間を撮る。しかしこの瞬間には永遠の過去と今、そして未来も含めすべての時間が一として顕現化してくる。多の無限の出来事を一瞬の裡に定着させる。歴史的な時間を空間化する。写真とはわたしにとって「回帰と起源」を最も表現することが可能なジャンルであると考えている。



tneyou4595 at 19:15コメント(0)写真哲学 この記事をクリップ!
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