2013年03月

2013年03月31日

ボードレール「髪のなかの半球」そしてマネの絵画など

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記憶と時計

 

 

 

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「髪のなかの半球」

 

 

 

 

 

 

 

『・・おまえの髪の燃えるような炉のなかに、わたしはアヘンと砂糖に混じった煙草の匂いを嗅ぐ。おまえの髪の夜のなかに、私は熱帯の蒼空の無限が輝きわたるのを見る。おまえの髪のうぶ毛におおわれた岸辺で、私は瀝青と麝香と椰子油の混じり合った香りに陶酔する。おまえの重くて黒い編み毛をいつまでも私に噛ませてくれ。おまえの弾力的なくせ毛を軽く噛んでいると、私は思い出を食べているような気がする。』

この詩はボードレール、「パリの憂鬱」の散文詩、”髪のなかの半球”の詩篇の一部を抜粋したものである。わたしの最も好きな詩のひとつである。エロティックて刹那く望郷のおもいが、女性をとおして宇宙まで広がっている。埋め合わすことができないあの枯渇した愛ゆえに、愛はいっそう燃え、身を滅ぼす。この詩はボードレールの愛人ジャンヌ・デュヴァルといわれている。この愛人を描いたマネの「横たわるボードレールの愛人、1862年」があります。その絵は彼女が下半身不随となっている病のときに描いたものである。

白い大きなドレスを着てソファに脚をなげだして座っている。遠近法を無視した大胆な構図で驚かされる。顔の表情は非常に緊張した描写となっている。わたしはこの彼女を見て、なるほどボードレール好みの女性だとおもった。彼女の性的魅力は微かにまだ残っている。意識が身体に伝わっているのである。その厳しい表情がわたしを感動させた。マネ独特のその対象を見る視点がダイレクトに伝わってきます。わたしにとってマネとは<測り知れないほどの最も偉大な画家>のひとりなのである。そのことを当時のボードレールは見抜いていた。

 

D-105E1_30black1:画像掲載の作品はタイトルを
詩篇、パリの憂鬱の「髪のなかの半球」よりとったもの
この詩篇は「ボードレール、パリの憂鬱」のなかの
「17、髪のなかの半球」の一部を抜粋みすず書房
渡辺邦彦訳を参照した。



2013年03月18日

フランシス・ベーコンとゴッホのリアリティとは

IC-01/ベーコンの痕跡/重力と蒸発
IC-02/ゴッホ 耳を切った自画像

 

蒸発と重力

 

 

 

 

IC-01
ベーコンの痕跡
or 重力と蒸発 

 

 

 

 






 

 

 

ゴッホ「耳を切った自画像」

 

 

IC-02
ヴァン・ゴッホ
耳を切った自画像
51 x 45cm  1889年1月
ニアルコスコレクションと
されるか、所蔵は不明

 

 

 

 

 

IC-01/ベーコンの痕跡or 重力と蒸発

わたしは「フランシス・ベーコンとゴッホのリアリティ」を、そのイメージ現代アートふうに変換してつくった。その手がかりとなるベーコンの絵から感じるキーワードは、「拘束(ロープ=精神と神の関係) 解放(蒸発 ロープの周りの血=パイプの煙) 重力(吊り下げた円錐の錘=頭部前面の黒い帽子、精神のバランス) 円環運動の場(劇場、緑のマット=ゴッホの上着)」などである。そしてベーコンとゴッホの色彩の強度を背景につくった。ゴッホの背景は眼の位置と同じ位置にレッドとオレンジに明確に二分されて描いている。それはバタイユのいう太陽と向日葵のことかもしれない。そしてわたしは背景に数字アルファベットを記入した。ゴッホの手紙あるいはその思考を暗示させるために。ベーコンゴッホから受けたイメージを対話するようなかたちでわたしは、以下のように書き記した。

あなたがリアリティというとき「ゴッホの耳を切った自画像」を想起します。あるいは「戦艦ポチョムキン」の(叫ぶ乳母のショット)など大変な影響を受けたという。『いつか人間の叫んでいる最高の絵を描きたい』という。このリアリティとはいったい何処からやって来くるのでしょうか。あなたはそれに一切応えないでしょう。また応えることができないあるモノとしか言いようがない。このあるモノリアリティ、それは言葉には出来ない、絵画独特の表現形式だ。この形式を最初に表現したひとがゴッホであると、あなたは言うでしょう。そしてこのリアリティは人工的であり、創りだされた再創造であると。おそらくそうでしょう。

あなたは瞬間速度の物体の運動を精神に置き換え、視覚と直接脳に作用を及ぼすエネルギーを捉えた画家であると、わたしは想う。むしろ囚われの方でしょう。「・・の囚われ」拘束と解放(蒸発)、物体の消滅の瞬間、あの恐怖の叫びを『いつか人間の叫んでいる最高の絵を描きたい』このことでしょうか。重力の空間のなかでそのドラマを、幾何学的フレームのなかで演じさせる劇。遥か遠くに通じる闇黒の扉を開け、その中へと厳かな葬儀の儀式に黒い喪服を着た5人、カオスの黒と同じ色をしたこの5人、この人を観よとあなたは矢印(→)で指示する。そして闇黒の扉のまえに小さな幾何学的フレームのなかに頭部を消えさせ、小さな赤い色で円を描く。下半身はふくよかなルーベンスの肉を持ち、足元は運動しかかった楕円で描いている。

背中に小さな赤い矢印(→)を描き、大きなカンヴァスの空間はオレンジ色で塗り、この空間からそれを眺めよというこの矢印(→)、そして空間の全体を占めるオレンジ色に大きな幾何学的フレームを描いている。重力空間の広がり、このオレンジ色のなかに闇黒の、カオスの入り口を描く。その右上に一番大きな矢印(→)を描く。あたかも最後のエンディングがカオスへ往くのが定めであるかのように、その案内を示すこの矢印。決められた道路の上に、決められた静かな行進をする黒い色の5人。アンリ・ミショーの厳かな消え往く人のように。あなたの「通りの像と人物 1983年」は描いている。

わたしはこの絵をカオスに呑みこまれる儀式として見ればいいのでしようか。それとも死すべき生命の儀式が今もどこかで行為されている。あるいはわたし達の”からだ”は瞬時にこの儀式を行っている。生と死のドラマをあなたは、その叫びを人間の不可解な出来事を捉えようとする。この情熱をわたし達にメッセージをしているのでしょうか。あなたの絵は、あの消え往くミショーの絵「アクリリック/acrylique 1979年」を想い浮かべずにはいられない。静かに移行している空へと歩く足はミショーではないですか。あなたの描く「通りの像と人物」は。ゴッホ的なものを見ながら確りとミショーの眼差しをもっている。あなたは「遠回りして人間のイメージを作りかえる手段なのです」、あるいは「たいていは畑のうねのあいだをのろのろと歩く人間の姿なのです」という。

ミショーの絵は歩いたり転んだりしている人間の姿を描いている

という。ミショージャクソン・ポロックよりはるかに優れているとあなたはいう。一方ゴッホ(IC-02)は、遥か向こうを透視しているけれども、寂しげな眼差しと鋭い透明な空間へとすい込まれ往く眼差しとの境界を見せている。二分して描かれた背景のオレンジレッドの境がゴッホの眼を横切っているこの線。わたしはこの人口的な線に驚愕する。ここに真のリアリティがある。ベーコンにもある。この自画像は「青い空の下の麦畑 1890年」、この空間を見ていたのか。ゴッホの眼差しに無限の沈黙が押し寄せてくる。束の間のタバコをくゆらすゴッホがいる。この「耳を切った自画像」とはいったい何なのか。平面的に厚塗りされたレッドとオレンジ色の人工的な感触にわたしは捉えられた。ゴッホの思考と身体はどこかに掠とられいてる。

生れ落ちたときから掠め取られた身体を見届けると、ようやっと舞踏家の身体に馴染んでくる。そのような土方巽ですら最後には「神は怖い」といった。この神に身を寄せる思考は身体が蒸発する希望の星へと、ニジンスキーの「牧神の午後」へと向う。それとは反対に神の不在を、その身体の叫びを呼び寄せる。この身体の痙攣的瞬間ベーコン無神論的にやってのける。リアリティとは無神論であること。形而上的超越性を許さない。ミシェル・レリスはそうとう苦しんだに違いない。

 



2013年03月07日

カオスの断面あるいはコスモロジー

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コスモロジー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

カオスの断面 or コスモロジー

記号的な問いに応えたないあらゆる原理を失うこと。
その問いを導きだすこと。見える対象がその意味を
失うことによって、見える思考が発生してくる。

 



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