2013年01月

2013年01月18日

ジョエル=ピーター・ウィトキン「そこには目に見えない深い愛がある」

BF03-40A

ウィトキン1

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「Sander's Wife, New Mexico, 1981」
   Witkin 写真集よりスケッチ

 

「Sander's Wifeのスケッチ」

わたしはウィトキンの写真集を見る。
いったい何を表現しようとしているのか。
それは聖なるグロテスクか、かたわの聖者か、
その眼差しは形而上的な意志と形而下的な
身体を写し撮るウィトキンがいる。

わたしはSander's Wifeのウィトキンの
構想スケッチを見る。そこに描かれたものは
滑らかさと、柔らかいタッチを感じさせる。
そしてそこには光があり、愛がある。

わたしはそのウィトキンのSander's Wifeの
写真を描きはじめた。マスクに隠された
意志と豊満な女性のエロティックな身体を、
ウィトキンの意志を感じるためにわたしは
スケッチした。目に見えない愛を
感じるために、わたしはそれをなぞった。

 



2013年01月16日

Michel Foucaultの鏡「ラス・メニーナスのこと」−3

FA21-Mirror-X3

In the mirror

 

 

FA21-Mirror-X3
「鏡の中の焔」

 

 

 

 

 

 

鏡の中の焔

かってそうであった出来事が
鏡の中に入り、記憶の彼方へと
置き忘れる。身体の痛みがこの
場所に、微かに残っている。
忘却された回廊。

言葉の痛みが鏡に映しだされる。
そのときようやっと身体の模倣が
はじまる。ひとは、それを確かな
証拠として提出するのだが、
すでに遅れている。

差異・・こんな反復作業をする
記憶は、わたし達の消えた痕を探す
天文学の数字、何億光年の
事象を観ている。

わたし達は記憶を探すために探し、
消え、発見すると、たしかにともし火が
目の前に現れる。触れ逢うものは
すでに鏡の中に入っている。

この深い悲しみの不可能な記憶は
夜明けのまえに、入らねばならない。
すでに鏡の前に多くの言葉が、
散りばめられている。

そしてようやっと現前化する言葉は
「鏡のもの」が「出来事の発生」から分離し、
表象関係の純粋性が発生しはじめる。

 

FA21-Mirror-X3の画像について:
Michel Foucault
(フーコー)のことは「マネの絵画」で前に掲載しましたが、今回ベラスケスの「ラス・メニーナス(侍女たち)」のテーマはなんどろう。そうおもうと鏡がイメージされてきました。それはわたしにとってフーコーのとなのです。そこでわたしは、自然発生的に焔が出ているように微かに灯る焔を描いた。蝋燭の焔だと、何か宗教的なイメージが湧くのでやめたわけです。鏡に映し出された焔の位置は右側に少し移動して描いた。シンメトリーに描いてはいない。マネの「フォリー・ベルジュールのバー」を考えること。深く・・



2013年01月14日

人体の夜「希望の星」−2

CF29-01_1C

夜の人体

 

 

 

CF29-01_1C
人体の夜
「希望の星」

 

 

 

 

 

 

希望の星

前回はピカビアのことについて述べた。機械のメカニズムを描いた記号的な絵画の背後に巨大な虚無がある。姿を現すということにおいては物質化した虚無、機械のようにただ回転している。この何ともいえない消え往く姿が漂う感覚。その背後にそれを支える有機的な身体の宇宙がある。カオスと共振する波動の力がある。そこにシステムがあることに気づく。生成と崩壊の間で身体を見る。そのところを捉えようとするとかなり勇気がいる。美とか、芸術とかとは無関係に発生している波を捉える。そんな行為が、ある生命として立ち現れてくる。それにはまず身体を差しだして見る。カオスの風を感じはじめる。

物質の変化と精神性の深い闇は理解不能の場所へと導く。わたしは意識することなく、私自身の身体を描きはじめる。そこにでてきたものは、意味不明なものだった。なぜその絵のタイトルに「希望の星」とつけたのか。それは詩的な直感であった。この木炭デッサンの絵は今から14年位まえだ。まだ「自我」あるいは「自己」というものの本質が少しも分っていない。描くという行為以前に深い闇があることはうすうす気づいていたのだが、ともかく描いていた。描くという生活習慣病で、描かないと不安になる。ジョギングせずにはいられないスポーツ選手の身体に似ている。手と視覚の作用ばかりに囚われていた。表現ばかりに捉われ、その結果にたいして、「あれでもないし、これでもない」という美的トートロジーの思考しか想い浮かばない。これは美術病だ。

たんに思考する行為とは、うわべの美意識のみ。そんなものはいずれカオスに壊される。この思考とは、社会機械の配下に収まった機械、その反映を描き記すものでしかない。社会の反映であるから現代アートといえば、いえるけれども、思考の源流を探さなければどうにもならない。わたしは社会の影でしかない。思考しているけれども、思考していない、歩く夢遊病者の絵、そんな絵を描いてもしょうがない。当然、生きる行為が何であるのか身体がもとめはじめる。それが、このわたしのデッサン「希望の星」だ。出直してくださいと言っている。つまり相転移を光を出せと

ユングが『そう、よく見てごらん、あれが人喰ですよ』と、幼いころ見た夢だ。これは錬金術のプロセスの最初の段階として生じる「* calcination 」の象徴的図示であると、河合隼雄の「明恵 夢を生きる」を読んでなるほどと、おもうようになった。ここまでくるのに14年も過かって、やっと感覚が受けいれるようになったというこです。つまり無明ということに敏感になってきた。現代アートを思考すると、どうしても西洋的な思考方法を、あるいは方法論をとる。しかし身体がどこかギクシャクしてくる。また日本的な見方では、抽象的なものを見ようとすると曖昧な感性の美というやつに流されてしまう。厳密に抽象化できずに自然的な無の美意識が分子結合して、自然的な感性に納得してしまう。禅的な日本庭園茶の湯へと、結局そこに行き着く。カフカ的な変身を未然に防ぐ心のセキュリティとなっている。自然に抱きつかれた形式は、風景を背負わなければならない。それは偉大なシミュラークル

しかし、外では高層ビルが立ち並び、都市化された思考で生活している。人工的な思考の変身だ。ものをあらかじめ想定するという設計思想だ。カオスには想定外というなかで生きている。さてここで問題なのが日本的な思考方法だけではどうしても何かがたりない。概念化と体系だ。(道元の「正法眼蔵」があるが、これは言語化できない時空の現れ方を体験する行為を構造化したものとおもわれる。わたしには大いなるイメージを与えくれることは確か)

また西洋的な思考方法だけでも落ち着かない。そこでわたしは「はるかなる視線」というテーマで追っかけはじめた。思想としてではなく、また思考方法を記述するためのものでもない。見える”かたち”にしなければならない。ようやっとここでアートという行為が芽生えはじめる。

 



2013年01月13日

アンリ・マティスの絵画は無限の可能性を秘めている

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「星と裸婦」

マティスの「座るピンクの裸婦、1935年」を鉛筆スケッチし窓の外に星を描いた。
紫の単色でメタフィジックふうに制作してみた。繰り返す無限の宇宙へと繋がるイメージへ、
比率の違う同じを絵を3枚提示し、フラクタル感のでる空間とした。始まりが、どこからか
定まらない迷宮の夜へと踏み迷う感覚と、星の希望が同時にでてくればよいとおもった。
古風なポップアートふうに仕上げた。

・・結局マティス絵画はカオスから盗んできた凄さがあるので、如何ようにもアレンジできる
可能性があることがよく分ります。装飾ふうにもできるし、論理的で、哲学的な絵画ふうにもできる。
またグロテスクな絵にもなります。あらゆるエロティシズムがその絵のなかに含まれている。
トム・ウェッセルマンはその魅力に惹かれたのだろう。



2013年01月12日

「他者の声が舞い降りて」のためのデッサン

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舞い降りる他者

 

 

 

 

 

 

 


 

 

他者の声が舞い降りて

わたしは表現したものが何であるのか
自覚しているわけではない。
理由は後からついてくる。認識したとき、
それはすでに遅れている。
遅れないために感覚をすばやく捉えます。
デッサンは「--の空気」を掴む形象化でもあります。
ようするに絵画はある種のファンタスムと
シミュラークルの関係であるとも言える。 



2013年01月11日

記号と意識ー10「ネットワークの夜」

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 「ネットワークの夜」

この夜を彷徨い、
Under groundの光りに
照らされたからだが
影となり、動いている。

人々は歩いているのだが、
気化したからだは
空中浮遊する。

無数の線が絡みあい
ネットワークの娼婦が
夜の闇に消えてゆく。

そこには忘却された
墓はない。今も・・

 



2013年01月10日

コラージュの技法とその哲学

コラージュの技法とその思考ー1:概要
 
私にとってコラージュの作品とは、形態と色彩の訓練である。
無駄があれば形として意味をもたず、美しすぎれば装飾になる。
それは視覚快楽の誘惑に感覚が追従した結果でもある。

画面全体のバランスが悪ければトータルとして構成の失敗である。
すべての機能がよければポエジーとして音楽がきこえる。

またすべてうまくいったとしても、世界の(精神的)深さがなければ、
たんなる装飾絵画の完成度にすぎない。さまざまなオブジェの構成を
楽しみながら、自分の精神的状況を観察できる素材でもある。



2013年01月09日

夢と生「ブッダか、あるいは仮面のピエロなのか」

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暗い光B暗い光A











 

夢と生

『わたしはそれが現れたとき、はじめは冗談だとおもった。暗がりからくちを半開きにし、微かに笑つている顔が見えた。あのサーカスで見たピエロによく似ていた。ところがよく見ると、上から見下ろしている仮面を被ったブッダのようにも見え、ベットの上からずっとわたしを見ている。それは、わたしが生まれるまえから知っているようで、またわたしがどこに往こうとしているのか、わかっているようだった。誰かに見られているという視線はあまり心地いいものではなかった。それを追い求めるのも不自然で、わたしはそれ以来あまり気にしないようにしている。』

このこととは直接関係はないが、マティスが幽体離脱や霊魂に興味をもっていたということは聞いている。「花と陶器、1911年」という作品はどうみても奇妙な作品である。この作品は陶器が空中に浮いているように見え、またその陶器の回りに新聞紙のようなものも浮いている。こんな奇妙な絵を見たことがない。

霊魂が大気の分子状の集積であるかのよに見えるのはマティスにとって普通のできごとなのかも知れない。わたしはそういうマティスの絵が好きなのです。それも宇宙的な分子の一部であるかのように表現し、無限空間をイメージさせるエネルギーは凄い。このように感じさせる暗黒の絵が結構あります。光りの裏側を見せるマティス絵画に魅かれます。そのことを機会があれば書きたい。「コリウールのフランス窓、1914年」の暗黒を覗いて見たい。



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