2012年11月
2012年11月21日
「記号と意識」ー3
AK0102-5
AK0106-4
AK0102-5:「コンポジションX」
AK0106-4:「時刻表」
AK0102-5:「コンポジションX」
記号には、必ず意味が発生する。この5個のピースが(不定形な黒丸、斜め75度のバー、縦の赤いバー、クロスした黒いバー)何を意味するのかは、不明である。しかし見てもとおりである。無意味性という現象である。音声的記号作用の体系である言語に付着しないように注意して配置する。すると形態に意味を作用させる感覚が生まれてくる。これをわたしはシステムの形成作用として見る。
AK0102-4:「時刻表」
この作品は分解と生成を同時に見えるように描いた。システムを形成しようとする、これから現れようとするのか、形成した後に分解し消滅しようとするのか判断できないもの。この原理はマティスの「水浴をする人 1909年」を見ると分かる。いわば、物質の時刻表である。
2012年11月19日
2012年11月17日
「記号と意識」ー1
AK0103-3A
AK0104-4B
AK0103-3A:「Permanent red deep B/A」
AK0104-4B:「Brilliant blue deep B/A」
わたしは「もの」が「もの」として存在するという物質至上主義絵画の思考をもっていない。3次元の空間にインスタレーションしたオブジェ(実物)が「もの」そのものを表現したなどとおもったことがない。実物における記号の配置に過ぎない。それはイメージの発生を促す”もの”の配置ということである。その構造として単純にその反転を見るだけの”もの”をつくってみた。これは絵画であるよりひとつの現象として見る。
わたしのこの作品は「AK0103-3A、AK0104-4B」アニメやコミックと同様たんなんる記号に過ぎない。記号が記号自身を現すよう、すべての面積をパステルで同色に塗り、その後消しゴムで空白を作り始める。わたしは消された空白と塗り残しのソリッド(部分)を正方形になるよう計測し、自立したソリッド(正方形)の記号として作り、空白の中に残した。その比率B/A(A=空白面積、B=ソリッド面積)は、BがAを、AがBを示す以外のイメージが喚起しないようにした。視覚の現象を見るAとBのトートロジー、無-想像の絵画というわけである。
2012年11月11日
ジャコメッティとフランシス・ベイコンの思考方法
HI10-01
HI10-01
水浴をする人
周辺の線から
ジャコメッティの時間的な捉え方はセザンヌを受け継いでいる。これはフランシス・ベイコンもそうである。マティスもセザンヌ的な時間論と存在の顕現化が不安定であるという、動的な決定的な要素がある。これはピカソのように確信に満ちた断言でもない。有機的なもの、あるいは非-有機的なものを含め、”かたち”という概念は、ジャコメッティについては断言できるものがない。たえずその周辺を触りはじめる。正確さというものは別な意味をもつ。時間によって解体させられる。
絶えず初期化される線、その何本もの線が線によって否定されてゆく、そのドラマを見る”かたち”である。これは極めてセザンヌ的だ。どこで止めるかという問題が絶えずつきまとう。この究極の選択を迫られる”かたち”はどこからくるのか・・フランシス・ベイコンの絵はこの時間的な格闘の結果、導き出された”もの”である。このグロテスクさはウィトキンと同様、部屋に飾るべき絵ではない。最後の西洋的思考の絵画というべきものである。
ジャコメッティは東洋的な要素に近づきはじめている。存在への接近法は、無か有かという問題ではなく、そこに在るという感覚の確認をどこで気づくかという戦いでもある。これは極めてセザンヌ的だ。厳密な絵画を構成する。あの普遍性に到達しようとする格闘である。つまり絶えず周辺を描く中心の無い、無限の中心点を探してる。
フランシス・ベイコンはエントロピーの増大以外思考しない。その入力エネルギー(秩序)が自己であり、システムを維持する装置として思考する。またそれを破壊するのが他者だと言っている。しかしこの入力エネルギーをどこから取り入れるのか。これを彼は「欲が深いんだ」という。この欲とは「快楽」か。つまり無と有を往ったり来たりする情動の装置を描いている。このメカニズムは自由という分けでもない。むしろ拘束されたある意味を提示する。しかしこの意味は無-意味である。「床の上の血 1986年」の絵は蒸発(相転移)した物体の痕跡(血)とそれを見ている吊さがった2本の電球、そして右側にあるそのスイッチは自己のオン-オフを、背景のオレンジ色は尚もエントロピーが増大し続ける無窮の宇宙を暗示している。そんな見方もできる。
増殖と崩壊のエンドレスな時空を見る絵である。ベイコンの絵は部屋に飾れない。唯一飾れる絵は「アングルのデッサンにもとづく人体の習作 1982年」である。わたしの好きな絵である。危ういバランスの上に座っている裸婦である。頭がなく、大きな乳房が心の安心感を与えている。ユーモアがあり、生命感に満ちている2つの卵というところか。
ベイコンは部分と全体を等しく見ている。全体の方は見えない力が作用し、むしろこの作用が非常に大きな要素となっている。部分は絶えず崩壊してゆくその作用点をみる。そのことによってすこしもとどまってはいないものの出来事を見る。不安定でありながら、どこか安定している、そのシステムをみる動的平衡な絵画である。しかし絶えずカタフトロフィーがある。ベイコンは意図的にその漸近線を探している。厳密な具象であると同時に抽象である。その驚異的な絵である。
画像掲載「HI10-01」は:
マティスの『*水浴をする人、1909年』の作品を鉛筆デッサンしたもの。チャイニーズレッド系の単色で画像処理したものです。マティスのこの作品は不思議な絵で、過去であるのか、現在であるのか定まらず、極めて不安定な状態で顕現化した奇妙な絵です。マティスの原理としての絵画(マティスのなかで最も哲学的な絵です)だと感じている。この現れ方はジャコメッティにもあり、セザンヌの存在論と深く関係しているとおもう。マティスの『水浴をする人』を細身に描けばジャコメッティへと接近してゆくことが分かる。その父はゼザンヌであろう。
*『水浴をする人』の詳細は
カテゴリのマティスを参照して下さい。
2012年11月03日
ランボーという詩人については語れない
HI02-01/Biumbaud
ランボーにつては
何一つわたしは語れない。
逃走線の向こう側に到達した沈黙、このランボーをわたしは語れない。あらゆる文学、芸術とは無縁な到達地点。ではいったい何者なのか、こんな疑問が生じてくる何かがある。ランボーのポートレートはジャコメッティ、コクトー、ピカソ、レジェなどが素描している。ランボーの顔を見れば、誰だって描きたくなる。凝視している眼は向こう側へと、遥か向こう側へと到達するその眼差し、それを支える強靭な意志とからだをもった、この位置エネルギー。1871年、ランボー17歳のときのポートレートにわたしは驚嘆する。すでに完成された沈黙、宇宙の一点の現れ、これがそのポートレートだ。あとは逃走するのみ。生まれながらにして詩人だった。
画家たちはこのランボーのポートレートを見て直感的に描きたくなる。写実的に正確に描くのではなく、すばやく描くこと。感じたことを逃さないために素描する。わたしはジャコメッティの素描が好きだ。顔全体を右上がりの斜線で覆い、黒で塗りつぶしたしような線描写である。あの晩年のランボーを予期するような描写である。眼は明かに沈黙を凝視した視線であり、あの到達した地点を見ている。いったい何を見ているのか、わたしたちには分からない。眼はランボーのポートレートよりはるかに大きめにデフォルメして描いている。見開いたまま、そして沈黙。しかも眼を描いてはいない。ただ暗示しているだけの描写。
髪の毛は原始人の天体を、そして脳と一体となった線、ところどころに空がある。口元の線は、それらすべてを支え、耐え、大地に踏みとどまろうとする意志の力を。耳は生まれながらにして、何かを聞取ろうとするあの文明の音を受信していた。胸像は空虚と融けこんだ線で描写、一瞬のうちに見事にランボーの空間を捉えている。ジャコメッティの素描の的確さに驚愕せざるをえない。
ピカソの素描はすばやくランボーの全体像を掴み、ポートレートの楕円の外に、いきなりぐしゃぐしゃな線を走らる。ランボーの全体像を無秩序なものへと走らせる線で表現している。もう分からないとでも言うような直感で描いたもの、この無秩序なものこそランボーの逃走線である。ランボーのことは語ることはできない。ランボーの痕跡をいくら分析しても、この逃走線はわからない。
そんなランボーの詩を見て共時的に体験できることなど出来やしない。凡人には永遠など体験できなのだ。いちばんいい方法はともかくポートレートを描いて見る。髪の毛は野蛮人、眼は一点を凝視し、あの恐るべき光景を見ている眼差し。そして口元はそれに耐える意志の力を。あのジャコメッティの素描をイメージし描きはじめた。素描とはかくも力量を問われるもので、わたしは普段あまりデッサンをしないので手が動かない。イメージが手に伝わらない。訓練しなければならない。しかし線をひとつ、ひとつ置いて丁寧に描けば、その輪郭は捉えることは出きる。それが画像掲載した絵だ。鉛筆デッサンというわけです。ポートレートを眺めランボーをよく見ること。1871年のポートレートそして1883〜1888年のポートレートなど。この逃走線の様相をよく見ること。あとは語らないほうがよい。