2013年04月

2013年04月12日

フランシス・ゴヤ「わら人形遊び」

CC19-10Bac1/CC19-10Oran1/CC19-Gre1

わら人形遊び3わら人形遊び2わら人形遊び1

 

 

 

 

 

 

 



「月夜の晩に」

哀れな男は四人の女性にもて遊ばされ、今にも落下しそうな男を布で救っては放り投げている。世の男性諸君はくれぐれも女性には注意したまえ。遊んでいるつもりが、遊ばれていることに気付かないバカな男性にならぬよう。最後には救いの布を外される。地面に叩き落とされぬよう。放蕩生活の成れの果てに、それが女の企みであったなぞと気付いた時には手遅れです。タイムトンネルの中に吸い込まれないように注意!

この絵はゴヤの「わら人形遊び、1791-1792年」からヒントを得てわたしが遊び心で3つのバリエーションで配色し描いたものである。ゴヤの絵は風刺があり、原画では、空中に浮いている男(人形ではあるが)は虚ろでそれを楽しんでいるかのようである。この遊びは、カーニバルの風習で女性たちは男を空中に舞い上げ、その感覚を楽しんでいる。真ん中の女性は微笑んでいるが、少し不気味だ。ゴヤらしい描写である。タイトルは「わら人形遊び」から”月夜の晩に”した。原画は昼でありながら、夜のイメージにおもえてくる。ゴヤはどこか夜のイメージなのである。

ゴヤに関しては別ページにも画像掲載しています。
「ゴヤを理解しはじめたとき・・」



2013年04月10日

ゴヤを理解しはじめたとき・・

BI21-Red3B

暗闇の鳥男

 

 

 

 

 

 

 


 


ゴヤの方へ(暗闇を飛ぶ男)

「・・闇の中を飛び回り彷徨しているわたしは、無重力状態に陥る虚脱感からは免れていた。暗黒が呪力となり、ついにはその空間を飛ぶことができるようになった。」光りが神の影なら、太陽の光りも恐らく暗黒の影に違いない。宇宙は広大無辺の暗黒であり、太陽は核融合によってできた鼓動する波であり、粒子でもある。地球にとっての原子心母である。その光りで生きている私たちは小さな生き物。精神は無限大の宇宙と繋がっており、光りと暗黒の虚空をもっている。

・・そして夜は光りの休息であり、永遠の時間の神である。暗黒を怖がってはいけない。全ての源はブラックホールからはじまる。暗黒は生命を宿す養分であり、光りはその成長の魂である。わたしはこの暗黒の空間を飛び、宇宙の分子たちと戯れる夢をみる。地球上では光りの世界しか理解できす、神の光りを浴びる暗い影を宿している。光りそれ自体が輝くのではなく、暗い影が愛の変形によって光りはじめるのだ。その内部の魂によって。ひとは光りをもらうのではく、光りを発する分子の本性によって輝く。

孤独は養分を吸収する土壌であり、暗黒の空間は盲目の光りをつくり、第3の目を育てる。それゆえゴヤの目には空虚な眼差しの背後に暗い神の光りが近かずいている。その光りは犬の孤独を見ていると同時に、犬もその光りを遠く、遠く首を上げて見ている。これがゴヤ最後の絵である。やがてその光りは内部から光りはじめ、魂の輝きを用意する。



2013年04月09日

レオナルド・ダ・ヴィンチ「聖ヒエロニムス」

ID3-01
ID3-02

聖ヒエロニムス-1

 

 

 

ID3-01
「聖ヒエロニムス」
1480-1482年頃
板に油絵 103 x 75cm
(ヴァティカン絵画館)

 




 

 

 

 

聖ヒエロニムス部分-2

 

 

 

 

ID3-02
「聖ヒエロニムス」の
背景左上の部分

 

 

 

 








聖ヒエロニムス

この絵「聖ヒエロニムス」は西洋的な思考で見るより東洋的な視点で見ると、非常に興味深いものがあります。ヒエロニムスの人物像の背景に描かれた景色は、空気遠近法の技法(筆のタッチ、ぼかし、色調)と日本の水墨画に使用される毛筆のタッチ、技法が似ていることに驚かされる。全体の絵を見ないで、ID3-02の部分詳細を見てください。モノクロにすると、素晴らしい山水画として見てしまう。ダ・ヴィンチだと言わなければ、だれでも東洋の山水画のように感じるとおもう。

ヒエロニムスの人物像が、なぜか禅の修行僧のように感じ、この岩場と背景の景色と非常にマッチしている。わたし自身「聖アンナと聖母子 幼子聖ヨハネ(ロンドン ナショナル・ギャラリー)」をその場に行って見たとき、もの凄く感動したことを今でも忘れない。言葉で表現すると”神の設計図”という強いイメージが瞬時に喚起されてきたました。この感覚がでてきたことに驚嘆している。それだけダ・ヴィンチには特別なおもいがあります。後に、この神秘的な感覚がわたしの礎となった。ダ・ヴィンチ体験とは、このように多くの人々に感動を与え続けているのだろう。

 



2013年04月02日

レオナルド・ダ・ヴィンチ「洗礼者ヨハネ」

IC31-2a-3

洗礼者ヨハネ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

IC31-2a-3:ダ・ヴィンチ 「洗礼者ヨハネ」
1513-1516年頃 板に油絵 69 x 57cm
パリ ルーヴル美術館

この絵は表現された「洗礼者ヨハネ」が何を意味しているのか不可解であり、謎のような構造をもっている。「聖アンナと聖母子」、「モナ・リザ」もそうだし、ダ・ヴィンチの絵にはそれがつきまとう。暗号のような絵画だ。特に「洗礼者ヨハネ」は、人物像としては非常にシンプルで、中性的な両性具有者のような描写である。しかも微笑がいっそう謎を描きたて、人差し指で天を示しているところは、確かに十字架を指しているが、闇のなかでよく見えない。まるで闇黒の星座を、ブラックホールを指しているようにも見える。とても宗教絵画にはおもえない。

ダ・ヴィンチの絵は見えないものの構造が明確にある。むしろこの眼に見えないものに対するダ・ヴィンチの構造化(表現)は、宗教画にも係わらず、どの画家より無宗教的にすら感じる。それは物理的な現象、生命の根源、あらゆるものの探究がその結果として絵画に顕現化されていることに由来する。たんなる絵画を遥かに超えている。当然「洗礼者ヨハネ」もたんなる宗教画として以上のものがある。最後まで取り掛かって、描き続けた3つの作品のうちの1つである。残る2つは、「モナ・リザ」、「聖アンナと聖母子」である。この3の作品はそれぞれ連関していると推測する。

洗礼者ヨハネ」は生命のエロティシズム(生と死)を、「モナ・リザ」は運動エネルギーの神の顕現化(微分)を、そして「聖アンナと聖母子」は運動エネルギーの神の幾何学を想起させる。そしてあとわたしは「聖ヒエロニムス」は手元においていなかったが、これを加えこの4つの作品がダ・ヴィンチの根源的な概念ではないかとおもわれる。とくに「聖ヒエロニムス」は東洋的な思想すら感じる。この絵もまた未完成であり、東洋的な苦悩の根源的要素でもある「」をどうしても感じてしまう。事実その背景をみると、山水画のようであり、またヒエロニムスの周辺をみると岩や、非常に厳しい環境で行為する修行僧のようにもおもわれる。

 

画像掲載(IC31-2a-3):
この画像は「洗礼者ヨハネ」のイメージから何故かニュートン力学が喚起され、さらに「周期表」のようにある法則的なものに仕立て上げようとその図像を考えた。自然界には規則的なものが隠されている。「この法則を見よ」とおもえてきたのである。ニュートンプリンピキア(自然哲学の数学的諸原理)」では、力学体系を書き、近代科学の基礎をつくった偉大なひとであった。いまでは力学単位となって工学では、あらゆるところで使用されている。ニュートンは、自然的原理神的原理が共存している世界を見ていた。『数学的な重力の法則を、幾何学と力学にきわめて長けた神によって書かれたものとニュートンは理解していた』とティーター・ドッブスはいう。

ダ・ヴィンチニュートンも物質の法則には隠された神の存在があると、その探究に生涯ささげたひとであった。またニュートン錬金術をも研究していた。神の法則とはいったい何であるのか、その数学的記述と、存在論的な形而上学をニュートンは思考し続けていた。一方神という概念がダ・ヴィンチでは、他の画家と違い特別にその相違を感じさせるものがある。流体力学や生命の本質を生涯探究し、血液循環のシステムに近い図を描いている。多くの解剖図デッサンを遺している。ダ・ヴィンチは画家というより生命のシステムを宇宙的なスケールで見ていた。宗教画でありながら壮大な宇宙を探究していた、比類のない画家であった。翻って現代アートを見ると、デュシャン後はトートロジーであるようにおもえてくる。

 

参照:錬金術師ニュートン
著者:B.J.T.ドッブス
訳:大谷隆昶/発行:みすず書房

 



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