2014年01月
2014年01月09日
土方巽-はるかなる視線「アルトーのスリッパをもって」−6
「詩が舞踏になります」
舞踏は、あらゆる言語を溶かし、そこには宇宙の
微粒子がある。「からだ」がすべてのものを受け運び・・
生成変化してゆく。田中泯にもありますが、言語を引き受け、
引き裂かれた「からだ」の残酷さ、アルトーのスリッパを
持っていない。場所に反応する「からだ」の記憶を持っている。
土方巽は、言語で埋め尽くされた「からだ」の
雪崩をもっている。 ヴォルスの崩れかった幾つもの線、
ベーコンの顔貌性、ベルメールのイマージュの力学運動、
これらの「からだ」をもって命がけで立っていた。
「疱瘡譚」は祖先への星々の闇の光であり、
「静かな家」は、赤い神をもって土方巽は向こう側へ
逝ってしまった。それ以来二度と踊らなくなった。
2014年01月08日
2014年01月07日
独身者の機械
IG29-03 / 独身者の機械
「独身者の機械の図像学」
デュシャンの「The Large Glass 1915-1923年」は分離された上部(花嫁、銀河)と下部の独身者9人の構成で出来ている。飛び散った分子を採集する。フラスコに収めれた独身者、分離された花嫁(オレンジ色の上部)その間にLes machines célibataires(独身者の機械)という言葉をいれ図像をつくった。
下部には、ご存知のように文学者は9人、アートはデュシャンとウォーホルの2人を入れた。独身者の名簿記入は、まだまだ足りないでしょう。マゾッホはどうだろうか・・独身者の機械とは不可能な宇宙的な交信、すなわちエロティシズムの発生装置の機械、それは見果てぬ夢であるようなものの接合と離反の歯車、その残酷さが独身者の機械なのかも知れない。
2014年01月06日
2014年01月04日
比率「同時に二つのものを見ているのだが」
IE26-06 / 比率
わたし達はものを見ているとき固定されたものとして見ている。ところがシュルレアリスムのルネ・マグリットの絵(白紙委任状)はそれをはぐらかす。そこでわたしは、原理としてその感覚をつくって見た。2つの色(a:グレイとb:レッド)を配置し、その間に白い曲線を入れた。するとこの2つの色は交互に入れ替わり反転してしまう。a:を凝視していると意識、無意識に係わらずb:が割り込んでくる。その逆も言える。
しかもa:とb:を同時に均一に固定された”かたち”で見ることはできない。どちらかの強度が押し合うように交互にでてしまう。これはウィトゲンシュタインが『哲学探究』でジャストロウの「うさぎーあひる図」で論じいる。わたしは「絵画空間の視覚と言語ー1(2013年5月25日)で論じているが、その応用編としてつくって見た。これはミニマルアートや絵画の見方で描いてはいない。
2014年01月03日
空間の法則「秘密の秩序の上に成立っている」
JA2-02A / 空間の法則
「秘密の秩序の上に成立っている」
正方形の透明なガラスの上にステンレスの針金を置く。錘は紐で繋がれている。切断されれば、落下してガラスは壊れるだろう。床に錘は倒れ、ステンレスの針金の下にある割れたガラスが残るだろう。しかしその状態はいまだ起きていない。予感として、あるいは気配のみ。それは名をもたずただ強度として感じる。
「詩的言語が形成されてくる」
針金は法則を受ける言葉を、重力(錘)は眼に見えないが、至るところに遍在している宇宙と身体の関係の扉を、わたしは掟のように感じる。それはフランシス・ベーコンやパウル・クレーの「さえずる小鳥」、ウォーホルの「電気椅子」あるいはデュシャン的にいうと「独身者の縊死」などのイメージが喚起されてくる。どんなものでも美的側面は必ずある。物と物との関係性をポエジーまで高めること。
「カオスと破れの気配」
生命システムが物質と共に反応する。それは精神に送ってくる信号であり、世界と身体が共に共振すること。